火事の中、地面に倒れた。と、誰かが自分の上に覆いかぶさり、気がついたら、その人はもう灰となり、すでに火は消え、自分はその灰に守られ、生きていた。その自分の真先にすべきことが、自分を守って死んだその人を否定することであるとしたら、そういうねじれの生の中に、そもそも「正解」があるだろうか。戦争に負けるとは、ある場合には、そういう「ねじれ」を生の条件とするということである。


「敗戦後論」 加藤典洋 
2匹のカニ
「不死鳥の灰」あとがき
 


小さい頃好きだったものを今でも好きか? といわれると、首を横に振らざるを得ない。熱狂的な巨人ファンだった少年期、今ではアンチ巨人。それはぼくの中で特に矛盾しない。時間も、感情も、感覚も、変わっていくことが自然だからだ。

すべてが移り変わっていく世界にあって、固定され、変えられない(どころか取り扱うことすらできない)記憶のことを、フロイトは「トラウマ」と呼んだ。ひとりの人間にとって、あらゆる行動はトラウマの可能性である。失敗がトラウマになり、不運がトラウマになり、悲観することがトラウマになる。自分が悪くなくても、どこかに悪の元凶がいたとしても。

行動の担保を、他でもない自分に置く人間のことを、世間一般ではギャンブラーと呼ぶ。だからギャンブラーは、どこかで破産する。それは自分を主人公と規定する主体にとっての宿命でもある。

人間は幸運を手に生まれてくる。そこがどんな劣悪な状況だとしても、「命」を授かったこと自体は、紛れもない幸運である。しかしその命は、常に狙われている。時間に、他人に、環境に。エントロピー増大の法則。すべては汚れる方向に進む。部屋は散らかり、ポケットの中のイヤホンはぐちゃぐちゃに絡まり、人間関係はこじれる。誰であっても、無垢のまま生き続けることはできないのだ。


にほんブログ村 スロットブログへ            


ぼちぼち、スロットを打って生活するという風呂敷(生活スタイル)をたたまなくてはいけない。スロットを打って、勝ったお金で生活する。夢のような時間。そう、あれは夢のようなものだった。上げ潮、モテ期、ノリノリのとき、人間は特に頑張らなくても、流れ、波、風、賛同者といった、外部の力が後押ししてくれる。が、その状態はいつまでも続かない。波は引き、向かい風が吹き荒れ、賛同者は去り、それでも生きていくしかない。ノリノリだった頃の自分を見上げ、落ち目の自分を卑下し、悲運を嘆き、不運を憎んでも、事態は変わらない。誰も助けてなんてくれない。

時間も空間も、すべての他人も、身内すら、自分自身すらも、敵に思える。ぼくらはそこで、初めて自分に出会う。弱く、脆く、無垢な自分。生まれたてのような、まだ汚れる前の自分に。そこで何をするか? 何ができるか?

文章を書くのはひとりきり。文章を読むのもひとりきり。だけど、物語の中にいる間、ぼくはひとりではなかった。

ぼく/ぼくらの境界が曖昧な世界に、入りつ戻りつするうちに、時間が前に進んでいることに気づいた。時々、その世界に入れなくなったり、また、戻ってこられなくなりそうになったこともあったけど、幸せな時間でした。

2017年4月15日 書くこと、賭けること 寿


表題画
「2匹の蟹」フィンセント・ファン・ゴッホ 1889年 



 まえがき

「不死鳥の灰」