さようならパチスロ!
KIMG1018

期待値という信仰編


 パチ屋の中で、守っていたことがひとつだけある。
 それは、嘘をつかないということだ。ズルをしない。ごまかさない。たとえ換金所の箱の中の人が誤って紙幣を多く渡してきたとしても、受け取らない。何故だろう? うまく説明できる気はしないが、とにかく主義として嫌なのだった。
 パチ屋の騒音とブルーライトは、耳栓とPCメガネで防げばいい。他人の嘘やごまかしは、利益や損失になるものは見抜き、ならないものは無視すればいい。が、自分の嘘で自分をごまかすことはできない。無視もできない。たとえ一時騙せたとしても、長くは続かない。
 僕のノリ打ちのパートナーだった太郎という男は、時々、というかしょっちゅう嘘をついた。出玉や投資金額をごまかしたり、共通の財産である持ち玉でカフェオレや梅こぶ茶を飲んだり、チリドッグを食べたりした。出玉や投資金額に関しては、計算してわかるものは、「計算間違ってるよ」という体で是正した。が、彼のパチ屋内での個人的な消費に関しては目をつむった。25枚。1日に500円使ったとして、年間18万2500円。馬鹿にならない額ではあるものの、リスクを分散するための経費くらいに考えていた。それに、いつ彼がいなくなってもかまわないと思っていた。実際、相棒はいなくなってしまった。
 では、多くの人間が娯楽として興ずるゲームで勝ち抜こうとすることは、ズルではないのだろうか? ズルだ! という見方もあるかもしれない。たとえば、天井やゲーム数など、(打ち手にとって)有利な状態を狙うハイエナという行為は、プレイヤーの無知によって生じた期待値を頂戴している。一人は知っている。もう一人は知らない。不公平じゃないか! そういう見方もあるだろう。だけど、僕はズルとは言えないと思う。情報の取捨選択は、スロットを打つという行為のひとつだからだ。むしろそれこそがスロットを打つという行為だと考えているからだ。無論、だから何だ? と言われることも理解している。どんな主義があろうとクズはクズ。そう思われるのはしょうがない。それでもズルはしない。ごまかさない。嘘はつかない。それは主義というよりも、信仰に似た感覚なのかもしれなかった。

       777
 
 カジノの語源はCASA、貴族が遊興のために集う小さな家のことを指していたらしい。しかし現実のカジノは、巨大で、酒が飲め、かつ閉店時間のないパチ屋だった。飲み放題。賭け放題。最高だ。が、その楽園に入場するには金がいる。そこで勝つには運がいる。金も運もない人間は、退場を余儀なくされる。ひどい場合には、そこで寿命が尽きてしまう。
 カジノ。そんなパチンカスのパラダイスに滞在して3週間になる。延々設定1を打っている感じで、増減を繰り返しながらも、金が減っていく。
 ブラックジャックで波をつかんだのは、そんな折だった。トランプが2枚配られる。盤上に見えるのはA(エース)。心を静め、その下に伏せられたカードをゆっくりとめくる。Jの文字に心が踊った。ジャックとエースで21(ブラックジャック)。賭け金を上げた途端、このゲームにおける最高の役が来たのだった。この瞬間、僕の脳内では神経伝達物質がどばどば放出されたはずだ。僕は張った。強気で張った。ここでの負けは反転し、3600ドルほど(43万円程度)の浮きが出た。僕はもしかしたら、博打の才能があるのではないか。そんな愚にもつかないことを考えながら酒を飲んだ。調子に乗ってけっこう飲んだ。夢で元カノに再会した。
 いい加減にしてほしかった。いつまで僕の脳は、過去に属しているつもりなのだろう? 後悔か? それとも、ないものねだりか? 何にせよ、過去は過去。佐和は今の自分とはまったく関係のない他人なのだ。いまだに名前で呼んでしまうのがいけないのだろうか? あの子。あの人。あの女性……
 目が覚めると、目の前には梅崎さんがいた。梅崎樹、僕のボディガード兼通訳である。太郎。僕がスロットをしている頃の相棒は、彼に殺された。僕はいつからこんなにも複雑な世界に紛れ込んでしまったのだろう? スロットで生活していた頃は、物事が単純だった。期待値があれば打つし、なければ打たない。それだけだった。A店、B店、C店、D店、E店、F店。それぞれの店の設定配分、設定を入れる台の傾向、客層、ライバルの動向、様々な角度から比較検討し、最も蓋然性(確率のことだ)が高いであろうプランを立て、優先事項を常に意識し、それを見失わないように行動する。考えるのはそれだけだった。勝った負けた、ヒキ強ヒキ弱の揺らぎはあったが、安定した日々だった。太郎はそんな生活に音を上げた。
 相棒がいなくなるのと時を前後して、彼女ができた。佐和だ。それは人生で初めて味わう幸せな時間だった。あの出た試しのない「化物語」のATではない。スロット打ち風情がこんな幸せを享受していいのだろうか? と不安になるくらい心安らいだ時間だった。こんな日々が続いて欲しいと思う気持ち。そんなわけにはいかないだろうという気持ち。彼女がいなくなったことで、絶望しながらも、どこか安堵したのも事実だった。たぶん、僕には先天的に欠けているものがあるのだろう。
 その穴だか窪みに、パチスロがぴったりはまったのだ。こう考えてみると、バカみたいな人生だった。が、生まれてすいませんとは思わない。17歳でサンダーVに出会ってから何年経った? 手遅れだ。
 で、アメリカのカジノホテルの一室で、目の前にはボディーガード兼通訳の殺し屋がいる。殺し屋の手には鋭利なナイフが握られており、僕の体はがっちりとロックされている。閉店2分前に現金投資をしている人くらいの絶体絶命っぷりだ。閉店保障はありますか?
「師匠」梅崎さんは僕の2個上で、大した繋がりがあるわけでもないのに、僕のことをそう呼ぶのだった。
「はい」と言いながらも、思考は回っていた。どうしてこんなに考える時間があるんだろう? 死の間際に見るという走馬灯。あれだろうか? だけどそれは所詮、RTみたいなものだ。増えはしない。ただ、引き延ばされるだけだ。
「師匠」梅崎さんはもう一度言った。
 でも、梅崎さんは僕のことをそう呼ぶだけで、他には何も言わなかった。いよいよRTも終わりかと思う。ただ、まあ、他の人ならいざ知らず、梅崎さんだ。プロなのだ。すんなりと僕の人生を終わりにしてくれるだろう。同じ人間の手で葬られるのだから、向こうで太郎に再会することもあるかもしれない。梅崎さんは、手に持ったナイフを僕の首筋に当てた。その刹那、生暖かいものが僕の首から噴出した。変化したのは、痛みというよりも視神経だった。ひどく明るいのだ。何となく、死は暗いものだと思っていた。真っ暗闇から明るい場所に出てくることが生まれるというイメージで、明るい場所から暗い場所に戻るというのが、死のイメージだった。それがどうだ? 太陽を直視しているようにまぶしいのだった。
 
       777

 揺れていた。微妙に揺れていた。そのうちに、まぶしさにだんだんと目が慣れてきた。
 ここはどこだ? 車の中だった。意味がわからなかった。
 ハンドルを握るのは長髪の男だった。僕は助手席に乗っているのだった。僕の目がおかしくなっていないとすれば、それは、太郎だった。薄汚れたジーンズにライダースをはおった僕の相棒。彼が僕を地獄に運んでくれるのだろうか?
「おいサダオ、おまえ、またゾーン入ってんぞ」
 そう、僕が黙って考え事をしていることを、相棒はゾーンと呼ぶのだった。
 は? 
 スロットを打って得た金で共同購入した黒いステップワゴンの車内には、湘南乃風の「純恋歌」が流れている。
 ちょっと待って。
 俺はアメリカにいたのではなかったか? どうして太郎がここにいる? 夢か? 古典的にほほをつねってみるが、痛みよりも、自分の肌がツルリとしていることに違和感があった。
「サダオ?」
「あー」と言ってみた。「あー」という声が出た。
「あん?」太郎らしき人物は、不思議そうな声を出した。
「今日は何月何日?」僕は聞いた。
「10月10日」
「西暦は?」
「2006年に決まってんだろ」
 2006年。それは、膨大な数の機種が消え、北斗SE、秘法伝の登場した、暗黒の入り口の年だった。そして、佐和に出会った年だった。
 2006年?
 ポケットを探ると、タバコが入っていた。そういえば、この頃の僕はタバコを吸っていたのだった。僕はタバコをくわえ、火をつけてから窓を開けた。
 煙を吸う。煙を吐く。……ただ苦いだけだった。僕はすぐにタバコをもみ消して、窓を閉めた。
 デフテックの「Catch The Wave」が流れ出す。甲州街道は、相も変わらず混み合っていた。
「どこ向かってるんだっけ?」僕は言う。
「パチ屋に決まってんだろ」
「何打つんだっけ?」
「は?」太郎は僕の顔をまじまじと見て言った。「抽選次第。おまえが言ったんだろ」
 俺さあ、実はこの何ヶ月か、スロット打ってないんだよね。というか、俺、2015年のアメリカのカジノで遊んでたところなんだよね。そんなことを言って、太郎が理解してくれるとは思えなかった。
「昨日そんな飲んだか?」太郎は言う。
「わかんねえ」僕は本当のことを言った。
 車内から、若干饐えた臭いがする。そういえば、僕たちは、この車で寝泊りしていたのだった。ん? 僕は佐和の住んでいた家に上がりこんだのだった。どうして彼女が彼女の契約する賃貸アパートから出ていったんだ?
 物事の順番がわからなかった。記憶が混濁しているのか? あるいはショックで蓋をしてしまったのだろうか? それとも夢特有のゴリ押しか? わからなかった。
「なあ、太郎」僕は言った。
「ん?」
 僕が太郎と呼んで、太郎が「ん?」と返す。それはそれまで幾度となく繰り返された、そして二度と叶わないと思っていたキャッチボールだった。
「どうした?」ハンドルを握る太郎は怪訝な顔で言った。
 僕は思わず目を伏せた。嬉しさと、くすぐったさが微妙に配合された不思議な気分だった。何か、太郎と会話をしたかった。が、久しぶりすぎて、とっかかりがないのだった。
「なあ、太郎、おまえ、初めて打ったスロットって何?」
「ピンクパンサーだっけな」太郎はそう言うと、ブレーキを踏み、信号を見つつ、ポケットからセブンスターを取り出し、火をつけた。一瞬で煙が車内に広がり、僕は手で煙を振り払いながら窓を開けた。「ピンパンってピンパン3?」
「違う。初代。ノーマルのAタイプ」太郎はくわえタバコのまま窓を開け、右手にタバコを持ち直して外に出し、車を発進させた。
「それ、いつの話?」僕は言った。
「10年くれえ前じゃねえか」
 ……そういや、太郎は2個上だったっけ。必然的にスロットを始めたの時期も早いのだ。どうして僕は年長者に対してこんな態度なんだろう?
「おまえは?」太郎は言う。
「サンダーV」僕はバツの悪さをごまかすために、ピースサインをした。
「4号機の時代も終わるな」太郎はそう言って、白い煙を窓の外に吐き出した。
【黄金時代】という言葉があるが、パチスロにとってのそれは、アステカ、大花火がデビューした1999年から、初代北斗が登場し、コンチ、金太郎、GODなどが検定取り消しになった2003年までだと思う。どれだけお金を使っても、それ以上のお金が手に入った。それはさながら、人類の追い求めた永久機関か錬金術だった。しかしこの地上において、永久機関は夢、錬金術は幻に過ぎないのだ。夢や幻に回収機能は存在しない。雪だるま式に膨らんで、現実の介入で打ち切られる。いつだってそう。2004年、北斗の人気が異常なほどに加速し、今までもこれからも塗り替えられることのない宇多田ヒカル的セールスを記録。2005年、番長がデビュー。2006年、それまでパチ屋の風景を作っていた機種たちが撤去され始める。吉宗が消える。北斗が消える。
 そう、泡は弾け、夢が覚める。2007年には、4号機以前のすべての機種が粛清された。その後も、スロットは堅実に稼ぎになったが、あの熱狂は帰ってこない。
 ただ、僕の人生に限ってみれば、1号機も2号機も3号機も4号機も、AタイプもBタイプもCタイプも(そしてナイツも)、裏モノも、そして太郎も佐和も同時に存在していた2006年は、黄金時代だったのかもしれない。

       777

 パチ屋の立体駐車場は、同類たちで混み合っていた。同類というのは、同業者という意味ではない。スロットで勝ちたいという気持ちのみを共有している獲物だった。枯渇しつつあった砂漠では、誰もがオアシスを求めていた。捕食者である同業者が大勢いる場所には、進んでいきたくはない。……どうしてだろう、口が悪い。2010年代の僕ならば、もう少し穏便な表現を選ぶはずだ。スマホ、はないので、ヒマ潰しのためのスロ雑誌を持って外に出る。十年一昔と言うが、この頃の情報収集は、雑誌がメインだったのだ。抽選を待っているのは200人ほどだろうか。並んでいるスロッターたちのズボンのサイズが若干太い感じがした。これも時代だろうか。スロ雑誌をめくってみたものの、載っている機種の大半を忘れていた。というか、業界的には、すでに5号機に移行していたのだった。これ全部記憶してたのか?
 抽選の結果、僕は3番をゲット。太郎は101番。
「お、やったじゃん」太郎は言う。「どうすっか?」
 どうするもこうするもなかった。何を打てばいいか、何を狙えばいいかもわからないのだ。
「太郎おまえ、こっちの番号で行ってくんね?」僕は言った。
「先に入場するのはおまえの役目だろ」
「いや、ちょっと体調悪くて」思わず嘘をついていた。パチ屋の中で嘘はつかなかったんじゃなかったか? 特例として処理することにした。まだ外だし。
「大丈夫か?」
「うん……」
「まあ、いいけど、おれが行って、取った台で後でごちゃごちゃ言うなよ?」
 確かに、この店には頻繁に来た記憶はあるのだが、機種構成やら設定配分やら、優先順位やら、何もかもわからない。となると、立ち回りのしようがないのだった。じりじりと時間が過ぎて行く。考えがまとまらないうちに、集合の時間になってしまった。
「おい、太郎」僕は言った。「時間だ。行こうぜ」
「……」反応がなかった。
「おい」
 太郎は眠っているようだった。
「おい、太郎。起きろ」
 呼吸は確認できる。が、揺すっても、叩いても起きない。そうこうしている間に時間が過ぎていく。まあ、スロットは正直どうでもよかった。優位性も見出せず、戦略も何もあったものではないのだから、勝てるべくもない。
 そういえば、太郎はこの時期、酒浸りだった気がする。疲れているのだろう。僕はタバコを取り出して、窓を開けた後で火をつけた。どうしてこんなものを吸っていたのか、よくわからない。メンソールのタバコなのに、ノドがいがいがするとはどういうことだろう? 思い切り吸い込むことができないので、中学生のようにふかしを交えつつ、吸った。それにしても、長い引き延ばし(RT)だ。死んだはずの相棒。幾分新しい肉体。後何本か吸えば、タバコに対する違和感もなくなるのだろう。慣れは怖いな、とつくづく思う。
「あああああああああああああああ」
 何の予備動作もなく、太郎が体をびくんと起こし、目を開けると同時に叫びだした。思わず人差し指と中指にはさんでいたタバコを落としてしまい、それも、タイミングの悪いことに、シートの裏側に落ちてしまい、あたふたしてしまった。
 太郎はきょろきょろとあたりを窺った後、真っ青な顔で僕を見て言った。「サダオか? おまえ、何してんねん」
「は?」そう言いながらも、何とか落ちたタバコを回収することに成功した。
「何でおまえがここおるねん。てか、ここ、どこや?」
「……は?」
「つか、え? これ、マジ、え?」太郎は震える体を抱きかかえるようにして言う。「何なん?」
「いや、それはこっちのセリフだ」僕は言う。
「梅おらんかった?」
「梅?」
「いや、おれ、梅に殺されんかった?」
「梅って梅崎さん?」
「何でおまえが梅知っとん?」
「いや、こっちのセリフだけど、それも」
「ちょ、サダオ、おれにタバコくれ」
「おまえ自分で持ってんだろ」
「……ほんまやな」そう言って、太郎はセブンスターに火をつけた。「ここ、天国?」
「まあ、天国ちゃ、天国かな」僕は返す。さっきまではあたふたしていたが、テンパッている太郎を見ることで、落ち着きを取り戻していた。「で、どうすんの? もうちょいでパチ屋開くけど」
「パチ屋? いや、意味わから……あ? この車、おれらのステップワゴンやん」
 真っ青だった太郎の顔は、幾分赤みが戻っていた。太郎も太郎で、僕の存在があることで落ち着いたのだろうか?
「おまえが持ち逃げした車な」僕は言った。
「こないだ謝ったし、金払ったやんけ」
「こないだ?」
「なあ、サダオ、これは夢なのか、それともこれが現実なのか、どっちや?」
「わからん」僕は正直に言った。
「おまえ、サダオだよな?」
「そうやって呼ぶのはおまえだけだよ。俺の名前は山村崇。おまえの名前は松田遼太郎だ」
「……何でおれのフルネーム知ってんの? 言ったっけ?」
「色々あってな」
「色々?」
「まあ聞けよ」僕は言った。「俺の知ってるおまえは、2014年に死んだ」
「何? その変な言い方?」
「今が2006年だからだ」
「は? 意味わからんこと言うなや」
「意味わかんねえのはこっちも同じだ。とりあえず聞け」僕は言った。「2014年の秋、おまえは死んだ。香川県高松市で。梅崎さんの手で」
「てか、それ、さっきやで」
「さっきではない。絶対に」僕は笑う。
「何なんそれ。ほなおれ、死んでへんの?」
「知らんよ」僕は言った。
「てか、待てよ。ここ2006年なんやろ。何でお前が2014年とかって……は?」
「だから聞けって。俺は、2015年の夏に、アメリカで、ネヴァタ州にあるカジノホテルの一室で梅崎さんに首を掻っ切られた。おまえの言い方で言うなら、さっき」
「はあ?」太郎はそう言った後、笑い出した。「まったく話が繋がらんやん」
「いや、繋がる。この2つの出来事から、2つの類推ができる。ひとつは、俺たちの時間は一直線じゃないかもしれない、ということ。もうひとつは、梅崎さんはただの殺し屋じゃないかもしれない、ということ」
「サダオ、おまえ、何でそんな冷静なん?」
「テンパッても意味ねえだろ」
 嘘だった。さっきまでの僕は完全にテンパッていた。人間は、自分よりも過剰な反応を示す人間を前にした場合、苛立つか、または落ち着くか、という反応になりがちというだけだ。何だか調子が出てきた。そう、僕という人間はこういう人間だった。
 太郎はセブンスターの白い煙を大量に吐き出した。「8年前か……ってことは、ギリ4号機打てるな」
「うん」
「打たへんの?」
「いや、おまえがぶるぶる震えてる間に、入場始まっちゃったよ」
「いや、そんなん言うけど、おれ、今、死んだばっかりやで。普通、あせるやろ」
「死んだらあせれねえだろ」僕は笑う。
「……おまえは変わらんな。ほんで、2006年やったら何が打てるんやった?」
「北斗SEとか、初代秘法伝とか、4号機の成れの果ては残ってるけど、基本的には5号機にすげ代わりつつあって、吉宗はもう消えてるし、後2週間とかそれくらい北斗が打てる」
「で、ベニヤ板時代が始まる、か」
「そう。初代エヴァとか設定が狙えたような気がするけど、あんまり覚えてないんだよな」
「おまえが覚えてないんやったら、お手上げやん」
「今日のところは」
「ほなどないするん?」
「腹減っただろ。飯でも食おうぜ」
「よっしゃ」

