網野善彦「日本の歴史をよみなおす/続日本の歴史をよみなおす」を読む。

かつて、さいころの目という神の意志を体言する芸能、博打道というものがあった。平安時代には、「双六別当」「巫女別当」というような役職が、加賀の国にあったことが確認されており、また、京都の朝廷の官庁にも、双六打ち、博打打ちや巫女を統括する役所があった、という。そう、博打打ちは、巫女と並んで、聖なる存在であり、また、公務員でもあった。

日本において、職業差別が表舞台に現れたのは、鎌倉から室町時代あたりらしい。それは明らかに、都市生活者による、大いなるもの、自然、神仏の軽視のマインドセットと符号している。

「あの人、変わってるな。おそらくは神様仏様の思し召し。ありがたやありがたや」というような畏敬の念から、「あいつ、変わってるな。きっしょ」という変遷なのだろう。
博打打ち、遊び人、という非生産的な人間は言わずもがな。ヤクザの語源は、8+9+3、オイチョカブにおけるブタ。差別は、見たくない現実、脆い部分を切り捨てようとする精神の運動なのだ。

この本を読んで気づいたことのひとつは、映画「もののけ姫」に出てくる登場人物は、ほとんどが差別されている人間ということだ。主人公アシタカとてそう。髻(束ねた髪)を切るのは、罪人の証。当時、ケガレは伝染すると考えられていた。大和(やまと)ではなく、蝦夷(えみし)の一族とはいえ、そのような風習は変わらず存在していたのだろう。だから一族の長になるはずの若者であっても、見送りが禁じられた。

おそらく、じご坊たち唐傘連は、乞食、非人を含む民衆を引き込み、踊りながら念仏を唱え、諸国を行脚した一遍(いっぺん)というお坊さんの流れをくむ集団であり、それゆえ疎んじられていただろうし、牛飼いは獣という野生と折衝するため穢れていると信じられており(髪を束ねることがゆるされなかった)、製鉄は山を汚し、じばしり、狩人はこれまた獣を追う仕事であり、ハンセン病患者は見た目、女は血が出るから穢れている、と。むちゃくちゃな理屈だが、差別は論理ではない。感情に訴えるのである。

生活環境は変わっても、人間は変わっていない。この国の歴史。いまなお刺激的な論考だった。もののけ姫を2倍楽しむ方法としても。
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