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パチ屋通いの童貞と、ホスト狂いの処女の物語♯16



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 フロントライトがゆらゆら揺れめき、街道の姿を照らし出す。一車線、時々二車線。ところどころ震災の爪痕が残っているが、走行に問題はない。

 カブのグリップを握るニーナの後姿を視界に入れながら、これからのことを考える。勉強して、大検を取得。四年生の大学に行く。就活をして、就職。結婚。東京郊外に、分譲マンションをローンで購入。子どもは二人。笑いの絶えない家庭。
 ……全然ピンとこなかった。おれはエリートだ、と父親は言った。バカじゃないか、と思った。だけど、おれは父親みたいに、言い切れる何かが存在しない。高校中退。何のとりえもない。大学はおろか、大検に受かる自信すらない。
 いや、違う。おれには、ニーナのことが好きな気持ちがある。そうだ。
 赤信号でとまった瞬間、おれは言った。
「ニーナ、結婚しましょう」
「は? おまえ、まだ十七歳だろ」ニーナはにべもなく言う。
「それもそうですね」
「……え?」
「え?」
「いや、もう少し粘れよ」ニーナは笑う。
 信号が変わり、アクセルを回す。ニーナのカブに合わせ、少し抑え目に。

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 ラーメン屋、ツタヤ、コンビニエンスストア、ファミリーレストラン、カーディーラー。面白みのある景色では全然ない。日本のどこにでもありそうな街並み。工業地帯。時々磯臭い。わたしたちの地元。
 生まれた場所は変えられない。もらった名前も性別も、趣味も、嗜好も、いきなりは変えられない。でも、変わらないこともない。わたしの名前は唯。時々ニーナ。
 ニーナ。今まで呼ばれた三人称の中で、一番イケてる感じがする。イケてるというか、遠くまで行けそうというか、どこまでも行けそうだった。
 ニックになら、わたしの素を見せられるような気がする。嫌な部分も、脆い部分も、役者になりたいということだって口にできるかもしれない。わたしの好きな映画を一緒に見て、好きだと言ってくれたらいいな、と思う。でも、好みが合わなかったらどうしよう。それだとちょっとしんどい。でも、好みを押し付けるのも悪い気がする。うーん、お腹が空いた。

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 父親がいるということが、いまいちピンと来ない。だけど思ったよりも、悪い気持ちじゃない。たぶんニーナがいてくれたからだ。おれ一人で父親と対面したら、しんどかったと思う。
 駐輪場29番。ニック。おれ一人では、ニとクの間にある小さなッを発見できなかった。このたくさんの借りを、どうしたら返せるだろう?


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 わたしの前に道がある。わたしの後ろにも道がある。誰かの敷いてくれた道だ。横にはニックの横顔。王子様という感じでは全然なく、むしろバカ面というのがピンと来るけれど。いや、違うよ? この場合のバカ面は、たぶん、褒め言葉だ。けなしてるわけじゃない。わたしは誰に弁明してるんだろう? 神様?

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 数十キロのスピードで背景が変化していく。今現在、おれは17歳。ニーナは19歳。ニーナが29歳になると、おれは27歳。ニーナはニックに。ニックはニーナに。それまでに、おれは大人になれているだろうか? そもそも生きているだろうか? 生きてるにしろ、死んでるにしろ、ニーナを好きだった気持ちだけは忘れないでいたい。たとえ、フラレたとしても。


          *

「終点」

 どういうわけか、二人は神に問いかけていた。神はいるのだろうか? 少なくとも、神がいないと確信している人間の前には現れない。神にすべてを託してしまう人間の前にも現れない。神を自明のものとするのは、自らの行動規範を神におく人間だけである。自分の存在こそが、神の証明である。そう生活する人間だけに、神は宿る。オカルト的な話ではなく。
 たとえば、期待値を行動規範にする人間にとって、期待値は厳然として存在する。が、期待値という言葉を知っていても、見向きもしない人間には、その恩寵は訪れない(GODや宝くじに当たる可能性はあったとしても)。期待値があるからといって、持ち金1万円をゼンツする人間にも、その声は届かない。
 神がいるかどうかは問題ではない。人はそれぞれ、心の或る部分が空いている。そこに収まるべき何かは、気分によって、また、時間によって異なる。たとえば「食」であったり、「睡眠」であったり、「性欲」であったり、「物欲」であったり、「ギャンブル欲」であったり、「惰性」や「慣性」であったりする。

