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パチ屋通いの童貞と、ホスト狂いの処女の物語♯11

          

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 朝になっても母ちゃんの携帯はつながらなかった。始業の時間を待って母ちゃんの職場に電話した。同僚の佐々木さんが、母のいる病院を教えてくれた。

「もし見舞い行くなら、よろしく言っといてよ。こっちは心配ないからって」
「ありがとうございます。失礼します」

 ……ああいう人と再婚してくれれば、こっちは楽なんだが。佐々木さんはずっと独身でいるのだろうか?

 大きなお世話だな、と思い直し、着替えて出発する。佐々木さんが教えてくれたのは、新浦安にある総合病院だった。受付で名前を言って待つ。しばらくすると名前を呼ばれ、ピンク色の白衣を着た看護士が案内してくれた。

 病室の中にはベッドが八つあったが、寝ているのは母ちゃんだけだった。じゃあごゆっくり、と言って看護士は部屋から出ていった。

「母ちゃん」と言った。

「来なくてよかったのに」開口一番母ちゃんは言った。

「そんわけにはいかないだろ」

「ごめんね」

「何あやまってんの?」

「ごめんね」

 母ちゃんは泣いていた。あの「ショーンシャンクの空に」を見ても泣かない母ちゃんが泣いているのだ。なぜ泣くのか、病状が重いのか、もうダメということか? 言いたことがこんがらがっていて、口を開こうとしても、しどろもどろ、あわわあわわと、そんな体で何も言えず、おれはただ戸惑うことしかできなかった。

「ごめんね」母ちゃんは言う。ごめんねなんて言うな、と思う。でも、言葉にならない。

「お願いがあるんだけど」

 お願い?

「わたしが死ぬ前に、お願いしたいことがあるの」

「死ぬって何だよ」声帯を握り締めるようにおれは言った。「死ぬなんて言うやつの言うことなんて聞かねえよ」「何だよマジで」「あ?」「ふざけんなよ」「何なんだよ」

 頭の中のこんがらがりが、一気に言葉になって溢れ出た。そのうちに看護士が来て、「ちょっと、ここ、病室ですよ」と怒られた。

「母は死ぬんですか?」と聞いた。

「はい?」

「母は死んでしまうんですか?」と聞いた。

「あらあら」と看護士は言った。見かけのわりにオバサンくさい口調だった。「そんなことはないですよ。お母さんの病状はそんなに重くありません。今、担当の先生を呼んできますからね。話を聞いてみてくださいね」

 母のベッドの隣にあった椅子に座り、待つことにした。気持ちが急いてしょうがなかった。母ちゃんはおよそいつもの母ちゃんらしくなく、天井をぼおっと眺めたまま、動かない。いったいどうしちまったんだ?

「お願いがあるんだよ」

「何?」

 そのとき、髪をジェルかワックスでツンツンと立て、オシャレメガネをかけた白衣姿の男性が病室に入ってきた。

「こんにちは」白衣姿の男性は朗らかな声で言った。「担当の森下です」

「こんにちは」おれは返す。

「息子さんですね」

「はい。あの、母の病状はどうなんですか。何か、すっかり弱気になってるみたいなんですけど」

「大丈夫だよ」と医師は言った。「ねえ、お母さん」

 母ちゃんはうすら笑いを浮かべるだけで、何も発さない。

「お母さん、普段は病気ひとつしなかったでしょう」

「はい」

「だから病気なんてなってしまった自分に、もしくは病院に入院しなければいけないというこの状況に抵抗があるんだと思うな。ねえ、お母さん、あなたの病状はそんなに重くありませんよ。まだ初期ですし、転移も見られませんし、手術すれば治りますから」

「……」母ちゃんは、やはり何も言わない。

「本当ですか?」おれは聞いた。

「本当です。お母さん、弱気になっているのも病気の症状のひとつです。だから悲観的に考えてしまう今のこの状況も、病気のせいだと認識してください。治ればすべてが好転します。気楽に行きましょう」

「だって。母ちゃん、良かったじゃん。大丈夫だって」

「うん……」

 元来、母ちゃんはびっくりするほど社交的な人間だった。パチ屋ですら仲間をつくってしまうくらいに。誰に対してもニコニコ接し、空気を読まずに声をかけ、テンションだけで意味不明の冗談を平気で口にし、その母ちゃんが、他人を相手にサービス精神を見せないのが不思議でならなかった。他人の前で弱音を吐いたり、弱気な顔を見せたり、そんなことは今まで決してなかったことで、どうすればいいのか、おれは本当にわからなかった。

 関係ない話を幾つかしたあとで、髪ツンツン先生と童顔看護士は部屋から去った。

「お願いがあるんだよ」母は言った。

「何?」

「驚かないで聞いてほしいんだけど」

「うん」

「けっこう衝撃的だよ」

「だから何?」

「本当に」

「おれが母ちゃんの子じゃないってくらい衝撃的?」

「うん。それくらい」

「は?」

「まあ、大したことないっちゃあ大したことないんだけど」

「だから何だよ」

「ほんと、驚かないで聞いてね」

「ああ」

「どっきりでした」

「は?」

「だから、どっきり。わたし、別に病気じゃないの」

「何言ってんの? もういいって、くだらないこと言わないで」

「おまえの父ちゃんを助けてあげてほしいの」

「は?」

 ……は?

