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まえがきを 

あとがきを





 しゃらくせえと心が喚く。街道は甘ちゃんたちの群れを乗せ、液状化現象にもめげず耐えている。

 車たちの停滞を超えていく。おれの原チャリは宇宙一速えんだぜ。浦安のパチンコ屋を出て、市川塩浜まで続く一本道をすーっと進む。片側一車線、時々二車線。おれはこの道を、ウラジオストックって呼んでいる。


 浦安―塩浜=ウラジオストック


 地元はだいたい「江戸川」から「中川」の間。だから中川の向こう、東京は地元じゃないし、江戸川の向こうの船橋、本八幡も地元じゃない。だいたい総武線沿線に住んでるやつらは(駅が多少栄えてるだけで)威張ってる感じがして好かない。市川市民なのに市川という地名にピンとこない。そういう三角州的に窮屈で偏屈なところがこの辺りの住民にはあるような気がする。
 実際、地図を見てみると、江戸川、中川、東京湾に囲まれて、この地域は日本列島に接地していない(ように見える)んだから。すごいよね。まあいいや、とにかく。 

 ビーンと原チャリ進む。胸を張って足を開く主(あるじ)、つまりおれを乗せて進んでいく。スロットに負けて落ち込んではいるが、背筋だけはピンと張る。帰ったら飯食って昼寝すんべと放屁する。風にまぎれて消えていく。

 この道の終点は、築三十数年、団地風マンション。右折して敷地内に入って29番、おれの原チャリの寝床。エンジンを切る、メットインにメットをインして鍵を抜き、建物にイン。体がひどく汗ばんでいる。まずはシャワーを浴びよと決意を表明。寝てないからか、テンションが変だ。

 1、2、3、4、5、6、7、8、9階、3DK。おれとおれの母ちゃんのマイホーム。ただいまは言わない。誰もいないからね。パパッと脱いで服を洗濯機に放り投げる。ナイシュ。フー。風呂場に入ってシャワー、フンフン歌いながら、タバコの匂いを落としていく。泡が立ち、泡がこぼれて消えていく。ふうしゅ。ふかふかのバスタオルがおれを包む。そのままベッドにダイブして、気づくと夜で風邪っぽかった。で、風邪薬を飲んで服を着て、また寝ると、朝になっていた。


 窓からスカイトゥリーがのぼーんと見える。大気が澄んでる日は富士山が見える。後は工場とマンション郡と公園。そんな景色。服を着替える。Tシャツにジーンズ。腹減った。母ちゃんの作ったおにぎりを食べ、歯をみがいて外に飛び出した。

 どうやら体調は戻っていた。昨夜のあれは、意味なし徹夜のせいだろう。そう結論づけ、原チャリにまたがりキーをさし、ふたつ横のスペースで休んでいるカブをうっとりと眺める。

 この黒いカブの持ち主が唯(ゆい)ちゃんであり、ファムファタールである。ファムファタールというのは徹夜で読んだマンガの中に出てきた言葉で、何か良さげなので使ってみたが、意味はよくわからない。かぐわしい香りのする何かでしょう、きっと。ただ、そんな呼び方はもちろん恥ずかしいので、おれは彼女をニーナと呼んでいる。駐輪番号が27番だからだ。おれは29番。ニク。

 原チャリのエンジンがブルルンとかかり、ふと、思う。

「おれは何をしに、どこに向かうのだろうか?」

 いきなり記憶を失った人のように、おれは自問した。おれは、何をしに、どこへ、向かう?

「おい」という声が聞こえて振り返ると、そこにいたのは、ああ、まいった、ニーナだった。

「何、固まってんだ、おまえ」ニーナこと、ファムファタールこと、唯ちゃんはそう言った。

「……」

 おれが目をパチクリさせているうちに、ニーナはキックバーをすこんと蹴り下ろしてエンジンをかけ、「ちょっとそこ邪魔」と言い、あわてておれがどくと、そこをすうっと抜けていった。

 おれは何をしに、どこへ向かうのだろうか? 問うまでもなかった。パチスロットをしに、パチ屋へ、だ。


          29

 

 ……しゃらくせえと心が喚く。

 浦安のパチンコ屋を出て、再びウラジオストックを走っている。スロットは大負け。死にたい。もう死んでしまいたい。

 おれは四十数キロのスピードの中で自らに問いかける。

「この街道の支配者は誰だ?」

 おれだ(心の中で)。そりゃそうだ。ウラジオストックという名前をつけたのはこのおれで、ここをウラジオストックと認識してるのはおれだけなのだから、おれがこの道を統べることに、誰も文句は言わない。そう、我こそはこの街道の支配者なり。


 高校を辞めて、それまで毎日一緒にいた友だちが連絡をくれなくなった。みんな忙しいんだろうけど、おれは全然忙しくないから辛い。鳴らないケータイを持っててもしょうがないでしょ。しばらく家にいるんだし、家電で充分でしょ。母ちゃんはそう言って、おれの携帯電話の契約を打ち切った。仲間たちには「携帯を解約するから、連絡あったら、家電にして」とメールした。誰からも返ってこないまま、その小さな機械のすべての送受信機能はストップし、ポケットにボリュームをもたせるだけのアクセサリーになった。それでもどういうわけか、毎日充電してしまう。

 大丈夫、大丈夫。大検を取れば全然大丈夫。問題ない、と母ちゃんは言う。追いつく、追いつく。はははと笑う。

 シミュレーションを試みる。


 勉強をする。

     ↓

 大検を取る。

     

 ここまでは、何となく想像がつく。だけど問題はその後だ。大検を取って何をする? 大検というのは、大学を受けることができる、というだけの資格だ。それだけ持っていても、何もならない。たとえ大検を取ったとして、それなら大学へ行けばいいのだろうが、大学に行って、おれは何をするんだ?

 母ちゃんはこういうことを言う。


 勉強をする。

     ↓

 大検を取る。

     ↓

 大学受験をする。

     ↓

 大学に合格する。

     ↓

 アルバイトをしながら勉学に励む。

     ↓

 就職をする。←ゴール

 

 母ちゃんのプランを聞くおれの頭の中では大量のクエスチョンマークたちがゴボゴボ溺れている。

 どうやって勉強する? どこの大学に行く? どうやったら受かる? 受かったとして、大学で何の勉強をする? どこに就職する? 人生って何だ? どうしておれは生まれた? 息絶え、打ちあがるたくさんの溺死体を、おれはどう処理すればいい?


          *


「主人公について」

 盗みを常習とする者は、お金を払ってものを買うことを損と捉えがちである。少なくとも彼の仲間はみなそうだった。ファミリーレストランに入れば食い、逃げ、街を歩いている弱そうな連中を見れば所持金を巻き上げ、勉強など一切せず、テストはすべてカンニングで済ませ、生産という考えがもてず、奪うことのみを生活の柱に生活を送っていた。

 ある日の万引きツアーの中で、主人公はミスをおかした。生徒手帳を落としてしまったのである。そのような場に、個人を特定するものを持っていくなんて、彼の仲間たちとしては、考えられないことだった。

 後日、主人公は警察に呼ばれ、事情聴取をされた。彼の姿を見たという店員の証言もあり、言い逃れできる雰囲気ではなかったが、主人公は黙秘を続けた。しかしそれが引き金となって学校の知るところとなり、彼は退学処分となった。先生の中には厳しすぎるという声もあったが、学校側も、証拠がないとはいえ、誰が彼の仲間かは重々承知しており、エスカレートさせないための、見せしめの退学処分という側面もあった。

 彼はというと、駆けつけた母親に死ぬほど殴られ、行為を認め、その日盗んだものすべての金額を弁償するということで(今まで貯めていたお年玉貯金が消えた)、店からの訴えは退けたが、彼がそうまでして守りたかった仲間との時間は、仲間のひとりが言った「あいつ、アホだな」という言葉とともに、跡形もなく消えたのだった。
 彼にあったのは、若さと、時間のみだった。正直、最初は少し浮かれた。学校に行かなくていいのだ。が、その気分は一週間も持続しなかった。彼の前にあったのは、死ぬまで続く無定形の時間だった。

 一応、母親の手前、大検を受けることに決めた。が、勉強はなかなか身が入らなかった。朝から晩までインターネットで同じような境遇の人々の書く愚痴にうなずいたり、マンガを読んだり、DVDを見たり、テレビを見て過ごした。一日中働く母には勉強をしている、と言いながら。

 そんな彼を、気晴らしにパチンコ屋に連れて行ってくれたのは母親だった。彼自身よくわかっていなかったが、パチンコ屋というのはギャンブルをするところだった。日本の法律では十八歳未満は入れないことになっているから、一応、犯罪行為ということになる。まあ、細かいことはいいじゃない、と母親は言った。それくらい。

 導かれるままに、母の趣味というパチスロを打ってみた。で、出た。コインがこんこんと湧き出してくるのだった。母に勝ち金の半額を渡した。嬉しそうな母の顔が嬉しかった。母は焼肉をおごってくれた。美味かった。週に一度の母の休みには、ふたりでパチンコ屋に行くのが習慣になった。四回連続で勝った。自分に才能があるのではないか、と考えてしまうのも無理もない。

 彼はひとりでパチ屋に行くようになった。負けることもあったが、勝つことの方が多かった。お金が増える。そのうちに、大検を取ろうという気持ちは失せていった。

 そして勝てない日々がやってきた。まったく勝てなくなった。勝負の回数が増える。時々ちょろっと勝って、どかっと負ける。増えたはずの金がおそろしいスピードで減った。服のせいか? 髪型のせいか? 靴のせいか? 何に原因を求めても、流れは変えられなかった。ギャンブルにおいては、勝てないのはごくごくあたりまえの現象であり、じゃなきゃ店の営業が成立しないわけで、だから原因はギャンブルをすることそのものにあるのだが、そこまでは考えが及ばなかった。彼は落胆していた。それでも出口を探してもがいていた。

 ふと、思い立ち、自らの聖域、ウラジオストックの外へ出ようと思ったのは、そのような経緯だった。

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 国道357号線。
 巨大な道路の端っこを、ちまちまビーンと進んでいる。道路をガタガタ揺らしながら、トラックがぶふぉおと進む。軽く抜かれる。車が次々やって来る。おれはすみっこで、ねばっこく走る。めげず、くさらず、負けないように、負けないように。

 左手にららぽーとが見えてきて、追い越して、信号に止まって考えた。ここはどこだ? 南船橋、か。ここから先は行ったことないな……。

 動物の臭いがする。そっか。船橋競馬場か。競馬ってしたことないな。スロットより楽しいのだろうか?

 進む、進む。何となく右折する。そして進んでいくと、幕張が見えてくる。ウラジオストックにはない高層ビル郡が並ぶ。高揚した心が叫ぶ。

「何だ、この、冒険?」

 小さい頃、近所を歩いていて、気づくと知らない場所にいて、知らない場所にいることが楽しくて、自分が輝いているような気がして、羽が生えたようにそのままずんずん迷子に突き進んで、どんと暗くなって恐怖心がむくむく現れて、わんわん泣いて、そのうちに警察に保護されて、迎えに来た母ちゃんにぶん殴られたことがあった。あのときのあの冒険は、所詮はウラジオストック圏内のできごとでしかなかったけれど、僕の中では(そうだ。あの頃は自分のことを僕と呼んでいた)大冒険で、泣いたことなんて忘れて、布団の中では勇者のように誇らしかったんだった。今は? 今、おれは輝いているか? ……

 がっつりとくすんでやがる。どうして汚れちまったんだろう? 高校を辞めたせい? 年齢のせい? スロットで負けたせい? 何のせい?

 ガタガタ揺れている、またトラックかと思ったら、揺れているのはおれだった。震えている。たぶん怖いのだった。正直、怖い。地元のヤンキーにからまれたらどうしようととか、スピード狂が突っ込んできたらどうしようとか、高揚した心がぷちんと破け、そこからなだれのように不安が襲ってきて、帰りたくなった。見上げると雲が、小さな入道雲のような雲がぽんぽん連なって、浮いていた。


          *


 ダリが描いたみたいな雲が、彼の上、湾岸地域の空に浮かんでいた。

 この記述に科学的な整合性はない。ダリの絵画とは関係なく、あの雲は空に浮かんでいる。ダリを知らない人の上にも浮かんでいる。現に、彼の頭上に浮かんでいる。でも私はダリの画に出会ってしまっているし、今彼の上に浮かぶあの雲を、他の言葉で表現はできない。「ダリが描いたみたいな雲」この表現は要するに、模写である。 

 彼の目はあの雲を見ているが、私の目はあの雲の中にダリを見ている。言葉にしてみると、不思議だ。でも、私の思いはどうあれ、彼の目にそうは映らない。それは、連なる小さな入道雲なのだ。こういうことはいくらでもある。ひとりの人間にとってそうでも、別の誰かにとってそうではないことが。

 ウィキペディアによると、ファム・ファタールは運命の女の意味とある。また、男を破滅させる魔性の女(悪女)のこととある。が、ニーナとまともに話せない彼にとって、ニーナは悪女とは言えないだろう。そもそもニーナにとって彼はエキストラのひとりに過ぎないのだ。彼は十七歳、ニーナは十九歳である。

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「海だ!」

 おれは叫んでいた。もちろん地元にも海はある。でも海を見て、おれのテンションは確実に上がっていた。

 原チャリを道端に置き、公園のような場所を走り抜け、砂浜に立った。海は青くなく、どちらかというと茶色に近い。水平線と平行に、一直線に伸びるあの線はアクアライン。左手に見えるのは、たぶん小学生の頃習った京葉工業地帯。波はほとんどなく、人の姿はまばらで、老夫婦に連れられたゴールデンレトリバーが嬉しそうに駆けている。空には天空の城みたいな雲が浮かぶ。

 おれは砂浜に座り込み、茶色い砂をいじいじつまんだり、てのひらに乗せたり、ぷわっと放り投げたり、その砂が目に入って大慌てしたり、しばらく海を見て、さあ、帰るべ、と思う。

 正直、何となくの期待はしてたんだ。新たな経験地を得られるとか、知り合いができるとか、美しい女性とお近づきになるとか、そんなことをちょっとは願ってたよ。冒険ってそういうもんだろ?

 でも、実際はどうだ。海を見て、満足した自分を発見しただけだ。ああ。ガソリンを入れなきゃならない。腹も減った。スロットで負けて腹が減るなんて、何と理不尽なんだろう。今日負けたあのお金があれば、一ヶ月は飯を食えたのに!

 公園をぽつぽつ歩いて国道に戻ると、制服みたいなのを着た人がふたり、おれの原チャリの前に立って、何かを調べている風だった。

「ちょ、ちょ、ちょ、何してんすか?」

「ああ、君ね、ここ、路駐禁止だからね」

「いや、ちょっと、海見てたんすよ」

「へえ、そりゃ、風流だね。でも、そういうときは駐車場を探してからしてくださいね」

「え、つうかマジ、何なんすか、いったい」

「いや、だからね、ここ、路駐禁止なの」「知ってるでしょ。免許持ってるんだから」

「だから」とおれは食い下がる。「ちょっと海見てただけだろ。今、この広い道の隅っこに、おれのこの原チャリが置いてあって、誰が迷惑すんだよ?」

「あのね、法律っていうのがあってですね、この道はね、停め放題とかじゃないんだよね」「覚えたでしょ。赤地の斜めラインが駐車禁止。バツが駐停車禁止って。赤は警告色ですよ、ダメなんです」

「だって、こんなにたくさんスペースあるでしょ? じゃああの車は?」

「もちろん、今から登録しますよ」「でもこういうのは順番だから。私らの体がたくさんあればいいんですけどね」

「あ、あの人、今、車乗った。捕まえないんですか?」

「うちらはね、警察じゃないんですよね」

「じゃあ、おれが、何分か早くここに戻ったら捕まらなかったってこと?」

「そういう問題じゃないんですよね」「うん。そういう問題じゃない」

「あ、また。あの人、ほら乗った」

「君が私たちの足を止めているせいだよね」「うん」

「何すか、それ? 何なんすか」

 その人たちはつまり、金を払えと、おっしゃるのだった。

「じゃあ、今払いますよ。めんどくさいから」

「あのね、それをね、私らがもらうわけにはいかないのよ」「そういうことするとね、賄賂を取る人が出るかもしれないからね。禁止されているんだよね。だからね、このキップをね、所定の場所にもっていってね、払ってくださいね」

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 しゃらくせえと心が喚く。

 原チャリを運転しながら、おれはちょっと、泣いていた。潮風が全身を撫でていくが、そんなのでは癒されない。そんなのにはだまされない。やっぱりウラジオストックから出なければ良かったのだ。クソ。クソ、クソ。 

 ギャンブルで負け、道路交通法にかつあげされて、おれは何なんだ? 高校からは追い出され、やりたいこともこれからの予定も何もなく。いくらなんでもひどくないか?

 踏んだり蹴ったり。そんな言葉が浮かんでくる。でも、何かを踏んだり何かを蹴ってしまうよりも、巨人に踏まれたり、ムエタイの選手に蹴られたりする方が、ピンとこないか? 

 ピンとくる。何でわざわざ何かを踏むのだろうか、蹴るのだろうか。地雷を踏んだり、トゲトゲを蹴らなければ、人間は傷ついたりしない。そもそもそれは罠じゃないか。……

 ああそうか。自業自得のたとえなのか。世の中には罠が張り巡らされているのだから、気をつけなさいよ、ということなのか。踏み心地の良さそうなものを見かけても、蹴るのに最適な的があっても、安易に踏んだり蹴ったりするのはやめなさいってことか。ギャンブルをしなければ金は失わないし、路上にバイクを置かなければ、駐車違反にはならなかった。悪いのはおれなのか? 

 ガソリンスタンドを発見し、「レギュラー満タンで」と言った。どうしてだろう。この台詞は不思議とおれを勇気づける。おれは今、「レギュラー満タンで」という台詞を言えるだけの、その分の金を支払うにふさわしい男なのだ!

 五百円弱を支払って、少しだけ元気を取り戻したところでウラジオストックに戻ってきた。腹も減った。弁当屋でごはん大盛りのからあげ弁当を買って、ふんふんと鼻歌を歌いながら駐輪場に入ると、ニーナが27番の場所で、カブにまたがっていた。

 おそるおそる、29番の位置に、原チャリを戻す。ニーナはこちらを振り返りもせず、カブに座ったまま、動かない。

 一瞬、

「これはおれの妄想が具現化した奇跡なのかもしれない」と思った。「おれはついに時間を止める魔法を使えるようになったのかもしれない」と。

 次の瞬間、そんなはずがないと思い直し、「あの」と声を出した。

 無視された。ニーナは肩を震わせていた。おそらく、泣いているのだった。気づくとおれは、ニーナを抱きしめていた。思いきり、ひっぱたかれた。

「ふざけんなよ、てめー、ぶっころすぞ」ニーナはそう言って、おれの顔を見た。やっぱり泣いていた。おれはニカっと笑ってみた。

「は? きもいんだけど、何なの、おまえ?」

「これ、からあげ弁当だけど、食べませんか?」

 自分が何を言っているのか、わからなかった。

「は?」ニーナはおれの顔を睨んでいる。

「すいません。マジ、すいませんでした」

 おれはからあげ弁当をそこに起き、走り去った。

          29


 犯罪者のような心持ちでエレベーターに乗り、急いでボタンを押し、エレベーターののろさにイライラしながら心をせかし、九階について部屋に逃げ込み、バタンとドアを閉めた。  

 ああああああああああああああああああああああああああああああああ、おれはいったい、何をしているんだ?

