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「33歳の孤独」または、師匠の選択
 ♯16 
all you need is gamble.





 スロッターの正装は、僕の中でカーゴパンツと決まっていた。フォーマルな服装とは言えないまでも、シルエットに気を使えば下品には見えないし、かつ、ポケットがたくさんあるので、スロッターの七つ道具(紙幣、小役カウンタ、各店の会員カード、耳栓、スマートフォン、リップクリーム、目薬)をしまうバッグを持つ必要がなく、かつ、ポケットがパンパンにならないし、ものを失くしにくいという利点があった。太宰や芥川の小説くらいならサイドポケットに入る。財布は持たない。現金はすべて生のままポケットに入れる。これが長年のスロット生活で培った、所持金のマネージメント方法だった。
 チップをすべて換金すると、所持金は1万ドルを超した。大量の現金を持つのも無用心なので、ポケットに入り切らないお金は小切手にしてもらう。ともあれ、ジャックポットの賞金に手をつけずとも、当面、お金の心配はしなくて済みそうである。
 さて、どうするか。その他の所持品、着替えと文庫本の入ったショルダーバッグを肩にかけ、とりあえず酔いを覚まそうと、無料WIFIの表示のあるカフェに入ってブラックの珈琲を注文した。これがとても、とてもとても不味かった。しょうがない。梅崎さんからもらったというか借り受けているi-phoneを取り出し、WIFIに接続させる。この内陸部から西海岸に出るためには、(現実的に取り得る手段としては)飛行機か、長距離バスしかなさそうである。
 僕は不味い珈琲を無理やり飲み干し、店を出て、タクシーに乗ってバス乗り場に向かった。チケットを買ってバスに乗車。車内は驚くほど人が少なかった。バスが走り出し、ほどなくして、僕は眠ってしまった。3時間ほどでカルフォルニア州の首都であるサクラメントに着き、トイレ休憩があったのだけど、僕は眠ったままだった。
 僕の隣には元カノがいた。元カノは僕の下腹部を執拗にまさぐっていた。なぜ? 彼女は答えない。ただ、まさぐるのだった。とても不快だった。不快だったが、体が縛られたように動かない。

 尿意とともに目覚めると、空が暗くなっていた。今、どこだろう? 窓の外を見るが、日本語の電光掲示板的なものがあるでなし、高速道路ということしかわからない。……というか、ここがどこかなんてどうでもいい。小便が漏れそうなのである。シリアスリー? シリアスに。

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 どうしてトイレに行っておかなかったのだろう? 今、そんなことを考えても遅い。が、冷静な思考というものができないのだった。ショルダーバッグをあさり、この事態を打開する可能性を探る。無論、僕のこの膀胱内の水分を吸収する道具は存在しない(あるはずがない)。漏らすか、あるいは運転手に言うか、しかしバス内は、人口密度が増している。
 サンフランシスコまでの所要時間は6時間と少し。サクラメントは過ぎたはずだから、どう多く見積もっても、残り時間は3時間を切っている。何、たった3時間くらい、眠ってしまえばいいじゃないか。
 睡眠というタイムトラベルに出かけるべく、目を閉じる。が、その入り口は遠かった。僕はどうにか、暗黒の海を泳ぐようにして、眠りの入り口まで向かった。しかしながらその入り口は、とても狭いのだった。あるいはエスパー伊東クラスのエスパーならば、潜り抜けることができるのかもしれない。しかし他でもない僕はできそうになかった。というかエスパー伊東クラスのエスパーとは何だ? その間も、尿意が膀胱を刺激していた。いや、膀胱に満ちた小便が尿意を発生させていた、と言うべきか。
 声にならないうめき声のように、脂汗が体中の毛穴からもれ出てきた。このまま小便も汗として出てくれないだろうか?
 ああ、もう少し前だったら、立ち上がってバスをとめてください、と言える体力が残っていたのに。どうして耐えようとしてしまったのだろう? いや、その前に、なぜ、サクラメントで起きなかったのだろう? いや、その前に、なぜバス乗り場のトイレに行っておかなかったのだろう? どういうわけか、精神が、過去にさかのぼって自らの行いを修正しようとしていた。
 ムリ。ムリ。煙。稲光。頭が狂いそうだった。なぜ、席を立ち、「小便がしたい」の言葉が言えないのだ、33歳の日本人よ。個を抑圧する文化もいいが、自らが破壊されるのを座して待つのか? 膀胱が破壊されるだけじゃない、このバスの空気も破壊してしまうのだぞ?
 わかってるよそんなことは。だけど、何か、自己都合でバスとめるのは何か、申し訳ない気がするんだ。
 違うな。自らの行いのせいではないか。自分の膀胱をマネジメントできなかった、過去の自分のせいだ。違うか? もうひとりの僕が言う。りんぼさんとの契約を破って酒をたくさん飲んだせいだ。そうだ。僕は言う。だけど、俺は養子になんてなりたくなかったし、もう何だかどうでもよくなってしまったんだ。ふふん、もうひとりの僕がまるでりんぼさんみたいに笑う。どうでもいいなら漏らせばいいじゃないか? どうでもよくなってガバガバ酒は飲めるくせに、どうでもよくて小便は漏らせない。そういうのを詭弁と言うんだよ。
 脂汗と腹痛と、性器の根元あたりの鈍痛。バカみたいな葛藤を繰り返しているうちに、膀胱の状況は悪化していった。
 ついには、自分がバスという膀胱の中に詰まった液体のように思えてきた。意志をもって小便をするか、意志を放棄して、漏らすか。立て、崇。勇気を出すんだ。崇。そう、僕の名前は山村崇。父より賜りし名前を、先祖代々続く苗字を、異国の地で汚すわけにはいかない。最後の力を振り絞り、僕は席を立った。そしてそろそろと運転席に向かう。
「イクスキューズミー」僕は言った。「あー、アイリアリーリアリーウォントゥピー(僕は本当に、本当に欲する。小便を)、ソー(だから)、アイムソーソーリー(マジすいません)、あー、ウジュウストップザバス(止めていただけませんか、バスを)? プリーズ(頼みます)」
 文法なんて知らない。一方的に自分の要求をまくしたてた。
「うん。いいよ」というようなことを言って、黒人の男性運転手は高速道路の路肩にバスを停止させてくれた。
 勢いよく放出される透明の液体を眺めながら、神に感謝を捧げたい気分だった。オーゴッド。オーゴッド。実際にそう口にしていた。……危なかった。ふう、と息を吐き、カーゴパンツのジッパーをあげた。
「サンキューソーマッチ」と言ってバスに戻る。
 申し訳ないという態度をアピールしつつ席に戻ると、ショルダーバッグが消えていた。……間違いなく、この中に犯人はいる。が、小便をしたいことを運転手に伝えようと勇気を振り絞ったことで、体力のほとんどを使ってしまった。いいさ。どうせ衣類と文庫本しか入ってない。バスが静かに動き出す。僕という事なかれ主義の日本人は、シートベルトを閉めると、すぐに眠りの世界に戻っていった。眠り。すべての始まりの場所。暗闇の中へ。
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The Solitude Of Thirty-Three Years Old.

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