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 外は一面の銀世界だった。
「ようこそ」と言った男は、耳あてつきの可愛らしい帽子をかぶり、ノルディック・セーターのような寒冷地向けの防寒着を着て、暖パンのような、中は毛、外はシャカシャカ素材というズボンを穿いていた。
 僕はというと、Tシャツの上に綿の白いニット、その上にフライトジャケット。カーキ色のカーゴパンツに、紺色のコンバース・ジャック・パーセルというものだった。そこには金持ちと貧乏人という比喩以上の格差があるように感じられた。
「さあ、こちらへ」耳あて帽の男にうながされて、歩き出す。
 ずっと座っていたから、立って歩くことが不安だったが、二、三歩よろよろした後は、普通に歩けた。が、寒かった。とにかく寒かった。寒かったが、抑揚のない車の中よりはマシに思えた。
 数分後、全然マシじゃないと思い直した。雪に覆われた荒野。こんなところに取り残されたら、一時間と持たずに人生が終わってしまう。
 ガタガタと震えながら歩いていると、「もうすぐです」と耳あて帽の男は言った。
 もうすぐなのだ。考えるのはやめよう。風が吹いている。口を開けると雪が入ってくる。少なくとも、ここにはレスポンスがある。あの空間で、カンパンとペットボトルの水を気にしながら固まっているよりは、生きている実感があった。
「あちらです」と耳あて帽の男が言った。
 洋館のような建物が見えていた。

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 外観とは異なり、中は一般的なつくりの家だった。いや、その感想は見当違いなのかもしれない。背の高い建物だったにもかかわらず、階段がどこにも見当たらなかった。どこかに隠れているのだろうか? 思考がうまく回らなかった。ただ、暖かさが有り難かった。
 僕はダイヤモンド型の角砂糖を味わったときのように、その暖かさを体中で受け止めるべく立ち尽くしていた。耳あて帽の男は帽子を取り、暖パンを脱ぎ、セーターを脱ぎ、チェックのシャツに、チノパンツという格好になった。
「サダっていいます」耳あて帽を脱いだ男は言った。声から年配の男性を想像していたのだけど、よくよく見ると、年齢は30代半ばくらいに思えた。
「山村崇です」僕は言って頭を下げた。
 人と話すのが久し振りで、若干挙動不審になってしまった感は否めない。ただ、有り難かった。暖房、移り変わる時間と大気、何より自分ではない誰か別の人間との会話というものが。
 サダという人は、廊下の端の一室に僕を案内した。
「遠いところを疲れたでしょう。今、料理の支度をしてきます。休んでいてください」
 壁紙も床も天井も白で統一されていた。エアコンらしきものは見当たらなかったが、やはりこの部屋も暖かかった。窓のない8畳ほどの空間には、シングル以上ダブル未満という大きさのウッド調のベッドがひとつ、どこか見覚えのあるケンウッドのCDコンポが1台に、CDラック、本棚、洋服箪笥、これまたウッド調のライティングデスク。何かを装飾するような小物は何もなかった。本棚の隣に扉があり、開けてみるとトイレだった。トイレも同じように暖かかった。
 本棚は、ほとんどが純文学と呼ばれるジャンルの小説で埋まっていた。その中に、世界文学の古典という位置づけだろうか、小学校1年生か2年生の頃に夢中で読んだ「失われた世界」があったので、手に取ってみた。
 大長編ドラえもんの種本とも言うべき、アーサー・コナン・ドイルの書いた空想科学小説であったが、あれだけ夢中になって読んだにもかかわらず、主人公の男が冒険を決意する「動機」があまりに安易で、僕は愕然としてしまった。
 主人公を冒険に駆り立てたものは、好きな女の言った「有名な人を好きになりたい」というような言葉からだった。
 それはある意味では、少年ジャンプ的な類型でもあった。バスケットが好きという晴子さんに魅せられてバスケットボールを始めた桜木花道に魅せられてバスケットボールを始めた中学一年生の僕のような。
 本を閉じ、本棚に戻した。
 CDラックに並んでいるのは、ブラームスの作品ばかりだった。ところどころ、ドヴォルザークとチャイコフスキーが紛れ込んでいた。ブラームスは幅広くあるのだが、チャイコフスキーは交響曲第五番だけで、ドヴォルザークは交響曲第九番「新世界より」のみ。「新世界」は6種類。チャイコフスキーの五番は12種類もあった。何だろう、この偏りは。偏り、という言葉から連想するのは、洗脳という言葉だった。洗脳と教育は紙一重だ。そう言った父がチャイコフスキーを華やか過ぎるという理由で好んでいなかったことを思い出した。
「ここは、以前、僕が使っていた部屋を再現したものです」サダという男性がいつの間にか部屋に入ってきて、言った。
「食事の準備ができました。簡単なものですが、どうぞお越しください」
 食堂というか、リビングダイニングというか、壁紙はやはり白で、やはり窓はなかった。
「どうして窓がないんですか?」
「凍りついてしまうからです」と男は言った。「この家の設備は旧式でして。ですが、空調システムだけは最新です。ご心配なく」
 テーブルの上に用意されていたのは鍋焼きうどんだった。かつおぶしの香りを嗅いだ瞬間に、お腹が鳴った。
 色々な疑問を放り出して、僕はうどんをすすった。透明に近いスープの中に浮かんだ、しいたけ、白ネギ、海老、鶏肉、そこにはカンパンにはない喜びが詰まっていた。気づくと、器は空になった。
「ごちろうさまでした」と言った。
「お粗末さまでした」そう言いながら、サダという人は、温かいほうじ茶を出してくれた。その香ばしいお茶を飲み終わった後で、僕は尋ねた。
「あの、俺はここで何をすればいいんですか?」
「あなたは客人です。お好きになさってください」
「客人?」
「はい。ただ、ここからは出られませんが」

つづく
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