 なぜ、ニーナにからあげ弁当(大盛り)を渡したりしたのだろう?

 何のつもりで?

 つうか腹減った。超腹減った。時計を見る。母ちゃんはまだ帰ってきてない。働き者の母ちゃんは、帰ってくるのが遅いのだ。今日はおれ、図書館で勉強してくるから昼食はいらないよ、などと言ってしまっていたのだった。スロットで出して、悠々と食事休憩を取って、ペッパーランチのステーキを食す予定だった。まさかスロットで大負けして、逃げるように海をめざすなんて、想定していなかったのだ。

 ああ、ああ、ああ、ああ……

 ピンポーンと、チャイムが鳴った。配達物か何かだろうか?

 ドアの小穴から覗いてみる。

 ……そこにいたのはニーナだった。唾を飲み込み、ドアを開ける。

「てめえ、どういうつもりだよ」と、ニーナは言う。

「あの、すいません。どうしておれの部屋、知ってたんですか?」

「あ? エレベーターがこの階指してたから、それで、表札を探したんだよ」

「あの、名前、知っててくれたんですね」

「そういう問題じゃねえだろ。どういうつもりだよって聞いてんだよ」

「あの、上がりませんか?」

「あ?」

 そのとき、おれの腹は、ぐうと鳴った。

 ニーナがぐいと、ドアを押した。

          *


「ニーナについて」


 ニーナは週に三回、門前仲町にあるキャバクラで働いているが、稼いだお金はいつもすぐ使ってしまう。ブランド品購入と、主にホストに入れあげているためだ。だから常に金欠で、ジャージで(購入したブランド品を使うなんてもったいないと彼女は考えている)黒いカブに乗って無職の友人の1kのアパートに行き、愚痴をこぼす日々を過ごしている。

 ジュンヤくんというホストのことを彼氏と思っているのだが、もちろんジュンヤくんはそう思っていない。日々の糧のひとつでしかない。ご飯を食べる。いただきますと言う。感謝する。でも、食べてしまった食事のことなんて、すぐ忘れる。消化とともにまたお腹が空く。いただきます。

 そもそも、ニーナは主人公の目に映るほど、世間一般では可愛いと思われてもいないし、モテるわけではない。第一に、センスがよくない。手入れのされていない、自分で染めたから色のまばらな、伸ばしっぱなし、完全プリン状態の金髪と(仕事の際はアップでごまかしている。もちろんごまかせていないが)、仕事以外では、著しく目を小さく見せる効果のある、中学生の頃から使用する銀縁のメガネをかけており、私服は季節問わずいつもジャージで、くすみにくすみ、もはやピンク色ではなくなった、ハローキティのサンダルを履いている。

 第二に不器用で、字は下手で、料理もできず、部屋も汚く、化粧もうまくない。

 第三に、態度がよろしくない。好奇心はあるのだが、極端に怖がりで、臆病なのだ。そのため、何かしたいことがあっても、「どうせわたしなんか」という二の句が出るのが常で、勇気を振り絞ってことを起こしても、すぐに怖気づく。したがっていつも中途半端な結果しか出ない。そして、やっぱりわたしはダメなんだ、と落ち込む。そのくせ「ふざけんなよ、ぶっころすぞ」とすぐ言う。口の悪さと態度の悪さは、彼女にとっての盾だった。ただ、その盾で守りたいものが何なのか、彼女にはわからなかった。実際その盾はいつも、矛となって、彼女を刺した。

 ジュンヤくんは、唯をずっと大切にしたいんだ、と言う。だからニーナはいまだに処女である。本当はしたいんだけど、愛しているから我慢する。ジュンヤくんにそう言われると、それだけで腰が砕けてしまう。だから妄想を中心とした性生活を過ごさざるを得ない。
 主人公がニーナに抱く漠然としたイメージと、実際のニーナは甚だしく乖離しているのだった。


          29


 ニーナがうちの中にいるという状況が、イマイチピンとこず、さっき渡したからあげ弁当(大盛り)を、ニーナの前でもりもり食べているこの状況も、夢のように脈略がなく、支離滅裂としていて、誰か他人にこの状況を説明せよと言われても、うまく答えられない。

 なぜ? 何故? どうして? そう思いながらも、おれはからあげ弁当をパクパク食べている。テーブルの上には、ニーナの分と、おれの分の麦茶のコップが並んでいる。

「けっこうきれいなんだな」とニーナは言う。

「母がきれい好きでして」もぐもぐ食いながら、おれは答える。

「っくは。つうかおまえ、そんな腹減ってるのに、うちに弁当差し出したわけ? ハハ。何なのおまえ?」おれの顔を見て笑っているニーナを見るのは初めてで、髪の毛が縮れるくらいテンパッてしまい、口の中に入れたばかりの唐揚げをそのまま飲んでしまってノドがつまり、急いで麦茶で流し込んだ。

「たぶん、大切な人だから、自分の一番大切なものを、渡したかったんだと思います」言った後で、おれ、何言ってんだ? と思う。

「はあ?」

 はむはむ。おれが唐揚げを食う音だけが、部屋の中で浮いている。

「あの、唐揚げ食います?」

「いらねえよ」と言って、ニーナはうちのコップからうちの麦茶をごくんと飲んだ。「てかあのさあ、うち、兄弟いないし、男の友だちもあんまいなからよくわかんなくて、それで、ちょっと、聞きたいことがあんだけど……」

「もぐもく、ああ、はい。何でも」

 おれはこう考えていた。ここで一発、びしっとした話をすれば、ニーナの気持ちが惹けるかもしれないと。一発逆転、さよならホームランのチャンスが巡ってきたのだ、と。

 びしっと、びしっと、びしっと、ビタ押しのようにびしっと、びしっと、びしっと……

「男の人の性欲ってどういうシステムなの?」

「ぶしゅう」

 一瞬で、おれの口の中のご飯粒だとか、唐揚げだとか、緑色の漬物だとかが、いっせいに外の世界に飛び出した。

「きたねえなあ。ほら、麦茶飲め」

「ごほ、ごほ、あ、すいません。ごくごく。あの、せ、性欲、です、か」

「つか一般論だかんな、一般論」

「ええと、たぶん、年がら年中、やりたくて、やりたくて、やりたくてしょうがないと思います」

「おまえもそうなの?」

「はい。いや、一般論ですけど。あ」

「ん?」

「こうやって、親指を上にして手をめいっぱい開きます。ジャンケンパー」

「こう?」

「はい。で、手首を腰としますね。で、この親指、これ、一般的な十代二十代の勃起の角度らしいんです。で、人差し指が三十代、中指が四十代、薬指が五十代、小指が六十代以降という感じらしくて」

「だから?」

「基本的におれらはこんな状態なんです。一日中そうってわけじゃないけど、何かあるたびに、かなりの確率で刺激に反応しちゃって、何なら曲線を見るだけで反応しちゃうくらいで。とにかくすぐ、めっちゃ、そそり立つんです。何と言うか、そこにやる気を感じませんか?」

「よくわかんないけど……ふうん、そんなもんなのか」ニーナは天井を見上げ、何回か首をうんうんと振った後、言った。

「つうか、よく考えたら、おまえ制服じゃないけど、今日、学校はよ?」

「三ヶ月前に、辞めました」

「どうして?」

「警察に捕まっちゃって、それが学校にバレて」

「何で?」

「万引きしたとこで、生徒手帳落としちゃって」

「防犯カメラに映ってたの?」

「いや、たぶん映ってはなかったんですけど、目撃者がいたらしくて」

「じゃあ物証ないんじゃん。生徒手帳なんか、誰かに盗まれたとかって言い張ればよかったじゃん。てか、そいつらも酷くない? 何で誰もかばってくれなかったの? おれらといました、とか、アリバイになるじゃん」

「でも、実際全員その場にいましたし、そもそもおれが、悪いんで……」

「はあ? 何であんた、泣いてんの?」

「え?」

「おまえキモいって。何なの?」

「ごめんなさい」ごまかす感じで、すごいスピードでからあげ弁当を食べきった。そして麦茶をこぽこぽ継ぎ足して、それを一瞬で体内に放り込んだ。「あの、唯さん。おれと、友だちになってくれませんか」

「はあ?」

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 しゃらくせえと心が喚く。街道は甘ちゃんたちの群れを乗せ、液状化現象にもめげず耐えている。

 おれのスクーター、それから黒いカブ。夕暮れに染まったウラジオストックの上を、おれたちの50ccのマシーンは滑るように走り、ニーナの友だちの家に向かっている。これ、夢なのか? 夢ならもう、覚めないでくれないか?

「誰、こいつ?」出迎えてくれたニーナの友だちは言った。ヤマピーというあだ名の、無職の、太った女性だった。ポテトチップの袋を持ったまま、玄関に迎えにくる人間を初めて見た。第一印象→すげえ。

「こいつさ」ニーナは言う。「同じマンションに住んでるうちらのふたつ下で、高校辞めてくっそヒマっつうから、連れてきてみたんだけど」
「どうも、はじめまして」英語教師か音楽教師みたいに胡散臭いテンションでおれは言った。

「ふうん。ぱりぱり」ポテトチップを食べながら、ヤマピーさんは「まあ、上がんなよ」と言った。

 率直に言って汚い部屋だった。まず、入ってすぐの台所、流しのシンクの中にはカップラーメンのカップが、推定三十個くらい隙間なく敷き詰められて(というか放置されていて)、その様は、流しというよりもカップラーメンの墓場である。その横に冷蔵庫、食器棚、とあるが、その上にはポテトチップの袋が、溢れんばかりに乗っている。まるで表面張力である。乗っているというよりも耐え忍んでいるという感じだ。のみならず、そこから先、コタツ出しっぱなしのリビング兼寝室は、足の踏み場もないほどお菓子の袋が散乱している。CDプレイヤーの上にもポテトチップの袋が、テレビの上にもプリングルズの塔が三本立つ。

「まあ、座んなよ」ヤマピーさんは言う。
 ……どこに?
 立ち尽くしていると、「どこでもいいから早く座れよ」とニーナが言った。「つうかさ、ヤマピー、こいつの部屋、えれえきれいなの。びっくり」

「何? あんた、ついに処女捨てたん?」ヤマピーさんは嘲笑を孕みつつも、驚いたような声で言った。

「はあ? ちげえよ、バカ」

 ニーナは、処女?

 ……マジ? 正直、処女にいいイメージがなかった。どうしてかはわからない。おれだってチェリー人間なわけで、だから同属嫌悪、自己嫌悪みたいなことだろうか? ニーナのことを処女と卑下した感じで言うヤマピーさんは、当然セックス経験者なんだろう。途端にヤマピーさんのことが、汚い部屋とポテトチップ中毒問題を差し引いても二割増しで見えてきた。豊満な肉体はキャパシティ(潜在能力)を示し、テカッた肌の質感も、艶かしいかも、と。足下のポテトチップをどかしながら、ふと思う。

「あの、ヤマピーさん、ちょっとだけ、お片づけしてもいいですか?」

「はあ?」

「あの、ちょっと、座る場所、作ろうかな、と」


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「何こいつ、超便利じゃね」とヤマピーさんは言った。

 一時間かけてリビングを、くっちゃべるニーナとヤマピーさんを縫うように片づけた。ご褒美にポテイトティップ好きなの一袋やるよ、とヤマピーさんは言ったが、(言い方に腹が立ったのもあるが)延々ポテトチップを食べ続けるヤマピーさんを見続けたおれに食欲はなく、つつしんで断った。とにかく何とか座れる部屋になり、ヤマピーさんに傾きつつあった心も落ち着いていた。やはり掃除は心をも整頓してくれる。改めてニーナを見ると、何かしょんぼりしているように見えた。キュンとした。

 どうやらふたりは、熱心にシモネタについて語り合っているようだった。おれの言った勃起の話である。「勃起の角度ねえ」ヤマピーさんは「がはは」と笑った。「うちの彼氏も仕事終わりとか、疲れて相手してくんないことあるよ。つうか、十代はどうか知んないけど、二十代ってそこまで性欲ないんじゃね?」

「そうなんすかねえ」とおれは言う。

「おまえいくつなの? ああ、二こ下とか言ってたっけ。十七歳? はは、うける。こいつ犯したら、あんた犯罪じゃん」

「はあ?」ニーナはヤマピーさんを睨んで言う。「ふざけんな。バカじゃねーの」

「この年になって処女ってどう思う? こいつ来年二十歳だよ。やらはたじゃん、つうかおまえもどうせ童貞だろ。ふたりで矢羅旗ってチーム作ったら? 暴走族、旗振って。ビバ! ビバ! やらはた! フー」

「ぶっころすぞ」ニーナはすごむ。すごんだ後で、おれに問いかける。「なあ、別にセックスだけが人生じゃねえよなあ」

「はあ」としか言えなかった。早くこの話、終わんないかな。

 終わらないのだった。そんな話が延々続き、おれはほぼ会話に参加できず、しまいには「じゃあそろそろ帰っか」とニーナは言うのだった。


          29


 ニーナは27番に、おれは29番に愛車を戻し、一緒のエレベーターに乗り、1、2、3、4、5、6、7階で「じゃあな」と言い、ニーナは降りた。「おつかれっす」とおれは頭を下げた。

 ニーナがいなくなったあと、今日の後半のできごとを思い出しながらニマニマしていると、気づくと扉が開いていて、目の前に母ちゃんが立っていた。

「あんた何? 幼女を誘拐するぞ、みたいな顔でエレベーターに乗って。そんな顔してたら、また警察に捕まるよ。いつまでも少年法に守られてると思ってたら大間違いだよ」

「何だよ。ただ思い出し笑いしてただけだろ」

「てかあんた、ほら。これ、ゴミ、捨ててきて」

「え? こんな時間にいいのかよ?」

「いいのいいの、あんなに大きなゴミ捨て場があるんだから一晩くらい」

「めんどくせえなあ」と言いながら、エレベーターから降りることなく扉が閉まり、おれは再び下降するのだった。

 駐輪場の反対側にあるゴミ捨て場まで歩き、扉を開けて市指定のゴミ袋をふたつ投げ入れた。

「こら」怒気を孕んだ声に、後ろを振り向くと、老婆が目をギラギラ光らせて立っていた。「こんな時間にゴミを捨てたらダメでしょ」老婆は毒リンゴでもかじったかのようにまくしたてる。「あんた本当にここの住民? 何号室の誰? 言ってみなさい。言いなさい。ほら。言ってみなさい。言いなさい」

「うっせえババア」と言って、逃げ出した。

 マンション内には入れなかった。おれは走った。

 空には幾つかの星が輝いていた。何でおれ、こんなことしてるんだ?

 ああ、めんどくせえ。マジ、めんどくせー。何だよ、これ、完全に母ちゃんのせいじゃんか。

 ぶつぶつと母ちゃんに対する愚痴をこぼしながらコンビニに入り、目ぼしい雑誌を何冊か読んでから戻ってみると、マンションの前に速そうな黒い車が停まっていて、ニーナがエントランスから出てくるのが見えた。

 彼女はいつものジャージではなく、ケバケバしく魔女のように着飾っており、夜なのに大きなチョウチョみたいなサングラスをしていて、それでも嬉しそうな表情がわかった。彼女の目には、おれが見えていない。だからもう、堂々とジロジロと見た。車の中からこれ以上ないくらいチャラついた格好の男が出てきてニーナを出迎えた。ふたりは抱き合いキスをした。クラクラした。魂が薄くなっていくような感じがした。それはそのまま、天に昇って成層圏まで到達した。呼吸がうまくできなかった。ぶるぶると頭を振って地に戻す。ふたりはまだキスをしている。ニーナの腕が男の体にからむ。男がニーナを車の中に誘導し、車が発進し、視界から消えても、そこから動けなかった。


          29
 

 原チャリを運転しながら、あらん限りに声を出す。あああああああああああああああああと、声を出す。あに濁点をつけたような音が、街道を漂い消えていく。あ゛あ゛あ゛あ゛……

 しゃらくせえと心が喚く。
 車通りはほとんどない。おれの声が聞こえる人はいない。いたとしても、たぶん妖怪か魔物の類だ。明らかにおれはネガティブな精神を抱えてウラジオストックを走っている。

 ニーナを追って道に出たはいいが、どう考えてもおれの原チャリとあの車では、基本性能が違いすぎる(おれの原チャリは宇宙一ではなかったか?)。見失う前に、そもそも姿が見えなかった。それでも浦安まで来た。いつものパチ屋はもう閉まっている。死んでしまいたいと思った。

 でも、死にたくないという気持ちもあるのだった。

 ねえ、神様。ちょっとおれに当たりきつくない?

 十七年前、おれという人間が生まれました。はい。ありがとうございました。

 でもね、そっから先、おれに何か幸福ってあった? 勉強できない。運動神経も大してない。何かで表彰されたこともない。テストはよくて並。通知表に5とかAってついたことない。にもかかわらず、自分は他の人と違って特別なんじゃないかとか、今でも少し思ったりする。おれだけは死なねーとか、秘められた能力がいつか発動するとか、実は失われた王族の血筋ではないかとか。

 彼女、できたことない。女性に告白されたことは二度ほどあるけど、どっちも怖くて返事ができなかった。今思えばただのおれの勘違いって線も大いにある。高校は追い出された。仲間からは連絡が来ない。スロットは最近全然勝てない。貯金は尽きた。

 たしかに、法律に違反することを幾つかした。草花を踏んだこともある、木の枝を折ったこともあるし、虫もたぶんいっぱい殺してる。

 女性のシャツからブラジャーが透けているだけで勃起するし、やらしい夢に母ちゃんが出てきたこともある。

 これはそういう諸々の、罰ですか? そうなんですか?

 つうかおれは、ニーナのことを一方的に好きなだけで、別にニーナが何をしようがニーナの勝手なのに、どうしておれはこんなにショックを受けてるんだ?

 ああいやだ。自分がいやだ。周りもいやだ。世界がいやだ。すべてがいやだ。

 今ここで事故って、その瞬間に、悪魔みたいな人がぼわわんと現れて、「さあ、貴様、今ならもれなく悪魔になれるが、どうする?」と言われたら、その特典しだいでは、なっちまうかもしれない。新たな魔の存在の誕生だ。ふはーっはっはっはっは。

 魔界、魔物、魔王、魔、魔、魔のつくものを考えているうちに、間男という古典の授業で習った単語が出てきた。旦那のいる女性とやっちゃう男のことだった。

 よし、こうなったらおれは間族に転生してやるからな。向こうに彼氏がいても、たとえ旦那がいても、関係ねえ。おれはニーナのことが好きだし、ニーナがどう思おうが、ニーナが処女だろうが、ニーナが誰だろうが、何だろうが、おれはニーナが好きなんだ。

 力がみなぎってくるのを感じた。これがきっと間族の力だ。我、転生しせり。さっきの車は品川ナンバーだった。速そうな黒い車という手がかりだけで、見つかるとは思えない。けれど座して待つことはできない。おれは中川を越え、都内に入った。ふおおおおおおおおおおおおおおお。
 

 この夜、おれは一晩中都内を走り回り、勢い余って川崎市に突入し、何の手がかりも得られず朝になり、そして、色々なものをあきらめた。


         29


 おれは今、夢を見ている。自分でもそれがわかる。夢だというのにまったく夢がない。ニーナの姿が出てくることもなく、エロくもなく、何かを成し遂げるというのでもなく。ただ、問いがあり、それについて考えている。

「おれはなぜ、ニーナのことが好きなのか?」

 こんな夢なら覚めてしまえばいいのに、起きることができない。ぼんやりと、漂う雲のように、おれは考えている。夢を見ている。別に気持ちよくも悪くもない。どうでもいいと言ってもいい。

 どうしてニーナのことが好きなんだろう?

