ニックについて。
舞台は東京湾岸地帯。主人公は十七歳、高校中退。本人は気づかないふりをしているが、友達はいない。彼女もいない。母とふたり暮らし、表向きは、大検を取るために、勉強中。と見せかけて、愛車のライブDioZX(中古)でパチンコ屋に通う日々。
同じマンションに住む二つ上の女性が気になる。が、喋りかけることはできない。特技は思考停止。責任転嫁。現実逃避。スロットをしているときは、何も考えないでいい。しかも、お金が増える。言うことなし。
が、そのうちに勝てなくなる。手持ちの金がどんどん目減りする。というかほとんどなくなる。そんな折、駐車場(駐輪場)で、泣いている唯を発見し、思わず喋りかけていた。知り合えたのも束の間、彼女には彼氏がいる。彼といるときの彼女は、ひどく嬉しそうである。主人公は落胆する。どうしようもない。おれにどうにかなることなんて、何もない。どうする? どうしよう? どうすればいい?
ニーナについて。
舞台は東京湾岸地帯。主人公は十九歳のキャバ嬢である。映画女優になりたいという夢はあるものの、口にしたことはない。無論、そのための行動も皆無。趣味は映画鑑賞と読書。が、それすらも人には言えない。全体像を把握するのが苦手で、断片しか覚えていない。覚えていられない。ホストクラブに勤務する年齢不詳の男性(黒いポルシェ911カレラを所持)を彼氏だと思っている。口が悪いくせに、傷つきやすい。いや、傷つきやすいから、口が悪い。両親とはそれほど仲良くないが、悪くもない。職業意識はおろか、見た目に対する意識に欠ける。染めっぱなし伸ばしっぱなしの髪は見事なプリン。ナチュラルアンティーク(和製外来語風)な銀縁のメガネ。ジャージ。アンティークというよりもボロボロのキティちゃんのサンダルが普段着。ヤマピーという幼なじみ(ポテチモンスター)が唯一にして無二の親友。愛車は50ccのカブ(燃費よし)。わたしはどこから来て、どこへ行くんだろう? 何になれるんだろう?
「パチ屋通いの童貞と、ホスト通いの処女の物語」
→改題「童貞はパチ屋に、処女はホストクラブに」
が、現実を生きる人間は、少し違う。「キュンキュン」でも、「ワクワク」でもなく、その上だか奥にある「欲望」という、格好の悪い、見ようによっては醜悪な命令に、行動を左右させられる。さらに現実世界では、「欲望」に蓋をするように、「社会」という強制が、ある種の神、監視体制が存在している。
パチ屋や飲み屋という空間は、かりそめではあるが、その蓋の埒外にあるように思う。白と黒の中間地点。お金という通行証こそ必要だが、ある種、幼心、童心を担保してくれる装置なのだ。しかし、当然、そこに居ついてしまうと、社会性のようなものは失われていく。
人間は、自らの人生に、少年マンガや少女マンガのごとき願望を投影する。が、たいていの場合、その願望は果たせず、時間だけが過ぎていく。その痛みは傷になり、その傷はその後の人生を縛る楔となる。主人公であるニックとニーナも例外ではない。それでも、学生という拘束から離れた17歳の少年と19歳の少女は、失われつつある時間への未練と、手に入れたい未来への渇望の狭間で、現在進行形でもがいている。理想や願望では生きられないことを知りながら、それでも理想や願望を捨て去るには至らない。目先の欲望に駆動されながら、ニックとニーナは時に恋愛状態を、時に戦争状態を望む。法律や社会システムに恐れを抱き、うちなる欲望の命令におののきながら。
29と27の間には、28という数字があり、その駐車スペースは空いている。これは何を意味しているのだろうか。関係を断ち切るニッパーなのか。それとも、9でもなく、11でもない、お互い(29、27)一歩ずつ歩みよっての10という完成形の示唆なのか。彼らから遠く隔たった37歳(奇しくも足して10)のぼくは思う。17歳、19歳、27歳、29歳、そして37歳の自分。ぜんぜん変わってへんやんけ、というのが37歳になった正直な気分である。
デヴィッド・リンチの「ストレイトストーリー」で、73歳(これまた足して10)の男性主人公は、或る若者に、歳を取ってよかったことは? と問われ、次のように返す。
「細かいことは気にならなくなる」
若者は続ける。じゃあ、悪いことは? 老人はこう答える。「若い頃のことを覚えていることだ」
読んでくれてありがとう。
アウトと、叫ぶ者(書くこと、賭けること) 寿
読みながら漫画っぽいなと感じていたら意図した通りだったようで(笑)。
夏休み取ったら次回作でしょうか、楽しみにしてます。