パチ屋通いの童貞と、ホスト狂いの処女の物語♯14
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数分歩き、写真の裏に書いてあった住所に到着した。同時に、拍子抜けするほどあっさりと、尋ね人の捜索は終わった。写真とまったく同じ場所に、ひとりの男性が座っていた。写真の人だ。思っていたよりも冷静に、おれはその事実を呑み込むことができた。ただ、男性は写真よりもさらに老けて見えた。より頬はこけ、眼窩は窪み、顔は黒ずんで表情が窺えない。おれの父親らしき人物は、賑やかさから一本外れた道で、賑やかさとは無縁の生活を送っているらしかった。
「ほら、行けよ」ニーナはそう言って、おれの腕をつつく。
ふう。意を決し、老人に近づき、「すいません」と言った。
「……」老人は答えなかった。
「すいません」
「……」
「すいません」
「……」老人は口を動かしていた。何かを言っているのかもしれないが、何を言っているか、まったくわからなかった。ひゅうひゅうと、気体が動く音だけが聞こえていた。
写真の裏に書いてあるところによると、彼の名前は久とある。
「久さん、ですよね」おれは言う。
「……」
「久さんですよね」
「……」
「久さんですよね」
「……」
何を言っているか、ほとんど聞き取れなかったが、辛うじて、名を名乗れ、というような感じが伝わって、「ガクです。田所学です」と言った。「僕はあなたの息子です」
「息子?」老人は言った。しわがれていたが、明瞭な発音だった。
「はい。母が今、病気で入院してるんです。それで、母にあなたのことを頼まれて」
「何の話をしているのか知らないが」老人はそう言って、おれの顔をにらむように見据えた。「少年、おれはここで結界を張っている。おれがここをどくと、あらゆる種類の不吉の門が開いて、魑魅魍魎が入ってくる。だからすまないが、出すものを出して、早く消えてくれないか」
「出すもの?」
「金か、それとも食いもんか。早くしろ。時間がない」
「ふざけんなよ。てめえ、それが息子に言うことか」ニーナが怒鳴った。
「君は彼の彼女か? それなら一発やらしてくれ。すぐ済むから」
「は? 何言ってんだジジイ」ニーナは言った。
「ちょっとだけだから。いいだろ?」
ニーナは躊躇(チュウチョ)なく、路上生活者を蹴飛ばした。「ふざけんなよ、てめー、殺すぞ」
「危ない。結界が解けるところだぞ。君はこの世界を滅ぼすつもりか? おい、息子、この凶悪なる娘をどこかへ隠してくれ。危険すぎる」
「あのなあ……」なおもニーナが詰め寄ろうとすると、男性警察官と女性警察官が駆け寄ってきた。「どうしたの? 揉めてるの?」
「おまわりさん」と老人は言った。「この者たちが、このチンケな乞食をイジメるですよ、イジメるです。いったい、どうなっているですか、この国は。おもらいも許されない世の中なのですか、どうなんですか」
「イジメるって?」女性警察官はふたりを見て言った。
「いや、イジメてなんてないです」おれはため息まじりに言った。
男性警察官が口を開く。「どうなんですかって言われてもねえ。もういいから、君たちは帰りなさい」
「あの、僕の父親なんです」おれは言った。「こういうとき、どうすればいいですか?」
「うーん」と言って、困ったように男性警察官はアゴのあたりを押さえた。「警察官はね、そういう家庭内の問題みたいなことに首をつっこんじゃ駄目なんだよね。決まりなんだ。だからね、そういうことは別のところで相談してもらわないといけないんだよ。市役所とかね。それに、というかその前に、彼は自分の意思でここにいるんでしょ。そういうのは難しいよね」
「とにかく」女性警察官は言った。「揉めてるわけじゃないのね?」
「はい」
「そんなご無体な」
親父の戯れ言は軽く流され、無線らしきもので警察官ふたりは誰かとやりとりをはじめた。
「それでは、我々はこれで」そう言って、警察官ふたりは消えていった。
「ったく、警察ってのも、あてになんねえやつらだな」
「何言ってんだ」おれはもう我慢できなかった。「てめー、何がチンケな乞食だ。ふざけんなよ」
「おまえ、口悪いな。今時のガキはしょうがねえなあ。親のしつけがなってないんだな」
「おめーだろ」
「わかったわかった。話だけは聞いてやるから、だから頼むから、ビールを一本、いや、三本、買ってくれないか」