 ニックの父親は路上の片隅で眠っている。ニックの母親も病室ですやすや眠っている。ヤマピーはピザポテトの袋の脇で、アイス中毒の彼氏と濃厚なセックスの最中。ジュンヤくんは新規開拓に邁進中。地球はこの瞬間にも、おそろしいスピードで回っている。ハワイは日本に近づき、月は地球から離れつつある。極地の氷は溶け、大地は枯れ、それでも地球全体の水量は変化しない。どこかで大雨が降り、どこかの島は海に沈みつつある。夥(オビタダ)しい数の人間が死に向かい、夥しい数の人間が生まれつつある。

 ティッシュに包まれる精子、コンドームの壁に跳ね返される精子、風呂場を流れる精子、月に一度の排卵日、卵子にたどり着く僥倖、すべてが纏綿(テンメン)と絡まりあって、ニックとニーナは、ニックがウラジオストックと呼ぶ街道をひた走っている。夜半を過ぎても気温が下がらない。夏がそこまでやって来ているのだ。物事はひとところに留まりはしない。季節は変わり、巡っていく。そのようにして、ウラジオストックの終点がやって来る。

 ニーナは27番に、ニックは29番に、それぞれ愛機を停め、ニックはメットインから、ニーナのハットを取り出し、手渡した。

「ニーナが29歳になるときは、おれは27歳ですね」
「サンキュ」ニーナはハットを受け取った後で、「だから何よ?」と笑う。
「その年齢までに、大人になれていたら、結婚してください」
「……斬新なプロポーズだね」
 瀟洒(ショウシャ)とはとても言えない庶民的なエントランスを抜け、エレベーターの前に立つと、ニーナは静かな声で言った。「ねえ、ニック、あんたんち行っていい?」
「いいですけど、どうしたんですか?」
「いや、ちょっと」
「ちょっと?」
「ちょっとはちょっと」
 エレベーターがやってきて、二人は乗り込んだ。1、2、3、4、5、6、7、8、9階、エレベーターが目的の階に到着したことを知らす鐘っぽい音だけで、二人の頭はセクシャルな妄想にかられていた。避難器具。避難経路。目に映る、耳に聞こえるすべてが下半身に関連して感じる。どうやら人間にはそういう時期があるらしい。進化だろうか? あるいは発情期の名残だろうか?
 エレベーターを降り、ニックは鍵を取ろうとして、落としてしまう。落とした鍵を足で蹴飛ばしてしまう。典型的なテンパリ状態である。
「何やってんだよ」そう言いながらニーナは鍵を拾った。「はい」
「させん」
 ニックは鍵を受け取り、ドアを開けた。
「おじゃまします」ニーナは靴を脱ぐと、顔をしかめた。「うお。皮膚めくれちった。慣れない靴履くもんじゃねえなあ」
「靴ずれですか? 今、絆創膏持ってきますね」
「すまん」
 ニックは薬箱の中からオロナインと絆創膏を取り出すと、ニーナに手渡した。
「麦茶飲みますか?」
「いや、あの、チューハイとかあったら欲しいんだけど」
「母親が飲まない人なんで、たぶんないっす」そう言いながら、ニックは冷蔵庫を開けた。「あ、エビスの缶が一本だけありました。飲みますか?」
「いや、うちビール飲めないんだよね。ありがと」
 エレベーターの中であった親密感は、空間の広がりとともに失われつつあった。二人は奥手な人間だった。自分の欲望をうまく表現できないのだった。

