KIMG1918
「33歳の孤独」または、師匠の選択。
 ♯31 
all you need is gamble.


「どうして死んだなんて、母さんに言わせたの?」
「……」
「どうして、わざわざ仏壇まで用意して、遺影を飾って、遺言みたいな手紙を僕に渡したの? 何のために?」僕は小学生みたいな喋り方でそう言った。
「……」
「あなたはいつも、常に帰るべきは古典だ、と言った。なぜなら、人間の目は、前を向いているからだ、と。どんなに目がいい人間も、正確に自分をかえりみることができない。それは構造的に、横にしか進めない蟹に前に歩けと命令するようなものだ。他人のふるまいからしか、我が身のおこないは見えてこないんだよ、と。古典は確率的に、正しい蓋然性が高い。時間の裁きを受けているからだ。真実にとっては、時間だけが味方なんだ。そう言った。だけど、あなたが最後に残した手紙には、前例のあること、前例のないこと、迷ったら後者を選べと書いてあった。どうして?」
 死んだと聞かされた父の最後の手紙は何度も何度も読み返したから、すっかり暗記してしまった。

崇へ

 本にはすべてが書いてある。本を読め。くりかえし読め。読んだ本は捨てろ。
 金は借りるな。借りたらすぐ返せ。
 金は貸すな。貸すくらいならあげてしまえ。
 酒は飲むな。呑んでも呑まれるな。
 薬に頼るな。たまに頼って常習するな。
 前例のあること、前例のないこと、迷ったら後者を選べ。
 失敗には、取り返しのつくものと、つかないものがある。
 好きに生きろ。


 男はカツラを取り、サングラスを取り、言った。「なぜ、前例のないことをしなければいけないか?」日本語だった。それは英語のときとは違い、紛れもない父の声で、しかし男の頭はお坊さんのような剃髪で、左目は刀傷のようなものでふさがれていて、残った片方の目も白濁していた。その相貌からはかつての父の顔を思い出すのが難しかった。
「前例のないものしか、古典にはならないからだ」
 男はそう言うと、カクテルグラスの中のマーティニを飲み干した。

       777

「父さん」僕は言った。
「俺を俺として認識した以上、お前の質問には答えない。その疑問はお前のものだ。その答えは自分で見つけなければ、お前だけの答えにはならない」
 父の顔にある傷の理由。田所りんぼとは誰なのか? 父は僕がスロットをしていたことを知っていたのか? すべての行き場のない疑問が宙に浮かび、低い天井に取り付けられたファンがそれらをクルクル撹拌していた。まるでカクテルをつくるみたいに。
 僕は王の器を持ち、その液体をごくりと飲んだ。やはり強烈だったが、温度が少しだけ上がったことで、甘味と苦みの質が変化し、多少飲みやすくなっていた。
「賭けはお前の勝ちだ。崇。だけど、父親は、子供に嘘をつくのが仕事だ」男はそう言うと、持っていた小切手をびりびりと破り始めた。
「こっちはお前のものだ」そう言って男は僕の前に小切手を置いた。「すまんな。俺たちは半分ずつしかお前に渡すことができない」
「俺たち?」
「俺と母さんのなれそめは聞いたことがあるか?」
 僕は首を横に振った。
「俺は長男と長女の間に生まれた長男で、母さんも長男と長女の間に生まれた長女だった。一人っ子のお前にはよくわからんことだと思うが、かつての日本では、常に初子が優先されていた。その分、俺たちはプライドにまみれているんだ。母さんの家は、群馬県高崎市にある呉服屋で、俺の家は三重県津市にあった。家は古刹といっていい寺だったが、父は家を継ぐことをせず、しかし家も離れず、生涯を学者として過ごした。どんなに小さい都市だとしても、その中心地に生まれた人間はそのことだけでプライドを形成してしまう。長子相続。中心主義。これが東アジア的な価値観の弊害だ。俺たちは家を出て、東京で出会い、東京で職を得て、東京に家を建てた。そして、崇、お前が生まれた。俺たちは俺たちの悪い部分をお前に受け継がせたくなかった。が、俺たちの思惑は、お前にとってうざったい押しつけにしかならなかった。今なら、そのことがよくわかる。謝らないけどな」
「……」謝られたって困る、と思ったが、言わなかった。
「俺も、母さんも、欠点多き人間だった。どうにかして、お前には欠点のない人間になって欲しかったが」
「長所のない人間になってしまった」僕は笑った。
 ふいに、小さい頃、父と一緒に家のそばの小さな公園で、キャッチボールをしたことを思い出した。父が白い軟球を投げる。小さい僕には大きすぎるグローブで、父の投げたボールを受け取った後、僕はノモのように振りかぶってボールを投げる。しかしそのボールは父の持つグローブには届かずに地面に落ち、数度バウンドした後、ころころと転がっていく。父はにじり寄ってボールを拾うと、更に僕との距離をつめて、キャッチボールを再開する。ボールを受け取る。ボールを投げる。ただそれだけのことが楽しい。楽しい? いや、それ以上。興奮と安心が同時に心の中を回っている。ボールを受け取る。ボールを投げる。ボールを受け取る。ボールを投げる。いつから僕は、ボールを受け取ったまま、投げなくなってしまったのだろう?

       777

 ベッドの上で目覚めると、横に女性がいた。
にほんブログ村 スロットブログへ
The Solitude Of Thirty-Three Years Old.

お読みになった後、上のバナーを押していただけると、助かります。 


♯32へGO