 おれは、誰なんだろう? 


          *


「続、主人公について」


 芸術(ART)とは、自然(NATURE)の対義語、つまり人工の意であり、噛み砕いて言えば、個人の意匠がこらされた作品のことであり、通常、社会通念とは馴染まない。人間は社会的な動物であり、社会とは、個に妥協と迎合を迫るシステムである。だから芸術家は、通常、常識、道徳、とされるような状態と対峙する。

 十代の悩みは芸術家のありかたと似ている。主人公とは何か? 或るひとつの孤独な魂のことである。

       29

 目が覚めた。立ち上がり、カーテンを開けた。暗雲が垂れ込めていた。梅雨が戻ってきたのだ。

 気づくと窓の外の風景が精神に同期されている。もしくはおれの精神が、空に反映されている。沈鬱な色の心。虚ろな空。そこから悲しみの涙がしとしと落ちてくる。

 顔を洗って食卓に戻ると、おにぎりと一緒に手紙があった。

「チチキトク オソクナル 母」

 はあ? 父? 母ちゃんの父ちゃんはすでに他界している。おれの、父? 

 よくわからないので母ちゃんの携帯に電話をかけた。つながらなかった。しかたなく、おにぎりを食べた。梅、昆布、おかか。ぺろりと食べて、さて考える。

 父危篤? それとも、何かの暗号なのだろうか? 文節が違うのだろうか。ちち、きとく、でなくて、「ち、ちきとく」なのか。「ちちき、とく」なのか、「ちちきと、く」なのか。意味不明。「お、そくなる」「おそ、くなる」「おそくな、る」意味不明。

 チャイムが鳴った。

「はい」と言ってドアを開けると、ニーナが立っていた。「ちょっと、やべーことが発覚した」おれが驚く前にニーナはそう言い切った。

「どうしたんすか?」

「うちの彼氏、インポだった」

「だから?」

「だから、じゃなくて、どうすりゃいい?」

「病院行ったらいいんじゃないですか」

「え? インポって病気なの?」

「病気の一種なんじゃないですか。よくわかんないですけど」

「マジか」

「……」

「つうかおまえ、暗くね? どうした?」

「おれもう、唯さんと、会いたくないです」

「はあ?」

「すいません」

 ドアを閉めた後で、猛烈に後悔した。小さな穴の向こうでニーナは目を数回パチクリとさせた後、おれの家のドアを睨(にら)むと、エレベーターの中に消えていった。


          *


「続、ニーナについて」


 白取唯の夢は映画女優になることだった。

 今でも密かに思っている。美しい衣装を着て、誰もがうらやむ大恋愛や、手に汗握る大冒険をする自分を、いつか大きなスクリーンで見るのだ、と。それが果たせないことも知っている。キャバクラに銀髪の紳士が現れて、君をスターにしてあげようなんて話がないことは、わかりきっている。

 このままキャバクラで働き続けることはできない。それも知っている。来年には二十歳になる。わたしを覆う質感は変質していく。良い方向ではない。悪い方に。わたしの価値も、そう。それでも週三以上、仕事を増やしたいとは思わない。いつも金に困っているが、金を稼いでも、どうせ使ってしまうだろうはわかりきっている。見えないふりをしているが、ジュンヤくんがわたしを見ていないことも、何となくわかっている。

 わたしに先なんてない。というか、そもそも道があったのかもどうかもわからない。それでも、わたしは十九歳なのだから、ここまで生きてきたのだから、道はきっとあったのだ。あの。もしもし。わたしの十九年、それ、返してくれませんか? こんなに茫漠(ぼうばく)な、吐き気がするほど茫漠な、先細りで、つまらない、くだらない人生が、人類の歴史にかつてあったとは思えない。それでも自分には何かがあるという、希望というか願望みたいなのが捨てられない。

 ブランド品を作った人を憎む。あんなにキラキラしたものを売る人を憎む。映画みたいにピカピカ輝くものを発明した人を憎む。わたしは光に飛び込む小さな虫だ。虫だから、光るものに引き寄せられてしまうのだ。私は自分という虫を憎む。ふざけんな。どうして私は虫なんだ。光に惹かれるんだ。もっと別のものがあるのに。ウソ。ほんとは憎めない。何も憎めない。悪いのはわたしなのだ。わたしは虫という存在を見下して、それを自分に仮託(かたく)して、それで自分を卑下(ひげ)する振りをして、自分を引き上げようとしている。最低だ。

 お金持ちがうらやましい。もったいないなんて思わずに、何の迷いもなく、キラキラを自分に身につけ引き寄せて、生きていければいいのに。若い子がうらやましい。自分より若いだけで、うらやましい。わたしの年齢からの引き算。わたしにはその数字だけの猶予がない。

 小さい頃、「19Memories」という歌を聴いて、おばさんの歌だと思った。自分が十九歳になるなんて想像できなかった。でも、自分がその年になってみて、夜の仕事をはじめて、それでもあの頃と何も変わってなくて、本当にただ年を取っただけで、ただ汚れてしまっただけで、何かそんな気がして、処女なんて、清純じゃなくて汚らわしさの象徴みたいで。でも、それを捨てるのが怖い気持ちもあるんだ。タチが悪い。タチ悪いにも程がある。

 処女を不落の城に、童貞を新兵に見立てるたとえがあったけど、それはたぶん男子の願望だ。もしくは買いかぶりすぎだ。ふざけんな。女子は城じゃない。港でもない。ほら、すぐ、他の何かを貶しだす。わたしは小さい。狭い。でも、絶対。なんだ。じゃあ、女子って何だ? わたしは何だ? 虫だ。同じところをぐるぐる回る触角の取れた虫だ。ほら、すぐこうやって他のものに責任を…… 
 

 そう、ニーナもまた、主人公なのだ。


          27

 

 むかつく。むかつく。むかつくむかつく。何なの、あいつ。昨日は「大切な人」とかなんとか言ってたくせに、「おれもう、唯さんと、会いたくないっす」? 何なの? マジで。ふざけんなよ、マジで、ぶっころすぞ。

 ちぇ、ちぇ、ちぇ、何回舌打ちをしても、収まらない。イライライライライライラ。ヤバい。収まらない。やっぱりもう一回行こう。部屋を出て、エレベーターまで歩いて、ボタン押して、待って、乗って、8、9階、降りた。チャイムを押した。あいつが出てきた。

「どうしたんですか」

「どうしたじゃねえ。入るよ」

「ちょっと」

 ずけずけ入って、リビングの椅子にでん、と座り、「つうか、どういうことだよ?」と言った。年下の男はため息交じりにわたしの前に座り、「どういうことって?」と言う。

「うちと会いたくないとかってやつ」

「だって唯さん、彼氏、いるんでしょ」

「おまえさ、うちのことマジで好きなの?」

「……」

「どうして?」

「どうしてって、何がですか」

「どうしてうちのことを好きになったりするの? どういうシステムなの?」

「わかんないですよ。じゃあ、唯さんはどうして彼氏のことが好きなんですか?」

「かっこいいから?」

「何で疑問形なんですか?」

「そう言われると、困る」

「いや、あなたが言ったんじゃないですか」

「……」そういうものか……。

「麦茶、飲みます?」

「お願い」

 こぽこぽ注がれた麦茶をごくごく飲んで、「難しいな」と言った。

「難しいすね」十七歳の少年はうなずく。

「なあ、あんたのこと、何て呼んだらいい?」

「何てって、何でもいいですよ」

「じゃあ、あおびょうたんでいい? 年下の男とか、十七歳の少年とか、まぎらわしいからさ」

「何の話ですか?」

「で、いいの? あおびょうたん」

「何すか? アオビョウタンって」

 スマホを取り出して、ピピピと辞書を出して、あおびょうたんに手渡した。

「未熟な青い瓢箪。転じて、顔色の青ざめた人をあざけっていう語。何すかこれ。悪口じゃないですか」

「いや、いい意味の方。書いてない? いい意味」

「書いてないです」

「いい意味だと思ったんだけどな。青白くて、スマートでっていう」

「だいたい語感がよくないでしょ。アオビョウタン」

「ま、いいじゃん。わたしは好きだよ。あおびょうたん」

「マジっすか?」

「あ、あれね、そっちの意味じゃなくて」

 まずい、何か、顔が赤くなってしまった。「語感いいじゃん、たんたかたんみたいでリズミカルだし、あおびょうたん、うん」ダメだ。この雰囲気は。何かないか、何かないか、何か……「何、この、チチキトクって?」

「わかんないです」

「これやべえやつじゃね?」

「つうか、おれ、いないんですよ、父。母の父も亡くなってますし」

「じゃあ、何?」

「冗談じゃないですか? おれ、昨日夜帰らなかったんで、すねてるとか」

「あの後? 何してたん」

「……フラフラしてました」

「何だそれ。つか、おもろい母ちゃんだね」

「そうすかね」

 あれ。何だかいつの間にかイライラが収まっている。やった。「まあいいや、あおびょうたんくん。外に出かけないか?」

「どこに?」そう言って、あおびょうたんが青い顔で麦茶を飲んだ。

「どこにって、ヤマピーんち」

「ええっ、あそこ、汚いから嫌ですよ」

「普通あんなもんだよ。あんたんちがキレイなだけ。ね、ほら、ほら、行こう」

「雨降ってますし」

「もう止んでるって。ほら、止んでる」

「……ほんとですね」

          29


 しゃらくせえと心が喚く。街道は甘ちゃんたちの群れを乗せ、液状化現象にもめげず耐えている。

 おれの原チャリ、ニーナのカブ、2台がビーン/ブーンとひた走る。辛うじて雨は上がったが、依然、雲はどんより重い。信号を待っている間、こんなことを言ってみる。

「おれ、密かに唯さんのこと、ニーナって呼んでるんです」
 あおびょうたんの仕返しのつもりだった。

「は? 何で?」

「え、駐輪場が27番だから、です」

「……超かわいくね? ニーナ。やばい。超かわいい。そっか、うち27番だっけか。てかあんたは何番なの?」

「29番です」

「29……。じゃあうち、あんたのことニックって呼ぶわ。決めた。ニック。あおびょうたんも惜しいけど、いいよね、ニック」

「……ニック?」

「よしニック、行くぞ」

 信号が変わり、走り出す。

 ニク、ニック。小さなツが入るだけで、随分印象が変わるものだなと、一瞬感心しかけたが、ものすごくバカバカしい名前な気もする。だからそれ以上考えないことにした。いいや。ニックとニーナで。ふたりで進むんだ。

「ニーナさん」

「ん?」

「大好きです」

 風にかき消されるだろうと踏み、しれっと言った。言った後で、心臓がドクドクドクドクと、まるで今、命を与えられたみたいに脈動していた。

          

          27


「え? 何?」と言った。ニックは「何でもないです」と言った。

 正直、その言葉は聞こえていた。だけど白を切った。恥ずかしいからだった。面と向かって大好きなんて、そんなセリフを言われた経験がなかった。ただ、体が熱くなった。面映(オモハユ)いというか、くすぐったいというか、嬉しいというか、うまく自分の感情を把握できなかった。だけど、何となく良い気分だった。もしからしたら、こういうのが幸せってやつなのかもしれない。そう思った。

 車通りは順調に流れている。コンビニ、はい。ファミレス、はい。はい、スーパー。はい、暗い空。はい、カラス。はい、青信号。はい、はい、わたしはニヤけている。そんな自分が気持ち悪いけれど、悪い気分ではない。

 何、何、こいつ、うちのことが好きなの? しょうがねーな。しょーがねーなあ。ニヤついてしまう。上から目線になる。ニックの原チャリはスクーターで、だからアクセルを回すだけの乗り物だ。でも、わたしのカブは三速ある。アクセルを戻す、左足でギアを踏む、アクセルを回す、加速する。スクーターよりもちょっと難しい。その分偉い。そんなことを誇りたい。変なわたし。


          29 


 到着。今日のヤマピーさんは、ポテトチップを持っていなかった。そのせいか、心なし昨日よりも痩せたようにも思う。いや、それはないか。……というか、気持ちが昂(タカブ)ってしょうがない。これはもしかして、ニーナはあのチャラついた彼氏ではなく、おれを選んでくれたということなのか?

「また、そいつ連れてるよ。仲良いねえ」

「そんなんじゃねえよ」ニーナはしかめ面で否定する。シュンとなるおれ。

「もうつきあっちゃえばいいんじゃね? こいつは完全に唯に恋しちゃってる感じだし、あんたもまんざらじゃなさそうだし」

「うるせえ。遊びに来てやってんだから、もっとちゃんと歓待しろよ」ニーナは口を尖らす。

「カンタイ? どういう意味? あんた時々難しい言葉使うよな」

「もてなせ」

「ああ、そゆことね。んあ? てか、うち、呼んでねーもん。あんたが勝手に来んだろ」

「だってヒマしてんじゃん、いつも」

「はあ?」

「まあまあ」と言った。

「何、おまえ? 何キャラ?」ヤマピーさんはギョロリとにらんだ。「まあいいや。とりあえず上がんな」

「おじゃまします」と言って、スニーカーを脱いだ。ニーナはサンダルを一瞬で脱ぎ、一足先に上がっている。昨日片づけたというのに、ヤマピーさんの部屋は、菓子類の袋で埋め尽くされていた。

「ねえヤマピー、この子の名前、ニックになったから、よろしく」

「は? どういうこと? 何こいつ、ハーフなの?」

「いいの。とにかくそう呼んでやって」

「ニック? ニックねえ、呼びにくくね? あ、つうか、それよか唯、聞いてよ。またハッカクしたんだけど、あいつの浮気。マジありえないんですけど」

「また? 早く別れちゃえばいいのに」

「なあ、ニック、どうして男って浮気すんの?」

「浮気はしたいしたくないじゃなくて、しちゃうものらしいですよ」座り場所を確保しながらそう言った。

「じゃあおまえもすんの?」

「つうかおれ、未経験なんで、まず気を溜めるところからはじめないと」

「ためるって何をだよ。ゲンキダマかよ。うけんな、おまえ」

「何で浮気するの?」ニーナは真剣な表情だった。「好きな人いても、ってこと?」

「ふたりはアイス好きですか?」

「嫌いなやついんの?」ヤマピーの発言に、ニーナも首を縦に振った。

「アイスって何か食べちゃうじゃないですか。想像ですけど、それと似た感じなんじゃないですかね。好みとかの前に、アイスが好きだっていう。腹いっぱいでも入っちゃうし、トッピングしたいし、余裕があったら二段重ね三段重ねもしたいし、ソフトクリームとかだとまた違うし。理性よりもアイスが食べたいっていうか」

「……」驚いた表情でニーナが言った。「男ってそんなスイーツな感じ?」

「何となくですけど」

「生物学的うんたらかんたらって聞いたことあるよ」ヤマピーさんはポテトチップの袋をバリバリと開けながら言った。即座に何枚かを口の中に放り込む。「しゃむしゃむ、子孫を残すという本能がどうたらこうたらで、ん、ぱり、男は女という畑に種をまくだけのことだ、みたいな」

「何、それ、最低」

「つーかさ、でも、ニックのアイス理論、わかりやすいかも。しゃむしゃむ、そりゃつまみぐいするわ」

 ヤマピーさんが、照れもせずにニックと呼ぶことに、軽い戸惑いを覚えながらも、誉められた気がして嬉しかった。

「でもそれ、女がわかったらダメなやつじゃね?」ニーナが言う。「アイス理論? でもさ、ってことは、好きな人としたい人ってイコールにならないの?」

「違うでしょ、好きな人は好きで食べたい。好きじゃない人も、まあいいかくらいで食べたい。そんな感じでしょ。ニックのアイス理論だと」

 すっかりマスターしたぞ、みたいな顔で、ヤマピーさんは新たなポテトチップに手をかける。「ぶっちゃけうちもさ、一列に並んだ男たちに次々弄ばれるみたいなシチュ好きだし、一緒じゃね?」

「はあ? 全然ちげえし。てか、おまえおかしいって」

「妄想だけだって。実際そうなったらしんどそうだし」

「あ、電話」

「誰?」ヤマピーさんが聞く。

「彼氏」

 困惑をにじませつつも、スマートフォンを覗くニーナはどこかうれしそうで、というかすっかり、もう何ならニーナとつきあっているような気になっているときに、ニーナの口から彼氏という単語が出て、急に現実に引き戻されて、嫉妬のトゲがザクザク心に刺ささった。痛い痛い痛い……。

 ニーナが携帯を持って部屋の外に出ていく。おれは下を向いた。居場所がなかった。心の持って行き場もなかった。ポテトチップの袋の中に入ってしまいたかった。

       27


「もしもし?」わたしは言った。

「おはよー。唯、起きてた?」明るい声でジュンヤくんは言った。

「起きてた、起きてた。今、ヤマピーんちでくっちゃべってる」

「そっかぁ。今日おれさぁ、仕事休みだから、唯とご飯でも食べようかなって思って、唯も今日仕事休みだったでしょ?」

「いいよ。何時?」

「何時でもいいよ。準備できたら電話して。おれも準備しとくから」

 何か、ジュンヤくんの口調が優しい。いや、いつも優しいのだ。でもこうやって、テンプレート的に優しいときは何かがある。わかっていながらも、定型をなぞるように、わたしはジュンヤくんの言いなりになるのだ。そしてご褒美のキスを待つ。体の内側がとろけるような、なめらかな、ああ、わたしもアイスが好きなのかも。やだな、こういうの。

 唐突に閃いた。ジュンヤくんの要求を呑む代わりに、エッチを迫ってみればいいんだ、と。インポなんてウソかもしれないし。あの日は珍しくジュンヤくんが酔ってたし、てか酔ってたから、たぶんジュンヤくん迫ってきたんだし、酔ってると、男の人は機能しないって聞いたことあるし。

 何はともあれ、もうはっきりしたい。そうしないとわたしはここから進めない。戻れない。どこにも行けない。決意したからには進む。そうしよう。そう決めた。

 部屋に戻り、ニックとヤマピーに別れを告げた(ああ、ニックにはすまないと思ってるさ。でも、また泣かされに行くんですか? はねーよ。バカ)。

 カブに乗って急いで帰り、念入りにシャワーを浴び、処理すべきものを処理し、化粧して、持ってる中で一番高い下着をはき、ジュンヤくんがいいって言ってくれたワンピースを着て、使い捨てのカラコンをはめ、この前お客さんにホメられた香水をつけ、念のために買っておいたコンドームを持ち、ハイヒールのサンダルを履いて外に出た。


「なあ、唯。もう少し働いたりできない?」

 車に乗り込むと、ジュンヤくんはいきなりそう言った。

「え?」

「いや、週六回とかに、できないかなーって」

「何で?」

「後輩がさ、あっち系の人の女に手を出しちゃってさ。まとまった金が必要なんだよ。マジ、お願い、唯。助けて、ホント少しずつでいいからさ」

「でも、それって後輩が悪いんでしょ。ジュンヤくん関係ないじゃん」

「関係ないって切り捨てることなんてできないだろ? おれは自分の周りの人間に不幸になって欲しくないんだよ」

「うちは? 不幸にならないの?」

「幸せにするよ。もちろん」

 ウソだ。そんなのウソだ。もういやだ。ふざけ……もう、いいや。わたしもウソつこ、そうしよう。とにかくセックスをしよう。でも、どうしてこんな一生懸命になって、セックスをしようとしてるんだろうか? 過去のわたしが、十九歳のわたしをおばさんと切り捨てるから? 何で? セックスってここまでする価値のあること? 

