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「33歳の孤独」または、師匠の選択。
 ♯19 
all you need is gamble.


 数学の定理や、太陽が東から昇って西に沈むというような自然界の決まり事に比べると、人間の認識は、ほとんどが誤解の集積であるように思う。たとえば、自分を自分と思い込むことだって誤解のようなものだ。誤解が悪いわけではない。恋愛感情、生きがいやモチベーション、それらはよい部類の誤解だろう。もちろん、悪い誤解もある。食わず嫌いだとか、他者に対する不安感や嫌悪感、自己中心的な思考だとか。
 佐和はどちらかといえばポジティブな女性だった。小僧もそう、太郎もそう。僕の周りにはそういう人間が多かったように思う。でも、ポジティブな人間は、裏を返せば無責任ということだ。嫌なことはまかせてしまえ、とばかりに他人に押し付ける傾向があるように思う。ネガティブもそう。自分だけが不幸であるだなんて、自己中心的思考の権化だ。ネガもポジも、自己中心的な主張の裏表に過ぎない。すぐ笑うのも、すぐ怒るのも、すぐ泣くのも、すぐ喜ぶのも同じだ。ひとつの出来事の意味はその場では決まらない。運よく初めてのギャンブルで勝てても、それがきっかけで財産を失うことだってある。初めて飲んで美味しいと思った酒がきっかけでアル中になることもあれば、初恋の人と結ばれたことがきっかけで、自殺を決意したり、別れた後引きこもってしまうことだってありえるのだ。
 僕は順番をわきまえている。僕があって現実があるのではなく、現実があって、僕がいる。そんな僕が、どうして過去の幻影に縛られなくてはいけないんだ?
 ……決まってる。僕自身、自分という檻から出られない囚人であり、自分勝手という病気にかかった患者だからだ。

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 そこは西部劇に出てくるようなBARだった。片手で押すだけで開閉自在なスイングドア、幾つかのテーブル席に、カウンター、椅子、すべてが年代物の木でできている。古めかしくチープなシャンデリアの明かりと、客の手元を照らすためのランタンの炎。カウンターの隅に、おそらくは飾りだろうオーク樽が置かれ、壁面にはこれまたオブジェとして取り付けられた飾り窓があり、その脇に代々の店主の家族のものだろうか、白黒の写真が並んでいる。
 どうやら僕が口切りの客らしかった。「ハイ」50代から60代のヒゲの生えた店主らしき男性が言った。
「どうも」という感じでカウンター席に座る。ギネスビールをもらって、一息ついた。
 僕はずっと、飲酒もギャンブルのひとつだと思っていた。体質という初期設定で戦略が決まる。ただ、そのギャンブルには勝者がいない。酩酊状態とは、未来の自分の元気を今使ってしまうという借金行為なのだ。借金を借金でまかなおうとする負の無限連鎖をアルコール中毒と言う。すべての鍵は、自己中心的な自我が持っている。
 と、スウィングドアが開く音がした。すたすたと男はカウンターまでやってくると、僕の隣の席に座り、店主に向かって「彼と同じものをください」と、英語でそう言った。
「師匠、探しましたよ」その男はしっかりと僕の目を見て言った。「色々話したいことはありますが、ここまで来るのに疲れてしまったので、一杯飲んでからでいいですか?」
「はい」僕に異論はなかった。
 梅崎さんはいつだって落ち着いている。二人で過ごす時間が増えるうちに、梅崎樹がその態度を身に着けるために、どれだけの労力と時間を注いできたかについて、気づいてしまった。それはある意味では僕のスロット生活に似ていたが、深刻さの度合いが違う。
 スロットで勝てない人は、まったく努力をしない。むしろ、努力をしないことに、あるいはオカルトと呼ばれる短絡的な物語に没頭することに、すべての努力(的なもの)を注いでいる。嬉々としてデータ機器をポチポチし、自分に都合のいい数字だけを抽出し、着席し、勝った負けたに一喜一憂する。僕は彼らがいてくれたから、生きてこられた。しかし彼らのメインシステムである人間存在は違う。細胞やホメオスタシス(恒常性機能)や自律神経は、時に調整のための自殺(アポトーシス)すら繰り返しながら、自らのすべきことを、ほとんど全力で取り組んでいる。
 僕が相手にしていたのは、怠惰な人間の表層意識(が落とした可能性のカケラを拾うこと)であり、梅崎さんは人間存在(の活動を停止させること)だった。そこには、どう少なく見積もっても、数千倍の難易度の差があった。才能とは何かを問われ、ある企業経営者(川上量生)は「希少性」と答えた。梅崎さんという存在の希少性には感服し、尊敬もするが、同時に悲しくもあるのだった。
 老店主がやってきて、梅崎さんの手元にギネスビールの入ったパイントグラスを置く。梅崎さんはコインを並べてギネスの対価を支払うと、「乾杯」と言ってグラスを宙にかかげ、成層圏のような白い泡に口をつけ、宇宙空間のような黒い液体を体内に流し込んだ。

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「ねえ、師匠」
「ん?」
「師匠は田所班長とおれ、どっちの味方?」
 僕はその質問には答えずに言った。「樹はりんぼさんを殺した後、どういう生活を送ろうと思ってるの?」
 梅崎さんはギネスを飲み干してしまうと、老店主の背中にあるバックバーに鎮座したバーボンを注文し、店主から受け取ったショットグラス半分ほどを一息に飲んだ。「前にも言ったように、飲食店を経営したい」
「だったらもう血なまぐさいことはやめて、どこかカリブ海の島でも行って、海辺にバーでもつくって静かな暮らしを送らない? 手伝うよ」
「いいね」梅崎さんはバーボンをぐびと飲み干した。「とてもいいアイディアだ。でも、それだと、おれらは一生逃げ回らないといけないよね」
「田所りんぼさんを殺しても、田所りんぼさんは死なないよ。りんぼさんは俺にこういった。僕を殺した人間は、僕になってしまう、と。それでいいの? それが樹のしたいことなの?」
「師匠は、おれじゃない。師匠におれの感覚は理解できない」
「うん、梅崎さんは俺じゃない。もちろんそうだ。他人は自分にならない。自分は他人になりえない。だけど、コミュニケーションが不可能だ、ということを相手に押し付けて楽しい? 何か意味ある? 何か生まれる?」
「師匠、おれはそんなことじゃ怒らないよ」梅崎さんは落ち着いた声で言った。「でも、ありがとう」
 さっきまで流れていなかった音楽が鳴っていた。何だっけこの曲? ああ、モーツァルトのレクイエムだ。
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The Solitude Of Thirty-Three Years Old.

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