「ニック。初エッチどうだった?」ニーナは言った。
「正直、覚えてないんですよね。気を失ってて」
「それ、めちゃくちゃよかったってことじゃねえの?」
「いや……」
「ん?」
「ニーナと出会ったときのことを思い出してました」
「はあ?」
「おれが小四で、ニーナが小六で、雪の降る寒い日でした」
「ウソこけよおまえ」ニーナはまんざらでもない様子でモジモジしている。と、何かに思い当たったのか、笑顔になった。「てか、それって、あいつの部屋がさみいからじゃね?」
「……そうかも」
「だろ。あいつの部屋さみいよな」我が意を得たり、とニーナは笑う。
「もしの話をしてもいいですか?」ニックは言った。
「もしの話?」
「もし、おれとニーナが付き合ったとするじゃないですか」
「うん」
「でも、おれにはニーナに差し出せるものが何もない。面白いこと言えないし、お金もないし、腕力もない、頭もよくない。父親みたいに、何かを言い切ることもできない。本当に、ニーナのことを好きという気持ちしかないんです。だから、付き合ったとしても、おれはたぶんフラれると思います」
「その前提、おかしくね? 大切なのは、好きって気持ちじゃないの? どれだけ面白くても、金があっても、力が強くても、頭がよくても、好きじゃない人と一緒にいられるはずないじゃん」
「でも、それって最低条件ですよね。たとえば、おれ以外の誰かがニーナのことを好きになったら、ニーナがおれを選ぶ可能性はぐっと下がる」
「あのさあ」あきれたようにニーナは言った。「そんな価値ないよ。わたしには。ぜんぜんモテないし。だから、わたしには、ニックがわたしのどこを好きなのか、さっぱりわからない。それ、誰の話してるの? って感じ」
 ニックは黙ってしまった。沈黙に耐えかねて、ニーナは言った。「ねえ、やっぱり缶ビールもらってもいい?」
「はい」ニックは立ち上がり、冷蔵庫から黄金色の缶を取って、ニーナに手渡した。
 ノドが渇いていた。釈然としない気持ちもわだかまっていた。ニーナはプルトップを開けて、ごくごく飲んだ。あれ? と思う。そして、珍しいものを見るように黄金色の缶を見つめた。飲めるじゃん。
「好きを証明するって、難しいですね」ニックは言った。
 ニーナはビールを口に運ぶ。ごくと飲む。「うん」ビールが飲めることとニックの言葉。二重の肯定だった。「てか、マジでガチでわたしに何かある? 魅力?」
「魅力……」ニックは言った。「あのですね、ニーナの手がおれの顔に触れたときに、温度を感じたんです」
 それは、低くて35度、高くて39度というような、純粋な意味での温度ではなかった。ニックは言葉にできないが、ぬくもりのようなものだ。

「意味わかんねえ」ニーナは口を尖らしながら言った。「それ、魅力?」
「はい」
「もしかしてわたし、騙されてる?」
「ニーナを騙して、おれは何を得るんですか?」
「わかんないけど、この美貌?」ニックの顔を見つめているうちに、ニーナは不安になった。「……何か言って」
「かわいいと思いますよ」
「何点?」
「点数はつけられないです」
「つけろよ」ニーナは再び、口を尖らした。「てか、もしかたら、さっきニックが言った、面白いとか金があるとか力があるとか、それって結局モノサシとしてわかりやすいからなのかも」
「わかりやすさ?」
「種の保存のルールっていうか。野生の生き物って、種の保存のために異性を探すわけじゃん。種の保存のための異性探しなのか、異性探しの結果の種の保存かはわかんないけど」
「難しい話ですかね」
「難しくないよ。わたしには探されるに値する何かがない。そのくせ、自分を高めようともできない。人間は限界を知らなければいけないみたいなことを誰かが言ってたけど、底が浅いのがバレるのが嫌で、てか、怖くて見たくない。だからなのかな。ニックに好きって言われても素直に喜べないのは。すげえ嬉しいんだけど……」
「底だとか、わかりやすさだとか、どうでもいいです。おれは、ニーナが好きです」
「ありがとう」ニーナはビールをごくと飲む。うん。飲めるじゃん。「ねえ、変なこと聞いていい?」
「はい」
「好きって何? ぶっちゃけ、性欲の正当化みたいなことじゃないの?」
「ドキドキすることじゃないですか」ニックは言った。
「でも、ドキドキって、持続しないでしょ。酔いが続かないように。たぶん、その気持ちはどこかで飽きてしまう。自分に飽きても、自分であることはやめられないからしょうがないと思えるけど、誰かに飽きられるのは悲しい」
「それ、死ぬのが怖いから生きたくないって言ってるのと同じじゃないですか」ニックはにかっと笑う。「この世界、飽きてからが勝負だって、こないだ松本人志がワイドナショーで言ってましたよ」
「芸人がいいことを言い出すってどうなんだろうね」
 何でわたしの口からは憎まれ口しか出てこないんだろう? と思いながらニーナは言った。

