「小説の途中で、まえがきを」



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Aくんは、お金持ちである。
Bくんは、運動神経がいい。
Cさんは、目鼻立ちが整っている。
Dさんは、とても足が長い。

平均値から(よい)とされている方向に抜けている状態。これらは一般に長所と言われている。

ぼくは、小説を書き始めたときから、個人的なことを書こうと心がけてきた。大局的視点だとか、社会的生物としての務めみたいなことは書かない(書けない)。マジョリティにはならない(なれない)。それが、ぼくらを縛る様々な「大説」に対する「小説」だと思っていたのだ。

ここ3年ほど、スロ小説と銘打った小説を、スロ小説、スロ小説、スロ小説、とラベルを貼り、書き、また、育んできた。馬鹿みたいな量の文章が折り重なり、積み重なって、ふと、思う。何かが足りない、と。これでは足りない。何が足りないんだろう? いや、足る、足らないの話じゃないな。方向の問題かもしれない。

Aくんは、お金持ちである。
Bくんは、運動神経が良い。
Cさんは、目鼻立ちが整っている。
Dさんは、とても足が長い。

ぼくは、この後段の、「ある」とか「良い」とか「整っている」とか「長い」ばかりを書いていたように思う。それが個人が個人として生き抜くための足場だと思っていた。

師匠(僕)は、決まりを守る。
蓮くん(おれ)は、道を見つける。というように。

だけど、考えてみれば、それぞれ人間は、それぞれ「ある」ものが違う。Aくんにあるものが、Bくんにない。Bくんにあるものが、Cさんにはない。Cさんにあるものが、Dさんにないというように。
つまり、ぼくたちは「ない」ことにおいて、初めて同一の立場に立てるのだ。「ない」ものをねだる心性こそが、ぼくたちに共通して「ある」ものである。3年間、おつかれさん。ありがとう。スロ小説に没頭した日々は、そのことに気づくためにあった。そう、言い切ってしまおう。

「ある」を軸にした文体から、「ない」を軸にした文体にシフトしたい。それはある意味では、右利きのピッチャーが、左利きのキャッチャーに転向するような無茶である。左利きのキャッチャー? そんな人物はこの世界にはほとんどいない。少なくとも現時点では、日米のプロ野球選手には存在しない(野球は右利きの肉体に合わせたスポーツなのだ)。果たして、そんなことは可能なのだろうか?

……実際問題、難しいといわざるを得ない。

たとえば、
Aくんは、頭が悪い。
Bくんは、オンチだ。
Cさんは、性格が悪い。
Dさんは、常識がない。

という話を書くことは可能である。しかし、読む段になって無理が生じる。長所が見たい(見せたい)個性であるならば、欠点は見たくない個性である。自分のものであっても、他者のものであっても。人の不幸は蜜の味でも、人の欠落は苦い。欠落のない人間はたぶんいない。けれども、苦いものを呑み込むには、春菊的なうまみか、アルコール的愉楽がなければ難しい。ぼくは、二人の主人公に寄り添うことで、この無理難題のような文体を手に入れたいのです。

覚悟と、架けること 寿
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童貞と処女の物語 捨てるのか、失うのか、それが問題だ 



♯6は8月7日、午前11時にアップします。