西尾維新「化物語」上下を読む。

実に、初めて読むライトノベルであった。

作者の西尾維新はあとがきの中で、次のように述べている。

 で、誤解を恐れずに言えば、この『化物語』は百パーセント趣味で書かれた小説です。仕事的要素は微塵《みじん》もありません。元々ぽっかり空いたスケジュールを埋めるために手遊びで書いた小説なので、こうして発表してしまっていいものなのか、正直迷いがあります。趣味で書かれているだけあって作者の好きなキャラランキングが明白な内容になっていて汗顔の至りですが、しかしどのキャラにしても、彼らが会話をしている様子は書いていて本当に楽しくて、小説を初めて書いたときのことを久しぶりに思い出し、懐かしかったです。

この物語では、お人よしと評判の主人公のアララギくんが、ツンデレクラスメイトだとかロリ(JS)だとか運動神経抜群バイセクシャル後輩だとか秀才メガネ巨乳学級委員長だとかに猛アッピールされる。殺されかかったりもする。同級生の男子はひとりも出てこない。霊能者のおっさんが出てくるが、この年長者に対し、主人公は、反抗期の少年が親にするような態度で接する。意中の女性の父親と接するシーンもあるが、ほとんど会話はできない。ふむ。お人よしでも何でもない。こじれにこじれた人間嫌いである。ここまでくると、すがすがしく思うか、気色が悪いと一刀両断されるか、好みが分かれることだろう。

私の趣味ではない、というのが、あとがきを読んで思った素直な感想だった。いや、私の趣味などはどうでもいい。この素晴らしいタイトルのつけかたは、どうしたことだろう。

ひたぎクラブ(蟹)

まよいマイマイ(蝸牛)

するがモンキー(猿)

なでこスネイク(蛇)

つばさキャット(猫)

それぞれ、作者の趣味をまといし属性の女性の名前に呼応し、かつ、ひらがな+カタカナ、かつ漢字にも対応し、響きもよい。素晴らしい。

しかし、趣味というのは、理性なんかよりも、よほど強い影響力がある。たとえば、異性(あるいは同姓)のある部分が好きで好きでしょうがないということを、フェティシズムと呼んだりするが、その傾向は、生まれる前からあったのか。それとも、その部分を見た(聞いた、嗅いだ、触れた、感じた)瞬間に、趣味に発展するのか。どっちだろう?

寿
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