       777

 よっしゃ、と威勢のいいことを言ったものの、太郎はまだしんどそうなので、僕が運転を代わった。
「物語とかやったらさ」太郎がぽつりと言った。
「ん?」
「タイムスリップするやつって、たいてい過去に果たせなかった目的があるよな。おまえ、この時代に何かあるん? 心残りみたいなん」
「ある」と言った。
「何?」
「6日後に元カノと出会う」
「失われた女を求めて」と言って太郎は笑った。「典型的やな」
「おまえは?」
「おれは生きてるだけで充分やけど……」
 何かを思いついたのだな、と思った。太郎は、何かを思いついたとき、思い出したとき、それが彼にとって大切であればあるほど、こうやって話をぶつ切りにして黙りこくるのだった。
 ステップワゴンのスピーカーからは、シーモの「ルパン・ザ・ファイヤー」が流れている。太郎は割と頻繁にTSUTAYAでCDを借りて、ドライブ用の音源をつくっていた。基本ズボラなのだが、変なところでマメな男だった。お喋りなのに、秘密主義。当時はただうっとおしいだけだったが、今ならば、33年の経験があれば、彼の性格の機微を理解してあげられたのにな、という妙な後悔がわいてきた。
「なあ、2006年って、おれらの関係は破滅しかけてたよな」太郎は僕の心を見透かしたようにそう言った。
「そうだっけ?」気恥ずかしさから、僕は忘れたふりをしてしまった。

       777

「お、デニーズ」太郎が言った。
 急角度でデニーズの駐車場にイン。キーを持って入店。しばしメニューを眺め、ジャンバラヤとキウイフレッシュというジュースを頼んだ。朝っぱらからフレッシュ&ヘビーな、1000円を超えるコンビを食せるのはスロッターくらいだろう。何というか、感覚が全体的に尖っている気がする。若さだろうか? 太郎はブラックコーヒーとホットケーキを注文した。
 キウイフレッシュがやってきて、それをストローですすっているうちにジャンバラヤがやってきた。トマトとチキンが絡み合うスパイシーな焼き飯。どこの料理だったっけ?
「スマホないと不便だな」
 太郎は「そやな」と言った後で、ブラックのコーヒーを口に運び、ホットケーキをぱくりと食べた。
「なあ、サダオ、スロットって何で勝てると思う?」
「期待値があるものは勝てる蓋然性が高い。または、勝てる蓋然性の高いものを、期待値と呼ぶ。以上」
「違う。そもそもの話をしてんねんで。そもそも、どうして客に期待値がこぼれ落ちるようなギャンブルが成立したか。パチンコの釘は目に見える。ある程度の公正さの担保にはなりえる。だけど設定は違う。あれは客を寄せるという目的よりも、店側の人間が不当な収益をあげるためにある。そう思わんか?」
「まあな」
「あれ、田所班長がしかけたんやないかな」
「は?」
「詳しくは言えんけど」
「詳しく言えよ」僕は笑った。
「おまえを巻き込みたくない」太郎はそう言ってブラックのコーヒーをすすった。
 笑った後で、僕は怒った。「ふざけんなよ。言えよ。この状況で巻き込むもクソもねえだろ」
 ふう、と太郎はため息をついた。「こんなんじゃ食った気にならんから、飯食っていい?」
「食えよ」と言って僕は笑う。
 太郎の言う田所班長というのは、田所りんぼさんと言って、僕は、その不思議なおじさんと四国で出会ったのだった。その頃、僕は旅打ちをしていた。地元のパチ屋にいられなくなっての放浪だった。昼はパチ屋でスロットを打ち、夜はそこで知り合った大勢で宴会をした。りんぼさんはいつも、アースカラーのよれよれの服を着ていた。僕とりんぼさんは、夜、みんなが寝静まった後、湯呑みに入った芋焼酎を片手に、色々な話をした。政治、宗教、サブカルチャー。博識な人だった。高度な知識や技術を必要とされる専門的な仕事をしていたが、何かがあって早期リタイヤをしたというような雰囲気があった。いつだったか、りんぼさんの過去の話になったことがあった。
「人を不幸にする仕事をしていた」りんぼさんはそう言った。
 人を不幸にする仕事?
「人が不幸になることで利ざやを得る仕事ってけっこうあるんだよ」りんぼさんはそんなことを言った。「武器商人がそう。警備会社とかもそうだよね。ギャンブル関連。お酒や薬、医療関係、法曹関係、宗教関係の仕事もそうかもね」
 そのとき僕が何を言ったかは覚えてないが、今考えてみると、りんぼさんが並べたのは、人の不幸を是正しようとする側の仕事であり、人を不幸にすることを目的としているわけじゃない。お酒やギャンブルで身を滅ぼす人もいるかもしれないが、それは単に、期待と惰性による過剰摂取に過ぎない。良いとされているすべてのものには中毒性がある。というか、中毒性のあるものをよいものと認識する脳みそを我々は有している。
 太郎はめんたいこスパゲティとドリアとから揚げという炭水化物だらけの組み合わせを頼み、一気に食した後で言った。
「なあ、サダオ」
「ん?」
「チャチャいれんと聞いてくれるか?」
「善処します」僕はそう言って、ほとんど水同然に薄まったキウイフレッシュを飲み干した。
「おれのいた組織のことはわかるよな?」
「何となく」
「まあ、非合法の団体と聞いてイメージできる団体や」言葉とは裏腹に、清々しい顔で太郎は言った。「幹部になると、幹部しか閲覧できないデータベースが見れて、お金の出所とか流れみたいなんも見れてさ。何故かパチ屋からの入金があって。コンサル料っていう名目なんやけど、おれはおまえとスロット生活してたやろ。ほんで気になって、調べていくうちに、パチスロが日本各地に広まっていくのと、組織が拡大していく時期が重なってることに気づいた」
「……」言いたいことはあったが、黙って聞いていた。
「おまえ、模合って知ってる?」太郎はコーヒーのお代わりに口をつけた後で言った。
「モアイ?」
「沖縄の風習みたいなもんらしいねんけど、たとえば10人の仲間がいて、月に1万ずつ出し合う。Aくんが最初の月に10万円を受け取る。次の月はBくん、次の月はCくんっていう風に融通しあって、安定を得るっていうか、一種の娯楽も兼ねてるんやろうな、琉球王国の頃から続くって言われる独特なコミュニケーションなんやけど」
「聞いたことはある」僕は言った。
「おれのいた組織は、もともとはそのモアイでつながっていた、あぶれもんの集団が発祥らしくて。が、モアイというシステムは、仲間うちで金を回すだけで、資金が増えることはない。その金を投資に回そうとした人間がいた」
「資金源として、パチスロを利用したってこと?」
「というか、パチスロの仕組みを田所班長がつくったことで、全国規模になったんやないか、って。確実な資金調達方法として。黒い金を白い金に、文字通りグレーなマネーロンダリングの手法として」

       777

 りんぼさんがパチスロの生みの親? それはあまりにぶっ飛んだ話だった。
「りんぼさんが、スロットの創成期に関わっている。それが事実だったとして、おまえは何をどうしたいわけ?」根源的な質問を僕はした。
「おまえさっき、ふたつ推論できるって言ったやろ」
「うん」
「ひとつは、時間の流れはひとつの方向に進んではいない。もうひとつは、梅崎樹はただの殺し屋ではない」
「かもしれない、な」僕は付け足した。
「前にさ、スロガイのライターが、初代北斗を評して、未来から来た人がつくった台とか言ってたやん」
「中武さんだっけか」
「スロットに設定を導入したこと。遵法精神の存在しない集団を全国規模にまで拡大させたこと。田所班長。あの人こそが、未来から来た人なんやない? てかな、普通に考えて、やで。パチスロみたいなのが堂々とある世界って変やと思わへん? 非合法集団とか、凄腕の殺し屋くらい現実離れしてへん?」

       777

 久しぶりの吉祥寺は、どこかうらびれた地方都市のように僕の目に映った。井の頭線で渋谷に一本、中央線で新宿に一本、住みたい街ナンバーワンないし上位常連という街のはずなのに、どこにも行けない行き止まりのような雰囲気がただよっていた。あるいは、この街のどこかに佐和がいるということが、僕の目を曇らせているのだろうか?
「なあ、サダオ。黒の反対は?」
「白」僕は答える。「何の話だ?」
「悪の反対は?」
「善」
「じゃあ、灰色の反対って何や?」
 少し考えた後で、薔薇色かな、と言った。なかなかいいこと言えたんじゃないか、と思いつつ。
「ええな。灰色の世界から、薔薇色の未来。それで行こう」
「は?」
 デニーズを出た後で、太郎は吉祥寺に行こうと言った。
「何で?」
「ちょっと会いたい人がおる」
「誰?」
「組織で世話になった人やねんけど」
「で?」
「その人やったらおれたちの境遇を理解してくれると思うねん」
「理解されるわけねえだろ」
「いや、理解してくれる」
「……」
 太郎がこういう風に言い出したら、僕が何を言っても無駄だというのはわかっていた。それでも一応、僕は僕の役割を果たそうと思った。
「太郎、ひとつだけ」
「ん?」
「死ぬなよ」
「いきなり何や」
「さっき死んだばっかりなんだろ。不注意で死ぬなよ」
「わかった」太郎は言った。「後で連絡するからちょっとぶらぶらしててくれ」

       777

 ステップワゴンを20時まで時間打ち切りのコインパーキングに停め、歩くことにした。少し考え事をしたかった。駅の高架を越え、いせやの脇から井の頭公園に入った。紅葉はまだ始まっていなかった。
 ジャグリングをする大道芸人を横目に、池に沿って歩いていく。僕と佐和は一度だけ、この池で手漕ぎボートに乗った。桜の季節だった。
 この池のボートに乗ったカップルは別れるという都市伝説があった。原因と結果を何の因果関係もない説で結ぶ。そのような言説を、スロッターはオカルトと呼んで軽蔑する。たとえば結婚をゴールとして、人は結婚までに何人の人と付き合うのか? 平均5人だとすると、4/5、80%の確率で別れるという計算になる。八割。どこからどう見ても、高確率である。平均10人付き合うとすると、90%。つまり、確率的には、ここに来てボートに乗ったカップルが別れるのは当然なのだ。
「あなたのことを永遠に愛しています」などという言葉は、マニフェストとしておかしいと僕は思う。人間の意識は、人間が100%コントロールできるものではない。たとえば寝ている間、自分を自分として知覚している人はいない。したがって誰かを愛せるような余裕はない。それが1日のおおよそ1/3を占めるのだ。そもそも、我々は人間で、人間である時点で、永遠に生きないことが確定している。愛している。病めるときも、健やかなるときも、永遠に。それは願望かもしれないが、実現は不可能だ。
 が、それが事実だったとしても、誰も喜ばない。それも事実だった。
「ボートに乗って別れるのは当たり前だよね」と言った僕に、佐和はそれまで見たことがないような顔で、「どうして、二人でボートに乗ってるときにそういうこと言うの?」と言った。
 客観的な事実と、コミュニケーションにおける正解は違う。20代の僕は、そのことに気づけなかった。今はまだ存在しない、未来の記憶。あのとき、2007年だか2008年だかの満開の桜の下でボートに乗っていたカップルたちはどこで何をしているのだろう?

       777

 ふと、携帯電話を持っていないことに気がついた。後で連絡するとは言ったが、あいつ、どうやって連絡する気なんだ? この時代、僕は二つ折りの携帯電話を持っていたはずだったが、車だろうか? 太郎は携帯を持っているのだろうか? しょうがないので車に戻ることにした。

 ステップワゴンの中に携帯電話はなかった。自分の軽率さは棚に上げて、太郎の不注意さに腹が立った。舌打ちをした後で反省した。何を熱くなっているのだろう? これも若さだろうか? しょうがない。待つとしたらパチ屋しかない。僕たちが行く場所といえばそこしかないのだから。
 僕は吉祥寺にあるパチ屋を順番に見て回ることにした。スロットコーナーを歩いているうちに、哀しくなった。そこにあるほとんどの台は、来年には消えゆく運命なのだ。そして来年を耐えたところで、10年後まで残る台はない。何のためにこの機械は存在しているのだろう? 時代にそぐわない不必要な存在。まるで自分を見ているようだった。
 不安。憤懣やるかたない不満。自意識。過剰なまでに溢れ出す自意識。そんな時間が嫌で、僕はスロットを打っていたのだった。期待値2000円と期待値3000円。どちらを打てばいいかは悩む必要がない。だけど、自意識は数値化できない。答えがない。そもそも、自分を自分と思うこと自体、オカルトみたいなものじゃないか。
 僕はこの頃の僕がしていたように、初代番長のゲーム数を狙うことにした。モードAのゾーン狙い。狙い通りに引いた赤ボナ中、ピキーンと鳴って赤七が揃った。1ゲーム連が確定。感傷を捨て、コインを集める。僕は一人のスロッターだった。

       777

 薄暗い交換所で、特殊景品を紙幣に交換する。お金が増えるということは、誰かのお金が減るということだ。幾つかの例外はあるにしても、基本的にはそういうことだ。それが算数というものだ。
 パチ屋の中で、太郎はすぐに感情を爆発させた。「あいつの目つきがむかつく。態度がむかつく。ドル箱をがしゃがしゃ振るのがむかつく」
 当時の僕は言った。「おまえはどうやって飯を食ってると思ってるんだ?」
 計算。四則演算。オカルトを憎むスロット生活者の金の出所は、オカルト主義者の懐なのだ。
 打つ台がなくなってしまった後、僕はベンチに座ってタバコを吸った。タバコを吸うと、けばだった精神が少しマシになった。清涼感のある煙をふーと吐き出しながら、これはいいものだ、と思う。が、ニコチン切れがイライラの発生源だったとしたら、という理路に思い当たった。イライラの解消こそがイライラの発生源であるならば、タバコを吸うことのどこに理があるだろう? だけど、そんなことを言ったら、生きること自体が悲しみのもとではないか、というそもそも論に帰結してしまう。それは意味がない。タバコをスタンド式の灰皿に投げ入れて、ヤニで黄ばんだ天井を見上げた。
 やることがなかった。原因不明の怒りがわいて、収まると、眠くなった。でも、眠るのが怖かった。僕の現在地は、あのカジノホテルにあって、今は走馬灯状態というRTの最中かもしれない。眠ったら最後、戻ってこられないかもしれない。それが怖かった。
 しかし眠りには抗えそうになかった。

