「弱いつながり 検索ワードを探す旅」東浩紀 幻冬舎を読む。



 ネットは階級を固定する道具です、と東は言う。
「階級」という言葉が強すぎるなら、あなたの「所属」と言ってもいい。
 ひとが所属するコミュニティのなかの人間関係をより深め、固定し、そこから逃げ出せなくするメディアがネットです。

その構造から逃れるにはどうすればいいのか? この本は、その問いに答える式の、自己啓発本のような形でつくられている。

 ネットの統制から逸脱する方法はただひとつ。
 グーグルが予測できない言葉で検索することです。
 ではそのためにはどうすればよいか。本書の答えはシンプルです。場所を変える。それだけです。

 自分を変えるためには、と東は続ける。環境を変えるしかない。人間は環境に抵抗することはできない。環境を改変することもできない。だとすれば環境を変える=移動するしかない。

ともすると、自分探し論に聞こえる主張ではあるが、東は次のような例を出して、自分探しと決別する。

 たとえば、あなたがいま中学生で、有名大学――まあどこでもいいですが、東京大学に行きたいと思ったとしましょう。そのためにもっとも重要なことはなにか。人気参考書を読むことでしょうか。有名予備校に通うことでしょうか。生活習慣を変えることでしょうか。
 端的に言うとすべて違います。もっとも効果が高いのは、東大合格者数の多い高校に通うことです。つまり、東大に行く確率がもっとも高い環境に身を置くことです。


なぜか? 東は言う。

 有名高校に身を置くと、どの予備校に行けばいいか、どの参考書を使えばいいか、迷う必要がない。まわりがやっていることをやればいいだけです。これだけで相当に負荷は軽くなります。「どのように勉強したらよいのか」がわかれば、あとはルーチンをこなせばいい。

 同じことは、受験以外にも言えます。批評家としてさまざまなかたにお会いしました。~中略~つねに思うのは、人間は環境が作るということ。お金持ちと付き合っていれば、自然とどうやったら金が入るのかがわかり、自分もお金持ちになる。クリエイターと付き合っていれば、自然とどうやったらものを作れるかがわかり、自分もクリエイターになる。人間とは基本的にそういう生物です。例外は「天才」と呼ばれますが、多くのひとは天才ではありません。


人間存在における、外側、つまり単なる環境の産物の「人間」という存在と、内側、つまりかけがいのない「自分」という矛盾を乗り越えるための手段として、環境を意図的に変えることを提言しているのだ。

 環境を変え、考えること、思いつくこと、欲望することそのものが変わる可能性に賭けること。自分が置かれた環境を、自分の意志で壊し、変えていくこと。自分と環境の一致を自ら壊していくこと。グーグルが与えた検索を意図的に裏切ること。
 環境が求める自分のすがたに、定期的にノイズを忍び込ませること。


「弱い絆」というワードを、東は使う。

「弱い絆(ウィークタイ)」とは、1970年代のアメリカの社会学者が提唱した概念である。
 社会学者は、ボストン郊外に住む300人弱の男性ホワイトカラーを対象に、ある調査を行った。そこで判明したのは、多くのひとがひととひとの繋がりを用いて職を見つけている、しかも、高い満足度を得ているのは、職場の上司とか親戚とかではなく、「たまたまパーティで知り合った」といった「弱い絆」をきっかけに転職したひとのほうだということだった。

このことを踏まえて、東は言う。

 人生の充実のためには、強い絆と弱い絆の双方が必要なのです。
 いまのあなたを深めていくには、強い絆が必要です。
 けれどもそれだけでは、あなたは環境に取り込まれてしまいます。あなたに与えられた入力を、ただ出力するだけの機械になってしまいます。それを乗り越え、あなたの人生をかけがえのないものにするためには、弱い絆が不可欠です。

 ネットは、強い絆をどんどん強くするメディアです。ミクシィやフェイスブックを考えてみてください。

 ではぼくたちはどこで弱い絆を、偶然の出会いを見つけるべきなのか。
 それこそがリアルです。
 身体の移動であり、旅なのです。
 ネットにはノイズがない。だからリアルでノイズをいれる。弱いリアルがあって、はじめてネットの強さを活かせるのです。


東はそのための立ち居地として、「観光客」を提唱する。軽薄で無責任な「観光客としての生き方」を。軽薄だからできること。それは弱い絆、あるいはノイズと呼応している。

 日本人は「村人」が好きです。一箇所にとどまって、ずっとがんばっているひとが大好きです。
~中略~
 ずっと旅人でいるというのもたいへんです。それはそれで覚悟がいります。
~中略~
 だからぼくは、旅人と村人のあいだを行き来するのが、いちばん自然だと考えます。


すべては、自分の立ち居地を俯瞰的に見られる知性と、ホーム、自らの居場所を維持し、かつ、旅行、移動に捻出する金があるという前提の論ではある。

言葉というのは、現実を捉えるには貧しいメディアです、と東は言った。私はむしろ、その脆弱な言葉でもって、強大な現実と対峙することに、なかば失敗が義務付けられている点に、個性とかやりがいとか面白みみたいなものがあるように思うのだが、というか、そこにこそ、ドン・キホーテの子どもたちである小説の面目があるように思うが、今の私が言っても、負け犬の遠吠えか。

寿
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