「ジュンヤくんはわたしのことをどう思ってんの?」

「大切な人だよ」

「ウソ。大切だったら、仕事を増やしてなんて言わない」

「大切じゃない人に、大切なことを頼めないだろ? 唯以外にこんなことを頼めないから言ってるんだ。愛してるよ」

「ほんとに?」

「心から」

「ねえジュンヤくん、ジュンヤくんがわたしのことを大切だと思ってくれてるなら、エッチしたい」

「大切だから処女のままでいて欲しいんだよ」

「やだ」

「待てない?」

「待てない」

「わかった」

 高速に乗って、お台場を通り越し、横浜方面に進んで、その間あんまり会話がなくて、気まずさからスマホをいじっていたら、車に酔ってしまって、気分が優れないまま、お城みたいな外観のラブホについて、地下の駐車場に入って、そこは駐車場からそのまま部屋に入れるようになっていて、ああ、ジュンヤくんはここに何回も来たことがあるんだなあとか思って、まあ、そりゃそうか、とか、誰とだろうとか、何人とだろうとか、さっきまでの気持ち悪さと入れ代わり、嫉妬がその場所をじくじく焦がすのだった。それでも今から待っていることが嬉しくて、少し怖くて、小学生の頃の遠足の前の日とか、運動会の前日みたいな、何か大きなものに包まれているような、非日常への不安感と期待感がないまぜになって、呼吸が荒くなってきたけれど、そんな子どもみたいな葛藤をジュンヤくんに気づかれたくなくて、立ち止まった。そんなわたしの手をジュンヤくんは引いてくれて、やっぱりジュンヤくんは優しいな、と思った。

 部屋は広くて暗かった。白黒の格子模様の床の上に、西洋の騎士みたいなオブジェが立っていて、高級感を狙っている感じがひしひしと伝わってきて、気味が悪く、居心地も悪かった。

 大きなベッドに腰をかける。ふかっと頼りない感触だった。ここでいったい何人の男女が、いや、男と男でも女と女でもいいが、とにかく何対の人間が交わったのだろうと考えると、気が遠くなった。

「唯、シャワー浴びてきなよ」そう言って、ジュンヤくんは冷蔵庫を開けて水を取り、何かをてのひらに乗せた。青い錠剤だった。

「わかった」

「念入りにね」

「はい」

 バスルームの照明はピンク色、赤い壁、フロ桶の色は金だった。まるで落ち着かないのでさっさとシャワーを浴びて戻ると、「おれもシャワー浴びてくる」と言い、ジュンヤくんはわたしの頬にキスをした。下がりかけたテンションが少し上がる。

 ベッドに横になり、ジュンヤくんを待つことにした。ベッド上部のスペースに、テレビや照明や有線のスイッチがあって、その横に手の形の置物があって、その置物の人差し指と中指の間に、コンドームが二枚はさまっていた。何だ、持ってくることなかったか。

 大きなテレビをつけてみると、エーブイのチャンネルか何かで、男女が猛烈に絡み合っているシーンが映り、気分が悪くなってすぐに消し、有線をつけると九〇年代のポップミュージックで、「SWEET19BLUES」が流れてきた。

 いったい十九歳が何をしたっていうんだ。不安? そう、不安なんだ。次の段階に進むのが。住み慣れた、着慣れた十代から、二十代になるのが。でも、今はそんなことはどうでもいい。年齢のことなんてどうでもいい。これからのことを考えよう。痛いのかな、きもちいいのかな、ハマッてしまうものなのかな。

 どういう手順で進むんだろう? ジュンヤくんに任せておけばいいのだろうか。ヤマピーがいつも(しょっちゅう)したり顔で言うふえらなる行為は、どのタイミングですればいいのだろうか。そもそもしなければいけないものなのだろうか? してって言われるまで待ってればよいのか。どうなのか。


 19歳のアンセムが終わった後も、何かしらのJポップが流れ、そして、過ぎていく。ジュンヤくんは全然戻ってこない。何してんだ?

 部屋を散策してみることにした。小さな自動販売機みたいのがあって、そこにコンドームとか、ローション? みたいのとか、大小、形の様々なバイブレーターが売っている。隣に冷蔵庫があって、開けてみると有料で、お金を入れると取れる仕組みになっていて、百五十円もするポカリスウェットを買った。ゴクゴクと飲んだ。食道を滑り、胃に到達した。ふと、セックスもこんな感じなんだろうか、と思う。口からポカリを流し込むみたいに、ジュンヤくんを体内に入れる。不思議なイメージだ。何だか気持ちが悪い。

 扉みたいのを発見し、それを開けると、バスルームだった。ジュンヤくんがこっちに気づいてないということは、こっちからは見えるけど、向こうからは見えない式のガラスなのだろうか。

 ジュンヤくんはシャワーに背を向けて、滝を浴びる修行僧みたいな格好で立ち、シャワーを浴びながら自らの男性器をじっと見つめていた。それはふにゃふにゃで、土を這う虫みたいだった。何かを呟いているみたいだったが、何を言っているかはわからなかった。ジュンヤくんは、それをにぎにぎしはじめた。一心不乱に揉んでいる。小さい頃マザー牧場で見た、牛の乳搾りみたいな手つきだった。しばらくすると、そのふにゃふにゃのものが起き上がってきて、そしてある時点でビキンと硬直した。たしかにニックが言っていたとおりの親指の角度だったが、それはわたしに凶器を連想させた。あれがわたしの内部に入ってくるのかと思うと怖かった。ジュンヤくんがシャワーを止め、それを見たわたしは急いで扉を閉めた。

          29


 ニーナがいなくなり、ヤマピーさんとふたり残されて、空間には何か妙な雰囲気が生じていた。

 テレビがついていて、それはワイドショーで、心からどうでもいい話題を専門家という人が熱心に語っていた。それを見ながらヤマピーさんは、ポテトチップをパクついているのだが、妙にもじもじしているのだった。唐突にヤマピーさんが言った。

「ニックはさあ、アイス、食いたくねーの?」

「そりゃ食いたいっすよ」

「ねえ」

「はい?」

「おまえ、唯のことが好きなん?」

「はい」おれはきっぱりと答えた。はずだった。

「あいつ、彼氏いるじゃん。それでも好きなん?」

「はい」

「うちとセックスしちゃう?」

「はい?」

 何を言っているんだ? この人は? そんなわけにはいかない。いく、はずがない。が、大きな問題があった。何が? おれの男性器のことだ。びきびきなのだ。正直に言えば、その提案は魅力的だった。その豊満な肉体も、その油に濡れた口も、舌も、声もすべて。ニーナは? ニーナの存在は? 薄れていく。かすれていく。ダメだ。つなぎとめないと。「てか、ヤマピーさんも彼氏いるじゃないですか」何とか、振り絞るように声を出した。

「いい。全然いい。むしろやりたい。リベンジセックス。やられたらやりかえせ、みたいな」

「そういうのに、おれを利用しないでください」

 とはいえ、おれの生殖器は、戦闘準備を完了している。

 うわっ。ヤマピーさんが眼前に迫ってきて、あわててよけた。よけたはいいが、力の逃げ場がどこにもなく、おれは倒れてしまった。そして、倒れた先には当然ポテトチップの袋があり、何袋かが、ポン、ポン、と開いた。

「ニック」

「はい?」

「じっとしてて」

 おい!

 おいおい!

 おいおいおい!

 ……油っぽい動物的な味が、口の中に広がった。ヤマピーさんは、舌の硬度を自由自在に操ることができるらしく、その特殊能力をもって、おれの口内の色々な場所を撫で、つつき、かきまわすのだった。おれの口の中でヤマピーさんの舌が踊っていた。かと思うと、あっという間に服を脱がされ、裸になっていた。首筋に、なめらかで温かいものが這う。それは移動する。下へ、下へ。ポテトチップの袋をどかしながら、ヤマピーさんはおれを横たわらせて、パクと、おれのその今にもちぎれそうなものをくわえた。先ほどおれの口内に侵入したのと、ほとんど同じ戦略で、おれのその砦は攻略されつつあった。なぶられ、吸われ、しごかれた。何かが出そうだった。




 攻撃が止んだ。目を開けると、ヤマピーさんは小さな箱から何かを取り出し封を開けていた。おれの服を脱がせるのと同じようにスムーズに、それは装着された。おそるべき手際だった。途端、ぬるっとした何かが入ってくるような感触があった。それはおれを捕まえて逃さない、巧妙な罠のようなつくりになっていた。ヤマピーさんがくねくねと前後に、ずんずんと上下に動くたびに、快感が全身をめぐった。

 おれはニーナのことを考えていた。

 あれは、小学校四年生のことだった。下校途中だった。雪が降っていた。誰かが走ってきて、寒い、寒いと言いながら、後ろからおれの顔をごしごしと撫でた。あ、ごめん、「カオリちゃん」かと思った。身長が似てて間違えちゃった。ごめんね。でも、寒いねえ。風邪、気をつけてねえ。じゃあね。

 その人は走り去った。あの瞬間、上級生の冷たい手から、温かい何かを受け取ったような気がした。女子と間違われたことはどうでもよかった。ただ、温かい気持ちになったのだ。その何かが醸成(じょうせい)され、上級生はファムファタールに、ニーナになったのだった。冷たい手、温かい何か。それがおれの初恋だった。

「……おい」

「……おい」

 声が聞こえる。
「おい」 
 誰だよ? 今ひたってんだよ。邪魔すんなよ。

「おい」

 ヤマピーさんが、おれの上で笑っていた。ずっしり重かった。「マジで気を失うやつっていんだね。何か感動したよ」

「え?」

「おめでとう」

「何がですか?」

「童貞、卒業したね」

「え?」

「うちもリベンジ成功」

「え、え、え?」

         27


「お待たせ」ジュンヤくんは言った。

 わたしの心臓は、やばいことになっていた。ジュンヤくんの股間もえらいことになっていた。攻撃する目的以外には考えられないくらい、何というか、カチンカチンの物質だった。

 するり、するり、と愛撫をされた。するり、するり、わたしは濡れた。何かずるい気がした。向こうは明らかに一枚上手で、わたしはそれを受けるしかなくて、それが何か悔しくて、「舐めようか?」と言っていた。「お願い」と言われ、口にくわえると、やっぱり硬くて、わたしの肉体にはこれほど硬いものは骨以外ないような気がして、男ってすげえなと思っているうちに、歯が当たってしまったようで、「いてえ」とジュンヤくんは言った。「ゴメン」と謝った。そうか、歯の方が硬いのか。

「優しく、優しく」ジュンヤくんは言う。

 この凶器のようなものを、優しく、しかも口のように繊細な部分で扱える女性ってすごいんだな、と思う。今度、機会があったらヤマピーに教えてもらおう。あいつ、いつも自慢してるからな。

 でも、そんな謙虚な気持ちは持続せず、「舌使って」とか、「吸って」とか、「もっと奥まで入れて」とか、何か命令ばっかりで、アゴも疲れてきて、飽きてきた。

 ジュンヤくんはそれを察したのか、わたしの口からそれを抜き、体勢を入れ替え、わたしの両足をがばっと持って、わたしのその、いわく言い難い部分の周辺を舐めはじめた。近づくのかと思ったら、遠ざかり、じらすように舐められ気づくと声が漏れていた。あれ、エーブイとか、だいぶ大げさに演技しているんじゃね、と思っていたけれど、自分の口から、本当に声が漏れて、びっくりして、びくんとなってしまって、ジュンヤくんは「あれ? いっちゃった?」と聞いてきた。どこに? と思ったが、「うん」と答えておくことにした。

 それはそれとして、この、女性器周辺部一帯を舐められるという感動を、どう伝えよう? とにかく、申し訳ないくらい気持ちいいのである。アイスクリームになったような気分なのだ。

「いれよっか?」とジュンヤくんは言った。

 え? もう? もう少し、そうしててくれないかな? とは思うものの、はしたないと思われるのも何だし、「うん」と答えていた。

「いくよ」
 どこに?

「……う」液体と固体の中間みたいな良い気分が、ふっ飛んだ。傷口を、そこをぐりぐり広げられているように痛かった。痛い。痛い。ただ、痛いのだった。ひええ、と言った。泣いていた。

「痛い?」ジュンヤくんが聞いてくる。

「うん」泣きながら言った。「でも、大丈夫」
  ……耐え、忍ぶ、耐え、忍ぶ、耐え、耐え、忍ぶ。昔の美徳みたいに、わたしは必死にこらえていた。声が漏れているが、これは歓喜の声じゃない。苦痛に呻吟(シンギン)しているのだった。ジュンヤくんは、ゆっくり動いてくれているのだろうが、それでも痛かった。申し訳ないけど痛かった。

「あの、質問ですが、これは、いつまで続くんでしょうか?」

「痛いか。そうだよね。あれ飲むと硬くはなるけど、いきにくくなるんだよな」

 ジュンヤくんの顔が何か変だった。よくよく見ると、こすってしまったか何かで、化粧がはがれてきているのだった。目の淵が黒くにじんでいる。一生懸命腰を振ってくれるのはわかるが、怖いし、痛いし、もう止めて欲しかった。本気で。

 空気を読むことに、大変長けたジュンヤくんは、わたしの中から男性器を抜き、わたしの横に寝て、わたしの胸部をまさぐりながら、それをものすごいスピードでしごきはじめた。はあはあはあはあ、息が漏れている。映画か何かで見た蒸気機関車みたいに加速度的に、ジュンヤくんは息を荒げている。何だろう。形の違うパズルを無理矢理はめたときのような、コンビニの、本来ジュース類が置いてあるべきところに生理用品が置いてあるような、時代を間違えて生まれてしまったような気まずさがあった。

 爆発寸前のエンジンみたいに、ジュンヤくんの呼吸は荒くなっていた。すさまじいということはわかる。それだけはわかるが、共感はできない。はあはあはあはあ、ジュンヤくんは息を荒げる。手入れの行き届いた長い髪を振り上げる。気持ちいいのか、それとも義務感なのか、使命感なのか、よくわからないけれど、何だか大変そうだった。

「唯、いくよ、唯、いくよ」とジュンヤくんは言った。どこに? ジュンヤくんは、急に立ち上がり、わたしの顔に向けて、白い液体を発射した。

 そのどろどろした生臭いものが目に入った。髪の毛についた。鼻についた。その間にも、じくじくじくじく膣内が痛んでいた。この痛みはいつまで続くのだろう。 

 それはそれとして、これはこれとして、地球はこの瞬間も回っているわけで、政治も経済も、道徳も宗教も、争いごとも睦みごとも、そりゃ色々あるのだろうが、今わたしが思うことは、こんなに不快なことはあるだろうか、というくらい気分が悪いということだった。

         29


 しゃらくせえと心が喚く。街道は甘ちゃんたちの群れを乗せ、液状化現象にもめげず耐えている。

 セックスをすると世界が変わって見えるとか言うけど、そんなことは決してなかった。ただ、だ。精神的余裕? そんなのはあるかもしれない。さっきまでの自分を軽く見下せる、この感覚。これこそが経験者だけが得られる経験値なのだ。うん……たぶん、そうだ……。どうしてだろう? 胸の奥がズキンと痛んだ。

 湿気で肌がべとべとする。海からの臭いがぼんやりとする。雨が降ってくるんだろうな、と思う。その予感は当たるような気がした。こういう風にスロットに負けることも、くっきりとした予感としてあったなら、こんなに負けが続くこともなかったのにな、と思う。

 水滴がぽつ、と頬に当たる。ぽつ、ぽつ、ぽつん、ぽつん、雨がざーざー落ちてきた。

「やっぱりね」

 予想が的中した嬉しさはまるでなかった。雨粒がヘルメットに当たる感触が、なぜか神経に障った。急いで帰ろうと思っても、原チャリが出せるスピードなんて知れている。ああ、そうだよ。おれの原チャリは全然速くないさ。

 びーん。

 駐輪場の29番に原チャリを置いた。おれの体は濡れていた。おれの原チャリも濡れていた。でも、ふたつ隣のカブはもっと濡れていた。ニーナは今、どこにいるんだろう? 


          27


 黄泉の国から戻ってきたみたいだ。

 ジュンヤくんに対する気持ちを筆頭にして、前世の記憶が蘇った人のようにわたしは覚めていた。覚醒といっても良かった。知恵の樹の実を食べたイヴの気分。イブA錠を前にした頭痛の気分。

 実際、もしかするともしかするのかもしれない。痛いだけだったセックスが、気持ち良く快いものに変質するのかもしれない。でも、おまえはダメだ。おまえだけは許すことができない。ウソをついてセックスをしたおまえだけは。おまえ? 違う。わたしだ。でも違う。ウソなんてついてない。わたしは、エッチがしたいと言っただけだ。

 週六で働け? いやだ。そんなのいやだ。もういらない、ブランド品も、ジュンヤくんもいらない。

 処女膜は破られた。今はもう、処女捨てなきゃ、という強迫観念はない。だって捨てた。処女は捨てた。それは捨てるべきものだから捨てたのだ。でも、わたしはそれを捨てたはずなのに、どうして同じような何かを抱きかかえているんだろう? いつの間に拾ったんだろう? それは処女という強迫観念よりも重く、そして単純ではなさそうだった。

 スマートフォンがぶーぶー鳴っている。ジュンヤくんだ。ずいぶんとひどい態度で帰ってきたからな。お金の当てが外れてあせってるのかもしれない。そのせいでジュンヤくんは殺されちゃうのかもしれない。でも、わたしによりかからないで欲しい、お願いだから。もう、さっきまでのわたしはいないのだから。あなたが解き放ったのだから。電話は取らない。もう取らない。無視してるなんて思わないで欲しい。無視なんかしてない。ちゃんと見てる。その上で、拒否してる。ジュンヤくんありがとう。おかげで気づきました。

 唯、愛してるよ。ジュンヤくんはそう言った。会うたびにそう言った。好きだった。愛していると言われて嬉しかった。だから自分も愛しているのだと思っていた。彼の店にも行った。というか通った。飲みたくもない酒を、自分が飲むわけでもない酒を注文した。喜ぶ顔が見たかったから。ジュンヤくんが言うから、店に行かなくなった。その分、お金を手渡した。感謝の言葉が欲しかったから。

 でも今は、愛なんか、言葉なんかいらない。温度が欲しい。今のわたしにはエネルギーが足りない。セックスってもっと温かいものだと思ってたのにな。お腹が減るだけだ。

 何か食べよう。


          29 


 シャワーを浴びて、髪を乾かして、リビングのいつもの席に座ったが、テレビをつけたりパソコンを開く気になれなかった。食欲もなかった。だから音楽をかけた。母がCDコンポに入れっぱなしの能天気な八十年代ポップスが流れだした。音量を調節しようとツマミに触れると27だった。29、27、29、おれはツマミを交互にくるくる回した。27、29、27、29、27、バカか? おれは。 