 俺、死んだ? しかし、目が覚めても、僕はパチ屋の喫煙所にいた。そこでタバコを吸う女性に見覚えがあった。
 ……佐和だった。

       777

 佐和は以前よりも、髪の色が明るいように思えた。以前という言葉に違和感を覚えながらも、佐和から目が離せなかった。モヘアのような生地の黒いコート、黒いホットパンツに黒いロングブーツ、悪い魔女かおしゃれなカラスのような格好だった。佐和は僕と目が合うと、ニコと笑った。その笑みに、嫌なものを感じた。
 次の瞬間、「久しぶりだね」と、佐和はそう言った。
「久しぶり」と返しながらも、嫌な予感は膨らむばかりだった。佐和と出会ったのは、2006年の10月16日だった。この時点で佐和が僕のことを知るはずはない。
「こないだはありがとう。300万円はきちんと返すから」佐和は言った。
「この間?」
 確かに、別れた後で、僕は佐和の銀行口座に300万円を振り込んだことがあった。だけどそれは2006年のことじゃない。
「そう。こないだ」佐和は言った。
「それって西暦何年?」僕は聞いた。
「2012年」
 ……めちゃくちゃだった。時間の流れがおかしなことになっています。なぜだか自意識が敬語になった。僕は心の中で首を振り、認識を立て直そうとした。
「てか、佐和、タバコ吸ってたっけ?」
「最近ね」と佐和は言った。最近という言葉の有効範囲の広さにめまいがした。「たかしに言ってなかったことがあったんだけど、今、言ってもいい?」
「うん」と言いながら、ポケットからクールマイルドのボックスを出し、100円ライターで火をつけた。煙を吸う。煙を吐く。スウとした煙を、巨大な表面積を誇る肺が瞬時に吸収し、脳に送る。喫煙により、頭が弛緩し、喫煙により、頭が覚醒する。自作自演。
「松田遼太郎くんは、元カレなんだ」
 松田遼太郎くん? タバコを吸う。煙を吐く。
「……何で秘密にしてたの?」僕は言った。
「言えないでしょ」佐和は当たり前でしょという風に言う。
「何で?」
「当時はまだ好きだったから」
 ……どうしてかわからないが、僕はその言葉にダメージを受けていた。
「でも、過去の話だよ」佐和は言った。
 過去という言葉のあいまいさに腹が立った。「ここからすると、未来だけどね」と僕は言った。
 佐和はタバコをスタンド式の灰皿に放り投げると、「行きましょう」と言った。立ち上がると、佐和の肩まで伸びた栗色の髪が揺れた。
「どこに?」
「松田遼太郎くんを探してるんでしょ。案内してあげる」
 不安、焦燥、苛立ち、かまってほしい気持ち。そんなものが体内を渦巻いていた。不快だった。僕は松田遼太郎くんに嫉妬しているのだった。

       777

 駐車場まで歩いて、お金を払って、車を発進させた。
「どこに向かえばいい?」
「西新宿」
 シーモの「マタアイマショウ」が流れていた。感傷的な曲だった。そんな気分ではなかったので、CDを代えようとした。けれど、何を聞いても消え去った時代の空気が混じっていた。コウダクミ、ヒライケン、コブクロ、スマップ、ハマサキアユミ。あたりまえだ。ここは2006年なのだから。しょうがないので適当にFMのラジオを選局し、流しっぱなしにした。
「運転できたんだね」佐和は言った。「どこにも連れて行ってくれなかったけど」
「ごめん」なぜ謝っているのかわからないながらも僕は言った。
 新宿方面に向かう道は混んでいた。じりじりとしか進まない車内は、針のむしろという言葉を想起させた。何かを聞きたいが、何を聞けばいいかわからない。何かを言いたいが、何を言えばいいかわからない。

 僕の前に道はない。僕の後ろに道が出来る。ああ自然よ。父よ。僕を一人立ちさせてくれた広大な父よ。僕から目を離さないで守る事をせよ。常に父の気魄を僕に充たせよ。この遠い道程のため。この遠い道程のため。

 僕は極度に困ったときに、記憶からテクストを引っ張ってくる癖があった。その作業をしていることが、僕が極度に困っていることの証でもあった。高村光太郎「道程」頭の中で詩をそらんじた後で、父に見守られていたら一人立ちじゃないやんけ、と思う。いかん、太郎の喋り方が移ってしまった。僕は完全にテンパッていた。

       777

 ハザードランプをつけて、青梅街道の路肩に停まった。
「どうしたの?」佐和は言う。
「現実を、脳が処理できない。今から俺たちはどこに行くの?」
「松田遼太郎くんに会いにいく。でしょ?」
「それで、その後は?」
「それは会ってからのお楽しみ」佐和は嬉しそうに言った。「ねえ、たかし、運転代わろうか?」
「運転できるんだ」僕は言う。
「わたし、けっこう上手だよ」
「じゃあ、お願いします」そう言って運転席を出て、目に付いた自販機でアクエリアスを買って、助手席に乗り込んだ。
 佐和はロングブーツを脱ぐと、後部座席に置いた。光沢のある黒いハイソックスがあらわになった。女王の帰還を待ちわびていたように、途端に道が空きだした。が、けっこう上手い、と言う割には、佐和の運転は普通だった。
「わたし、車高の低い車ばっか運転してきたから車高が高い車は慣れないの」佐和は弁解するように言った。「ねえ、CD、宇多田ヒカルある? 松田遼太郎くんが好きだったからあるでしょ」
 松田遼太郎くん、ね、と思いつつ、デッキを探すとULTRA BLUEがあったので、挿入した。軽妙なイントロが流れ始める。「This Is Love」不思議と宇多田ヒカルの楽曲からは感傷を感じなかった。

       777

 佐和は新宿西口のビル街で車を停めた。僕が小さい頃、このあたりは新宿副都心と言われていたような気がする。いつから言われなくなったんだろう? 都庁が丸の内から移転してきたからだろうか? 都庁、新宿住友、新宿三井、京王プラザホテル、そんなビル郡の一角にあるビルを指して、ここ、と佐和は言った。
 見上げると不安になるくらい巨大なビルだった。最新鋭のエレベーターに乗って、21階で下りる。
 そこは企業がプレゼンかセミナーをするような一室だった。正面にホワイトボード、ホワイトボードに向かったデスク、椅子。観葉植物の鉢がひとつ。ふたつ。窓はない。
「こんにちは」と佐和が言った。2人のスーツ姿の男性がすでに席に座っていた。その一人が太郎だった。僕と佐和を見つけた太郎は手を上げた。カーキ色のカーゴパンツにMA-1風の紺色のフライトジャケット、コンバースのオールスター。機動力を重視した、いかにもスロッター然とした僕と、黒い魔女のような佐和は、場違いな闖入者だった。大量生産品の椅子に座ると、扉が開き、ひとりの男が入ってきた。田所りんぼさんだった。
「お疲れ様」紺色のスーツを着たりんぼさんは言った。「ええと、今日は一回目ということで、気軽に、リラックスした気分で聞いてもらえるといいかな、と思います」
 一回目? 僕は顔をしかめた。が、そこにいる3人は特に不思議がるそぶりを見せなかった。
「僕は田所りんぼと言います」とりんぼさんは言った。「僕は、戦争をもくろんでおります。ただし、それは通常の意味での戦争ではありません。たとえば某国は、国力のほとんどを軍事力に注力し、ある覇権国家と対峙しようとしていますが、軍事力では、その国には絶対に勝てません。それは、自分よりも体重の重い人間に、体重で勝負を挑むようなものだからです。では、どこで勝負するか? あるいは、どこだったら、勝負になるのか?」
 りんぼさんは、僕たちの顔を順番に眺めた後で言った。
「勝負をするには、まず、目覚めなければなりません。沖縄に核が運ばれたことでも、この国は目を覚ましませんでした。また、その島の一等地に他国の軍事施設が居座り続けていることでも、住民が殺されても、陵辱され、人権を蹂躙されても、目を覚ましませんでした。本土に目を移しても、同じことです。東京全域、のみならず、関東の上空を丸ごと占領され続けている事実をもってしても、この国は目を覚ましませんでした。巨大な地震が起きて、原子力発電所が破壊されても、目覚めませんでした。どうすればこの国は目覚めるのでしょう? 僕はずっと考えてきました。時に時を巻き戻し、先送りし、それでもなお、わからないのです。人は、どのように目覚め、そして立ち上がるのか? そこで、ひとつの仮説として、みなさんをお呼びしました。メメントモリ。ここにいるみなさんは、最低1度以上、死んだ経験をお持ちのはず。そのみなさんの意見をお聞きしたい」
「あの」長髪に無精髭、水玉模様のネクタイ、毛羽立った質感のチャコールグレーのスーツ。太郎の横に座っている男性がぶっきらぼうな調子で手を上げた。
「はい。桜井くん、どうぞ」
「ええと、知らない人もいると思うんで、自己紹介しとこうかな。桜井時生って言います。2016年から来ました。何かちょっと若返ってラッキーって感じだけど、今の話を聞くと、めんどくせえなって」
「桜井くんは、国なんてどうでもいいということかな?」
「うん」
「個人主義。うん、それはひとつの答えだね」りんぼさんはうなずいた。
 トントン。ノックの音が聞こえた。
「失礼します」と言って入ってきたのは、小学生くらいの男の子だった。半ズボンにLAドジャースのトレーナーを着たその少年は、「すいません。遅れてしまいました。高木良太です。2017年から来ました」と言った。それから僕の隣に座り、僕に向かって頭を下げ、「師匠、お久しぶりです」と言った。









 人間は、驚くと、頭だけじゃなくて、全部が真っ白になるのだな、と思った。なるというよりも、白に変えてしまう。ペンも白。全部白。クレヨンも白、色えんぴつも白。どんなコミュニケーションツールを使おうとしても、何も書けない。どれだけ書きたいことがあったとしても、誰にも伝わらない。僕がそんな空白に陥っている中、誰かが口を開いた。りんぼさんだった。
「小僧くんが来たので、もう一度説明します。僕は、戦争をしようと考えています。それは従来の意味の戦争ではありません。敗戦の否定でも、名誉の回復でもありません。何かを保守することでもなければ、希望を語ることでもありません。物語。何を語れば、この現実を変えられるのか、それをみなさんと考えたいのです」
 小僧は、僕の直近のスロットのパートナーだった。確か、2014年に出会ったとき、小僧はまだ18歳になるかならないかだった。年齢によって、時間の持つ重みは違う。小僧にとっての10年は、文字通り大人と子どもの違いだったのだ。
「今度は質問」桜井時生という人が手を上げた。
「どうぞ」
「りんぼさんがしてるのは、要は主語を国にするにはどうすればいいかって話でしょ。それに造反する人間。たとえばオレみたいなやつは、殺せってことですかね。ファシズム国家的に」
「いや、そんな物語はまったく楽しくないよね?」りんぼさんは逆に桜井さんという人に質問を返した。
「だって、もう無理でしょ」桜井さんという人は言った。「日本はもう充分に繁栄を遂げた。というか、充分過ぎるほど奇形に発展してしまった。これをゼロに戻すには、それこそ国土が戦地になるくらいないと」
「うん」りんぼさんは満足そうにうなずいた。「師匠、君はどう思う?」
 急に振られたことで、僕はまた頭が真っ白になってしまった。俺の脳みそは、こんなにナイーブだったか? 残り少なくなった絵の具のチューブを絞るように、言うべきことを探した。
「今、そちらの方が2016年から来たとおっしゃいましたが、小僧は今」そう言って小僧の横顔を見ると、本当にただの少年で、小僧というあだ名がバカみたいに思えた。「……小僧は2017年から来たって言ってたっけ? 太郎は2014年。この年数にはどんな意味があるんですか?」
「意味なんてないよ」りんぼさんは言った。
「てか、あなたはどなた?」桜井さんという人が言った。
「山村崇と言います。俺の認識では2015年にいました」
「山村、山村……」桜井さんという人は食い気味に僕の名前を連呼した。「もしかして山村先生の関係者? 古典の山村先生。家、久我山のあたりの?」
「いえ、家はもう少し甲州街道寄りですけど。父は古典の教師をしてました」
「絶対そうだわ。おれ、あの人にすげえ世話になったんだよ。ずいぶん本読んだな。それが今でも役に立ってる気がする。先生に会ったらよろしく言っといてよ」
「いや、もう死にました」そう言った後で、父の死は2014年だった、と思う。そうか、この世界では、まだ父は死んでいないのだ。「すいません。この時点では生きてました」
「そうだ」桜井さんは言った。「りんぼさん、それ。歴史変えちゃっていいの?」
 んん、とノドを鳴らし、りんぼさんはネクタイに手をやった。
「というよりも、すでに、歴史は変わってるよね。たとえば今日、2015年まで生きていた師匠、2014年まで生きていた松田くんの記憶では、パチンコ屋にいたはずだった。そこで手にするはずだったお金は、あるいはそこで使うはずだったお金は、なかったことになった。誰かの手にお金が入り、誰かはもっと失った。すでにもう、歴史は変わってしまった」
「あの、この中でおれだけ、ものすごく不利な立場だと思うんですけど」そう言って立ち上がったのは小僧だった。「せっかく師匠と再会できた。これでもう一度一緒にスロットを打てると思ったら、何でおれは小学生なんですか? これじゃ、パチ屋入れませんよね」
 この期に及んでパチ屋に入りたい? 小僧の訴えに、思わず笑ってしまった。つられて太郎も笑った。「それはしゃあないやろ。ええこともあったやん。目、独眼流じゃなくなったんやし。何年か待とうや」
「お言葉ですが、太郎さんの年齢はいくつですか?」
「何歳やったっけ。ええと、2006年やから、26か」
「師匠は何歳ですか?」
「24歳です」少年の剣幕に、思わず敬語が出てしまった。
「おれ、10歳ですよ! 後、何年待てばいいんですか? てか、また、両親が死ぬのを見なきゃいけないんですか? もう嫌ですよ」小僧は泣き出さんばかりの表情で言うのだった。
「たしかに、小学生もう一回やり直せってしんどいな」桜井さんが言った。
「でも、少年。子どもの方がチヤホヤしてもらえるよ、絶対」佐和が言った。「おじさんになると誰もチヤホヤしてくれなくなるよ」
「そんなのいりません。おれはもう自立してるんで」短パン姿の小僧は口を尖らして言う。
 パチ屋で稼ぐのは自立なんだろうか? それは自立というよりも、寄生ではないか? そんなことを考えている間も、小僧は不平不満を並べ立てた。自分はやっと、成人したのだ。やっと大人になれたのだ。成人から成人に戻るのはいい。肉体は若返る。経験はそのまま活かせる。いいことずくめだ。が、成人から子どもに戻るのは不利ばっかりだ。力は弱い。身長は低い。発言権はない。というよりも、大人にとって当たり前の権利が認められていない。納得いかない。というのが小僧の主張だった。不公平すぎる。せめてパチ屋に入れるくらいの年齢にしてほしい、と。小僧の主張を聞いているうちに、小便がしたくなった。したいと思ったら、そのことしか考えられなくなった。ダメだ。小便が漏れそうだった。何でだ? ああ、さっき車の中でアクエリアスをがぶ飲みしたからか。
「すいません。トイレ行ってもいいですか」と言って、立ち上がった。
 人気のない廊下を歩き、トイレに向かう。作られてから誰も使っていないのではないか、と勘ぐってしまうくらい清潔なトイレだった。小便をしながら痛感したのは、やはり僕は集団行動が苦手だということだ。よくもまあ、人間が5人も6人も集まって、自分の意見をぶつけられるものだ、と思う。1対1なら、僕はいくらでも自分の意見を言うことができる。否定されたところで、1対1、イーブンの関係だ。だけど、3人以上になると話が変わる。僕が1、相手が2。たった1人とはいえ、敵の数が倍なのだ。1:1なら、条件は五分と五分。機械割は100%。自分が自分として生きるために呑むことのできる最低条件だ。が、1:2となると、確率的には宝くじを買うのと相違ない。僕が小僧だったとしたら、ああいう言い方はできないと思う。パチ屋に行けないことを嘆く前に、不公平さを糾弾する前に、小学生の自分、小学生の身分で取れる期待値のことを考えると思う。
 ……我がことながら、とことんパチ屋のルールが染み付いているのだな、とぞっとする。個人主義というのとも違う。自分の不利な条件では動かない、勝ちゲームにしか参加しない嫌なやつだ。そりゃ友達もできなくて当然だ。
 小便はなかなか終わらなかった。放物線を描く小便を見ているうちに、中学生の頃、G-SHOCKが尋常じゃなく流行り、そのタフネスぶりを誇った同級生のひとりが、思い切り地面に叩きつけて、「壊れねえ。すげー」と言い始めたことを思い出した。彼は投げつけるたびに「壊れねえ。すげー」と叫び、周りの同級生もすげーとはやし立てるのだが、僕は不安を覚えていた。結局、彼のG-SHOCKには亀裂が入ってしまった。「……何だ。壊れるんだ」悲しそうな彼の顔を見て、不安が解消されるともに、バカじゃないか、と思った。彼は他人がいなくても、一人でもあれをやっただろうか? やっただろう。だけどたぶん、壊れるまではやらなかっただろう。人が集まると、増長する人間が必ず出てくる。調子に乗らずにはいられないのだ。一人でスロットを打つときはそんなそぶりもないくせに、仲間が隣で打っていると、強打を始める大学生のような。
 とりあえず、集団が苦手ということを再認識できただけでもよかった。小便を最後の一滴まで絞り切ると、カーゴパンツのチャックを上げ、手に液体石鹸をつけて洗い、乾燥機で手を完璧に乾燥させて、苦手な世界に戻ることにした。

