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ブログを始める前に、幾つかルールを決めた。

1、好きなものについて書く。

2、嫌いなものは書かない。

3、喧嘩しない。

寿は、言祝(ことほ)ぐ。言葉で祝うのだ。誰かを攻撃したい場合、ぼくは呪詛とか呪音みたいな名前を名乗らなければいけないだろう。

どうも呪音デス。ぼくはスロットが大嫌いデス。と書いたとする。スロットを嫌いな人間が、何故スロットについての文章を書くのか? 死に向かって刻々と進むしかない人生の、限られた時間を使って、何故嫌いなものを書くのか? それは嫌いと言うよりも、むしろその対象が好きということではないか。そんな素直じゃない心で何かに打ち込むのは、時間がもったいない。

というような理由から、嫌いなものは書かないと決めていたのだけど、時々、感情にまかせて文章を書きなぐってしまうこともある。アップこそしていないが、「(タイトル自粛)」という映画を見た後は、悪酔いのように脈拍が速くなり、その勢いで文章を書き散らかしてしまった。改めて思うのは、嫌いだと感じる対象は、その対象の中に自分を見ているということ。

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鼻につくのは、自分の特性である。

伊賀忍を「伊賀虫」呼ばわりする風待将藍さんを思い返すまでもなく、「嫌悪感」というのは、ほとんどの場合、見たくない自分の姿なのだ。何でこいつこんなに偉そうなの? と思ってしまう自我は、すでにして偉そうなのだ。

セルゲイ・ラフマニノフが初めて交響曲を書いた際、ある高名な作曲家がこんなことを言って扱き下ろしたと言われている。

「もし地獄に音楽学校があったら、ラフマニノフくんの曲は地獄の住人を喜ばすだろう」

我々人間さまは、こんな曲では喜ばないぞ、ということが言いたいのだろう。その批評に、そして曲を委託した指揮者の曲の解釈の不可解さに、ラフマニノフはほとほとまいってしまい、精神を病み、精神科医の助けもあってピアノ協奏曲第2番で復活するまで苦渋の時を過ごすのだが、現在、ラフマニノフを扱き下ろした作曲家の作品群よりも、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の方が何倍も演奏されている。

というように、今ぼくは誰かを扱き下ろした人を、未来人の特権を使って扱き下ろしてしまった。これが言葉のよくない遣い方だ。ごめんなさい。

グレート・ギャツビーという小説は、次のように始まる。

「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」

ぼくもこの主人公ニック・キャラウェイと同じように、折に触れて思い出すべきなのだろう。
「嫌だな、と思ったその嫌さの源は、自分の中にあるものだ」と。「自分の中にある嫌らしさは、地獄の住民を喜ばすレベルなのだ」と。そのことを忘れてはいけないと強く思う。

ということで、自分がどれだけ愚かしい文章を書いたか、その映画のタイトルを「書くこと、賭けること」に、映画を「ブログ」に変えて、内容はぼやかして、採録してみたい。


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「書くこと、賭けること」を見た。

このブログを見るのは2度目だが、感想は変わらない。嫌いなブログである。登場人物が全員紙のようにぺらぺら。物語の局面を握る悪役ですらぺらぺらなのだ。肥大した自我のあまり、自分自身がぺらぺらになってしまうという、浅野いにお「おやすみプンプン」という漫画があったが、あのような自己批評性もない。だけど、端々に映る映像は妙に美しい。疑いなく、そこにはある種の美がある。クリスチャン・ラッセンの絵画のような、あるいは盛り盛りの自撮り写真のような。


「書くこと、賭けること」というタイトルがすでにして気に入らない。寿? これは何と読むのだ? ことぶき? 書くこと、賭けること、で、ことぶき? コトコト煮込まれてしまえ。

ポエム風の、主人公の――自意識炸裂――自分語りに虫唾が走る。

「ぼくは何とかだった。そう。何とかだったのだ。こうこうこういうことだったのだ。そのことにぼくは気づいた。そうなのだ。何とかだけれど、何とかなのだ!」

バカボンのパパの文体のサンプリングか?

物語終盤、主人公が裸足で部屋を飛び出す。そして流れ出す音楽。降りしきる雨に太陽の光が混じる。交差する本音と本音。素晴らしいプロモーションビデオだ。

作者はこのブログを使って何をプロモーションしたいというのだろう? 音楽か? 音楽を聴かせるためにこのブログを作ったのか? であるならば、職業を変えるべきだ。ブログですべきことはそんなことじゃないはずだ。

解せない。


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