 びくん、とした。家の電話が鳴ったのだった。音量のツマミをゼロにして、電話に出た。

「もしもし」

「わたしだ」

「はい?」

「だから、わたしだ」

「母ちゃん?」

「バレたか。今、病院にいるんだけど」

「え?」

「ちょっと入院することになったから、家のことはよろしく」

「はあ?」

「とにかくそういうことだから」

「ちょっと待てよ。病院ってどこ? つうか、入院? 何の病気なの?」

「だから、わたしのチチがキトクなわけ。手紙読んでないの?」

「は? 意味わかんねえ」

「チチ、ガーン」

「は?」

「乳がん。まあ、手術するんだけど、まず治るって先生も言ってるし、おっぱいもなくなるわけじゃないって言うし、見舞いとか別にいいし、そういうことだから。じゃ」

「ちょっと待てって」

「大丈夫。保険ちゃんと下りるから。心配無用、じゃ」

 電話が切れた。は? ふざけんな、自分の命を何だと思ってるんだ? おれの母親だぞ? パソコンを起動させ、乳がんについて調べてみる。確かに初期なら治りやすいという。けれど乳がんは、肝臓などに転移しやすいともいう。西側諸国の女性の10%が人生のうちにかかり、また、患者の20%くらいが死ぬともある。ただし、日本人女性の羅患率は3~4%程度らしい。死亡率を30%とするサイトもある。何がなんだかよくわからないが、要するに母ちゃんは、20~30%の死の招待券を受け取ったということじゃないか? もちろん、それはただ数字の話だ。病状の段階によっても、患者の年齢によっても変わってくるんだろう。

 ただ、30%とは、スロットの世界ではアツイとされる確率であり、母ちゃんはその確率で死がヒットする病気にかかっているのだ。
 ……涙が出てきた。


          27


 食べても食べても腹は満たなかった。眠気も訪れそうになかった。家の人はみんな眠っていた。こんなとき、取れる選択肢はひとつしかない。

 外に出た。

 雨はもう、ほとんど降っていない。わたしはびしょびしょのカブのサドルをタオルで拭いて、ついでに、二つ隣に停まっている銀色のZXのサドルも拭いておいた。キックを蹴飛ばしエンジンをかけた。サドルに座るとじくじく痛んだ。何だかお腹も痛かった。いつもよりスピードを出した。といっても、どんなに頑張っても五十五キロしか出ないのだけど。

 到着。ベルを鳴らす。何度も鳴らす。ヤマピーは不機嫌な顔でドアを開ける。

「寝てたのに」とヤマピーは言った。「今何時よ?」

「いいだろ、どうせ予定ないんだから」

「予定の有無じゃなくて、生活のリズムが狂うだろ」

「うるせえ。おじゃまします」

 相変わらず汚い部屋だった。いつもは全然気にならないのに、なぜか気になった。

「で、どうした? セックス、できた?」ヤマピーは言った。

「うん」

「良かったじゃん。きもちかった? んなわけないか」

「痛かった」

「だろうね。まあ、すぐにきもちくなるよ」

「そんなもん?」

「うん。する人にもよるけど」

 わたしは冷蔵庫を開けて、缶チューハイを取った。

「もらうよ」

「唯、うちにも取って」

「はい」

 ぷしゅうと開けて、ぐびと飲んだ。飲まないとやってられなかった。どうしてやってられないか、その理由がさっぱりわからないところが、このやってられない感の最大の理由だった。

「それよかニック、唯のことが好きだってよ」

「うん」

「でもごめん。ニックとやっちゃった」

「は?」

「我慢できなくて」

「は?」
「ごめんね」
「マジで言ってんの? 信じらんない。は? 何、うちがつれてきた男に手出してんの? つうか、何なのおまえ。このクソヤリマンビッチが。殺すぞ?」

「あんたがニックのことほっぽって、男のとこにホイホイ行ったんじゃん。で、何? セックスまでしといて、ニックに鞍替えすんの? おまえだってヤリマンじゃんか」

 イタイイタイイタイ。お腹が痛い。言い返すことができない。

「つうかさ、唯、あんた、ニックのこと好きだったん」

「わかんないけど、何かむかつく……」

 一気にチューハイを飲み干して、冷蔵庫を開けた。

 何でわたしは唯一の幼なじみと喧嘩してるんだろう? 漏れ出る冷気を浴びながら、わたしは泣いた。

          27


 ヤマピーは、去年まで、わたしと(ニックと)同じマンションに住んでいた。

 彼女の両親は父親の浮気が原因で離婚して、母親はさっさと再婚し、ヤマピーは父親とふたりで暮らすのが嫌で、以来、父親に家賃光熱費と生活費を出してもらって、この1Kのアパートにひとりで住んでいる。

「なあ、ヤマピー、これから、つうか、人生、どうするよ?」

「ん?」

 ぐびぐびとチューハイを飲んだ。「よくわかんねえけど、何か、このままだとうち、やばいような気がする」

「たしかにキャバ嬢ってリミットあるね。二十後半できつい。だからその前に、キャバ→おっぱぶ→ヘルス→ソープって感じでこなして金貯めて、三十までに結婚か、でもなきゃ独立ってのが黄金ルートなんじゃね?」

「独立って何から独立? この支配からの?」
「卒業♪」ヤマピーは笑う。「いや、卒業はねえだろ。クラブとかじゃない? クラブのママ。他の水商売に比べてたぶん一番開店コストが安い。ただ、太客がいないとやってけないってのはあるよね。あるいは甲斐性ある人と結婚できちゃえばいいんだろうけど、そんな時代でもないし、あんた無愛想だもんねえ、口悪いし、花嫁的な素養も特技も何もないし」

「いや、あんたに言われたくないし」

「つうかさ」ヤマピーはポテトチップの袋をびりびり開けながら言う。「あんた、今のキャバでちゃんと働けてんの?」

「働けてない」うん。働けてない。チューハイを飲む。「指名とかもらったためしないし、営業メールとかもしたことない。ヘルプ専みたいなこともできないし。このままばっくれても、店から電話かかってこなそう」

 ぐびぐびとチューハイを飲む。

「悲しいことだけど、全世界的な傾向として、若い女性がさ、資格とか技術、何もないでだよ、一番時間効率よくお金を稼ぐ方法はやっぱり売春だって、偉いっぽい人が言ってたよ。身の安全を確保する担保がないと、死に直結する場合もあるけど、って」

「偉いっぽい人って誰?」

「うちが昔お水やってたときのお客さん。どっかの大学の教授かなんか」

「あんたがもう少し痩せてた頃のことね」

「うっせえし」

「つかありえないんだけど。効率? そいつの言ってることクソじゃん」

「でもさ、ソープで働いてる子に出会ったことがあって、その子は売れっ子で、九十分で一万八千円もらってるんだって。一日三人客を取ったら五万四千円。実質四時間半でだよ。基本的には奉仕するだけだからピンサロとかよりよっぽど楽って言うよ。あんた時給いくら?」

「三千円」

「八時間で二万四千円か。単純に比較はできないけど全然違うよね。まあソープの仕事は特殊技能でもあるからなあ。サービス精神が必要だろうし。不器用なあんたには向いてないかも。つうか、今のあんたがたとえばコンビニでバイトするとしたら、せいぜい時給千円くらいでしょ、今でも充分もらってるっちゃもらってんだよね。普通のバイトだと週三なんかじゃそもそも雇ってもらえないし」

 耳痛い、頭痛い。「あのさあ、うちじゃなくて、あんたの話をしてるんだけど」

「だからうちはいいんだって。親父の財産を食い潰す。大した財産もないけど、母親は母親でダンナつかまえてよろしくやってるし、浮気相手に逃げられた親父には、うちの他に遺産を残す相手もいないし。もちろんそのあとのことはわからないよ。でも、適当に死ぬっしょ。もう夜の世界も社会にも混じる気がしない。勉強もしたくねえし、人生がどうだとか、うちはもう考え飽きたんだよね。正直」

「クズだな、マジで」

「まあねえ」

「ヤマピー昔そこそこ勉強できたのに、もったいなくない?」

「何がもったいないの? うちは今の生活けっこう満足してんだけどな。時々彼氏がセックスをしに来て、それ以外はほぼ毎日あんたが来て、好きなときにお菓子食べて、好きなように寝て、起きて、テレビ見て。あんまり不満がないんだけど。つうか、唯、チューハイ取って」

 冷蔵庫から缶を取って、ヤマピーに手渡した。チューハイを飲み下しながら、わたしは言う。
「思うんだけど、今ここに、一億円とか二億円あって、好きなように使っていいよって誰かに言われても、悩みは消えないようんが気がする。つうか、その状況が考えられないっつうのもあるけど。でもたぶん、そういうことじゃないんだよ、何て言うのかな」

「中坊じゃねーんだから、もっと現実を見なさい」

「現実を生きてないヤマピーに言われたくないんだけど」

「世間で言われてる成功者とかって人は、まず第一に、やりたいことがあるんだよ。最初から。もしくは自然と見つけちゃうんだよ。見てる世界が違うっていうか。唯、あんたそういうのある?」

「……ない、かなあ」映画が好きなことは、ヤマピーにも言えなかった。

「でしょ? 信じれば夢は叶うとか、努力すれば道は開けるとか、たぶんそのとおりでさ、信じられない人とか、努力できない人はどうしようもないんだよね。結局は生まれた段階で、お金持ちであるか、容姿端麗であるか、もしくは何かしら特別な才能があるか、あるいは情熱があるか。それがない人間はどうにもならん。以上」

「実も蓋もないこと言うなよ」

「だってそうじゃん。あんたに何があるよ?」

「何もない」

「でしょ」

「でも、何かあるような気もする」

「何が?」

「わからないけど……」

「でも、何かあるような気がするなら、あるのかもね。うちにそんな感覚ないもん」

「ほんと?」

「別に褒めてないよ、ぜんぜん。あんたはお金持ちの娘じゃないし、美人じゃないし、何かの才能があるようには思えないし、うちには見えないってだけで」

「は? そこそこ可愛いし」

「化粧下手だし、髪ぼさぼさだし、プリンだし、胸ないし、ずっとジャージだし、変なメガネずっと使ってるし、きたねえスリッパ履いてるし、靴下穴開いてるし、どこが?」

「心」

「それ、どこ?」

 ぐびぐびと、チューハイを飲んだ。空になった。

「ニックが好きって言ってくれたもん」

 自分で言いながら、気持ち悪いやつだな、と思う。だいたいニックなんて、ずっと同じマンションに住んでいたとしても、はっきり認識したのは昨日のことなのだ。冷蔵庫を開けてみたが、ビールしか残ってなかった。

「ヤマピー、酒買いにいかね?」

「いいよ。てか出たり入ったりすんのめんどいから、飲み屋行こうぜ。腹減ったし。昨日親父からこづかい振り込まれたからおごったげるよ。ニックに手を出してごめんなさいっていうのも込めて」

「そんなん込められても許しませんけど」

「男の体なんて減るもんじゃねえって。あいつらの精子ってほぼ無限なんだぜ? シェアってやつでよくね? 共有財産みたいな感じで」

「よくない」


          27


 雨は止んでいた。

 街道沿いの、朝までやってる焼き鳥屋に入る。駅から大して近いわけでもないのに、飲酒運転が名実ともに禁止された世の中で、それでもこんな時間に客が入っているのはすごい。

 ヤマピーはビールを、わたしはウーロンハイを注文した。すぐに出てきたドリンクで乾杯した。すかさずヤマピーが料理を頼み出す。トリワサ、トリレバサシ、ナンコツカラアゲ、ツクネ(たれ)、ネギマ(塩)、牛串(塩)、豚串(塩)……。

「何か、久々にコンビニ以外の場所に入った気がする」ビールを勢いよく飲んで、ヤマピーが言った。

「それやばいって」

「ヒッキーにとってはあたりまえのことだけど?」

「あんた別に、外に出られないとかじゃないじゃん」

「どうでもいいけど生うめえ。そろそろ夏だなあ。やな季節だけど、てか大嫌いな季節だけど、ビールは夏が美味しい」

「ビールの美味しさがわかりません」わたしは言った。

「唯はお子様だかんな。そのうちわかるっしょ。つか今思ったんだけどさ、さっきの話の続き。成功者と、失敗者? そんな言葉ねーか、敗北者? そのせいで犯罪に走るやつとか、よく考えたら紙一重じゃね? 才能とか、容姿端麗とか、その根拠のない自信みたいのがもしなかったら、人間は勝負に出ないもん。つうことはさ、やっぱお金を持ってるってのが、一番安全ってことなんじゃないかな、とか思うんだけど」

「じゃあ、お金がない時点でダメってことじゃん」

「うん」

「話終わっちゃうじゃん」

「要は勘違いすんなってことよ。身の程を知れっていうか。つうかうち、そもそもアイドル目指してますみたいな女が一番嫌いじゃん。まあ男も女もそうだけど。何なのアイドルって? キモくね。ただのオナニーの対象のくせに」

「あんた大昔、エックス好きだったじゃん」

「好きだったよ。だってアイドルじゃねーもん。バンドじゃん。アーティストじゃん。つか母親の影響だし。何つうのかな、顔が整ってもいない、歌もうまくない、ダンスがすごいわけでもない、演技ができるわけでもない、体張ってもいない、何があるわけでもない人間がチヤホヤされるのが嫌なの」

「アイドルって普通そんなもんじゃない」わたしはなぜかアイドル側に立って反論していた。「逆に、何もないのにチヤホヤされるってすごくない? それは何かあるってことなんじゃないの?」

「知らね。そうかもね。すいませーん。生、お代わりくださーい。ほら、唯も食べな」

「うん」

「そういやさ、唯、あんたあのホストとどうすんの? 続けんの無理じゃない? いいかげん」

「そうなんだよね。うちの中では終わったっつうか」

「マジ? 何きっかけ? やっぱセックス?」

「それもそうだけど、週六で働いてくれとか言われて」

「はい、アウトー。やっぱそうか。それ彼女じゃないじゃん。最初から。ぶっちゃけさ、あんた貢いでたっしょ。バレてるからもう言いなって。だっていくら週三しか働いてないとはいっても、あんた金なさすぎだもん」

「……」

「で、何、もしかして、働くみたいなふりしてセックスを迫ったの? もしかして」

「……」

「マジかよ。最低だな。最低で、最高だな。超詐欺師。いいじゃん。やってやったじゃん。今まで散々貢いだんだから、そんなん気にすることないよ。それに、あんまりよくなかったんでしょ?」

「痛かった。でも、たぶん、前戯とかはうまかったと思う」

「まあ、そんなやついっぱいいるって、ニックを仕込めばいいんだよ。若いからすぐだよ、すぐ」

「ニックとはそういう感じじゃない」

「何? もっとピュアだって? キモッ。でも、すげえな。うちには無理だわそんなん。何、何、金、直接渡したりするの?」

「封筒には入れるよ?」

「フハ。そんなんどうでもいいわ。マジか。やっぱそういう人いるんだ。しかもこんな身近に」

「ヒいた?」

「ヒいた」

「やっぱヒくよね」

「ヒく。でも、目が覚めたんだからいいんじゃない。ん? ちょっと、やばい! 思いついた」

「何を?」

「金よりも大事なのあるじゃん」

「何?」

「愛は金では買えない」

「何、それ」

「低額だと買えないし、高額だとサめる。名言誕生じゃね? これ」

 上機嫌のヤマピーは、頼んだ料理を、ことごとく平らげた。次々とビールのジョッキを飲み干した。わたしはおごられる身分なので控えめに、ウーロンハイをうじうじ飲んだ。ヤマピーはいつになく饒舌だった。

「つうかマジで、恋愛ってすげえな。金よりも好きって気持ちのがでかいわけでしょ。だから稼いだ金をあげちゃうんだろうし。でも、あんまりにもその要求が大きくなると、さすがに無理ってなる。やってあげるのはいいけど、やれって言われるのは嫌っつうか」

「うん、たしかに。そんな感じかも」

「ニックが言ってたさ、アイス理論あるじゃん。あれホントかもね。うち別に可愛くもないし、デブだし、でも、男とふたりっきりになったらほぼほぼそういう関係になったよ。今まで。全員がうちのこと好きだったわけないじゃん。あんたの相手はさ、インポって言ってたけど、それが事実かもしれないけど、仕事だって割り切ってるから、あんたに手を出さなかったってのもあるんじゃないの? 仕事の最中にアイス食べるわけにはいかないっていうか」

「そうなのかも。なんか、変な薬みたいなの飲んでたし」

「……バイアグラ?」

「わかんないけど」

「別れて正解でしょ。別れてっていうか、向こうからしたらそもそもつきあってないんだろうし。もう会わないほうがいいよ。正解というか、ゴールがないもん、その関係には」

「うん」

「あとはニックとの問題だよね。でも、本当にセックスなんて気にしなくてよくね?」

「だから手を出したおまえが言うなって」わたしは言う。「またイライラしてきた」

「だからごめんて」

「うっせえ」

「てか、どうすんの」

「どうするって?」

「ニック、いいやつっぽいぞ」

「だから?」

「つきあってやれば。で、時々貸して」

「ふざけんな」


          27


 クーラーが寒すぎて、目が覚めてしまった。そうか。朝方まで飲んで、そのままヤマピーの部屋に泊まったのだった。

 クーラーを止めると、ヤマピーはむくりと起き上がり、暑いと言って、親を殺す勢いでクーラーのリモコンをわたしからぶんどって、最低温度に設定し、再び寝た。

 寝てられないのでテレビをつけてみたものの、特に見たいものもなく、音量を下げ、チャンネルをぱちぱち変えながら、CMだけを追いかけた。うううう、寒い。設定温度を少し上げ、ヤマピーが起きないように、徐々に温度を上げ、最終的にドライにした。それでも充分涼しくて、というか、寒くて、ヤマピーの服をはおった。テレビではCMが流れていた。

「お父さん、大好き」と、少女が父親らしき男性のもとに駆け寄った。父親は娘の姿をカメラで写す。「ねえ、撮って。もっと撮って、もっともっと」

 こんなものを見て、よし、カメラを買おう! と思う人間なんているのだろうか? でも、いるのか。いるであろうから、CMがあるのか。そうか。

 あの少女が年を取って、子どもができて、その子にあの写真を見せるだろうか? まあ、過剰な自意識の持ち主なら見せるかもしれない。でも、その子どもが子どもを生んで、自分の祖母の写真を我が子に見せるだろうか? その子どもは? そのまた子どもは? 子々孫々、その写真を残すのか? 

 残ればいいが、ものごとには大抵、期限がある。そう考えると、すべてのCMがホラー映画みたいに見えてくる。期限をあせる企業の悲痛なスクリーム、怨念めいて見えてくる。

 こんな寒い部屋で、納涼体験をしていてもしょうがないので、テレビを消して、ヤマピーを起こさないようにこっそり帰ることにした。

「昨日はごちそうさま」宅配ピザのチラシにマジックで書き、横にドラえもんの下手な絵を添えてコタツの上に置き、サンダルを履いて外に出た。

 もわっと暑かった。寒いだとか暑いだとか、感覚器が忙しい。どんより曇ってはいるが、雨は降っていない。ヘルメットをかぶり、カブにまたがり、エンジンをかけた。

 いつもより道が混んでいるように思えた。それでも五分くらいでマンションに着いた。ふたつ隣に、ニックの銀色のスクーターが停まっていることにホッとした。何でだろう?

          

          29


 朝になっても母ちゃんの携帯はつながらなかった。始業の時間を待って母ちゃんの職場に電話した。同僚の佐々木さんが、母のいる病院を教えてくれた。

「もし見舞い行くなら、よろしく言っといてよ。こっちは心配ないからって」
「ありがとうございます。失礼します」

 ……ああいう人と再婚してくれれば、こっちは楽なんだが。佐々木さんはずっと独身でいるのだろうか?