       777

「おれ、小学生やったら女風呂入りたいわ」太郎がそんなことを主張していた。
「包茎ですよ」小僧はすかさず言い返す。「あんなに苦労してむいたのに。また皮かむってるんですよ。そんなの耐えられますか?」
「今のうちにむいておいて、鍛えてみるのはどうや。前の人生よりも立派なものになるかもしらんやん」
「そんなのどうでもいい。おれはセックスよりもスロットを打ちたい」
「おまどんなけ打ちたいねん。それただのジャンキーやんけ」
「太郎さんが10歳でも、同じこと言えますか?」
「言えんかもしれん。でも、おれ、10歳やないし」
「それでは対等の議論にならない」
 りんぼさんは、パイプ椅子に座って、二人の言い合いを興味深そうに見守っている。佐和はつまらなそうに栗色の髪を手でいじっている。桜井さんは疲れてしまったのか、あるいは会話に飽きたのか、デスクにつっぷして眠っているようだった。
「わかった」りんぼさんはパイプ椅子から立ち上がって言った。
 肉体的、年齢的なハンデがあるというなら、小僧くんには、これを進呈しよう。りんぼさんが懐から取り出したのは、L字型をした黒い物体だった。その物体の後方をかちゃりと引いて、小僧の前のデスクに置いた。「引き金を弾けば、すぐに弾は出る。さあ、話を続けて」
「……ちょ、それはハンデでかないっすか?」太郎が言った。
 小僧は興味深そうに、黒光りする武器を手に取った。
「マツ太郎、おまえが本当に脅威に感じるなら、今、取り上げちゃえばよかったのに」桜井さんがあくびまじりに言った。「もう遅い。それをしなかった時点で、おまえは自分の意見を撤回するか、銃を持った相手と戦わなきゃならんな」
 小僧は太郎に向かって銃を構えた。
「ちょ待って。悪かった。おれが悪かった。おれがスロットを打てるとこに連れて行くからどうや? 正規の店は無理やろうけど、知り合いの闇スロの店やったら子どもでもいける思うわ」
 小僧は銃を構えたまま静止している。
「……それか、ゲーセン行こう。出た分のメダルはおれが金に交換する」
「太郎さん、バカにしないでください。おれはスロットというゲームがしたいんじゃなくて、法律の中で、パチ屋に入ってギャンブルがしたいんですよ」
「なあ、小僧」僕は立ったままで言った。「今、おまえには、2006年から先の、2017年だっけ? 人類の歴史という記憶がある。この資本優位社会においては、その優位性を持ってすれば、コツコツとパチスロを打つなんていう地道な作業の何十倍、何百倍の金を得ることができる。10歳という年齢は、確かに今は不利かもしれない。だけど、10年後はどうだ? 人間はみんな歳を取る。おれたちは衰えが始まってる。白髪も混じり、小便の切れも悪くなる。だけどおまえは、その頃には、最も充実した肉体を得ている。使い切れないほどの金とともに。パチ屋に入りたいという目先の願望よりも、割のいい話だと思うけど」
「それは師匠が今、現時点で大人だから言える言葉ですよ。師匠のガワが子どもだったら、そんな戯言は言えないはずだ」
「なあ、小僧、前も言ったよな。打ちたいからスロットを打つんじゃなくて、期待値があるからスロットを打つんだって。スロットは、金を稼ぐという目的のひとつの手段に過ぎない。手段と目的を混同するな」
「そんな言い方はないだろ」そう言って、小僧は太郎に向けていた銃口を、僕に向けた。「スロットの喜びは、師匠が教えてくれたんですよ。ストップボタンの感触、リールの回る音、目押しの快感、ヒキがかみ合った瞬間の快感。すべて師匠がおれに与えてくれたものだ。いくら師匠でも、そのことを否定されたくない」
 梅崎さんに殺されるならいざ知らず、こんなところで10歳の小僧に殺されるなんて、そんな馬鹿らしいことはないように思えた。はいはい。わかったよ。僕は自分の主張を撤回しようとした。が、どうしてか、僕の口は、逆のことを言うのだった。
「甘えるのもいい加減にしろ」僕は自分が信じられなかった。信じられないながらも、口が止まらなかった。「おまえが自分のことを大人だと主張するなら、大人としてふるまってみろよ。今のおまえは駄々っ子そのものだ。おまえのガワがおっさんでも、老人でも、そんなふるまいは通用しない」
「そんなことを言って、師匠は逃げ出したじゃないか」小僧は言った。「たけさん、死にましたよ。誰が見取ったと思ってるんだ? たけさんはもう一度師匠に会いたい。もう一度みんなで酒を飲みたいってずっと言ってた。あんたはどこで何してたんだ? アメリカに行った? アメリカに行って、カジノからも逃げ出したんだろ? 牙リバさんから聞いたよ。期待値がないからって逃走した。最低だよ。あんたは逃げることしかしてないじゃないか。そんなあんたに、大人とは何かなんて語ってほしくない」
 カジノから逃げた? あのままカジノホテルにいたとして、未来の自分はそんなことをしたのだろうか? でも、まあ、逃げがちだな、と思う。そのことに関しては、ぐうの音も出ない事実だった。確かに、僕は逃げ出しがちな自分が嫌だったこともあった。でも、逃げるのは、僕なりの前向きな選択なのだ。逃げても逃げても、自分の弱さは必ず追いかけてくる。僕は僕なりの方法で、僕の敵と戦っているのだ。誰も僕の代わりには戦ってくれないのだから、誰かに何かを言われる筋合いはない。
「そのこととおまえの駄々は、まったく関連がない。俺が何をするか、誰と過ごすかは、俺個人の問題だ。逃げる逃げないもそうだ。関係のない問題を一緒くたにするなよ。頭が悪い」
「うるせえ」そう言いながら、小僧は銃を握っていた右手に左手を加えた。
「今頃反抗期か? まあ、でも、10歳だったら適齢期か」
「殺すぞ」
「殺す? 何で?」僕は言った。
「黙れ」そう言うと、小僧は引き金を弾いた。

       777

 近づいては遠ざかる。波の音が聞こえていた。
 ここはどこだ? 俺は何をしていた? パチ屋に行くところだったっけ。何を打とう? 困ったときは、設定1の機械割で決めようという消極的な戦法があった。たとえ設定を取れなかったとしても、負けにくい。もちろん、そのような機種に設定が入ることは少なかったが、たとえば1995年デビューのクランキーコンドルという機種は、目押しの技術が確かでさえあれば、そして等価交換の店であれば、設定1の機械割が103%だか105%だかあった。だけどコンドルはもうどこかに飛び立ってしまった。
 白昼夢を見ていたかのように、僕は立ち尽くしていた。近づいては遠ざかる。波のような音が聞こえている。フロアには、短パンにLAドジャースのトレーナーを着た小学生の小僧が倒れている。小僧はなぜか、僕ではなく、自分のこめかみに向けて銃を撃ったのだった。その弾は頭蓋骨を砕き、脳漿を噴出させ、足のふんばりを無効にしてしまった。小僧の体は重力にしたがい、崩れ落ちた。沈黙があった。それから、小僧の体は溶け出した。波のように聞こえていたのは、小僧の肉体が溶けていく音だった。
「これはどういうことですか?」僕はりんぼさんに尋ねた。
「ここはある種の暫定的な、言わば、かりそめの空間だからね。死んだら溶けてなくなる」
「なくなるって?」
「無だよ。師匠」
「無?」
「困ったな」りんぼさんは、困っているとはとても思えない表情で言った。「いきなり欠員が出てしまった。キャラクターというのはね、そう簡単にポンポン出てくるもんじゃないんだよ。第一に、信頼というものがある。小僧くんはこういう人間である、というある種の信頼のもとに、キャラクターというのは成立する。信頼というのは、個性の強さと、それから、過ごした時間に比例する。それは、僕のこの何十年間かの結晶でもあったんだ。それが文字通り、泡と消えてしまった。困った」
「りんぼさんは困るかもしれないけど、これだと自殺をするのも気が楽だね」桜井さんはそう言った。
 波のように聞こえていた音は、ぷちぷちという、ドンパッチを口内に入れたような音に変化していた。数分前まで喋っていた小僧の体は、水や脂肪やタンパク質などから成る肉体から、アメーバのような粘性のある液体に変わりつつあった。
「班長」太郎は言った。「どうやったら彼を復元できますか?」
 りんぼさんはニコと笑った。「いい着眼点だ。松田くん。そう、彼が甦るのにふさわしい物語を見つければいい」

       777

 ぷちぷちという音は、とても不快だった。いや、音単体は、それほど不快ではないのだと思う。それは、消失に対する畏怖なのだった。今、消えつつあるものは、かつて、この世界を自由自在に動き回っていた。それが、消えていく。ぷちぷちという音を立てながら。そんな横暴が許されていいのか? しかしその破裂音もやがて止み、後に残ったのは、L字型をした黒い銃だけだった。りんぼさんは立ち上がると、その銃を拾った。
「お金の心配はいらない。法律の制約もない。モラルの咎もない。何でもいい。この世界で、我々が立ち上がるに値する物語を提示してほしい」
「質問」桜井さんが言った。「金の心配がいらないってことは、その金を使って遊び暮らしてもいいってことですか?」
「もちろん。そこにしかるべき物語さえあれば」
「本来死ぬはずではなかった人が死んでも、本来生きるはずじゃなかった人が生きても?」
「ああ」
「じゃあ、とりあえず経費として、おれのマンションに、10億円、現金で持ってきてもらえますか?」
「わかった」
「じゃ、よろしく。白取さん、マツ太郎、山村先生の息子さん、またね」
 桜井さんという人は、颯爽と立ち上がると、一度も振り返らずに部屋を出て行った。彼が出て行くのを目で追った後、小僧が消えた床に目を移した。そこには染みもなければ、匂いもなかった。
「何で少年は自分を撃ったのかな」佐和がぼそっと言った。
「正論対感情」太郎が言った。「サダオは正論を言った。正論なのだから、もちろん正しい。だけど、政宗の感情は違った。コンフリクトを解消するにはどちらかが消えるしかなかった」
「ねえ、松田遼太郎くん、いつからそんな喋り方になったの? それと、サダオと政宗って誰?」佐和は言った。
「おまえ、おれらのことサダオに言うたん?」
「おまえとか言わないでくれる」佐和は言った。「サダオって誰?」
「サダオはこいつやん。ヤマムラサダオ」
「彼はたかしって名前だけど」
「リング・らせん・ループが好きな頃やってん」太郎は決まりの悪そうな顔で言った。
「政宗ってのは? 彼、小僧って呼ばれたけど」
「ああ、あいつと出会ったとき、眼帯してたから。独眼流政宗」
「そんなの初対面のわたしがわかるわけないよね」
 佐和がこんな風に誰かに強い口調で自分の意見を述べているのを初めて見た。少し胸が痛んだ。
「それと、わたしの記憶が正しければ、君とわたしは同じ病院で生まれ、同じ地域で育ったはずだったけど、どうしてそんなけったいな喋り方をしているの?」
「ステイトメントや」
「ステイトメント? 所信表明ってこと? 何の?」
「おれは生まれ育った場所ではなく、自分で選んだ場所で生きるっていう宣言」
「馬鹿じゃないの」
 ふふん、とりんぼさんは笑った。「そろそろこの部屋をこの時代の人に返さなければいけない。君たちはお金は必要ではないのかな」
 僕は首を振った。金をもらったところで、何かができるとは思えなかった。
「それ、おじさんに後から言ってもいいですよね」佐和は言った。
「かまわないよ」とりんぼさんは言った。
 おじさん? 僕が不思議そうな顔をしていると、「ああ、おじさんとは親戚なんだ」と佐和は言った。
「健闘を祈ってる」りんぼさんはそう言うと、僕らの退室を促した。
「わたし、ちょっとトイレ」部屋から出た佐和は言った。
 僕と太郎はエレベーターホールまで歩き、そこで佐和を待つことにした。ガラス張りのフロアからは、日の暮れかかった西新宿の街が一望できた。
「なあ、太郎」僕は言った。「何でおまえ、おれが佐和と付き合ったことを知ったとき、知り合いだったことを言わなかったんだ?」
「……何でやったかな。たぶん、いらん心配をさせたくなかったんやと思う」
 僕はあからさまに嫌な顔をした。
「黙っててすまんかった」
「何でおまえはそう秘密主義なの?」
「……」
「お待たせー」と言って佐和は戻ってきた。唇の色がさっきと変わっていた。そして心なしか、声も明るくなったような気がした。「何の話してんの?」
「いや、どこのパチ屋行こうかなって相談」太郎はたぶん、冗談を言ったのだった。
「え、わたしも行く」佐和は冗談とも本気ともつかないような言い方で言った。
 僕はエレベーターのボタンを押した。ほどなくして到着したエレベーターに僕たちは乗った。
「それやったらさ、ここでいっぺん、ギャンブルしてみいひん?」下降する箱の中で太郎は言った。
「ギャンブル?」僕は言う。
「この3人の中で、誰に運、というか神が味方するのかを知りたない?」
「何で?」僕は言った。
 チーン、という音が、エレベーターが1階に到着したことを告げた。
「でも、面白そう」佐和はそう言いながら、エレベーターの外に出た。「で、ギャンブルって?」
「そら、スロットやろ」

       777

 僕たちは京王百貨店の脇の道をルミネ方面に歩いている。
「何打つの?」僕は言う。
「北斗っしょ。後ちょっとで打てなくなるんやし」太郎は答えた。
「北斗でどうやって勝ち負けつけるんだ?」
「そりゃもちろん、誰が一番出すか」
「今から閉店まで打つの?」僕は嫌な顔をした。「バトルボーナスって割と重いし。設定1がわかってる北斗を回したくないんだけど」
「わがままやな、おまえは」
「ねえ」佐和は言った。「わたしにわかる言葉で説明して」
 ……そりゃ無理だ、と思った。
「いいやん。おまえそういうの得意そうやし。パチスロとは何か?」
 パチスロとは何か? リールのコマ数だとかリール制御だとかウェイトだとかフラグだとか仕組みの話をすればいいのだろうか? ボーナスゲーム、ATというゲーム性の話だろうか? 特殊景品だとか交換率だとか三店方式というグレーな話だろうか?

 まず、第一に、ギャンブルには参加費が必要である。すべてのギャンブルがそうだが、案外、認知されていない。知ろうとしないというよりも、「当たり」という報酬が目くらましになって、見えにくいのだ。
 その参加費はたいてい公表されている。宝くじは55%弱。簡単に言うと、100円賭けたとすると、55円程度は参加費として無条件に徴収されるということだ。これ、得だと思う? 俺は思わない。競馬の場合は70~80%。スロットは公表されている最低設定が95~97%程度。ただし、スロットの場合、打ち方で変わってくるし、数値が盛られている場合もある。そこに付け入る隙があるんだけど。とにかく、90%だとしよう。一見すると、そんなに負けないじゃんと思う。が、スロットの1プレイは60円。1ゲームあたり数円のマイナスも、1日単位で見ると数万になる。それがパチ屋にあるほとんどすべてのスロットが吸い上げる。これが参加費。勝てると思う? 俺は思わない。
 でもね、ここからが不思議な話なんだけど、スロットには6段階の設定というのがあって、中でも最高設定と言われる設定6は、参加費を上回るリターンがほぼ約束される。当たりが決まってる宝くじみたいなもので、つまり、打てば打つだけ、打ち手のお金が増える仕組みになってる。
「よくわからないな」佐和は言う。「たとえばわたしが今、パチ屋に行って勝てるもの?」

「勝てるか勝てないかは運」 
「運じゃ生活できないじゃん」 
「うん」 
「……」佐和は怒ったような顔で僕を見上げた。 
「これくらいの幅があるんだよ」僕は小さい前習えみたいに両手を出した。 
「何の幅?」
「設定ってのは、台の設計図みたいなもので、その台がどういう挙動を示すかの指標ではあるんだけど、その設計図が引き起こす現実にはふり幅がある。それを俺は運って言葉にしただけなんだけど、原則として、店はお金を稼ぐために店を開ける。だから店としては、どれだけふり幅があっても店を経営していくのに支障がない設計図をつくる」 
「さっきたかしは参加費って言ったけど、店を経営するってことは、何かを売ってるんだよね」佐和は言った。「ギャンブルってのは夢を売ってるみたいなことでしょ? 夢を売るんだから、参加費が高いんだよね?」 
「まあ」
「二人は泥棒ってことだよね? 来るなとか言われたりしないの?」
 佐和の言葉に、太郎は苦い顔をした。

「泥棒ではないけど、来るなって言われたことは、ある」
 実際、出禁になったことは2度ほどあった。最初はこいつとコンビで打ち始めた頃、一台を交代で打っていただけで出禁と言われたのだった。次は太郎の態度が悪くて。
「何だかよくわからないけど、クリーンなことをしているようには聞こえないね」佐和は言った。
「うん。クリーンではない」僕は言った。

 ルミネ前のエレベーターを下りて、グリーンピースを横目に歩く。そうこうしているうちに、目的のパチ屋に到着。
「で、わたしたちは何をするの?」
「北斗の拳を打つ」太郎は言う。
「北斗っておまえはもう死んでいるみたいなやつ?」
「そう。あべし」
「わかった」僕は言った。「継続率の一発勝負にしよう」
「わかった?」佐和は口を尖らした。「全然わかんないんだけど」
「66.666%が当たりで、33・333%が外れ。で、先に外れを引いた人が負け。最後に残った人が勝ちってゲーム」
「要はさ」太郎が助け舟を出すように言った。「三つのバスケットケースの中にリンゴが二つ入っています。1/3が空で、2/3がリンゴ。そんなゲーム」
「それ、面白いの?」
 僕たちは苦笑した。
「まあ、言葉を聞くだけだと面白くないわな」太郎は言った。「だけど、実際にパチ屋の中で、自分のお金を賭けて闘ってるケンシロウを見るのは楽しい」
 そう、言葉にしてみると、夢もロマンもクソもない、面白みのない事実だった。バスケットケースの中身を透視することはできない。だけど、3つの中に2つ当たりが入っているという事実があれば、それだけで充分なのだ。参加費があるということ、運にはバラつきがあるということ。そのうえで勝てる蓋然性の高い状況にいること。そのことをスロッターは期待値という言葉で表現する。