「はあ?」
27
ジジイは指示だけすると、コンビニには入らず、外でシケモクをふかしている。ビールを三本、するめとポテトチップ、ビーフジャーキー、おまけにトリスウイスキーの小瓶一本をニックは買わされた。こんなジジイが自分の父親じゃなくてよかった、と心から思った。てか、ニックの名前ってガク(学)って言うんだな。知らなかった。
「公園でも行こうぜ」というニックの親父の提案に、わたしたちは歩いて公園に向かった。「ここ、ここ」老人は小さな子が新しい発見をしたみたいに無邪気な声で言った。
「おまえらそこのベンチに座れよ。おれは地べたでいいからさ」
ひったくるように、ニックからコンビニ袋を受け取ると、老人は神に祈りを捧げるような格好でビールを飲み始めた。たちまち一本が空いた。
「ぷはあ。染みる染みる」老人は次のビールに手をかける。
「あのさあ」わたしは言った。「こんな画に描いたようなろくでなしっているんだな。何か言うに言われぬ、止むに止まれぬ事情があってさ、今は堕している、堕してはいるが、志は持っている、そんなイメージがあったよ。ホームレスって。ラストサムライみたいな。マジ買いかぶりだった。十七歳の息子にビールをねだるとかありえなくねえ?」
「まあまあ」と老人は言う。
「おめーの話してんだよ」
「あの、久さんで合ってるんですよね」ニックが言った。
「名前? 忘れた」
「忘れるわけないだろ。そのビール返してもらうぞ」
「やだ」と老人は言う。「てか金払ったのおまえじゃないじゃん。息子じゃん」
「母が」ニックが真剣な表情で言った。「母が乳がんで入院しているんです」
「……」
「母のことも忘れましたか?」
「……」
「おれのことは?」
「……だから、何も覚えてないんだって」
「そうですか」
「もうムカつくからボコッちゃおうぜ、こいつ。つうかあんたよく、今までホームレス狩りとか合わなかったね」
「何度かあったことあるよ」有名人に会ったことあるよ、みたいな言い方で老人は言った。
「大丈夫だったの?」
「楽勝だよ。一番ピンチだったときはうんこもらしてそいつらに投げつけたね。即、撃退」
「マジで気持ち悪い」
「あの」ニックは言う。「おれが最初に話しかけたとき、ブツブツ言ってたのは演技なんですか?」
「あんな風にしとけば気味悪がってたいていのやつはそれ以上喋りかけてこねえからな」
「あの場所で結界張ってるってのは?」
「なわけねーだろ。バカか、おめー」
「そうですか。世界が滅びなくてよかったです。ニーナ、行こう」ニックはそう言って、立ち上がった。
「ちょっと待てよ。もう少しだけ、もう少しだけ話そうぜ」
「何を?」ニックは語気を強めた。「何を話すって言うんだよ」
「世間話とか、あるだろ」
「あんたの世間って何?」
「この素晴らしき世界だろ」
「自分の名前を忘れた、奥さんのことも忘れた。息子も忘れた。で、この素晴らしき世界?」ニックは明らかに苛立っていた。
「すまない。申し訳ない。ごめんなさい。そんな風にあやまって、じゃあおまえは許してくれんのか? 許せるのか? 許せねえだろ? おれに記憶があったとしても、なかったとしても、過ぎちまった時間は取り戻せねえんだよ。謝罪が欲しいなら言えよ。いくらでも謝ってやるから」
「謝罪なんていらねえ。もういい。あんたと会うことは一生ない。勝手にどっかでのたれ死ね」
「待てって」ホームレスは言う。
「何で?」
「ヒマなんだよ」
「もういいって」
「だから待てって。おれはその、ややこしいのは抜きにして、純粋に世間話がしたいんだ。ダメか?」
「何の話をするって言うんだよ」
老人は缶ビールを一気に飲み干した。「田所ってのはな、おまえの母ちゃんの名字でもあるが、おれの名字でもあるんだよ。どっちかの名字ってわけじゃないんだ。おまえの母ちゃん、多恵ってのは、今もたぶんそうだろうが、なかなかすげえ女だろ」老人は缶を握りつぶし、新しいビールを開けた。「おれらはハトコだった」老人は最後の缶ビールを、慈しむように見つめ、そして口に運んだ。「おまえが生まれたのもその頃で、こっちに引っ越すことに決めたのもあいつだった。ああ、ビール、なくなっちまった」
「うちが買ってきてやるよ。おまえらは話を続けてな」そう言ってわたしは立ち上がった。
つづく
タイトルバック
「シンデレラ」ジョン=エヴァレット・ミレイ