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スロット打ちは、可能性の話をしてはいけない。
「何の台打つん?」
「GODかな」
「何で?」
「GOD引けるかもしんないじゃんよ」
「せやな」
上記の会話は、スロット愛好家にとっては、当たり障りのない会話だが、スロットで生活している人がしてはいけない。1/8192の確率で引けるフラグがあるというのは事実。それを引ける可能性があるというのも事実。が、実際にそれを引けるかどうかは、運なのだ。希望的観測からは何も生まれない。




同じように、スロット打ちはパチ屋の中で首をひねってはいけない。1/200のフラグが600ゲームの間来なかったとしても、別段、不思議なことではない。1000ゲーム来なかったとしても、そこまで不思議なことではない。態度はマインドセットの現れ。スロット打ちは、可能性ではなく、蓋然性を見るべきだ。

蓋然性とは、見込み、確からしさをあらわす言葉である。それを数字にしたものを期待値という。当然、それが少なければ勝つ見込みも薄い。が、多ければ必ず勝てるといったものでもない。

可能性は、すべての人間に、門戸を開いている。もう、ガバガバである。今日も有楽町では、大勢の人が、当たりくじを求めて並んでいる。そう、当たりくじはあるのだ(どこで買おうとも)。およそこの世に存在しているものはある。あるがゆえにある。が、それはしょせん、あるか/ないかの話に過ぎない。だから、そんなものを追ってはいけない。負ける蓋然性が高いからだ。負けに不思議の負けなしというのはこのことだと思う。

とはいえ、スロットを打ち始めの打ち手は、イライラしたり、首をひねったり、はてには台を殴ってしまう。それは子供が親に対して泣き、拗ねる態度と同じである。おそらくは、必要な儀式なのだ。しかしそこにとどまっていてはいけない。可能性から蓋然性にマインドセットを変えない限り、甘えは消えない。なくならない。

この9年間、小説のことを延々考えてきた素人はそんなに多くないように思う。それは徒労。ご苦労さん。という言葉でも語れるだろうし、ある種の成果という言葉で捉えることも可能だと思う。ただし、これでは、可能性の話にしかならない。

アイムアルーザー。そこは認めなければいけない。が、可能性を追って負けるのと、蓋然性を追って負けるのでは違う。敗北の技法。先日も書いたが、勝ち方なるものは、他に流用できない、その場限りのボーナスに過ぎない。反して負け方は、失敗の仕方は、そのときの心のあり方は、この先もずっとつきあっていける、否、つきあわざるをえない友達である。オーケー,マイフレンド。私はそのことを書こう。
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