       777

 電気グルーヴの「シャングリラ」が流れていた。久しぶりのパチ屋は、カジノとは比べ物にならないくらいうるさかった。旧式のコインサンドで1万円札を両替し、僕が左、佐和が真ん中、太郎が右、とストップボタンのように並んで打ち出した。スロット初体験という佐和は当然目押しができないが、強演出時のみ左にいる僕がすることで合意した。レバーを叩く。リールが回る。ストップボタンをとめる。懐かしきワンアクション。
 太郎がよっしゃ、と言って左手でグーを作って掲げた。見ると、赤七が揃っていた。ケンシロウのまとったオーラは青。僕と佐和はプレイの手を止め、太郎のプレイを見守ることにした。
 ぐわーっはっはっは、とラオウが笑い、バトル開始。ケンシロウのアップ、ラオウのアップ、次ゲームでケンシロウが出てくると継続確定だが、登場したのはラオウだった。ラオウは、パンチによる攻撃を選択した。その様を見て、太郎がにやりと笑った。が、太郎シロウはラオウのパンチをもろにくらい、そのまま立ち上がらなかった。テレレレレレー(単発フィニート)。
「んーーーでやねん」太郎は叫ぶ。「パンチって非継続時の10パーやったやろ」
「はい。太郎脱落」と僕は言った。
「ちょ待てって。おまえらも単発かもしらんやん。その場合、やり直し、やろ?」
「まあ。でも最低66%だからな。その確率は高くない」
「1/3の二乗で1/9やろ。わからんやんけ」
「いや、継続率79%、84%、88%もあるからな。もう少し低いだろ」
「細かいことはええねん。おまえ、設定6打って単発6連だかして負けたことあったやろ」
「そうだっけ」
 人は変わらないな、と思う。太郎が熱くなればなるほど、僕は冷めていく。非継続時に10%で選ばれる演出だとしても、非継続が選ばれた事実は100%なのだ。いったん確定してしまった事実は、熱くなろうが、台を殴ろうが、動かすことはできない。判定はあくまで無慈悲にシテマティックに行われる。確率の前で熱くなっても意味がない。
 レバーをオン。トン、トン、トンとリールを停める。その繰り返し。佐和がときどき、これ何? これは? と聞いてくる。敗者がほぼ確定した太郎も普通に打っている。
 と、僕の打つ台の左リールに中段チェリーが停まった。

       中段チェリー

 パチスロ北斗の拳の通常時の主役は、中段チェリーである。
 日本に住まうスロット打ちは、これを当然のこととして受け入れたが、よくよく考えると、まったくぜんぜん当然ではない。「北斗の拳」は、犯罪行為しかしかない、知らない荒くれ者たちがひゃっはーと叫ぶ世紀末の物語。チェリーの如きスイーツに用はない。が、「パチスロ北斗の拳」においては、主人公のケンシロウよりも、上位の存在として、世界観の中核として、中段チェリーが存在しているのだ。
 日常生活においても、チェリーという単語の使用頻度は低い。性交未体験者の隠語か、スピッツの名曲くらいでしか使われることがない。では、なぜチェリーなのか? チェリーは、最も古典的なパチスロの図柄である。その起源はパチスロ以前、リールマシンと呼ばれたアメリカ型のスロットまでさかのぼる。つまり、歴史への敬意なのだ。惰性という見方もできるけれど。
 ともあれ、パチスロ北斗の拳は、中段チェリーを引くと、1/4でATが直撃する。高確状態にいたってはほぼ100%。モードによって変動する確率。「確変」というパチンコカルチャーの真髄である。これにより、プレイヤーは己のヒキを試される。
 そのうえで、初代北斗の拳は、継続率一発勝負のAT機なのだ。主人公ケンシロウの最大の敵、ラオウがぐわーはーっはっはと笑いながらジャックインする瞬間(指を離した瞬間)に、すべてがジャッジされる。まさに審判の門。その判定ではねられたら終了。泣こうが喚こうが、復活のチャンスはない。
・通常時は、中段チェリーを待ち、抽選を受ける。
・バトルボーナス(AT)中は、継続率に挑む。
・北斗の拳というジャンプ生まれのコンテンツ。
 そんなパチスロ機が、2000年代半ばの大衆の心をがっちりと掴んだのだった。

       777

 とはいえ、中身は2010年代中盤の僕。この手のゲームには飽き飽きしていた。あくびまじりにレバーを叩いていると、左リールに中段チェリーが停まった。
 初代北斗には、5号機にあったような、中段チェリーを引くと出てくる小役カウンターみたいな親切設計はない。あのふざけたジャグラーのキュイン♪システム(名称がわからない)のように、店側の配慮というか思惑で、小役の種類と経過ゲーム数を表示する機械を設置している店もあったが、この店にはない。
 ということで、最大前兆32ゲームを自分で数える。3、2、1、ドーン。最終ゲームでラオウ登場。投資8kでBB(バトルボーナスという名のAT)ゲット。オーラは黄色。今度は太郎と佐和がレバーを叩く手を止めて、僕の台を見つめている。
 見られてると何か嫌だな、と思いながら、最初の10ゲームを消化。ラオウの笑い声とともにストップボタンをトンと離す。
 ケンシロウとラオウのお見合いの後、現れたのは青いオーラまといし俺ケンシロウ。あっさり継続が確定し、太郎の負けが確定する。次の10ゲームを9ゲームまで消化した後、佐和に声をかけた。
 右隣にいる佐和の手が伸びる。ストップボタンを左手の人差し指で押し、くねくねとこね、離す。まるでジャグラー中毒の打ち手のような所作だった。
 僕は佐和からゲームを引き継ぎ、液晶の中のバトルを見届ける。ラオウの蹴りをケンシロウが避けて継続。
 いつ負けてもいいんだけどな、と思いながらストップボタンから手を離すも、俺シロウが出てきてしまい継続。次、佐和のターン。ラオウの剛掌波を受け、たまらず倒れるも、リンが「ケーン」と叫んで佐和シロウを救うのだった。たぶん、継続率は66%だろう。33%を引けば終わるのだ。が、バトルボーナスは終わらない。俺シロウ。佐和シロウ。俺シロウ。佐和シロウ。続いたところで嬉しくないし、負けたところで悔しくもない。それでもバトルは続いていく。
 太郎はというと、勝負の行方を見守ることを放棄して、自分の台をペシペシ打っている。いつもの太郎だった。自分でギャンブルをしようと言っておきながら、負けてイライラするというのは、自分の家に火をつけておいて、熱いと言って逃げ出すようなものじゃないか。記憶を保つことができない病気なのだろうか? 
 そうこうしているうちに、太郎はバトルボーナスを引いた。これが何と、北斗揃い。確か選択率は3%くらいだった気がする。太郎がにやりと笑ってこっちを見る。いや、意味わからん。勝負と関係ねえだろ。がーっはっはっは、というラオウの笑いに合わせ、太郎は肩を揺らす。ケンシロウの演舞的な所作を真似て両腕を動かす。怒っていたと思ったら、すぐに笑う。おどける。やはり記憶力に何らかの問題があるのだろうか?
 パチ屋の中で一喜一憂するというのも、いまいち理解できないことのひとつだった。佐和の横顔を見る。彼女も特に楽しんでいるようには見えなかった。佐和は通常ゲームを消化しながら、順番が回ってきたときだけ、左手を伸ばす。佐和の台のケンシロウは、ひたすらシンステージとサウザーステージを往復している。
 僕はメンソールのタバコに火をつけた。パチ屋という閉鎖空間で、これまで何本のタバコに火をつけてきただろう? うるさい。タバコ臭い。これだけ体に悪そうなのに、そのことが理由で死んだという話は聞かない。パチ屋に来る客はタフだということだろうか。それとも寿命を縮めながらギャンブルをしているのだろうか? 満員電車に揺られるストレスや、上司の小言を聞く類のストレスと、うるさいタバコ臭い空間でお金と時間を浪費することのストレスは、どちらが体を蝕むのだろう? 僕は今、バトルボーナスが終わらないことにストレスを感じているが、もう嫌だ、死んだ方がマシだ、とは思わない。めんどくさいくらいのものだ。耐えられない苦痛ではないのだから、大した悩みではない。それが相対化というものだ。太郎の実年齢も四捨五入すれば四十なのだから、いい加減、覚えたらいいのだ。自分は特別な自分じゃない。絶対ではなく、ありふれたひとつの現象に過ぎないのだ、と。でなければ、生きるのはとてもしんどい。嫌なことがあれば人生は終わりだ、と嘆き、ちょっと良いことがあれば俺の天下だ、と誇る。そのつど、心が軋む。僕はそんなしんどい人生はごめんだ。良いも悪いも確率のゆらぎの範疇に過ぎない。誰かが僕のそばにやって来る。誰かが僕のそばを去る。それだって確率の範疇に過ぎない。期待しない。願わない。
 でも、この状況は、僕が願っていたものではないのか? 太郎がいて、佐和がいて、スロットを打って。それは、33歳の僕がアメリカで願ったことではなかったのか?
 ただ、願ったことが現実に起きたからといって、ただちに因果関係を結ぼうとするのも、オカルト的なふるまいだろう。願う。叶う。願う。叶う。それがずっと続くなら、僕は超能力者か、神か、悪魔か、人間を超えた何かだ。人間を超えた何かがこのようなうだうだした思考を持つだろうか? わからない。が、僕の知る限り、うだうだした思考は、人間的な、極めて人間的な特徴だ。機械は悩まないし、悩む前にフリーズしてしまう。
 太郎が左手を見せつけるように上げた。画面には太郎シロウと入れ替わるようにしてレイが登場。84%以上確定演出だったっけ? いまいち記憶に自信がない。
 その間も、俺シロウと佐和シロウの戦いは続いている。「もし、これが本当に、僕の人生の終わりの瞬間に見ている走馬灯だったら?」という仮説について、真剣に検討しておいた方がいいような気がしてきた。もちろん全然嬉しくない仮説だ。が、そう仮定すると、この自分に都合のいい展開も納得できるような気がする。これから死を迎えるというのに、絶望的な状態だとしたら、死がいいことみたいじゃないか。絶望と苦痛が終わるのはむしろ褒美だ。救いだ。希望と歓喜が途中でぶち切られる方がしんどい。そっちの方が罰っぽい。
 どのような仮定であれ、一番しんどいルートを想定しておいた方が、予想がハズレたときのダメージが少ない。もし、今後、僕にとって都合のいい事態が頻発したとしたら、死の前兆だと思おう。決意を固めると、心が少し軽くなった。

       777

 バトルボーナスが終了したのは、26連目、佐和の手が離れた後のことだった。
DVC00294
 液晶の中ではラオウが手をあげていた。
「私の負け?」佐和が言った。
「いい勝負やったね」太郎が言った。
 26連チャンで得たコインを流すと3500枚ほどになった。バトルボーナスを引いていた時間は、1時間に満たない。5号機に比べると、増えるスピードが段違いだ。完全に運のはずの勝負に勝ってしまった。とにかくまあ、僕は死に向かっている。そういう認識でいこうと思う。
「ついでによろしく」と言われ、太郎の分のレシートと一緒に交換すると、ちょうど5000枚になった。パチ屋を出ると、夜になっていた。交換所で10万円を受け取り、後ろで待つ太郎と佐和にそのお金をそのまま渡そうとした。
「それは主役の取り分やろ」と太郎は言った。
「いいなあ主役」と佐和は言った。
 このままでは僕は死んでしまう。強迫観念に取り付かれた人のようにそう思った。少しでも、都合の悪いことが起きてほしかった。意図的に自分に都合の悪いことをしたらどうなるんだろう? と考えた。だけど、行動いかんによって結末が変わるようでは、走馬灯ではないような気がする。しかし、僕は、現実として、選択ができるじゃないか。右手をあげようと思えば右手があがり、首を傾けようとすれば、首が傾く。僕が「太郎」と呼べば、太郎は「ん?」と応じる。選択ができる以上、未来は確定していないのではないか? いや、しかし……、という葛藤を経て、僕は手に持った10万円を空に向かって放り投げた。
 10枚の1万円札は、10月の宵闇に向かって浮き上がったかと思うと、アスファルトの上にぽとりと落ちた。もう少しひらひら舞うかと思ったのだけど。
「何してん?」太郎は言った。
「金なんて持っててもしょうがなくね」僕は言った。
「どうして?」佐和が言った。
「さっきりんぼさんがお金のことは心配しなくていい、と言った。ということは、ここで気にするべきは、お金じゃなくて、他の何かってことだ」
「たしかに」佐和がうなずいた。「さすが主役だ。目の付け所が違う」
「褒められる行動ちゃうやろ」そう言いながら、太郎は落ちた金を拾った。「スロッターに拾われるくらいなら、どこかの慈善団体に寄付した方がナンボかマシや」
「……それもそうだな」と言って、太郎からお金を受け取った。
 僕はあたりを見回した後、目に入ったコンビニに入り、それぞれの吸っているタバコを1カートンずつ買い、余ったお金をすべて募金箱に入れた。大学生風の男性店員がぎょっとしたような顔で僕の顔を見た。僕は「そこのパチンコ屋で勝ったんで」と言った。店員は、はあ、と言ったきり、自分のすべきことを見失ってしまったような顔で、募金箱を見つめていた。ありがとう、と言って、タバコの入ったコンビニ袋を持ち上げると、あわてて、彼は「ありがとうございます」と言った。善い行いをしたはずなのに、悪いことをしてしまったような気分で一杯だった。

       777

「なあ、これ」と言って太郎は一万円札を目の前に掲げた。
「ん?」
「さっき、拾った隙に1枚取っておいたんだけど、これで、酒でも飲まへん?」
「やっぱり泥棒じゃん」佐和が笑う。
「いや、一応、おれの出したメダルもあったし、な」
「異存なし」佐和はこめかみのあたりを両手の人差し指でぐりぐりと揉みほぐしながら言った。
「おまえは?」
 よくよく考えてみると、投資分があったのだから、全部寄付してしまっては、大損じゃないか、と思いながらも、「いいよ」と言った。
 太郎の先導で東口の猥雑の中を進み、一軒の量産的な居酒屋に入って、生ビールで乾杯した。
「何か、疲れたな」太郎が言った。
「うん。疲れた」佐和がうなずいた。
 僕はノドが渇いていて、ビールをすぐに飲み干してしまった。まだ体が水分を欲していた。同じものをお代わりした。
「こいつさ」太郎が言った。「こう見えて毒舌よな」
 毒舌? 心外だった。
「うん」佐和が首肯する。
「おれが昔、長財布を筐体の上に載っけてスロット打ってたとき、おまえ何て言ったか覚えてる?」
「覚えてない」と僕は言った。
「おまえ、それはキンタマを台の上に置いて遊戯してるのと同じだからやめろ、とか言うんよ。ひどくない?」
「ちょっとよくわからないけど」と言って佐和は笑う。
「いや、そこに財布があることを完璧に把握してるならいいけど、おまえそうじゃないじゃん」僕は言う。「そのままトイレとか行こうとするし、ひどいときはそのまま忘れて店から出たりしただろ」
「まあそうかもしれんけど。あと、決め付けみたいなんが多いわ。首をひねるやつは絶対にギャンブルに勝てないとか」
「首をひねるってことは、自分にとって都合のいいことが起きることを当然だと思ってるってことだろ。その所作をしてしまう時点で、少なくともギャンブルには向いてないと思うけど」
「あ、思い出した」佐和は言う。「いつだっけな。厄年が来るのやだなあっていう話をしたとき、何で? 具体的な体の不調ないなら関係なくない? って真剣な顔で言われたときはちょっとショックだった」
「こいつ、そういうとこあるよね」
「あるある」
 でも、俺は二人みたいに嘘つかないけどね、と僕は言いたかった。佐和は年齢をごまかしていた。太郎は名前を隠していた。そんな二人に言われたくない。というか、本当のことを言って何が悪いんだ? そう言いたかった。だけど、僕は24歳の僕じゃなかった。言っていいことと悪いことの区別はついた。
 僕はタバコに火をつけて、煙を吸った。僕の行動に呼応するように、グローブの「エニタイムスモーキンシガレット」が流れ始めた。

       777

 居酒屋の真新しい壁には、その新しさを恥じるみたいに雑然と料理名が貼られており、メニューに混じってランダムに、相田みつを風の文字で書かれた格言のようなものが貼られている。
「そういえば、車で来たんだった」3杯目のビールを手に僕は言った。
「明日取りに来たらええやん」太郎が言った。
「ねえ」佐和は言う。「たかしが本当に主役かどうか、もう一回試してみてもいい?」
 佐和は掘りごたつ式ボックス席の端に置いてあった爪楊枝箱から三本を抜き出すと、一本の爪楊枝の尖っていない部をぽきりと折って手で隠し、先端部をさらしながら「さあ、当てて」と言った。「主役なら当てられるでしょ?」
「いや、エスパーじゃないし」と言いながらも、僕は爪楊枝の先端を持って引き抜いた。
 ……。
「すげえな」太郎が言った。
「いや、1/3だしさ」
「遼太郎、ちょっと引いて」佐和は僕の手から爪楊枝を奪い返して言った。
 太郎が引くと、完全な姿の爪楊枝が現れた。
「おまえやってみろや」と言って、太郎は佐和の手から爪楊枝を取りあげた。
 佐和が引いたのも、完全体の爪楊枝だった。
 僕はビールをぐびと飲んだ。小便がしたくなった。
 トイレ行ってくるわ、と言って立ち上がり、トイレ用のスリッパをはいてトイレに入る。壁面には、やはり相田みつを風の文字で、ありがたい言葉みたいなのが書いてある。
 体内から体外へ勢いよく液体が放出される。手を洗い、乾かして戻ると、佐和と太郎がキスをしていた。
 その瞬間、自分がどこにいるかがわからなくなった。自分が誰か、ここがどこか、わからくなってしまった。どうしようもないので、僕はもう一度トイレに戻ることにした。
 太郎と佐和がキスをしていることで、どうして僕がショックを受けなければいけないのだろうか? 尿意も便意もないが、個室に入って、そのまま腰を下ろした。なんとなくズボンをおろすと、さっきしたばかりなのに、小便が出た。最初は遠慮がちに、そのうちにどわっと。
 少女マンガの登場人物になったような気分だった。父は古典の教師だったから、家には小難しい蔵書が山ほどあった。が、母は、古典でも文学でもなく、少女マンガを好んで読んだ。ラディカルというか、リベラルというか、自由な人だった。そんな母のコレクションの中に、柴門ふみという作家がいた。彼女の描く物語には、というか、少女マンガの世界には、往々にして都合のいい男というのが出てくる。たとえば「あすなろ白書」のテレビドラマで、キムタクがやったような役回りだ。
「俺じゃダメか?」キムタクは言う。
 残念ながら、ダメなのだ。だけどたぶん、いなくても、ダメなのだ。ただ、と思う。これは、俺にとって都合の悪いことだよな?