 大きなお世話だな、と思い直し、着替えて出発する。佐々木さんが教えてくれたのは、新浦安にある総合病院だった。受付で名前を言って待つ。しばらくすると名前を呼ばれ、ピンク色の白衣を着た看護士が案内してくれた。

 病室の中にはベッドが八つあったが、寝ているのは母ちゃんだけだった。じゃあごゆっくり、と言って看護士は部屋から出ていった。

「母ちゃん」と言った。

「来なくてよかったのに」開口一番母ちゃんは言った。

「そんわけにはいかないだろ」

「ごめんね」

「何あやまってんの?」

「ごめんね」

 母ちゃんは泣いていた。あの「ショーンシャンクの空に」を見ても泣かない母ちゃんが泣いているのだ。なぜ泣くのか、病状が重いのか、もうダメということか? 言いたことがこんがらがっていて、口を開こうとしても、しどろもどろ、あわわあわわと、そんな体で何も言えず、おれはただ戸惑うことしかできなかった。

「ごめんね」母ちゃんは言う。ごめんねなんて言うな、と思う。でも、言葉にならない。

「お願いがあるんだけど」

 お願い?

「わたしが死ぬ前に、お願いしたいことがあるの」

「死ぬって何だよ」声帯を握り締めるようにおれは言った。「死ぬなんて言うやつの言うことなんて聞かねえよ」「何だよマジで」「あ?」「ふざけんなよ」「何なんだよ」

 頭の中のこんがらがりが、一気に言葉になって溢れ出た。そのうちに看護士が来て、「ちょっと、ここ、病室ですよ」と怒られた。

「母は死ぬんですか?」と聞いた。

「はい?」

「母は死んでしまうんですか?」と聞いた。

「あらあら」と看護士は言った。見かけのわりにオバサンくさい口調だった。「そんなことはないですよ。お母さんの病状はそんなに重くありません。今、担当の先生を呼んできますからね。話を聞いてみてくださいね」

 母のベッドの隣にあった椅子に座り、待つことにした。気持ちが急いてしょうがなかった。母ちゃんはおよそいつもの母ちゃんらしくなく、天井をぼおっと眺めたまま、動かない。いったいどうしちまったんだ?

「お願いがあるんだよ」

「何?」

 そのとき、髪をジェルかワックスでツンツンと立て、オシャレメガネをかけた白衣姿の男性が病室に入ってきた。

「こんにちは」白衣姿の男性は朗らかな声で言った。「担当の森下です」

「こんにちは」おれは返す。

「息子さんですね」

「はい。あの、母の病状はどうなんですか。何か、すっかり弱気になってるみたいなんですけど」

「大丈夫だよ」と医師は言った。「ねえ、お母さん」

 母ちゃんはうすら笑いを浮かべるだけで、何も発さない。

「お母さん、普段は病気ひとつしなかったでしょう」

「はい」

「だから病気なんてなってしまった自分に、もしくは病院に入院しなければいけないというこの状況に抵抗があるんだと思うな。ねえ、お母さん、あなたの病状はそんなに重くありませんよ。まだ初期ですし、転移も見られませんし、手術すれば治りますから」

「……」母ちゃんは、やはり何も言わない。

「本当ですか?」おれは聞いた。

「本当です。お母さん、弱気になっているのも病気の症状のひとつです。だから悲観的に考えてしまう今のこの状況も、病気のせいだと認識してください。治ればすべてが好転します。気楽に行きましょう」

「だって。母ちゃん、良かったじゃん。大丈夫だって」

「うん……」

 元来、母ちゃんはびっくりするほど社交的な人間だった。パチ屋ですら仲間をつくってしまうくらいに。誰に対してもニコニコ接し、空気を読まずに声をかけ、テンションだけで意味不明の冗談を平気で口にし、その母ちゃんが、他人を相手にサービス精神を見せないのが不思議でならなかった。他人の前で弱音を吐いたり、弱気な顔を見せたり、そんなことは今まで決してなかったことで、どうすればいいのか、おれは本当にわからなかった。

 関係ない話を幾つかしたあとで、髪ツンツン先生と童顔看護士は部屋から去った。

「お願いがあるんだよ」母は言った。

「何?」

「驚かないで聞いてほしいんだけど」

「うん」

「けっこう衝撃的だよ」

「だから何?」

「本当に」

「おれが母ちゃんの子じゃないってくらい衝撃的?」

「うん。それくらい」

「は?」

「まあ、大したことないっちゃあ大したことないんだけど」

「だから何だよ」

「ほんと、驚かないで聞いてね」

「ああ」

「どっきりでした」

「は?」

「だから、どっきり。わたし、別に病気じゃないの」

「何言ってんの? もういいって、くだらないこと言わないで」

「おまえの父ちゃんを助けてあげてほしいの」

「は?」

 ……は?

「だから驚かないでって言ったでしょ」

「いや、何、父ちゃんって? 何、それ? 生きてんの?」

「うん」
「は?」
「だから生きてるんだって」

「何で今まで言わなかったの?」

「そりゃ言えないでしょう」

「何で?」

「まあ、色々と」

「何だよ?」

「色々あったのよ。あんたにそんなこと追及されたくない」

「何逆ギレしてんだよ? ちゃんと話せよ」

「ちょっと、落ち着きなさい」

「あんただよ」

「だから驚かないでって言ったでしょ」

「わかったから話せって」

「細かい話はいいじゃない。とにかく、あんたの父ちゃんは生きている」

「どこで?」

 母ちゃんは、答える代わりにため息をついた。ため息をつくと幸せが飛んでいくと、口を酸っぱくして言っていた母ちゃんのため息は、本当に目に見えない不幸が空中に拡散していくようで、腹が立った。仕返しにおれもため息をついた。マイナスとマイナスでプラスに、不幸と不幸で幸せにならないかなとか思いながら。

「ため息なんかつかないの」母ちゃんがいつもの母ちゃんのようにそう言った。

「そっちがついたんだろ」
「あのね、外に住んでるんだって」
「はあ?」

「ガード下に住んでるっていうから会ってきなさい」母ちゃんは、写真をおれに手渡した。

「誰?」

「その人があんたの父ちゃんだから」

「は?」

「しょうがないでしょ。もしわたしが死んだら、あの人だけがあんたの肉親なんだから」

 写真に写っている男は乞食然としており、というか、乞食以外の何者にも見えず、前を向いているのだが、どこを見ているのやら焦点が定まっておらず、およそ表情というものは窺(ウカガ)えず、地面に座っているのだが、座っているというよりも、地面から生えた植物みたいだった。枯れかけの。

「……おれの父ちゃんって死んでなくて、……で、ホームレス? 何で?」

「何でかは知らないよ。こっちも縁を切ってたんだから。乳がんってわかった日に大枚はたいて興信所に頼んだんだよ。そしたら浦安で路上生活してるって。そんな近いとこにいるなんてね、びっくりだよ、ほんと」

「ふざけんなよ。会いたくねーよ」

「ダメ。その写真の裏に、だいたいの出没場所と、寝床の住所が書いてあるから、参考にして」

「参考にしてじゃねーし」

「行きなさい」

「……」

「わたしがもし死んだら、でいいから」

「……」

「多恵さん、検温の時間ですよ」と、看護士が来る。

「……じゃあおれ、帰る。また来るよ」

「ごめんね」

「いいって。自分の体のことだけを考えろよ」

「そんな大人みたいなこと言って。いやねえ。わたしの腹から出てきたガキのくせにねえ。口ばっかり大きくなっちゃって。童貞のくせにねえ」

 母ちゃんは看護士に問いかけるように、わざと大きな声で言う。看護士は苦笑するしかない。

「童貞じゃねえし」

「ほんと? どこにそんな奇特な女性が? ああ、女性じゃないかもしれないわね、奇特な人間が? ああ、人間じゃないという可能性もあるわね。でも野生の動物は不衛生だからやめておきなさいね」

 芝居がかった母ちゃんの口ぶりに、ふふふと看護士が笑う。

「帰るわ」おれは言う。

「今度はおみやげ持ってくるのよ」

「はいはい」

「父ちゃんに会いに行くのよ」

「それは約束できない」

「どうして?」

「どうしても。じゃあね」

「バカ」

「はいはい」

「ヴァーカ」

「はいはい」

 どうして自分の母親にバカヴァカ言われなければいけないんだ、と思うが、とにかく母ちゃんが元気になってよかった。さ、帰るか。

 と、思ったが、念のためもう一度、先生のところに行ってみることした。タイミングがよかったのか、受付で聞いてみると、ツンツン先生の手は空いていて、すぐに部屋に通された。

「ああ。多恵さんの息子さん。どうしました?」

「あの、母の前では聞けなかったんですけど、ネットとかで調べると、乳がんって二割か三割の確率で死に到るって」

「あのね、統計っていうのはね、そりゃ事実の側面はあるかもしれないけれど、真実ではない。ひとりの人間の生き死には、生きるにしろ死ぬにしろ、100パーセントなんです。二割とか三割なんていうものはない。それでも、君のお母さんは助かります」

「どうしてですか?」

「僕が執刀するからです。もちろん、お母さんの体が今のままの状態ならば、という留保はつきますがね」

「手術はいつなんですか?」

「来週の火曜日です」

「その間に悪くなるって可能性はないんですか?」

「可能性はあります。でも、お母さんは強い人でしょう?」

「はい。でも、心配です」

「本当はね、こうやって助かりますとか、医者は言っちゃダメなんだよね。たぶん。何があるかなんて、ほんとわかんないんだから。でも、いたずらに不安を煽るのって、僕嫌いなんだ。どんなに安全な手術でも、100パーセントなんてありえない。それが統計というものであり、確率というものなんだ。蓋然性って言ってもいいかな。人生ってのはさ、何も見えない暗闇を、それでも何とか前に進んでいかなくてはいけないゲームみたいなものでね、そのゲームで起きるすべてのイベントは、ゲームマスターでも神でもなくて、全部偶然の産物なんだよね。暗闇だからさ、壁だろうが、落とし穴だろうが、宝箱だろうが、ワープゾーンであろうが、それが何であるか、誰もわからないわけで。事が起きてみて、はじめてその正体がわかるだけで。確定したことだけが観測できる。その観測を数字化したものを確率と言って、人生を進むときの目安にはなるけれど、結局向かう先は暗闇で、偶然でしかないのだから、松明(タイマツ)の役目は果たしてくれない。人間は神じゃない証明でもあるのかな。だから、僕を信じてくれとは言わない。でも、お母さんを信じることはできるでしょう? 何が確かだって、自分が今ここにいることほど確かなことは他になくて、その自分を生んでくれた、お母さんを信じることは」

 はい。おれは頭を下げた。「先生、お願いします」

「最善を尽くしますよ」


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 起きると夕方だった。寝たなあ。よく、寝た。汗ばんだ肌をシャワーで洗い流し、浴室の鏡に映る自分の顔を至近距離からマジマジと見た。
 目がやや腫れぼったいように思う。目の下の隈も気になる。唇はもっと厚くていいような気がする。鼻はわりとすらっとしているけれど、もう少し高くてもいい気がする。顔を見ているうちに鏡が湿気で滲んできて、シャワーを当てて、顔を見て、シャワーを当てて、とやっているうちに、バカらしくなってきてシャワーを止めた。

 髪を乾かしてリビングに戻ると、ちょうどご飯の時間だった。そのまま座ってご飯を食べる。トマトサラダと、おからの煮物と、唐揚げと、お味噌汁と、ご飯。唐揚げをつまんだ瞬間、ニックの顔を思い出した。あいつは泣いているわたしに唐揚げを渡してきたんだよな、と思うと、おかしかった。でも、笑うわけにはいかない。こんなタイミングで笑ったら、お母さんとお父さんに頭がおかしいと思われる。

 ご飯を食べ終えて部屋に戻り、ベッドの上に横になった。目を閉じたら眠れるような気がしたけれど、それはきっと気のせいで、何より食う即寝る、というのはお相撲さんの体重アップのための手段だと聞いおり、つまり、信頼と実績があるわけで、そんなの太るに決まっている。ぷにぷに腹周りをつまんで、ぞっとして飛び上がり、鏡を開いて顔を見た。さっきシャワーを浴びたのに、もう油っぽくなってる感じがした。もう一度洗顔をしに洗面台に向かう。前髪をゴムでまとめ、念入りに洗った後、化粧水を手にとって、肌になじませていく。もっとキメの細かい肌だとよかったのにな、と思う。乳液を塗る。何となく気分が乗ってきて、手を洗い、部屋に戻って鏡を開き、(ワンデイアキュビュー)ディファインを装着し、買うだけで満足して読んでなかった化粧マニュアル的な雑誌を参考に、美容液で顔をなじませ、これまた買ってから一度も使ってなかったシャネルの下地を塗っていく。化粧が下手だと言われるけれど、面倒なだけなんだ、と言いたい(信じたい)。ほら、念を入れれば、丁寧を心がければ、わたしだってそれなりにはなるんだ。マニュアルどおりにファンデーションを重ねる。ほら。よいお色。その上をパウダーで押さえる。ぽんぽん。うーん、眉毛の形が気になるなあ。抜いてしまえ。うーん。どんなもんだろう。不器用な手だなあ、まあいいか。大胆にいっちゃえ。できあがった眉毛をアイブローでコーティング、まあ、よし。アイラインを引きましょう。ぴーっと引く。……テンション上がってきた。ビューラーでマツゲを立たせ、マスカラで一本一本丁寧に塗ってく。おお、目が大きくなった感じがする。

 よし、とどめのチーク。にっこり笑う。とんとん。完璧。ふふふふふ。やべえ、この雑誌、すげえかも。服は何がいいかな、おお、これだ。買ってから使ってないの、こんなにあるじゃんか。これと、これ、あ、ついでにマニュキュアも塗ってしまえ、おまけにペデュキュアもつけちゃおう。くっせえ。換気しないと。

 ちょっと大きめの鏡を押入れから引っ張り出してきて、その前に立つ。前髪のゴムを外す。うわあ、髪の色、きっついなあ。根本の黒さが致命傷みたいに見える。ああ。帽子かぶりゃいっか。どっかにあったはず、一度もかぶってなかった夏っぽいパナマっぽいハット。どうだ?


 鏡の中に、気合の入ったわたしがいた。まるで別人みたいだ。せっかくだから、誰かに会わない手はないぞ、と思う。そうだ、ニックの家に行ってみよう。一番新しい香水を手首と首に振り、新品のパンプスを履いて外に出た。エレベーターに乗って、8、9階に到着。ピンポーンと鳴らす。

「はい」と言って、ニック登場。

「よ」気合入れて化粧してみたんだぞ、気づくか、このやろう、というのを込めた、よ、だった。

「こんばんは」とニックは言った。仕事上のつきあいみたいな口ぶりだった。ノリの悪い男だ。

「今、大丈夫? 上がってもいい?」

「いいですけど」

「おじゃまします」と言ってパンプスを脱いだ。「お母さんは? いないの?」

「そうなんですよ、しばらくひとりなんです」

「どうしたの?」

「ちょっと入院してて」

「大丈夫なの?」

「たぶん」

 リビングに通されて、座る。何だかニックの顔が浮かない。

「あんた、何か、うちに言うことあるんじゃない?」と言う。

「何の話ですか?」

「ふーん、白を切るつもりなんだ。で、アイスは美味かったの?」

「正直、わかんなかったです」

「うちも、したけどね」そう言って、わたしは胸を張った。何に対抗しているのかよくわからなかった。「てか、どうした?」

「いや」

「元気ねーじゃん。童貞捨てたんだろ? もっと喜ぶ感じじゃねーの」うちに気を遣ってんのか? 「つうかさ、あんた、うちのこと大切な人とか、大好きですとか言っといて、どうしてうちの友だちとそんなことしたん」

「すいません」

「いや、あやまられても困るけど、ちょっとひどくね」

「そうですよね」

「どうしたの? 辛気くさい顔して」

「色々ありまして」

「そんなんみんな色々あるよ」

「そうなのかな」

「よし。話してみ。聞くから。年上の先輩が聞いてやるから話してみろよ」言いながら、年上の先輩って何だよ、と思う。右に右折するか、オイ? 自分のテンションの高さが意味不明だった。

「いや、いいですよ。個人的なことだし」

「何だよそれ。言えよ」


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「……」言えよと言われても。

「じゃあ、わかった。うちも個人的な悩みを言う。うちが言ったらあんたも言う。どう?」

 何だか今日のニーナはやたら強引だ。いつもと顔の感じも違う。メガネじゃないし、服もジャージじゃない。スカートだし、何かアクセサリーとかつけてるし、帽子までかぶってる。香りも違う。それにバカみたいに明るい。セックスしたから? 