「だから驚かないでって言ったでしょ」

「いや、何、父ちゃんって? 何、それ? 生きてんの?」

「うん」
「は?」
「だから生きてるんだって」

「何で今まで言わなかったの?」

「そりゃ言えないでしょう」

「何で?」

「まあ、色々と」

「何だよ?」

「色々あったのよ。あんたにそんなこと追及されたくない」

「何逆ギレしてんだよ? ちゃんと話せよ」

「ちょっと、落ち着きなさい」

「あんただよ」

「だから驚かないでって言ったでしょ」

「わかったから話せって」

「細かい話はいいじゃない。とにかく、あんたの父ちゃんは生きている」

「どこで?」

 母ちゃんは、答える代わりにため息をついた。ため息をつくと幸せが飛んでいくと、口を酸っぱくして言っていた母ちゃんのため息は、本当に目に見えない不幸が空中に拡散していくようで、腹が立った。仕返しにおれもため息をついた。マイナスとマイナスでプラスに、不幸と不幸で幸せにならないかなとか思いながら。

「ため息なんかつかないの」母ちゃんがいつもの母ちゃんのようにそう言った。

「そっちがついたんだろ」
「あのね、外に住んでるんだって」
「はあ?」

「ガード下に住んでるっていうから会ってきなさい」母ちゃんは、写真をおれに手渡した。

「誰?」

「その人があんたの父ちゃんだから」

「は?」

「しょうがないでしょ。もしわたしが死んだら、あの人だけがあんたの肉親なんだから」

 写真に写っている男は乞食然としており、というか、乞食以外の何者にも見えず、前を向いているのだが、どこを見ているのやら焦点が定まっておらず、およそ表情というものは窺(ウカガ)えず、地面に座っているのだが、座っているというよりも、地面から生えた植物みたいだった。枯れかけの。

「……おれの父ちゃんって死んでなくて、……で、ホームレス? 何で?」

「何でかは知らないよ。こっちも縁を切ってたんだから。乳がんってわかった日に大枚はたいて興信所に頼んだんだよ。そしたら浦安で路上生活してるって。そんな近いとこにいるなんてね、びっくりだよ、ほんと」

「ふざけんなよ。会いたくねーよ」

「ダメ。その写真の裏に、だいたいの出没場所と、寝床の住所が書いてあるから、参考にして」

「参考にしてじゃねーし」

「行きなさい」

「……」

「わたしがもし死んだら、でいいから」

「……」

「多恵さん、検温の時間ですよ」と、看護士が来る。

「……じゃあおれ、帰る。また来るよ」

「ごめんね」

「いいって。自分の体のことだけを考えろよ」

「そんな大人みたいなこと言って。いやねえ。わたしの腹から出てきたガキのくせにねえ。口ばっかり大きくなっちゃって。童貞のくせにねえ」

 母ちゃんは看護士に問いかけるように、わざと大きな声で言う。看護士は苦笑するしかない。

「童貞じゃねえし」

「ほんと? どこにそんな奇特な女性が? ああ、女性じゃないかもしれないわね、奇特な人間が? ああ、人間じゃないという可能性もあるわね。でも野生の動物は不衛生だからやめておきなさいね」

 芝居がかった母ちゃんの口ぶりに、ふふふと看護士が笑う。

「帰るわ」おれは言う。

「今度はおみやげ持ってくるのよ」

「はいはい」

「父ちゃんに会いに行くのよ」

「それは約束できない」

「どうして?」

「どうしても。じゃあね」

「バカ」

「はいはい」

「ヴァーカ」

「はいはい」

 どうして自分の母親にバカヴァカ言われなければいけないんだ、と思うが、とにかく母ちゃんが元気になってよかった。さ、帰るか。

 と、思ったが、念のためもう一度、先生のところに行ってみることした。タイミングがよかったのか、受付で聞いてみると、ツンツン先生の手は空いていて、すぐに部屋に通された。

「ああ。多恵さんの息子さん。どうしました?」

「あの、母の前では聞けなかったんですけど、ネットとかで調べると、乳がんって二割か三割の確率で死に到るって」

「あのね、統計っていうのはね、そりゃ事実の側面はあるかもしれないけれど、真実ではない。ひとりの人間の生き死には、生きるにしろ死ぬにしろ、100パーセントなんです。二割とか三割なんていうものはない。それでも、君のお母さんは助かります」

「どうしてですか?」

「僕が執刀するからです。もちろん、お母さんの体が今のままの状態ならば、という留保はつきますがね」

「手術はいつなんですか?」

「来週の火曜日です」

「その間に悪くなるって可能性はないんですか?」

「可能性はあります。でも、お母さんは強い人でしょう?」

「はい。でも、心配です」

「本当はね、こうやって助かりますとか、医者は言っちゃダメなんだよね。たぶん。何があるかなんて、ほんとわかんないんだから。でも、いたずらに不安を煽るのって、僕嫌いなんだ。どんなに安全な手術でも、100パーセントなんてありえない。それが統計というものであり、確率というものなんだ。蓋然性って言ってもいいかな。人生ってのはさ、何も見えない暗闇を、それでも何とか前に進んでいかなくてはいけないゲームみたいなものでね、そのゲームで起きるすべてのイベントは、ゲームマスターでも神でもなくて、全部偶然の産物なんだよね。暗闇だからさ、壁だろうが、落とし穴だろうが、宝箱だろうが、ワープゾーンであろうが、それが何であるか、誰もわからないわけで。事が起きてみて、はじめてその正体がわかるだけで。確定したことだけが観測できる。その観測を数字化したものを確率と言って、人生を進むときの目安にはなるけれど、結局向かう先は暗闇で、偶然でしかないのだから、松明(タイマツ)の役目は果たしてくれない。人間は神じゃない証明でもあるのかな。だから、僕を信じてくれとは言わない。でも、お母さんを信じることはできるでしょう? 何が確かだって、自分が今ここにいることほど確かなことは他になくて、その自分を生んでくれた、お母さんを信じることは」

 はい。おれは頭を下げた。「先生、お願いします」

「最善を尽くしますよ」


つづく
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「種まく人」ジャン=フランソワ・ミレー