       777

 太郎と佐和がいちゃいちゃしていることは、彼らのプライベートな問題だ。だけど、僕としては、彼女は夢にまで見た女性だった。彼らが唇を寄せ合うことは、少なくとも僕の都合には合わない。それならば、死の前兆ではない。よかった。認識を改めて、僕はもう一度手を洗い、手を乾かして、席に戻った。
「ねえ、どうして殴ったの?」佐和は太郎に向かってそんなことを言った。
「は? 殴ってへんし」
「殴ったし」
「いつの話してんの?」太郎は言う。
「ずっと昔の話」
「殴った記憶なんてないぞ、マジで」
「殴った。グーで」
「なあ」と僕は言った。「何で喧嘩してんの?」
「知らん。いきなりこいつが怒り出してん」
「いきなりじゃない」佐和は早口で言った。
「そんなこと言うたらさ、おまえ、何で浮気したん?」
「浮気?」佐和は訝ったような表情で言った。
「浮気してたやん。忘れたなんて言わさんぞ」
「意味わかんないこと言わないで」
「意味わからんのはこっちやわ」そう言うと、太郎は苦々しげに、セブンスターのフィルターをくわえながら、ジッポで火をつけた。カチ、という音。シュポ、という音。再度、カチ、という音。
 やはり、人間が3人集まると、ろくなことが起きない。一対一なら離れるだけでいい。が、3人だと難しい。あすなろ白書のキムタクみたいに、誰かが調整役を務める必要が出てくる。僕はそれをしたくない。が、しないわけにもいかない。
「何があった?」僕は言った。
「ねえ、たかし、わたしもうこの人と一緒の空間にいたくないから、ここから出ない?」
「おう、去ねや」太郎は言った。
「あのさ、おまえら状況わかってる?」僕は言う。「喧嘩なんかしてる場合じゃないだろ」
『こいつが悪い』二人は同時に言った。
 腹が立ってきたので、僕は泡の消えてしまったビールを飲み干して、同じものを注文した。それから、メンソールのタバコに火をつけた。そもそも、この二人は、何も言わずに僕の前から姿を消したじゃないか。調整役を務めなければいけない筋合いはない。
 僕の表情から何事かを読み取ったのか、「何かな、変やねん」と太郎は言った。
「何が?」
「さっきからずっと勃っとる」
「はあ?」
「何か、タイムスリップの影響とかちゃうかな」太郎は言った。「おまえは何かない?」
「ノドが乾く。小便が近い。それくらいかな」タイムスリップとか真顔で言うなよ、と思いながらも僕は答えた。
「わたし、ちょっとトイレ」と言って佐和は立ち上がった。
「誤解のないようにこれだけは言っておきたいんやけど」佐和の姿が見えなくなった後で、太郎は小さい声でそう言った。「おれはあいつのことが好きだった。ずっと忘れられんかった」
 何と返せばいいかわからなかった。
「おまえは?」太郎は言った。
「俺も、忘れられなかった」
「そうか」
 トイレに行ったきり、佐和は戻ってこなかった。何か、僕が余計なことをしてしまったのだろうか。そう思わずにはいられなかった。どこからか、90年代製のポップスに混じって、波のような音が聞こえていた。

       777

 ああ、何か疲れた。まだ早かったが、僕たちは西武新宿線の脇にあるサウナに泊まることにした。眠ったら最後、目を覚まさないのではないか? とも思ったが、おっさんたちのイビキが響く中、僕はぐっすり眠った。起きると朝の6時だった。
 太郎はまだ寝ていたので、僕はひとりで大浴場に向かった。仕事終わりなのか、早起きなのか、何人かの中年男性が風呂に浸かっていた。何となく、サウナに入ることにした。温度計は90度をさしている。サウナとしては普通かもしれないが、常軌を逸した温度だ。このままここに閉じ込められたら、まあ、死ぬだろう。しかし、死ぬまでには時間がかかるだろう。大変だな。他人事のようにそう思った。人が生きることも、死ぬことも。
 昨日は死を恐れていたが、一晩経ってみると、そうでもなくなっていた。できれば、僕は佐和にもう一度会いたかった。その目的自体は、達成した。再会して思ったのは、時間の経過だ。あれから多くの時間が流れてしまったという事実だった。それらを無に戻すことはできない。許す許さないの問題でもない。
 佐和と出会ったのは、2006年の10月16日だった。その日は確か、6のつく日のイベントだった。そして翌日は、7のつく日のイベントがどこかのパチ屋であった。
 太郎は、車を使って別の街に飲みに行く、と言った。じゃあ行ってくるわという太郎を見送り、松屋で牛焼肉定食を食べた後、早々にマンガ喫茶に入って翌日のイベントに備えようとしたのだった。カウンターで伝票を受け取って、パーテーションで仕切られたせせこましいフラットシートに向かおうとすると、僕の指定された席の手前の席のドアが半分開いていて、白いものが小刻みに揺れているのが目に飛び込んできた。女性の足だった。ほどよく肉のついた白いふとももから伸びていく足の終点、足首に巻き付いた白い布、それはレースのついた白い下着だった。僕の思考はどこかに消え、ただ、揺れる下着を見つめていた。足首とは反対、足の付け根あたりで何かが踊っていた。指だった。その細い指で、足の根元にある何かを刺激していた。おそらくはその刺激を震源に、ふともも、ふくらはぎ、そして足首に巻かれた白い下着が揺れているのだ。
 こんなのは異常だ。僕の理性はそう言っていた。煮えたぎりそうな頭で考えたのは、だけどもし、という異論だった。もし、この状況が、彼女が意図したものでなかったとしたら。仮にも、ここは睡眠が可能な個室なのだ。この扉が閉まっていたとしたら、問題は存在しない。僕はそう考え、扉をそうっと閉め、隣の個室に入った。
 さあ、眠ろう、と思ったが、まったく眠れなかった。頭の中で白い下着が踊るのだった。この紙のように薄い仕切りの向こうには、彼女がいて、彼女はこの向こうで白い下着を踊らせているのだ。
 ダメだ。飲み物でも飲もう。僕は個室から出て、スリッパを履こうとして、息を呑んだ。扉がやはり、開いているのだった。そこで行われているのは、同じ光景だった。足元で揺れる白い下着、肉付きのいいふともも、しきりに動く細く小さな指。
 僕は頭を振った。何かの間違いだと思った。間違いなく、僕はあの扉を閉めた。偶然にせよ、意図的にせよ、彼女はあの扉を再び開けた。何故? 理由なんてどうでもよかった。何でもいい。何があってもいい。犯罪者になってもいい。僕は半分開いていた扉に手をかけた。

       777

 サウナの中で、下腹部が膨張していた。熱さのせいか、太郎の言うタイムスリップのせいか、どちらにしても、外に出られなくなってしまった。熱い。このままでは死んでしまう。それでも過去の映像は止まらなかった。
 僕はその、マンガ喫茶特有の、扉とも言えない扉を開けた。僕は、下半身丸出しの女性の手を取ると、「外に出ませんか?」というようなことを言った。大したドラマのない人生に訪れた、たぶん初めての山場だった。僕とその女性は、手を握ったまま、マンガ喫茶を出て、あまりきれいとは言えないラブホテルに入った。それが僕と佐和の後ろめたい出会いだった。
 そのうちに、僕は佐和の家に転がり込むことになった。彼女は9時~17時で働くオフィスワーカーだった。僕はパチ屋で一日を過ごし、夜中に帰ってきて、朝、少し早く起きて彼女を送り出し、それからパチ屋に向かった。僕が佐和と同棲を始めるのと時を前後して、太郎はステップワゴンの中に保管しておいた金とともにどこかに消えた。
 サウナの熱の中で感じていたのは焦りだった。佐和がいなくなり、太郎までいなくなったら、この世界で生きる意味はあるのだろうか?
 下腹部をタオルで押さえながら外に出て、水風呂に飛び込んだ。それは一種の賢者体験だった。料理すれすれの火照った体が冷水に包まれた瞬間、焦りも、不安も、よこしまな気持ちも、どこかに吹き飛んでしまった。
 僕は水風呂から出ると、シャワーで全身を洗い、髪を乾かし、ペラペラのサウナ服に着替え、仮眠所に戻った。太郎はまだそこで、いびきをかいて眠っていた。
「朝だぞ」と僕は小さな声で言った。「太郎、喜べ。俺たちはまだ、この世界で息をしてる」
「あ?」太郎はわけがわからない、というような声を漏らした。「いいからもう少し寝かしてくれよ」
「うるせえ、起きろ」僕は言った。「朝だ」

       777

 ぶつぶつ文句を言う太郎を連れて外に出た。空は気持ちよく晴れていた。JRの高架をくぐり、西口に向かった。通勤途中の人々を横目に、ゆっくりと歩く。どこか別の人生を歩いているような気がした。それもそのはず、今日は、僕の知らない2006年10月11日なのだ。
「なあ、おれら何か忘れてへんか?」太郎が言った。
「何を?」
「いや、わからんけど、何か忘れてるような気するねん」
「失ったはずの時間が戻ってきたんだから感覚も変化するんじゃねえの」僕は言った。「でも、嫌な気分ではなくね?」
「まあ、体、軽いしなあ。自分が二十代なんて、信じられんけど。申し訳ないみたいな気持ちはあるよな、正直」
「何で?」
「いや、2006年からやり直せるって、おれにとってこんな好条件でええんかなって」
 それは、昨日僕が懸念していたようなことだった。しかしもう、僕はそのことでは悩んでいない。「なるようなるだろ」と言うと、太郎は言おうとした言葉を呑み込んだ。
 ガラス張りのビル群を通り抜け、パーキングで一晩の法外な宿賃を支払い、黒いステップワゴンの運転席に乗り込んだ。
 がさごそと、後部座席をあさりながら、「なあ、ここに置いてあるだけでも300万円くらいあるんやけど。カツカツだった気してたけど、そうでもなかったんやな」太郎は言った。
「今から稼げない期が始まるからな。多少は蓄えがないと」
「なあ、サダオ、おまえもしかして、スロットしようとしてる?」
「しねーの?」と言いながら、エンジンをかけると、宇多田ヒカルの歌が流れてきた。
「いや、そんなことしてる場合ちゃうような気するけど」
 助手席に座り直した太郎はシートベルトを装着した後で、窓を開け、セブンスターをくわえた。

       777

 とりあえずという感じで甲州街道に乗った。車は順調に流れていた。
「じゃあ、どうする?」
「あ、この金で投資したらええんちゃう? ここから伸びる分野、落ちる分野もわかってるわけやし」
「それがしなければいけないことか?」僕は言った。
「うーん」
「ただまあ、金をここに置いとくのは、無用心だな」多少の皮肉をこめて言った。
「やろ?」と、まるで他人事のように言った後、太郎は音楽に合わせて首を振り始めた。「懐かしいなあ。おれ、この年、おまえに内緒でライブ行ったんよ」
「誰の?」
「ヒカルウタダ」
「そんなヒマあったっけ?」
「365日パチ屋にいたわけちゃうやろ」
「いなかったっけ?」
「おまえはそうかもしれんけどな」太郎は笑った。笑った後で、タバコを灰皿のふちに押し付け、蓋を閉めた。「スロットのみに割り振ってる感じやったもんな。おまえは、おまえの人生を」
「そうか?」と言いながら、僕はタバコをくわえ、信号のタイミングで火をつけた。
 やめたときは苦労したような気がしたが、染まるのはすぐだった。どうしてタバコをやめたんだっけ? そんなことすらも、もう忘れてしまった。太郎のことを記憶力に難があるとか非難しておきながら、俺も相当じゃないか。
「三大義務ってあるやん。教育、勤労、納税って」太郎は言った。
「うん」
「勤労の場合、義務でありながら、権利でもあるってのが、スロッターの落としどころや、みたいなことをおまえ前に言ってたやろ? 権利を放棄する代わりに義務を負わないみたいな」
「そんなこと言ったっけ?」
 義務と権利の等価交換。如何にもイカ臭い短絡的な理屈だったが、確かにスロット生活を始めるにあたって、自分を正当化するための理路を色々とひねり出したような気がする。俺たちは搾取された世代だ。だから、俺たちはパチ屋を介して、先行世代から回収するんだ。もらえないであろう年金の先取りだ。云々。
「そこまで考えてスロット打ってるやついるんだな、すげえなって、おれ、初めて年下の人間を尊敬した。……いや、二人目やったか。ウタダはおまえとタメやもんな」
「そうだっけ」
 僕は煙を吸って、肺を満たし、何が満たされたんだろう? と思いながら煙を吐き切って、タバコをもみ消し、灰皿と窓を閉めた。
「なあ、サダオ。おまえが作戦を練って、おれが忠実に遂行する。おれらはいいコンビやったよな」
「忠実?」僕は笑った。
「各店のイベントを吟味して、その日の職場を決める。並びがある店は、適切な時間に並び、抽選の店は指定の時間に向かう。その日の入場順によって打つ台を決める。狙いがシクッたら、よさげな台に移動するか、ハイエナに移行する。おれたちは向かうところ敵なしやった。ホンマにそうやった。おまえがこう動いたら、おれがこう動く。おれがこう動いたら、おまえがこう動く。あの連動性は、気持ちよかった。ナカタのスルーパスにタカハラ抜け出してゴールみたいな」
「ふりーな」と言って笑った。
「その関係性を崩したのは、おれやな。すまん」
「いまさら言われてもな」僕は言った。
「何かな、勝ち続けてるうちに、のうのうと、ただスロットを打つ人間を見るのが嫌になった。どうしてこいつらはおれらと同じことができないんやろうって」
「普通に打ってくれる人がいなかったら、俺らが勝てたはずねえだろ」
「わかってるよ。勝てへん人らの懐から出る金がパチ屋を経由しておれらの懐に入るってのは。だからこそ、腹が立ったのかもしれん。負けて台ドツくくせに、何で絶対に負ける行動を取るんや? 何で、おれらの懐を潤わすだけやのに、そんな楽しそうに打てるんや?」
「俺らの懐じゃなくて、店の利益な」僕は訂正した。
「それもわかってるよ。というか、どれだけ頑張っても、店の利益の前には霞む。限界が見えたんやと思う。それと、設定を狙って横一列でヨーイドンするのはええねんけど、ゲーム数を狙ったりするのがしんどかった。だって何も競争してへんやん。人の落とした金をただ拾うだけ。そこには喜びを見出せんかった」
「おまえは競争がしたかったのか?」僕は言った。「でも、どんなに期待値があっても、島唄みたいに、打ち手のヒキ次第で幾らでも負けられる台あったろ」
 太郎は鼻で笑った。「あの台、怒り狂ったやつに壊されまくってたな。殴られたり、焼かれたり、レバーへし折られたり」
「おまえもな。台までは壊さなかったけど」
「正直な、おまえがパチ屋の中で日々をたんたんと過ごしてることも疑問やった。こいつ、機械か? 機械仕掛けなんか? って。おれたちがどこから来たのか、どこに行きたいのか、この生活がどこに向かってるかがわからんくなった」
「なあ、太郎、おまえの家は代々何かに従事する家系なんだろ。医療だっけ? 何で継がなかったの?」
 太郎はセブンスターをくわえると、火をつけずにしばらく窓の外の景色を見つめていた。いや、太郎の目が何を見つめていたかはわからない。僕はまっすぐ前を向き、ハンドルを握っていた。宇多田ヒカルが「誰かの願いが叶うころ」という曲を歌っていた。
「おれには何かがあると思った。家が、特別なんじゃなくて、おれが、特別やと信じてた。過去とか決まりとかそんなのに縛られたくなかった。もっと大きなことがしたかった。だから家を出た。だけど実際は、大学にはほとんど行かずにパチ屋に入り浸ってるだけだった。当時のおれ程度の立ち回りで何とかなるヌルい時代だった。おれが、とか言いながら、時代に甘えてた。おまえと出会って大学を辞めて、スロットに専念した。けっこうな金が入ってきて、入ってきた金でバカみたいに豪遊した。それでいながら、まったく満たされなかった。人は、誰かを憎めば憎むほど、その誰かに近づいていく。そして最後には憎む者そのものになってしまう。何か、そんな話あったよな? ウタダのライブに行った頃にはもう、おまえと同じ価値観を共有できんくなってた。特別なおれが打つんやから、スロットなんか出るに決まってる。おまえの指示を無視して打ったこともあった。それで万枚出したこともあったような気がする。おれがルールだ。おれは夜の街でもそんな態度で遊んだ。飲み歩き、闇スロを打った。だけど、それは結局、パチ屋で負けることと一緒やった。借金が加速度的に増えていった。おまえ言ってたよな。すぐキレるやつは、自分の弱さ、ストレス耐性のなさをアピールしてるだけだって。強さでも何でもない。その通りやった」
 なあ、サダオ、と太郎は言った。
「おまえ、パチ屋の中での行動には、完全な正解があるって言ってたよな?」
「言った」
「それってさ、おれがおれである必要がないってことよな」
 僕はうなずいた。「パチ屋でのふるまいには最適解がある。誰がやっても同じ、少なくとも近似値に収まるような結果が得られなければ、最適の解とは言えない」
「おれはそれが面白くなかったんやと思う」そう言った後で、太郎は黙った。
「面白いものが勝てるなんていう道理はない」僕は言った。
「なあ、サダオ」沈黙の後で太郎は言った。「そもそも、何でスロットに期待値があるって最初から気づけたん?」