「悩みなんてさ」ニーナは続ける。「口に出した瞬間、その悩み成分の何割かは空気に溶けるもんなんだよ。自分の中に溜めて絶対化するんじゃなくて、外に出して相対化するんだって。そんなことを誰かが言ってたよ。いいから、うちが言ったら言いなよ」

「嫌ですよ」

「何で?」

「だって、本当に個人的なことだし、自分でもその悩みのオオモトが何なのか、わからないんです」

「だから言うんじゃんか。バカ……」

 ニーナはなぜか、言葉につまった。

「どうしたんですか?」

「よくわかんないけど、おまえ見てると苦しくなってくる」

「そういえば、こないだのことは解決したんですか?」

「何、こないだって?」

「カブの上で泣いてましたよね」

「クハッ、あんたに唐揚げ弁当渡されたとき? ハハ。ほぼ、ね」

「問題って、どうやったら解決できるんですかね」

「だから言うんだって。口に出すの。そしたら言霊が出てきて具現化されるでしょ。ボワンって。具現化できたら解決方法が見つかりやすいでしょ」

「意味わかんないです、つかニーナさん、麦茶飲みます?」

「うん。ちょうだい」

 こぽこぽ、こぽこぽ、麦茶がグラスに吸い込まれる。

「どうぞ」

「ありがとう」

 ごくごくとニーナが麦茶を飲む。おれも麦茶を飲む。

「あの、ニーナさん、」

「あのさ、話の腰を折るようでなんだけど、ニーナっていう語感にさん合わないからニーナにしてくんない? ニックくんって変でしょ? つか、別にタメ語でいいし」

「うん。わかった。っていきなりは無理ですよ。さんは取りますけど。ええと、何だっけ。ニーナの個人的な悩みって、どういうものなんですか」

「よしよし。やっと食いついてきたね。まあ悩みっていうか、解決しつつあるんだけど」

「じゃあ悩みじゃないじゃないですか」

「でも、ちょっと前までずっと悩んでたもん」

「そのちょっと前ってときは、人に相談したんですか?」

「できなかった」

「おれと一緒じゃないですか」

「だから、言った方が楽だったなあって。あのね、経験者としてうちは言ってるわけ。いい?」

「はあ」

「とにかく、まあ、何だ。彼氏と、別れることにした」

「どうしてですか?」

「それも言わなくちゃダメなの?」

「言いたくないなら言わなくていいですけど」

「愛が冷めた、以上。さ、うち言ったよ、あんたの番」

「母ちゃんが、乳がんで入院しているんです」

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「……もしかして重い話?」

「いや、母ちゃんの病気はまず治るって先生が言ってたんですけど、昨日、おれには父がいないって言ったじゃないですか」

「うん」

「おれの父ちゃん、生きてるらしいんです」

「生きてるってどこで?」

「よくわかんないんですけど、路上で……」

 ……うーん、気軽に聞いて、悪かったか。

 でも、聞いたからには責任があるよね。麦茶を飲んで(こいつんちの麦茶は妙にうまいんだよな)、心を落ち着かせて、そして言った。「そんなんおまえ、職業差別はダメだって」

「職業じゃないですよね、ホームレスって」ニックは表情を変えずに言う。

「何か理由があるかもしれないじゃん。人を殺したって、理由いかんによっては無実になることもあるんだし、その現象だけで、何かを決めつけるのはよくないって」

「ニーナさんは寛容なんですね」
「さん」
「すいません。つか、父親って何なんですかね」

「諸悪の根源?」

「……諸悪の根源に会いたいと思わないんですけど」
「でもヤマピーにとっては財布らしいし、会ってみないことにはわかんなくね?」

「急にそんなやつがいるって言われても、母親にわたしが死んだらお願いとか言われても、どうしたらいいかわかんなくて。その話を聞いてから、ずっとそのことばっか考えちゃって」

「よし、うちがついてってやる。会いに行こう」

「いいっすよ」ニックは首を横に振った。「会ってもしょうがない」

「行こうぜ。もしかしたら何かわかるかもしれないじゃん」

「わかったところでおれどうすりゃいいんですか。そんな父親……」

「ちげーって、そうやってウダウタ考えないために会いにいくんだって。でさ、その親父がクソヤローだったらもう会わなきゃいいだけの話で」

 自分のことだとウダウダしてるくせに、人のことだとずばずば言えるんだな、わたしは……。


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 確かに、どうしておれはこんなにもウダウダ考えてしまってるんだろう? ニーナのことが好きだということは、歴史の教科書に載せてもいいくらい確かなことなのに、そのニーナが目の前にいるというのに、おれはどうして今まで見たこともない父親なんかのことを考えているんだろう? ヤマピーさんとのことで後ろめたさがあるからか? それはあるかもしれない。でも、不可解だった。

「この手の傷、何?」ニーナがおれの手を掴んで言った。
「ああ、これは中学んときにみんなで根性焼きって」
「お酒の一気とかもそうだけど、人間が自分のことを傷つけようとするときは、大抵、他人に認めてほしいから、らしいよ」
「どういうことですか?」
「わかんない。何かの本で読んだ」
「ニーナさん、そういうの多くないですか?」
「さん」
「ニーナそういうの多くないですか?」
「そういうのって?」
「誰か、とか、何か、とかあいまいな感じで濁すことが」
「何かうち、あれなんだよね。本読むの大好きなんだけど、覚えらんないんだよね。部分的にしか覚えられないというか。だから誰の本? とか言われてもわかんないの。どこかで読んだのは覚えてるんだけど」
「何か可愛いっすね」
「は?」
「うん。可愛い」
「とにかく」ニーナは怒ったような声で言う。「考えてもしょうがないことを考えてもしょうがなくない?」

「そう、なんですけど」

「それでも考えてしまう。それは、そのことがあんたにとって避けては通れないことだからでしょ」

「考えたくないんですよね、正直」

「だから余計なことを考えないために、現実を直視しに行くんだよ」
「……」  

「どうすんだよ。行くの? 行かないの?」

「行きます」
 
          27
 

「ニック、この帽子、あんたのメットインに入れてくんない?」

「いっすよ」 

 ヘルメットをかぶり、わたしたちは駐輪場番号27と29から出発した。

「浦安駅だっけ?」

「はい」とニックが返す。

 夜の甘やかな香りを鼻から吸い込んだ。雨は降っていない。梅雨ももう終わりかな。カーディーラー、ファミリーレストラン、コンビニエンスストア、ツタヤ、ラーメン屋、面白みのある風景ではない。目を閉じると、たちまちどこに何があるか忘れるくらい特色のない、日本全国どこにでもありそうな街並み。

 眼前にはおじいちゃんが運転するトヨタのセダンが、制限速度以下のスピードでノロノロ走っている。だけど別にかまわない。わたしたちは別に急いでない。痺れを切らした何台かの車が、対向車線に乗り出してわたしたちを抜き去り、おじいちゃんのセダンを抜こうとして、対向車線の車が視界に入ったのか、あわてて元の車線に戻ってきた。どうして男ってバカなんだろう? こんなところで1台抜いたって何がどうなるわけでもないのに。
 赤信号でとまった。 

「もしかしてさ」と言ってみる。「緊張してる?」

「わかんないです」

「うち、ちょっとドキドキしてきた」

「どうしてですか?」

「だってさ、何かワクワクするじゃん。初対面なんでしょ。そこから親子の友情が芽生えて、息子よ、父よ、うわーって」

「ないない」

 信号が変わる。アクセルを回す、ギアチェンジをする。ガコン。ガコン。わたしは目一杯アクセルを開ける。が、それでもニックの原付のほうが速い。ニックの原付は常にわたしのカブの右前方にいた。何だよ。でも、こっちの方が燃費はいいんだから。……変なところで張り合いたいわたしは、車を抜かしたい男たちと大差ないのかも。

         29


 しゃらくせえと心が喚く。
 浦安の駅前は、束の間の休息を取る人たちで賑わっていた。ニーナとおれは、駅前から少し外れたコンビニの前に原付を停め、店内に入った。ニーナがファッション雑誌を読んでいるうちに、ペットボトルの緑茶を買い、外に出た。緑茶をごくごくと飲む。少し間を空けてニーナが出てくる。「一口ちょーだい」

「どうぞ」

 ニーナはゴクンと緑茶を飲んで言った。「さ、捜索開始」
 数分歩き、写真の裏に書いてあった住所に到着した。同時に、拍子抜けするほどあっさりと、尋ね人の捜索は終わった。写真とまったく同じ場所に、ひとりの男性が座っていた。写真の人だ。思っていたよりも冷静に、おれはその事実を呑み込むことができた。ただ、男性は写真よりもさらに老けて見えた。より頬はこけ、眼窩は窪み、顔は黒ずんで表情が窺えない。おれの父親らしき人物は、賑やかさから一本外れた道で、賑やかさとは無縁の生活を送っているらしかった。

「ほら、行けよ」ニーナはそう言って、おれの腕をつつく。

 ふう。意を決し、老人に近づき、「すいません」と言った。

「……」老人は答えなかった。

「すいません」

「……」

「すいません」

「……」老人は口を動かしていた。何かを言っているのかもしれないが、何を言っているか、まったくわからなかった。ひゅうひゅうと、気体が動く音だけが聞こえていた。

 写真の裏に書いてあるところによると、彼の名前は久とある。

「久さん、ですよね」おれは言う。

「……」

「久さんですよね」

「……」

「久さんですよね」

「……」

 何を言っているか、ほとんど聞き取れなかったが、辛うじて、名を名乗れ、というような感じが伝わって、「ガクです。田所学です」と言った。「僕はあなたの息子です」

「息子?」老人は言った。しわがれていたが、明瞭な発音だった。
「はい。母が今、病気で入院してるんです。それで、母にあなたのことを頼まれて」

「何の話をしているのか知らないが」老人はそう言って、おれの顔をにらむように見据えた。「少年、おれはここで結界を張っている。おれがここをどくと、あらゆる種類の不吉の門が開いて、魑魅魍魎が入ってくる。だからすまないが、出すものを出して、早く消えてくれないか」

「出すもの?」

「金か、それとも食いもんか。早くしろ。時間がない」

「ふざけんなよ。てめえ、それが息子に言うことか」ニーナが怒鳴った。

「君は彼の彼女か? それなら一発やらしてくれ。すぐ済むから」
「は? 何言ってんだジジイ」ニーナは言った。
「ちょっとだけだから。いいだろ?」

 ニーナは躊躇(チュウチョ)なく、路上生活者を蹴飛ばした。「ふざけんなよ、てめー、殺すぞ」

「危ない。結界が解けるところだぞ。君はこの世界を滅ぼすつもりか? おい、息子、この凶悪なる娘をどこかへ隠してくれ。危険すぎる」

「あのなあ……」なおもニーナが詰め寄ろうとすると、男性警察官と女性警察官が駆け寄ってきた。「どうしたの? 揉めてるの?」

「おまわりさん」と老人は言った。「この者たちが、このチンケな乞食をイジメるですよ、イジメるです。いったい、どうなっているですか、この国は。おもらいも許されない世の中なのですか、どうなんですか」

「イジメるって?」女性警察官はふたりを見て言った。

「いや、イジメてなんてないです」おれはため息まじりに言った。

 男性警察官が口を開く。「どうなんですかって言われてもねえ。もういいから、君たちは帰りなさい」

「あの、僕の父親なんです」おれは言った。「こういうとき、どうすればいいですか?」

「うーん」と言って、困ったように男性警察官はアゴのあたりを押さえた。「警察官はね、そういう家庭内の問題みたいなことに首をつっこんじゃ駄目なんだよね。決まりなんだ。だからね、そういうことは別のところで相談してもらわないといけないんだよ。市役所とかね。それに、というかその前に、彼は自分の意思でここにいるんでしょ。そういうのは難しいよね」

「とにかく」女性警察官は言った。「揉めてるわけじゃないのね?」

「はい」

「そんなご無体な」
 親父の戯れ言は軽く流され、無線らしきもので警察官ふたりは誰かとやりとりをはじめた。

「それでは、我々はこれで」そう言って、警察官ふたりは消えていった。

「ったく、警察ってのも、あてになんねえやつらだな」

「何言ってんだ」おれはもう我慢できなかった。「てめー、何がチンケな乞食だ。ふざけんなよ」

「おまえ、口悪いな。今時のガキはしょうがねえなあ。親のしつけがなってないんだな」

「おめーだろ」

「わかったわかった。話だけは聞いてやるから、だから頼むから、ビールを一本、いや、三本、買ってくれないか」
「はあ?」

          27 

 

 ジジイは指示だけすると、コンビニには入らず、外でシケモクをふかしている。ビールを三本、するめとポテトチップ、ビーフジャーキー、おまけにトリスウイスキーの小瓶一本をニックは買わされた。こんなジジイが自分の父親じゃなくてよかった、と心から思った。てか、ニックの名前ってガク(学)って言うんだな。知らなかった。

「公園でも行こうぜ」というニックの親父の提案に、わたしたちは歩いて公園に向かった。「ここ、ここ」老人は小さな子が新しい発見をしたみたいに無邪気な声で言った。

「おまえらそこのベンチに座れよ。おれは地べたでいいからさ」

 ひったくるように、ニックからコンビニ袋を受け取ると、老人は神に祈りを捧げるような格好でビールを飲み始めた。たちまち一本が空いた。

「ぷはあ。染みる染みる」老人は次のビールに手をかける。

「あのさあ」わたしは言った。「こんな画に描いたようなろくでなしっているんだな。何か言うに言われぬ、止むに止まれぬ事情があってさ、今は堕している、堕してはいるが、志は持っている、そんなイメージがあったよ。ホームレスって。ラストサムライみたいな。マジ買いかぶりだった。十七歳の息子にビールをねだるとかありえなくねえ?」

「まあまあ」と老人は言う。

「おめーの話してんだよ」

「あの、久さんで合ってるんですよね」ニックが言った。

「名前? 忘れた」

「忘れるわけないだろ。そのビール返してもらうぞ」

「やだ」と老人は言う。「てか金払ったのおまえじゃないじゃん。息子じゃん」
「母が」ニックが真剣な表情で言った。「母が乳がんで入院しているんです」

「……」

「母のことも忘れましたか?」

「……」

「おれのことは?」

「……だから、何も覚えてないんだって」

「そうですか」

「もうムカつくからボコッちゃおうぜ、こいつ。つうかあんたよく、今までホームレス狩りとか合わなかったね」

「何度かあったことあるよ」有名人に会ったことあるよ、みたいな言い方で老人は言った。

「大丈夫だったの?」

「楽勝だよ。一番ピンチだったときはうんこもらしてそいつらに投げつけたね。即、撃退」

「マジで気持ち悪い」

「あの」ニックは言う。「おれが最初に話しかけたとき、ブツブツ言ってたのは演技なんですか?」

「あんな風にしとけば気味悪がってたいていのやつはそれ以上喋りかけてこねえからな」

「あの場所で結界張ってるってのは?」

「なわけねーだろ。バカか、おめー」

「そうですか。世界が滅びなくてよかったです。ニーナ、行こう」ニックはそう言って、立ち上がった。

「ちょっと待てよ。もう少しだけ、もう少しだけ話そうぜ」

「何を?」ニックは語気を強めた。「何を話すって言うんだよ」

「世間話とか、あるだろ」

「あんたの世間って何?」

「この素晴らしき世界だろ」

「自分の名前を忘れた、奥さんのことも忘れた。息子も忘れた。で、この素晴らしき世界?」ニックは明らかに苛立っていた。

「すまない。申し訳ない。ごめんなさい。そんな風にあやまって、じゃあおまえは許してくれんのか? 許せるのか? 許せねえだろ? おれに記憶があったとしても、なかったとしても、過ぎちまった時間は取り戻せねえんだよ。謝罪が欲しいなら言えよ。いくらでも謝ってやるから」

「謝罪なんていらねえ。もういい。あんたと会うことは一生ない。勝手にどっかでのたれ死ね」

「待てって」ホームレスは言う。

「何で?」

「ヒマなんだよ」

「もういいって」

「だから待てって。おれはその、ややこしいのは抜きにして、純粋に世間話がしたいんだ。ダメか?」

「何の話をするって言うんだよ」

 老人は缶ビールを一気に飲み干した。「田所ってのはな、おまえの母ちゃんの名字でもあるが、おれの名字でもあるんだよ。どっちかの名字ってわけじゃないんだ。おまえの母ちゃん、多恵ってのは、今もたぶんそうだろうが、なかなかすげえ女だろ」老人は缶を握りつぶし、新しいビールを開けた。「おれらはハトコだった」老人は最後の缶ビールを、慈しむように見つめ、そして口に運んだ。「おまえが生まれたのもその頃で、こっちに引っ越すことに決めたのもあいつだった。ああ、ビール、なくなっちまった」

「うちが買ってきてやるよ。おまえらは話を続けてな」そう言ってわたしは立ち上がった。

         27


 スマホが震えていた。少し迷った後で取ることにした。
「もしもし」
「唯? 今どこ?」ジュンヤくんは言った。
「……」
「どした?」
「ごめんなさい。あなたとはもう会えません」
「は? 何言ってんの? 何があった? 男でもできた?」
「ううん」わたしは首を横に振る。
「どした?」
「どうして男女関係にお金が必要なの?」
「そんなの必要ないよ」ジュンヤくんは優しい声で言った。「唯に会いたい。今から会えない?」
「ううん。もう会わない。もうウソは嫌なの。ごめんさい」
 電話の向こうで舌打ちが聞こえた。わたしはそのままスマホの電源を切った。
 ジュンヤくんのことを嫌いになったわけじゃない。ジュンヤくんを求めてしまう自分が嫌い。セックスが痛かったというよりも、自分がついたウソの方が痛い。肉体の痛みは消えても、その痛みは消えないで残る。 

 ここ数日で思ったことがある。やっぱり、素直が一番いいということ。素直になれる自分でいたいということ。

 わたしは明らかにニックに肩入れをしている。間違いなくそう。弟のように感じているのだろうか? それもある。でも、それだけではないような感じがする。それはたぶん、ニックが素直な人間だからだ。

 でも、素直と素直がぶつかったらどうなるんだろう? 素直とはまっすぐな本音のことであり、人間の一番本質的な部分だ。そこが対立したら、どうなるのだろう? 

「我が神が絶対なり」
「否。我が神こそ絶対なり」

 そっか。うじうじとかウダウダとかウソは、戦争や対立を回避する方便なのかもしれない。なら、わたしの不快感は、戦争の要因でもあるのか。うーん。

 コンビニで第三のビールを数本買って戻ると、ふたりは喧嘩をしていた。おいおいおい、何やってんだよ? あたふたしながら、駆け寄った。

 

          29


「あんた、きたねーんだよ。くせーし」とおれは言った。

「それも戦略のひとつだろ」親父は言う。

「何だ、相撲かよ」とニーナは言った。「仲良いな、おい。ほら酒だよ。クソジジイ」

「かたじけねえ」

「つか、あんたさあ、こいつの父親ってわりには老けすぎてねえか? 何歳なの、いったい?」

「忘れた」

「母ちゃんと何歳差なの?」と聞いてみる。

「二十くらい離れてた気がする」

「マジでクソジジイじゃねえか」ニーナは言った。「路上生活始めて何年になんの?」

「おまえは何歳になるんだ?」

「十七歳」と答える。

「じゃあ十六周年だな」

「その間一切仕事してねえの?」ニーナが聞く。

「うん」

「マジで? どうやって生活すんの?」

「そんなん言わせんなよ。恥ずかしい」
「……恥なんてあんのかよ?」
「あるっちゃある。ないっちゃない」

「あのさあ」おれは言った。「小学校だかで習うじゃん。『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』みたいな憲法。ホームレスだって申請すれば国が保護してくれるんじゃないの?」

「やだよ、そんなん、めんどくせえ。だいたい権利を主張するやつに限って義務や責任は負わないだろ。おれはそういうの嫌いなんだ」

「えらいじゃんジジイ」ニーナは言う。

「だろ」

「だろ、じゃねえ」おれは言う。「なあ、何を考えて、何を思って、ずっと地べたに座ってんだ?」

「別に何も考えてない。あのなあ、おまえら十代が思ってるほど時間って長くないんだぞ。気づくと一日が終わり、気づくと一日が始まってる。延々その繰り返しだ。そもそも一日とか一週間とか一ヶ月みたいな区切りがおれにはない。あるのは季節感くらいだな」

「それ楽しいの?」そう聞いた。

「楽しいって何だ?」

「きもちいいとか、うれしいとか、感情が溢れるっていうか」

「性器いじればきもちいい。酒を飲めればハッピー。感情なんてそんなもんだろ」

「……」

「あのなあ、ホームレスとかって一括りにしてるけど、おれらの世界はおれらの世界で、おまえらの想像以上に健全で文化的で、必然と歴史に彩られた奥行きがあるんだぞ。一緒くたにすんな」

「どういうこと?」

「色んなやつがいるってこと。第一に、おれは狩猟採集タイプの路上生活者で、つまりは狩人(ハンター)だ。当然、個人主義だ」何かしらのプロが、自分の仕事を誇るみたいな言い方で父親は言った。

「何、それ?」頭おかしいのか?