          *

「あの」ニックは言う。
「ん?」
「限界を知らなければいけないって、自分を締め付けるためじゃなくて、自分を解放させるためじゃないですか? ルールを知るっていうか」
「どゆこと?」
「自分はどれくらいの大きさなのか。この世界はどれくらい広がっているのか。どれだけ手を伸ばしたらぶつかるのか。どれだけ飛び跳ねたらぶつかるのか。たとえ浅い世界だとしても、大きさがわかれば、その中で自由に動けるじゃないですか」
「うん」ニーナはそう言った後、缶ビールを一口飲んで、再び「うん」とうなずいた。「ねえ、ニック」
「はい」
「ノドが渇いているときのビールは飲めるということを発見した」
「よかったですね」ニックは朗らかに笑った。
 ニーナはありがとう。と言って、ビールを飲み干した。どういたしまして。とニックは言った。

「おれが今日発見したのは、というか、思ったのは、今日っていうか、もう昨日か、父親に会ったじゃないですか。たぶん、ああいう人の息子って、それだけでヒかれますよね。でも、ニーナは普通に接してくれたじゃないですか。おれ、あれ、すげえ救われました」
「いいって、そんなんは」ニーナは涙ぐんでしまったが、下を向いてごまかした。
「麦茶飲みますか?」
「……お願い」
 それからも、二人は喋り続けた。話すことは尽きなかった。これまで交わしたことのない会話は、それまで使ったことのない思考回路を回した。ニックとニーナは、ニーナとニックは、笑ったり、悲しんだり、憤ったりを繰り返した。何度かトイレに行き、麦茶をおかわりすると、二人はベランダに出て、紺色の空が徐々にピンク色に染まっていく様を見つめた。生まれたてのような光の下で、二人は半歩ずつ均等な距離を進み、唇を合わせた。それは数学的なまでに完璧な瞬間だった。

 言葉は抽象的だ。だから、おとぎ話では、いつまでもいつまでも二人は幸せに暮らしました。という結末が可能だ。が、具象そのものである現実はそうはいかない。物語は、夏休みみたいなものだ。主人公でいられるのは、夏休みの間だけなのだ。セミの声が止み、夜が深まり、宿題を提出する頃には、泡と消えている。けれど、主人公の主人公性が失われた後も、二人の人生は続いていく。
 ニーナの目尻には、涙がにじんでいた。目の前の男性が、自分のことを好いてくれていることが、こんなにありありと、まるで自分のことのように感じられたのは初めてのことだった。同時に怖かった。この時間が失われることが。気持ちが変化してしまうことが。
「ねえ、今、ここから飛び降りたら、幸せだと思わない?」ニーナは唇の隙間からそう言った。
「飛び降りますか?」ニックは言う。
 二人は唇を合わせたまま、横目で眼下を見下ろした。
「本気?」
「いいですよ」
 ニックの言葉は本心だった。今、ここで死んでも後悔はない。そう思った。おれの人生に、こんなにも素晴らしい瞬間が訪れるなんて、思いもしなかった。ここで閉じたとしたら、おれの人生は間違いなくハッピーエンドだ。ニーナの唇は柔らかかった。物質的に唇よりも柔らかいものは幾らでもある。つきたてのモチや、豆腐、記憶の中の母親の乳房、しかし今のニックにとって、ニーナの唇は、これ以上ない柔らかいものだった。それは、自分という生き物の、何よりの肯定だった。ただ、欲を言えば、この先の世界も見てみたい。それも事実だった。
「でも」とニックは言う。「飛び降りるのはエッチしてからでもいいですか?」
 ニーナは笑った。笑った拍子に唇が離れる。二人は奇跡を再現するように、もう一度唇を重ねた。そして、手をつなぎ、手をつないだまま部屋に戻り、窓を閉め、カーテンを閉め、洗面所の前で二人並んで歯を磨き、ニックの部屋のシングルベッドまで歩き、抱き合って眠った。


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