       777

 僕は、太郎が言うような、「自分探し」のようなモラトリアム的な感覚が好きになれなかった。自分には何かがある? 自分には何かあるに違いないから、それを探す? 裕福な人間の甘えにしか聞こえなかった。その日の飯の心配をする必要がないから、そんなことを考える余裕があるのだ。それに、何かがあるならもうやってるはずだ。今、この場に存在しない以上、そんなものは存在しない。あるはある。ないはない。それだけの話じゃないか。
「何で、スロットに期待値があるとわかったか」僕は太郎の質問を繰り返した。「俺が初めて賭け事で勝てるようになったのは麻雀なんだよ。それも、フリーとかじゃなくて、同級生とやる放課後麻雀。スロットはその延長線上にあった」
「仲間内で稼いだってこと?」
「仲間って言葉は違うような気がするけど」
「そんなんして、気まずくならへんかったん?」
「何で気まずいの?」僕は言った。
「ぎくしゃくするやろ」
「……」ぎくしゃく? そんな記憶はまったくなかった。僕はどんな高校生だったのだろう? 教室の中にいる自分を思い出してみようとしたが、自分以外の同級生の顔をひとりも思い出せなかった。あれは何のための時間だったんだろう? でも、思い出せない過去は、忘れられない過去よりもマシな気がした。
「人間の行動って、三大欲とか四大欲とかを別にすると、特に目的もなく、ただ何となく動いてしまうことが多いだろ」僕は言った。
「すまん。意味わからん」
「腹減った。やりたい。眠い。小便したい。ってのは、100%、その目的のために行動する。過程はさておき、目的は」
「うん」太郎はうなずいた。
「でも、今日は何しよう? みたいのは、たくさんの、というかほとんど無限の目的地がある。どこに行ってもいいんだよ。トンガでも、コスタリカでも、ミャンマーでもいい。だけど、それら無数の可能性を捨てて、とりあえず学校に通うわけだよな」
「高校生だからな。学校を卒業するって目的があるやろ」
「でも、それは純然たる自分の欲求ではない」
「まあ」
「集団生活ってのもそうだろ。俺はこうしたいという欲求ではなく、多数の価値観に合わせる」
「おまえはそれが嫌だってこと?」太郎は結論を急ぐようにそう言った。
「嫌とかじゃなくて、理屈として合わないことをする必要性を感じないってだけ」
「……何で?」そう言った後で太郎は笑った。「何でそんな自分勝手な高校生が誕生したん?」
「何でだろうな」
 道が混み始めたので、僕はギアをニュートラルに入れ、サイドブレーキを踏み、タバコをくわえた。

       777

 火のついたタバコを右手に持って、左手でギアをドライブに入れ、サイドブレーキを解除し、発進させた。発進させたはいいが、すぐにまたブレーキを踏む。事故なのか、何なのか、完全な渋滞だった。ふう、と煙を窓の外に吐いた。
「そんなおまえが、おれと一緒にスロットを打つことになった理由がいまいちわかれへんねんけど」
「一人より二人の方が安定するだろ」
「でも、おれの存在は、おまえの言う、目的性を改ざんしてしまう可能性がある。おまえとしては合理的は判断じゃない気がする」
「それもそうだな」と言って笑った。「何でだろうな? 寂しかったのかもな」
「面白くないことをしなければ、勝てない。おまえはそう言った」
「うん」
「じゃあ、何が楽しくてスロットを打つん? 金か? でも、おまえは金に執着がある感じせえへんかってんけど」
「数字が増えていくのって、単純に楽しくない?」
「数字?」
「人間とか、人間の手垢のついた金とかと違って、数字って純粋じゃん」
 太郎は首を左右に動かしながら、わからん、と言った。
「数字を追ってると落ち着く。何も考えないで済むっていうか」
「計算ドリルみたいな?」
 僕はうなずいた。
「変態やな」太郎はあきれるように言った。
「小さい頃、ゲームボーイとかが出る前、携帯用の小型ゲーム機ってあっただろ。カセットとかソフトの互換性のない、一つのゲームしか遊べないゲーム。敵が撃ってくる攻撃をただ左右に避けるだけのゲーム。避けた数によって、ただデジタルの数字が増えるだけのゲーム。クリアとか存在しないゲーム。昔、家族3人でハワイに行ったことがあって、俺はまだガキで、閉鎖空間で時間を過ごすことがうまくできなかった。そうこうしているうちに飛行機は暗くなる。両親はお酒を飲んで早々に寝てしまう。だけど俺は何をしていいかわからない。眠くもない。窓際に座ってたからトイレにも行けない。しょうがないからその敵の攻撃を避けるだけのゲームをずっとやってた。時々、窓を開けて空を見た。星以外何も見えなかった」そこまで喋って、急に恥ずかしくなった。
「どした?」太郎が言った。
「いや、これ何の話だっけ?」
「おまえの昔話。家族でハワイに行く途中の飛行機で、ひとりでゲームしてたって」
「うん。その点数が増えるだけのゲームをオアフ島につくまでやり続けた結果、見たこともないくらいの桁の数字がゲームの中で貯まってた。そういうのが俺は好きなんだと思う。言葉や感情や人の立場で揺らがないもの。数字が変化していくのを見つめてるのが」

       777

「おれの父親がすぐキレる人やった」太郎は言った。「そのキレ方ってのが独特で。ちゃぶ台をひっくり返すみたいなのやったら、それはそれでトラウマになるかもしれんけど、わかりやすいやん。父親は黙るんやわ。黙るどころか全ての行動をストップする。食事をしていても、何をしていても、止まる。『「ザ・ワールド」時よ止まれ』ジョジョに出てくるさ、DIOのスタンドあるやろ、あんな感じ。父親が黙ると、家の中にいる人全員が止まる。それで、誰かがおずおずと立ち上がって謝る。謝る人がいつも同じだと、父親は時間を動かさんから、かわりばんこに謝るねん。まるでコントみたいに。でも、ガキの頃はそれがすげえ怖くて。ねえお父さん、お父さんは、ストレス耐性がないですね、なんて言えんし。もちろん、父親にも言い分はあるんやと思う。父親には父親なりの理屈があるねん。絶対。でも、だからこそ、そんなん屁理屈どうでもええわって言いたかった。おれは反抗できる日を待った。んで、背が伸びて、力がついて、父親と言い争って家を出て、年齢の上では大人になって、一応、目的は達成した。でも今になってみると、おれ自身、まんま父親なんよな。人類の歴史って、少なくとも数十万年は続いてきたわけやろ。何で、そういう遺伝子上の問題みたいなんって、解決されへんねやろ」
「でも、喋り方を変えたのとかって、明らかに後天的な変化だよな。何らかの必然性があったんだろ。おまえはおまえの内部に、親父さんと同じ問題を抱えているかもしれないけど、その問題に取り組む姿勢は違う。姿勢が違えば結果も違う。正解か不正解かは別にして。それが生きるってことなんじゃねえの」
 太郎は、黙った。渋滞はなかなか解消されなかった。ふと、どうしてこんなに混んでる道にいなければいけないのだろう? と不思議に思った。別にどこかに向かってるわけじゃないのに。癖だな、と思う。癖とは恐ろしいものだ。
「なあ、腹減らね?」僕は言った。
「腹減った」太郎は観念したように言った。
 僕は甲州街道をそれ、以前の生活で、朝起きてめちゃくちゃ腹が減っているようなときに重宝した、朝の五時から開いているラーメン屋に向かった。

       777

 ラーメンと餃子を食し、近くにあったパチ屋の前でタバコを吸った。2010年代ではありえないかもしれないが、「タバコが美味しい時間は?」みたいな会話を、1990年代のタバコ吸いはよくしていたような気がする。「寝起き、食後、性交後」というのが確か三大派閥だった。僕は食後派のラーメン党だった。むしろラーメンはこの一服のためにあるような気さえした。食後派の意見としては、他にカレー、鍋などがあげられた。いや、酒を飲んでるときが一番吸いたくなる、という趣旨とは若干ずれた意見もあった。
「昨日、久々に北斗打って思ってん」
「うん」どうしてこんなどうでもいいことを考えているのだろう? と不思議に思いながら僕は相槌を打った。
「楽しいなって。やっぱスロットって楽しいわ。だけど、楽しいからって、人生を捧げるようにパチ屋に通うのは違うような気がする」
「誰が捧げてんの?」
「かつてのおれ」太郎は苦い顔でそう言った。「日本中、どこでも、人が集う場所に軒を構える世界最大のギャンブル市場のショーケース。何でこんなことなったんやろ」
「賭場が駅前の一等地にあっても治安が安定してるってのは、日本が成熟した社会だってのもあるんじゃねえの」
「でも、成熟した知識があったら、ギャンブルなんかそもそもせえへんよな」
「娯楽ってのは、また別だろ。成熟ってのは、あくまで上積みの部分であって、本質の、人間誰しもが持つ欲求がなくなるわけじゃない。その欲求が、たとえば大量虐殺とか戦争に発展したりする。パチンコくらいでその欲求を解消できるなら、それはそれで成熟なんじゃねえの」
 僕は水の張られた灰皿にタバコを放り投げた。
「てことは、この洗練さの欠片もない建物は平和の象徴なのか?」太郎は難しい顔でそう言うと、タバコの煙を吐き出した。
「オリンピアと平和が、来年統合するわけだ」
 会心のパチスロユーモアだったが、太郎の心には届かなかったようだ。僕たちはパチ屋でトイレを借りた後、缶コーヒーを買って車に戻った。
 運転代わるわと言うので、太郎にキーを渡した。
「なあ、何か忘れてる気がしてたんやけど、何か、その忘れてる感がもやもやしてしゃあないから、酒でも飲まへん?」
 僕は笑った。「すげえよな。おまえのその毒をもって毒を制そうとする感じ」
「何かをしなければいけないんやけど、その何かがわからん。体のどこかが痒いねんけど、そのどこかがわからんみたいな。何かな、おれというよりも、おまえ的な感じやねん。期待値なんかどうだっていいって思う気持ちと、いや、あかん、期待値を追わねばならぬ、というのがぶつかってる感じやねん。ってことは、おまえのせいか」
「俺のせい? すげえな。どうやったらそう考えられるんだ?」
 太郎は答えなかった。太郎は黙ってハンドルを握り、2000年代製のヒットチューンに耳を澄ましていた。

       777

「到着」と言いながら、太郎は車を停めた。「久々やな」
 そこは僕たちが以前、足しげく通ったパチ屋、通称マイホのそばで契約した月極駐車場だった。以前、パチ屋の駐車場内でトラブルが起きたため、苦慮して編み出した解決方法でもあり、僕たちの寝床でもあった。
「ちょっと覗いてみるか?」と太郎が言うので、パチ屋に入った。海物語のシマを通り抜け、少し暗くなったスロットコーナーに向かう。
 マイホ、とか言っていたくせに、北斗、番長、秘法伝、俺の空、エヴァ、ジャグラー以外の機種に、見覚えがなかった。たぶん、記憶から消去されているのだろう。
 大音量で、「テルーの唄」が流れていた。やっぱり耳栓がないときついな、と思っていると、太郎が耳元で言った。「なあ、昨日もう一人、誰かおらんかった?」
「は?」
「いや、おれ、おまえ以外にもう一人、一緒にスロットせえへんかった?」
「誰?」僕は言った。
「わからんけど」
 何言ってんだこいつは? ついにおかしくなったのか?

       777

 10月のパチ屋はどこか乾いた匂いがした。といっても、その大部分はタバコの成分で、それから機械を構成する部品、ギャンブラーの足に踏まれ続けたカーペット、ギャンブラーの発する体臭。そんなものが入り混じった匂いなのだろう。
「なあ、番長の963ってのがあるけど、これ、期待値あるよな?」太郎が言った。
 僕はうなずいた。初代番長の天井は1280。最大でハマって317ゲーム。ゾーン抜け直後だった気はするけれど、マイナスということはない。
「ほな、打っていい?」
「どうぞ」
 太郎が番長に座ると、僕は店内を一周した。特に目ぼしい台は見当たらなかった。店内の隅に設置されていたぼろぼろのソファに座ってタバコを吸った。太郎がスロットを打っている姿が見える。強めのレバーオン。左、右、中、と電光石火でストップボタンを停止させる。弁当箱を取りこぼす打ち方だ。僕は太郎ではない。だから太郎の弱点が目につく。正確性の欠如。隠密的な行動やデータ取りには向かないが、代わりに勢いがある。たとえば人付き合いや台取りなどに有利に働くことがある。
 自分さえいなければ、世界に不思議というのは存在しない。起きたことは起きたこと、起こらなかったことは起こらなかったこと。それだけだ。世界は単純明快なのだ。が、人間が生まれるとは、そのような単純な世界に線を引くということだ。その線の内側の部分を、エゴと言う。エゴは自らにとって都合の良いものに幸、都合の悪いことに不幸という名を与えた。これが、オカルトの始まり。自分さえいなければ、幸も不幸も存在しない。すべての現象の支配者は確率であり、確率はただ、確率でしかない。僕たちがスロットに勝とうが負けようが、確率にとってはどうでもいいことなのだ。確率にとってどうでもよくない人間なんて、この世界には一人もいない。
 ……とても眠かった。タバコを消して、目を閉じると、僕はそのソファに座ったまま、眠ってしまった。
 そこは夢だった。そこが夢だとわかっていながらも、僕は夜の街の上空を飛んでいた。自分の体ひとつで、だ。まあ、夢らしい夢だ。横には相棒がいて、一緒に飛んでいた。それが相棒であることはわかるのだが、男だか、女だか、顔すらも判然としない。これもまあ、夢だからしょうがない。とにかく僕たちは、自由自在に夜空を飛び回っている。全のものがあまねく光り輝くこのうえなく美しい夜景だった。そのうちに、僕と相棒では、どちらが空を飛ぶ技術に優れているだろう? ということを競うようになった。僕は、僕の方が優れていると思った。ほら、こんなにぎゅいんと急上昇できるんだ。僕は上へ、上へ、上昇を続けた。気づくと相棒は消えていた。眼下にあった街の灯も見えない。僕は大宇宙の只中に浮かんでいた。星々がすぐそこに、手を伸ばせば届くようなところで光っている。と、僕の体は急降下を始めた。それまであった安定性が失われ、僕の体は下に、下に、落ちていく。制御はできない。眼前に迫ってきたのは街ではなく、背の高い太古の木が生い茂る森だった。僕は大木の枝に不時着した。どうしてか、その木は偽者に見えた。僕は手を伸ばし、木を覆っていたベールを剥いだ。すると、木は真っ赤な姿を現した。暗闇の中でも、その赤はとても鮮やかに僕の目に映った。その鮮血のような赤を僕は美しいと思った。
 そこで目が覚めた。ずいぶんうるさいな、と思ったら、パチ屋の中だった。太郎がドル箱を積んでいるのが目に入った。

       777

 僕は立ち上がり、太郎の後ろに立って「何が起きた?」と聞いた。
「弁当箱解除からの青七、そっから連チャンが止まらん」
「モードBから天国に上がったのかな」
 他の台のデータをポチポチと押しているうちに、何となく初代番長の仕様を思い出した。この機種は、純ハズレ解除に設定差があり、出目やゲーム数から完璧に見極めることはできないが、そもそもレア小役解除の確率が低いため、ゾーン外の解除が多い台は、設定6の蓋然性があった。
 そういやこの店、番長に毎日6あったな。それでもゲーム数だけを狙っていた記憶がある。ヒキ次第のゲーム性は、型にハマれば楽しいが、ゲーム数解除の振り分けが、高設定で冷遇されているということもあり、安定性には欠けていた。
 弁当箱解除と簡単に言うが、それは確か1/10000くらいの確率だったし、ビッグが選択された場合、1ゲーム連に期待ができる青七が確定するのだが、その振り分けは、モードBで10%ちょいだった気がする。モードBに滞在している状態で、弁当箱解除、そしてBIG、狭き門をくぐってくぐってたどり着いた天国。
 有り難い幸運を授かった男がレバーを叩くと、ピキーンと鳴った。太郎はさも当然といった顔で、青七を揃える。液晶の中では押忍番長のキャラクター、薫先生とマチ子先生の結婚式が映し出されていた。伊集院薫という教師は、バレバレのカツラをかぶった熊のような大男で、マチ子先生は、男子生徒の願望を体現したような、ザ、保健室の先生というセクシーな女性だ。これもひとつの幸運の象徴なのだろう。太郎の隣の隣の席でゾーン外の番長を打つおじさんが、レバーを強打しながら、しきりに首をひねっている。どう考えても、首をひねる人間が逆だった。
「早く終わらして飲みいこうぜ」太郎を焚きつけるような言葉を投げかけ、僕は太郎の後ろを離れることにした。
 店を回っていると、俺の空という最後の4号機に、頃合のゲーム数を発見した。これでも打ちながら、幸運な男を待つとしよう。