「路上で寝起きしてる人間には、いくつか類型的なタイプがある。この国の場合、ここまで堕ちるには、社会のふるいから落ちて、家庭のふるいからも落ちなきゃいけない。それは実際簡単なことじゃない。いや、簡単すぎるがゆえに難しいっていう感じかな。だって親の力を借りようと思えば何とかなる。国の力を借りようと思えば何とかなる。民間団体の力を借りようと思えば何とかなる。それともなければ、自殺するか。そのどれをも、あえて選ばないんだぞ」

 父親は、ニーナが買ってきてくれたビールを飲み干して、新しい缶を開けた。

「てなわけで、まず、ふたつのグループに別れるわけだ。積極的に自ら進んでこの世界に堕ちてきたやつと、どうしようもなくて堕ちてくるやつ。九割九分後者だな。前者、おれみたいなエリートはほとんどいない。このあたりは社会と一緒だろうな。そこで非エリートが取る手段も、社会と同じだ。授業で習ったかどうかは知らんが、乞食のなわばりのことを、古くは乞庭(コッパ)と呼んだ。あがりを安定させるためになわばりを決める、場合によっては徒党を組む。リスクヘッジってやつだ。平安の昔からそうなんだ。それから、モラルや風習、法律を無視できるかどうか、犯罪に手を染められるかどうかで、また変わってくる」

 自称エリートは、あっという間にビールを飲み干して、新しい缶を開ける。買ってやったツマミには全然手をつけない。体に悪そうな飲み方だった。

「もちろん、人間社会に溶け込めないくらいだから、路上生活者に身をやつしたって徒党を組めないやつがほとんどだ。といって犯罪も犯せない。むしろそういうやつらが主流だろうな。図式にしてみれば、小数のエリート、徒党を組む非エリート、徒党を組めない食い詰め者。そんなピラミッド」

「自分でエリートとか言ってて恥ずかしくないの?」我慢できずにおれは言った。

「自分で言わなきゃ誰も言わない。恥ずかしくもなんともない」

「まあいいや」おれはあきらめて首を振った。「で、そのエリートは何を目指してるの?」

「そりゃ、のたれ死にだろ」自称エリートは胸を張った。「男の理想、完成形。いやあ、今日は酔ったなあ。おれはそろそろ寝るから、おまえらも、ヒマだったらまた遊びに来いよ。じゃあな」

「おいおい、すげー自分勝手なおっさんだな」そう言ってニーナは苦笑した。

 父親はただのバカだった。母にそう伝えようと思う。

          27


 時間は深夜0時を回っていた。通行人のほとんどいない道を、わたしたちは原付のあるコンビニに向かって歩いている。

「何つうか、色々あったね」わたしが言うと、ニックは申し訳なさそうに、すいませんと言った。

「ちげーって。何ていうか、色々、思うところがあったっていうか」

「ニーナ、あの」

「ん?」

「あざっす」

「いいって。つか、何か、あんたの親父のあのあっけらかんとした感じ、ちょっとうらやましいとか思ったし」

「どこかですか?」

「よくわかんないけど、明るいっていうか。自殺したりしそうにないじゃん。女の子を襲う可能性はあるかもしんないけど」

「バカですよ。単なる。完全なる。だって、夢がのたれ死にですよ」

「でも、何か、自由よね」

「自由の代償デカすぎませんか? 狩人(ハンター)とか、バカですよ。マジで」

「まあ、楽しかったよ。さ、帰るべ。あ、ニック、帽子、メットイン入れてくれる?」

「はい」
「ありがとう」  
 カブちゃんにキーを挿し、キックを蹴り下げる。ぶおおおん、と控えめな音でエンジンが動き出す。ホームに向けて、走り出す。
 つか、腹減ったな。色々あったからかな。念入りに化粧したり、初めての服を着たり、人を捜したり、警官にからまれたり、公園に行ったり、ニックの親父にビール買ってあげたり。ああ、腹減った。ファミレスかコンビニ寄ってくか? でも、こないだも夜中にやきとり食べちまったんだよな。ここは我慢か。うーん、でも、何か食べたいなあ。このままだとヤマピー化すんぞ? うーん。


          29
 

 フロントライトがゆらゆら揺れめき、街道の姿を照らし出す。一車線、時々二車線。ところどころ震災の爪痕が残っているが、走行に問題はない。

 カブのグリップを握るニーナの後姿を視界に入れながら、これからのことを考える。勉強して、大検を取得。四年生の大学に行く。就活をして、就職。結婚。東京郊外に、分譲マンションをローンで購入。子どもは二人。笑いの絶えない家庭。
 ……全然ピンとこなかった。おれはエリートだ、と父親は言った。バカじゃないか、と思った。だけど、おれは父親みたいに、言い切れる何かが存在しない。高校中退。何のとりえもない。大学はおろか、大検に受かる自信すらない。
 いや、違う。おれには、ニーナのことが好きな気持ちがある。そうだ。
 赤信号でとまった瞬間、おれは言った。
「ニーナ、結婚しましょう」
「は? おまえ、まだ十七歳だろ」ニーナはにべもなく言う。
「それもそうですね」
「……え?」
「え?」
「いや、もう少し粘れよ」ニーナは笑う。
 信号が変わり、アクセルを回す。ニーナのカブに合わせ、少し抑え目に。

          27

 ラーメン屋、ツタヤ、コンビニエンスストア、ファミリーレストラン、カーディーラー。面白みのある景色では全然ない。日本のどこにでもありそうな街並み。工業地帯。時々磯臭い。わたしたちの地元。
 生まれた場所は変えられない。もらった名前も性別も、趣味も、嗜好も、いきなりは変えられない。でも、変わらないこともない。わたしの名前は唯。時々ニーナ。
 ニーナ。今まで呼ばれた三人称の中で、一番イケてる感じがする。イケてるというか、遠くまで行けそうというか、どこまでも行けそうだった。
 ニックになら、わたしの素を見せられるような気がする。嫌な部分も、脆い部分も、役者になりたいということだって口にできるかもしれない。わたしの好きな映画を一緒に見て、好きだと言ってくれたらいいな、と思う。でも、好みが合わなかったらどうしよう。それだとちょっとしんどい。でも、好みを押し付けるのも悪い気がする。うーん、お腹が空いた。

          29

 父親がいるということが、いまいちピンと来ない。だけど思ったよりも、悪い気持ちじゃない。たぶんニーナがいてくれたからだ。おれ一人で父親と対面したら、しんどかったと思う。
 駐輪場29番。ニック。おれ一人では、ニとクの間にある小さなッを発見できなかった。このたくさんの借りを、どうしたら返せるだろう?


          27

 わたしの前に道がある。わたしの後ろにも道がある。誰かの敷いてくれた道だ。横にはニックの横顔。王子様という感じでは全然なく、むしろバカ面というのがピンと来るけれど。いや、違うよ? この場合のバカ面は、たぶん、褒め言葉だ。けなしてるわけじゃない。わたしは誰に弁明してるんだろう? 神様?

          29

 数十キロのスピードで背景が変化していく。今現在、おれは17歳。ニーナは19歳。ニーナが29歳になると、おれは27歳。ニーナはニックに。ニックはニーナに。それまでに、おれは大人になれているだろうか? そもそも生きているだろうか? 生きてるにしろ、死んでるにしろ、ニーナを好きだった気持ちだけは忘れないでいたい。たとえ、フラレたとしても。


          *

「終点」

 どういうわけか、二人は神に問いかけていた。神はいるのだろうか? 少なくとも、神がいないと確信している人間の前には現れない。神にすべてを託してしまう人間の前にも現れない。神を自明のものとするのは、自らの行動規範を神におく人間だけである。自分の存在こそが、神の証明である。そう生活する人間だけに、神は宿る。オカルト的な話ではなく。
 たとえば、期待値を行動規範にする人間にとって、期待値は厳然として存在する。が、期待値という言葉を知っていても、見向きもしない人間には、その恩寵は訪れない(GODや宝くじに当たる可能性はあったとしても)。期待値があるからといって、持ち金1万円をゼンツする人間にも、その声は届かない。
 神がいるかどうかは問題ではない。人はそれぞれ、心の或る部分が空いている。そこに収まるべき何かは、気分によって、また、時間によって異なる。たとえば「食」であったり、「睡眠」であったり、「性欲」であったり、「物欲」であったり、「ギャンブル欲」であったり、「惰性」や「慣性」であったりする。

 ニックの父親は路上の片隅で眠っている。ニックの母親も病室ですやすや眠っている。ヤマピーはピザポテトの袋の脇で、アイス中毒の彼氏と濃厚なセックスの最中。ジュンヤくんは新規開拓に邁進中。地球はこの瞬間にも、おそろしいスピードで回っている。ハワイは日本に近づき、月は地球から離れつつある。極地の氷は溶け、大地は枯れ、それでも地球全体の水量は変化しない。どこかで大雨が降り、どこかの島は海に沈みつつある。夥(オビタダ)しい数の人間が死に向かい、夥しい数の人間が生まれつつある。

 ティッシュに包まれる精子、コンドームの壁に跳ね返される精子、風呂場を流れる精子、月に一度の排卵日、卵子にたどり着く僥倖、すべてが纏綿(テンメン)と絡まりあって、ニックとニーナは、ニックがウラジオストックと呼ぶ街道をひた走っている。夜半を過ぎても気温が下がらない。夏がそこまでやって来ているのだ。物事はひとところに留まりはしない。季節は変わり、巡っていく。そのようにして、ウラジオストックの終点がやって来る。

 ニーナは27番に、ニックは29番に、それぞれ愛機を停め、ニックはメットインから、ニーナのハットを取り出し、手渡した。

「ニーナが29歳になるときは、おれは27歳ですね」
「サンキュ」ニーナはハットを受け取った後で、「だから何よ?」と笑う。
「その年齢までに、大人になれていたら、結婚してください」
「……斬新なプロポーズだね」
 瀟洒(ショウシャ)とはとても言えない庶民的なエントランスを抜け、エレベーターの前に立つと、ニーナは静かな声で言った。「ねえ、ニック、あんたんち行っていい?」
「いいですけど、どうしたんですか?」
「いや、ちょっと」
「ちょっと?」
「ちょっとはちょっと」
 エレベーターがやってきて、二人は乗り込んだ。1、2、3、4、5、6、7、8、9階、エレベーターが目的の階に到着したことを知らす鐘っぽい音だけで、二人の頭はセクシャルな妄想にかられていた。避難器具。避難経路。目に映る、耳に聞こえるすべてが下半身に関連して感じる。どうやら人間にはそういう時期があるらしい。進化だろうか? あるいは発情期の名残だろうか?
 エレベーターを降り、ニックは鍵を取ろうとして、落としてしまう。落とした鍵を足で蹴飛ばしてしまう。典型的なテンパリ状態である。
「何やってんだよ」そう言いながらニーナは鍵を拾った。「はい」
「させん」
 ニックは鍵を受け取り、ドアを開けた。
「おじゃまします」ニーナは靴を脱ぐと、顔をしかめた。「うお。皮膚めくれちった。慣れない靴履くもんじゃねえなあ」
「靴ずれですか? 今、絆創膏持ってきますね」
「すまん」
 ニックは薬箱の中からオロナインと絆創膏を取り出すと、ニーナに手渡した。
「麦茶飲みますか?」
「いや、あの、チューハイとかあったら欲しいんだけど」
「母親が飲まない人なんで、たぶんないっす」そう言いながら、ニックは冷蔵庫を開けた。「あ、エビスの缶が一本だけありました。飲みますか?」
「いや、うちビール飲めないんだよね。ありがと」
 エレベーターの中であった親密感は、空間の広がりとともに失われつつあった。二人は奥手な人間だった。自分の欲望をうまく表現できないのだった。

「ニック。初エッチどうだった?」ニーナは言った。
「正直、覚えてないんですよね。気を失ってて」
「それ、めちゃくちゃよかったってことじゃねえの?」
「いや……」
「ん?」
「ニーナと出会ったときのことを思い出してました」
「はあ?」
「おれが小四で、ニーナが小六で、雪の降る寒い日でした」
「ウソこけよおまえ」ニーナはまんざらでもない様子でモジモジしている。と、何かに思い当たったのか、笑顔になった。「てか、それって、あいつの部屋がさみいからじゃね?」
「……そうかも」
「だろ。あいつの部屋さみいよな」我が意を得たり、とニーナは笑う。
「もしの話をしてもいいですか?」ニックは言った。
「もしの話?」
「もし、おれとニーナが付き合ったとするじゃないですか」
「うん」
「でも、おれにはニーナに差し出せるものが何もない。面白いこと言えないし、お金もないし、腕力もない、頭もよくない。父親みたいに、何かを言い切ることもできない。本当に、ニーナのことを好きという気持ちしかないんです。だから、付き合ったとしても、おれはたぶんフラれると思います」
「その前提、おかしくね? 大切なのは、好きって気持ちじゃないの? どれだけ面白くても、金があっても、力が強くても、頭がよくても、好きじゃない人と一緒にいられるはずないじゃん」
「でも、それって最低条件ですよね。たとえば、おれ以外の誰かがニーナのことを好きになったら、ニーナがおれを選ぶ可能性はぐっと下がる」
「あのさあ」あきれたようにニーナは言った。「そんな価値ないよ。わたしには。ぜんぜんモテないし。だから、わたしには、ニックがわたしのどこを好きなのか、さっぱりわからない。それ、誰の話してるの? って感じ」
 ニックは黙ってしまった。沈黙に耐えかねて、ニーナは言った。「ねえ、やっぱり缶ビールもらってもいい?」
「はい」ニックは立ち上がり、冷蔵庫から黄金色の缶を取って、ニーナに手渡した。
 ノドが渇いていた。釈然としない気持ちもわだかまっていた。ニーナはプルトップを開けて、ごくごく飲んだ。あれ? と思う。そして、珍しいものを見るように黄金色の缶を見つめた。飲めるじゃん。
「好きを証明するって、難しいですね」ニックは言った。
 ニーナはビールを口に運ぶ。ごくと飲む。「うん」ビールが飲めることとニックの言葉。二重の肯定だった。「てか、マジでガチでわたしに何かある? 魅力?」
「魅力……」ニックは言った。「あのですね、ニーナの手がおれの顔に触れたときに、温度を感じたんです」
 それは、低くて35度、高くて39度というような、純粋な意味での温度ではなかった。ニックは言葉にできないが、ぬくもりのようなものだ。

「意味わかんねえ」ニーナは口を尖らしながら言った。「それ、魅力?」
「はい」
「もしかしてわたし、騙されてる?」
「ニーナを騙して、おれは何を得るんですか?」
「わかんないけど、この美貌?」ニックの顔を見つめているうちに、ニーナは不安になった。「……何か言って」
「かわいいと思いますよ」
「何点?」
「点数はつけられないです」
「つけろよ」ニーナは再び、口を尖らした。「てか、もしかたら、さっきニックが言った、面白いとか金があるとか力があるとか、それって結局モノサシとしてわかりやすいからなのかも」
「わかりやすさ?」
「種の保存のルールっていうか。野生の生き物って、種の保存のために異性を探すわけじゃん。種の保存のための異性探しなのか、異性探しの結果の種の保存かはわかんないけど」
「難しい話ですかね」
「難しくないよ。わたしには探されるに値する何かがない。そのくせ、自分を高めようともできない。人間は限界を知らなければいけないみたいなことを誰かが言ってたけど、底が浅いのがバレるのが嫌で、てか、怖くて見たくない。だからなのかな。ニックに好きって言われても素直に喜べないのは。すげえ嬉しいんだけど……」
「底だとか、わかりやすさだとか、どうでもいいです。おれは、ニーナが好きです」
「ありがとう」ニーナはビールをごくと飲む。うん。飲めるじゃん。「ねえ、変なこと聞いていい?」
「はい」
「好きって何? ぶっちゃけ、性欲の正当化みたいなことじゃないの?」
「ドキドキすることじゃないですか」ニックは言った。
「でも、ドキドキって、持続しないでしょ。酔いが続かないように。たぶん、その気持ちはどこかで飽きてしまう。自分に飽きても、自分であることはやめられないからしょうがないと思えるけど、誰かに飽きられるのは悲しい」
「それ、死ぬのが怖いから生きたくないって言ってるのと同じじゃないですか」ニックはにかっと笑う。「この世界、飽きてからが勝負だって、こないだ松本人志がワイドナショーで言ってましたよ」
「芸人がいいことを言い出すってどうなんだろうね」
 何でわたしの口からは憎まれ口しか出てこないんだろう? と思いながらニーナは言った。

          *

「あの」ニックは言う。
「ん?」
「限界を知らなければいけないって、自分を締め付けるためじゃなくて、自分を解放させるためじゃないですか? ルールを知るっていうか」
「どゆこと?」
「自分はどれくらいの大きさなのか。この世界はどれくらい広がっているのか。どれだけ手を伸ばしたらぶつかるのか。どれだけ飛び跳ねたらぶつかるのか。たとえ浅い世界だとしても、大きさがわかれば、その中で自由に動けるじゃないですか」
「うん」ニーナはそう言った後、缶ビールを一口飲んで、再び「うん」とうなずいた。「ねえ、ニック」
「はい」
「ノドが渇いているときのビールは飲めるということを発見した」
「よかったですね」ニックは朗らかに笑った。
 ニーナはありがとう。と言って、ビールを飲み干した。どういたしまして。とニックは言った。

「おれが今日発見したのは、というか、思ったのは、今日っていうか、もう昨日か、父親に会ったじゃないですか。たぶん、ああいう人の息子って、それだけでヒかれますよね。でも、ニーナは普通に接してくれたじゃないですか。おれ、あれ、すげえ救われました」
「いいって、そんなんは」ニーナは涙ぐんでしまったが、下を向いてごまかした。
「麦茶飲みますか?」
「……お願い」
 それからも、二人は喋り続けた。話すことは尽きなかった。これまで交わしたことのない会話は、それまで使ったことのない思考回路を回した。ニックとニーナは、ニーナとニックは、笑ったり、悲しんだり、憤ったりを繰り返した。何度かトイレに行き、麦茶をおかわりすると、二人はベランダに出て、紺色の空が徐々にピンク色に染まっていく様を見つめた。生まれたてのような光の下で、二人は半歩ずつ均等な距離を進み、唇を合わせた。それは数学的なまでに完璧な瞬間だった。

 言葉は抽象的だ。だから、おとぎ話では、いつまでもいつまでも二人は幸せに暮らしました。という結末が可能だ。が、具象そのものである現実はそうはいかない。物語は、夏休みみたいなものだ。主人公でいられるのは、夏休みの間だけなのだ。セミの声が止み、夜が深まり、宿題を提出する頃には、泡と消えている。けれど、主人公の主人公性が失われた後も、二人の人生は続いていく。
 ニーナの目尻には、涙がにじんでいた。目の前の男性が、自分のことを好いてくれていることが、こんなにありありと、まるで自分のことのように感じられたのは初めてのことだった。同時に怖かった。この時間が失われることが。気持ちが変化してしまうことが。
「ねえ、今、ここから飛び降りたら、幸せだと思わない?」ニーナは唇の隙間からそう言った。
「飛び降りますか?」ニックは言う。
 二人は唇を合わせたまま、横目で眼下を見下ろした。
「本気?」
「いいですよ」
 ニックの言葉は本心だった。今、ここで死んでも後悔はない。そう思った。おれの人生に、こんなにも素晴らしい瞬間が訪れるなんて、思いもしなかった。ここで閉じたとしたら、おれの人生は間違いなくハッピーエンドだ。ニーナの唇は柔らかかった。物質的に唇よりも柔らかいものは幾らでもある。つきたてのモチや、豆腐、記憶の中の母親の乳房、しかし今のニックにとって、ニーナの唇は、これ以上ない柔らかいものだった。それは、自分という生き物の、何よりの肯定だった。ただ、欲を言えば、この先の世界も見てみたい。それも事実だった。
「でも」とニックは言う。「飛び降りるのはエッチしてからでもいいですか?」
 ニーナは笑った。笑った拍子に唇が離れる。二人は奇跡を再現するように、もう一度唇を重ねた。そして、手をつなぎ、手をつないだまま部屋に戻り、窓を閉め、カーテンを閉め、洗面所の前で二人並んで歯を磨き、ニックの部屋のシングルベッドまで歩き、抱き合って眠った。


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「樵の娘」ジョン=エヴァレット・ミレイ