      777

 僕は、首をひねりたくなるのをこらえながら、スロットを打っている。
「いつまで続くんだよ、これ」太郎が僕の背後に立ち、耳元で言った。
「8割強ループなんてすぐ終わるって」僕は言う。
「早く飲み行こうって言ったのおまえやろ」
「善処します」
 といって、確率に対して善処も悪行もないのだった。僕はただレバーを叩き、ことの成り行きを見守ることしかできない。何でこんなことになったのか? 5ゲーム連続でリプレイを引いたからだ。そうして突入したスーパー俺モードが終わらないのだ。
 万枚なんていつ以来だろう? GOD系譜以来? 新鬼再臨? いや、北斗転生か。いずれにしても、2010年代の次の万枚が、どうして2006年なんだ? 五号機の次の万枚が、なぜ四号機なんだ? スーパー俺モード。むちゃくちゃだ。コインを流し、レシートを手にカウンターに進む。何となく、昔の名残で、勝ち分を折半することにした。
「いや、悔しいし、ええわ」太郎は言う。
 太郎の番長は、7000枚で止まってしまったのだった。
「いや、相談して打つ台を決めたんだから」と言って、僕は太郎の手に紙幣を握らせた。
 二人で18000枚オーバーの大勝だった。といって、嬉しいという感情はわいてこなかった。朝、晴れていた空には、まだらな雲がかかっていて、雲間から星がちらついていた。
 太郎が選んだのは、量産的ではない小規模の居酒屋だった。僕たちは小上がりに通された。例によって、太郎はエンゲル係数を破壊するような注文の仕方をする。サラダ、刺身、煮物、焼き物、揚げ物、揚げ物……まあ、バランスが取れているからいいか。
 ほどよく冷えた生ビールで乾杯。
『乾杯』
「何か、改めて考えてみるとさ」太郎が言った。「絶対に勝てるってわかってる勝負って、ギャンブルって言わんよな」
「そう。絶対に客が負ける勝負だから、ギャンブルの胴元は儲かる」そう言うと、渇きに渇いたノドを一撃で潤わすべく、僕はジョッキを勢いよく傾けた。
 太郎も負けじとジョッキを傾けた。二つのジョッキはたちまち空になり、お代わりを頼むことにした。

       777

 二杯目のジョッキが空き、三杯目のジョッキが空いた。店内では雅楽風のインストゥルメンタルが流れている。時折、ししおどしのSEが入ったりする。トン。
「おれはさあ」太郎は四杯目のジョッキを手に持ちながら言った。「遠くに行きたかったわけよ」
「どこに?」
「与えられた体で、一番遠いところまで飛びたかった」
「抽象的だな」と僕は言った。「というか、遠くまで飛べるかどうかは、配牌次第じゃねえの? 一九字牌がないところから国士を狙ってもまずあがれない」
「それ、麻雀の話やろ。おれ麻雀よくわかれへん」
「勢いはある。だけど正確性と継続性に欠ける」
「おれ?」
「うん」
「おまえは、負けず嫌い。口が悪い。あと何やろ。意外と大胆」
「それも抽象的だな」と僕は言った。
「痩せてる。目がいい」
「それは肉体的な特徴だな」
「あんまり飯食わん。欲望が薄い」
「おまえと比べれば、な」
「資質なんてどうでもいい。大切なんは、意志や」
「その意志すらも、資質なんじゃねえの。と思うけど」
「何でおまえはそう冷めとん?」太郎は不思議そうな顔で言った。「何も望まない。風俗とかも好きじゃない。特定の趣味もない。何かを集めるでもない。そのくせ、目的性がどうのこうのうるせえ。変なやつよな。おまえは」
「だから数字が好きなんだって」と言って僕は笑った。
 四杯目のビールを空けた後で、日本酒に移行した。太郎が頼んだ料理は太郎があらかた食べてしまったので、僕は日本酒に合わせて漬物を注文した。
 飲んでも飲んでも酒が進む。アルコールは体内に入ってきたそばから小便として排出される。20代って素晴らしいな、と思いながら、盃を傾ける。ほろほろに飲んで、お会計をした。
 太郎がバーボンを飲みたいというので、ショットバーに入ることにした。昔、といっても、2014年に、太郎と大阪で再会したときに行ったような、カウンターにテーブル席が幾つかあるだけの、酒を飲むための空間だった。
 お決まりのようにジャズが流れている。まだ時間が早いのか、客は僕たちしかいなかった。カウンターに通されて、バーボンの入ったグラスを傾けているうちに、次の客が入ってきた。年齢は僕たちとあまり変わらないだろうスーツ姿の男性だった。その客は、席を3つ離れたカウンターに座った。
「ロングランドアイスティをください」スーツ姿の男性はバーテンダーに向かってそう言った。
「かしこまりました」
「あれ?」スーツ姿の男性はすっとんきょうな声をあげた。「TK?」
「……」
「やっぱりそうだ。久し振りぃ」その男は、明らかに酔っていた。
 めんどくせえな、と思いつつ、どうも、と言った。
 あろうことか、そいつはわざわざ僕の右隣の席を移ってきたのだった。
「TKは、今、何してんの?」
「……」
 僕の左隣にいる太郎がピリついているのがわかったが、僕は目配せでそれを制し、「スロットしてる」と答えた。
「スロットぉ? それ、仕事なのか? 親父さん、学校の先生だっただろ。いいのかぁ、そんなんで?」
「……」
「税金とか収めてないんだろぉ?」
 酔っているからか、そういう仕様なのか、その男は、語尾を少し伸ばして喋るのだった。
「税務署で働いてるの?」僕は聞いた。
「ちげえよぉ。単純に興味で聞いてるんだよぉ」
 その男の手元に、ストローのささった長いグラスが置かれた。
「これ、ロングランドアイスティって言うんだ」男は言った。「TK知ってるぅ?」
 僕は首を振った。
「ちっと飲んでみぃ?」
 全然飲みたくなかったが、一口飲んだ。コーラの味がした。
「な、アイスティみたいな味するだろぉ? でも、これ、コーラとレモン以外、酒しか入ってないんだぜぇ」
 へえ、という感じでうなずいた。
「あの、二人は、どういう関係なんですか?」左隣に座っていた太郎が、なぜか敬語でそう言った。
「親友ぅ」男はそう言った。「だったよな、TK、おれら」
 僕はあいまいにうなずいた。
 男は前兆なく立ち上がり、ちっとトイレぇ、と言ってふらふら歩いていった。
「誰、あいつ?」太郎は言った。「てかTKって?」
「たかしの略」
「同級生か何かか?」
「俺の生みの親のひとり」
「は?」
「おまえの言う、冷血動物の」

       777

 行こうぜ、と言って、会計を済まして外に出た。
「どういうことだよ」太郎が言った。
「どうもこうもねえよ」自分の喋り方が横柄で、そのことが気に障った。「クソ」たぶん、酔っているのだろう、僕は、転んでしまった。アスファルトが冷たかった。「人間、どこかで必ず転ぶんだ」立ち上がりながらそう言った。「だったら早いうちの方がいい。俺の場合、中1だったってだけだ」
「サダオ、落ち着け。何言ってっかわかんねえ」
「あれ? 太郎、おまえ、何か喋り方おかしくねえ? そこは何言っとんじゃねえの?」
「わかったから落ち着け。さっきのは、誰なんだ?」
「だから生みの親だって」僕は言った。「お父さん? お母さん? 性別は知らねえけど」
「意味わかんねえ」太郎はきょろきょろとあたりを見回して、自動販売機に駆け足で向かい、ペットボトルの水を買って戻ってきて、キャップを外して僕に手渡した。
「飲め」
 言われた通りに水を飲んだ。それは水の味がした。水以外の何の味もしなかった。
「落ち着いたか?」太郎は言った。
 僕は首を振った。体中がざわざわしていた。僕は思ったままに、「ざわざわターイム」と言った。
「……」太郎が心配そうな目で僕を見ていた。そんな目で見るな、と思う。おまえに心配されるほど落ちぶれちゃねえ。水を飲み干して、これ返す、と言って太郎に渡した。太郎はペットボトルのキャップを締めると、ゴミ箱に捨てた。
「何か、よかった」太郎は言った。
「はあ?」
「おまえにも人並に過去や感情があるんだなってことが」
「感情ねえ人間がいるのかよ? いたら連れてきてみろよ。クソ」
「それは毒舌じゃなくてただ口が悪い人だぞ」
「おまえが正論吐くと、気分が悪い。黙れ」僕は言う。
「わかったから歩こう」
 太郎に促されて、歩き出す。50メートルほど歩いたところに公園があり、ここで休もうと太郎が言った。ベンチに腰をかけて、タバコを吸った。タバコは世界を回すんだ。どうしてだ? ジャングルジムが、ブランコが、そしてすべり台と砂場が回っていた。僕はベンチに座っているのだから、回っているとしたら僕ではなく、世界の方だ。
「どうした?」太郎が言った。
「世界が回る」
「ああ。この瞬間も、地球は回ってる」太郎は詩人みたいなことを言った。
 むかついたので、「しね」と言った。
「人にそんなこと言ったらあかん」
「だからおまえが正論言うな」
「普段、正論しか言わねえおまえが言うなよ」太郎は笑う。
 空を見上げると、半分の月が浮かんでいた。人間の目には、少なくとも僕の眼には、約半分の大きさの月が浮かんでいるようにしか見えない。だけど実際は、今、この瞬間も、月は地球に引かれて回ってる。地球も回る。月も回る。ということは、俺だって回るに決まってる。ぐるぐるぐるぐる。みんなは気づいていないのだ。俺だけが世界の秘密を知っている。
「なあ、誰にも言わねえ?」僕は言った。
「は?」
「俺さあ、小学生くれえんとき、信じてるものがあったんよ」
「うん」太郎は相槌を打った。
「何だと思う?」
「何だそのクイズ。サンタさんか?」
「ぶー」と僕は言った。
「小学生の信じるもの。宗教的なことじゃないんだよな?」
「信じるんだから宗教に決まってるだろ。バカか?」
「だから口わりいな。仏教、キリスト教とかそういうことか」
「リアル宗教とは違う」
「わかんねえよ。ヒントは?」太郎は言う。
「おまえも当時は買ってたはず」
「買ってた? ものなのか?」
「もの、ではない。というか、形のあるものではない」
「形のないものを買うって何だよ。サービス?」
「いや、買うのはものだよ。だけど、信じるのはものではない」
 太郎はポケットからセブンスターのソフトケースを出して、引っこ抜くようにして一本を取り、ジッポで火をつけた。カチ。ジ。シュポ。カチ。ジッポの音は素晴らしい。オイルの味がするのでタバコには使いたくなかったけれど。といって、タバコ以外に使う場面があるようにも思わないのだけど。
 じりじりという音を立てて太郎は煙を吸った。そして、ふうーと吐き出した。
「物語」太郎は言った。「違うか?」
「何で今の不十分な説明でわかった? さてはおまえエスパーだな」
「ふは」と太郎は笑った。「で、サダオの信じた物語って?」
「ジャンプ」
「はあ? ジャンプって週間少年ジャンプ?」
「うん。俺くれえジャンプを熱心に読んでたやつっていないんじゃね、ってくらい真剣に読んでた。当時」
「おれも真剣に読んでたけどな」太郎は言った。
「じゃあ、おまえも信じてた?」
「信じる? 何を?」
「それがわかんねえならおまえはエセだ。ニワカだ。シッタカだ」
「ふは」と太郎は笑った。「いいよそれで。じゃあ、モノホンのジャンプ信者は何を信じてたんよ?」
「『友情・努力・勝利』に決まってんだろ。バカか?」
「……バカ?」太郎は小さな声で言った。

       777

 吸い終わったタバコを地面でもみ消して、吸殻を太郎に渡した。
「おれ、これ渡されてどうすんだ?」
「ポイ捨てはダメだろ」
「だからって、何でおれに渡すんだよ」
「受け取ったじゃん。もうおまえのものだ。返品は不可」
「小学生か」と言って太郎は笑う。
「とにかく俺は、『友情・努力・勝利』を信じてた。友情、努力、勝利の順番で大切だと思ってた。勉強はそこそこできた。運動神経は、パワー系はあんまりだったけど、瞬発力とかそっちの方はそこそこあった。何より、俺は目がよかった。喧嘩はする必要がなかった。それが俺の努力による勝利だった」
「いたよな、そういうやつ」太郎は言った。「そつなく何でもこなす。諍いはしない。それでいて、常にクラス内のいいポジションを占有する」
「そっか、俺は量産型なのか」僕は冷笑した。「だけど俺のクラスには俺みたいなやつは俺しかいなかった。誰からも命令されないし、誰にも立場を脅かされなかった。完璧な世界だった。世界はずっと、そうやって回っていくんだと思ってた」
 小学校の卒業式が終わった後、クラスに戻ってきて、僕はなぜか泣いてしまった。仲の良かった友人の何人かが、私立の中学に進んだという理由もあった。だけど、今思えば、あれは来たるべき変化を予期してのものだったのかもしれない。はは。オカルトだ。友情? 努力? 勝利? そう、僕のベースもオカルトだったのだ。
 中学に上がると、迷わずバスケ部に入った。100%スラムダンクの影響だった。バスケットボールは、5人でやるスポーツだ。特性の違う5人の個性を結合して点数を取る。パワーはからきしだったが、僕の俊敏性と視野は重宝された。バスケットを始めて数ヶ月で、僕は1年では一番上手いという評判を取るようになった。湘北で言えば三井寿。海南で言えば神。NBAならマイケル・ジョーダン。シューティングガードというポジションで、上級生の試合にも出させてもらうようになった。夏休みが終わる頃には序列の一番手になっていた。もちろんそれなりに努力はしたが、単純にレベルが低い学校だった。同級生のほとんどは、スリーポイントラインからシュートが届きもしなかった。確かに、天狗になっていた面はあったかもしれない。3年の試合に1年が出るというのは、年功序列が色濃く残るこの国の学び舎では、一種の特例だった。気づくと、僕は同級生から無視されるようになっていた。
 だけど、実際、そのことだけが原因で、僕が爪弾きにされたとは考えづらかった。流川や桜木花道がハブられる姿は想像できない。何か、僕にはそうされるに値する欠陥があったのだ。僕は、そう考えた。
 ひとりきり、世界を考察すること。それはまったく楽しくない作業だった。だけど、それを怠ったら最後、負の連鎖が始まるに違いなかった。当時は漠然としか考えられなかったが、負の連鎖の終点には、自殺という選択肢が待っていたのだ。ひきこもることは、その時間を遅らせるだけのように思えた。どうにか受け入れたくない世界を肯定する必要があった。
「俺は、あきらめた」太郎に向かって僕は言った。「友情・努力・勝利という看板を外し、バスケ部をやめ、1から自分を作り直すことにした」
「おまえ、悔しくなかったの?」太郎は言った。
「何で? おれはむしろ、感謝してるんだぜ。彼らのおかげで、宗教から抜けることができたんだから」
 太郎は地面でタバコを消すと、ソフトケースのビニール部に、僕が渡した吸殻と一緒に入れ、くるくると巻いてポケットにしまった。
「それ、おまえの考察が間違ってたんじゃね」
 太郎は標準語風に言いたかったのだろうが、妙なアクセントが混じっていた。僕がそれを訂正しようとする前に、太郎は続けた。「感謝してんなら、どうしてさっき、あの酔っ払いから逃げたんだ? あのときはありがとうって言えばよかったじゃんか」
「うるせえ」僕は言った。
「おまえの信仰が悪かったんじゃなくて、ただ、そいつらが悪かったのかもしれないだろ」
「世界に悪人が存在するからといって、殺人にあったらおしまいだろ。他人に押し付けたって問題は絶対に解決にしねえ。バカか?」
「いや、すまん」太郎は謝った。「それはそうだ。おまえが正しい。だけど、そうじゃない解決方法もあったんじゃねえのって話。つうか、おれはおまえのこと、友達だと思ってるよ」
 はらわたが煮えくり返るというが、そんな感じだった。「その友達から逃げたのは誰だ?」声を荒げて僕は言った。
「おれだ」太郎はそう答えた。「それは言い逃れできないおれの過ちだ。だけどそのことと、おまえの過去の体験は関係のない別の話だ」
「もちろん別だ。だけど、逃げたおまえにとやかく言われたくない」
「感情的になるなよ。これも、おまえの言葉だろ?」
 プチンと神経が切れるという表現があるが、本当にそんな感じだった。僕の手は太郎の顔面を、ベンチに座ったままの姿勢でぶん殴っていた。いや、そんな間接的な表現ではいけない。僕は、自分の意志で太郎を殴ったのだった。立ち上がり、もう一度殴ろうとした。が、そのパンチは太郎の左手で叩き落とされてしまった。太郎は無言で立ち上がると、僕の頬を殴り返した。
 僕は太郎を殴り返した。太郎は僕を殴り返した。僕が殴る。太郎が殴る。どこか、小さい頃に父親としたキャッチボールに似ていた。ボコ。ボコ。という鈍い音が夜の公園に響いていた。
「なあ」何度かの応酬の後で、太郎が言った。
 僕は太郎の言葉に反応しようとしたが、殴ろうとする手は止まらなかった。
 ボコ。
 太郎は僕のパンチをくらったまま、僕の肩に両手を置き、「サダオ」と言った。「おまえは、期待値を、友情・努力・勝利と引き換えに手に入れたんだな」
 口の中に懐かしい味が広がっていた。そうか、血ってこんな味だったっけ。




にほんブログ村 スロットブログへ

(原稿用紙換算枚数173枚)




合成の誤謬編へ