「わたしは不幸だ」という言葉は理解できない、なぜなら本当に不幸な人間には「わたしは不幸だ」とは書けないからだ。フランツ・カフカ

1ベーコン_走る犬のための習作 - コピー
「不死鳥の灰」
♯74 
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まえがき
 
    

スロ小説とは何か? 

スロ小説の年表             


 外観もさることながら、素晴らしい内装の家だった。ミラーボールをつければダンスフロアになりそうなリビング、使いやすそうなシステムキッチン、バスタブこそないが、上に横にゆとりのあるシャワールーム、読書が捗りそうなトイレ、二つのベッドルーム。このままここで酒を飲みたいような気もしたが、山崎の薦めで、夕食は歩いていけるところにあるレストランで取ることにした。
 ロンドンで会って以来、山崎がリコメンドするものが全部美味いので、すべてを山崎に一任することに。
 小ぶりの生カキのアイラモルトがけ。白身魚のスープ。サーモンのタルタル。ムール貝のオーブン焼き。アンガス牛のステーキ。山崎の注文する料理は、どれもこれも素晴らしかった。シングルモルトウイスキーをストレートで飲みつつ、チェイサーとして、スコットランド産のブラウンエールを飲んだ。自分が酒豪にでもなった気分だった。
「めっちゃ楽しいな」松田が言った。「同年代と、こんな晩餐会ができるとは思ってなかった」
「いや、おまえが一番年長者だからな」
「おまえ38歳なんだろ? 一回り以上、年上じゃねえか。戌年のおっさん」
「犬猿の仲ですね。うらやましい」山崎りこが言う。
「どっちかっつうと、レンの方が猿顔じゃねえ?」
「いや、レンさんは犬顔な気がします。リョウさんは、うーん、猿というか、ゴリラですね」
「ウホ」
「……」
「どうした?」
「おれらの旅はいつ終わるんだろうな」おれは言った。
「どうした急に」
「いや、距離が近づくって、しんどいことでもあるよな」
「ん?」
「長い小説を読み始めて、好きになって、続きが読みたくてしょうがないんだけど、終わっちゃうのが寂しい。だからペースを遅くしよう。みたいな」
「レン、おまえがパチ屋にい過ぎたせいか知らんけど、人間関係すらも、期待値に関連付けて捉えてねえ? 与えられるものではなく、人間関係は、自分が差し出すのが初手よ」
「自分が差し出すのが初手?」
「おれはずっと、父親を避けて生きてきた。だけど、こうやって異国の地で、おまえらと出会って思うのは、何つうか、先人への感謝っつうか。感情はさておき、両親がいなければ、自分はここにいない。すべての人間は、してもらうことから始まる。その贈り物は、どこかに返さないと、天秤がつりあわない」
「……」
「親からもらったものを他人に期待するのは甘えだ。小説を読み終えるのが寂しいなら、自分で書けばいい。終わりは始まり。それだけの話だろ」
「ねえ、ゴリ田さん」山崎が言った。「めっちゃいいこと言うね」
「ゴリ田さん?」松田は苦笑した。

 松田が言った言葉が重たくて、たぶんゴリ田さんと言った山崎にも重たくて、ゴリ田さん本人にも重たくて、おれと松田が割り勘で支払いを済ませた後、おれらは無言で帰途についた。
 サマーハウスには、ベッドルームが2つあった。ジャンケンをして、おれが勝ち、松田はソファで寝ることになった。
「ゴリ田さん、犬里くん、おやすみなさい」山崎はそう言って、寝室に入っていった。
「グンナイ」おれはそう言って、寝室に入った。
「よい夢を」松田遼太郎は言った。
 その部屋には、クイーンズサイズのベッドがどーんとあった。電気を消し、服を脱ぎ、ふとんにもぐり込み、目を閉じたが、どうにも眠れなかった。
 おれの人生は、母の胎内から出てきたところから始まった。が、おれの母親は、おれに安らぎを与えてはくれなかった。おれは母から遠ざかった。自分の家にいるよりも、外にいるほうが落ち着いた。母との関係がそんなだったから、人間関係がうまくいかないのだろうか。あるいは、おれは一人という状況に甘えていたのか?
 人間関係は、自分が差し出すのが初手。いい言葉だ。書家に頼んで、床の間に飾りたいくらい。家はないので、心の床の間に飾っておくか。

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 心の床の間ってどこや? 苦笑しつつ、部屋着を着て、ベッドルームを出た。松田は革張りのソファの上にあぐらをかいて、置いてあったゴシップ誌をぺらぺらめくっていた。
「どうしたん?」
「おれ、日本に帰るわ」おれは言った。
「いつ?」
「明日」
「急だな」松田は苦笑いを浮かべた。
「おまえはどうすんの?」
「おかげさまで、大学に戻って勉強を続ける決心がついた。ただその前に、せっかくヨーロッパにいるんだから、ローマは見ておきたいかな」
「そうか」
 ベッドルームの扉が開いて、山崎が出てきた。
「何か楽しそうな声が聞こえたので、出てきてしまいました」

 おれたちは改めて、グラスにウイスキーを入れて、乾杯した。
『スランジバー(乾杯)』
「お二人はこの国を去るんですか?」
「うん。さっきゴリ田さんに言われたことで目が覚めた」
「おれも、二人に会ったことで、目が覚めた。大学に戻るよ」
「何か、うらやましい。わたしも目を覚ましたい」
「リコは最初から覚めてるよね」松田が言った。
「うん」おれはうなずく。「というか、山崎が覚めてたから、おれらも覚めたんだよ」
 松田がうなずいた。
「また、会えますか?」
「前世の山崎は、東京に幾つも店を持つオーナーだった。どの店もいい店だった。東京の夜を照らす灯台みたいな。だから、きっと会える」
「おれは?」
「……おまえは2014年だっけな、撃ち殺される」
「誰に?」
「梅崎ってやつに」
「誰それ?」
「おれはおまえに会ったことはなかった。だけど、噂は聞いていた。おまえは非合法組織に属す、出世欲むき出しのトラブルメイカーだった。思い切りがよく、面倒見がよくて、上からの受けもよかった。だけど、虎の尾を踏んでしまった。なあ、松田、今のおまえなら大丈夫だと思うけど、おまえは自分の庭を耕すことに専心したほうがいい。人間関係は、自分が差し出すのが初手。だろ?」
「……なあ、おまえの話聞く限りでは、おれにしても、リコにしても、人間として成長してね?」
 おれはうなずいた。「明らかに」
「それはいい話を聞いた。少なくとも、前世より前に進んでるんだな」
「でも、おれがいた世界には、今間と在原があった。この世界にはない。それがどういうことなのか、おれにはわからない。おれの頭が変なだけかもしれないし」
「おまえの頭が変なのは、初期設定やろ」松田は笑った。
「ゴリ田さんがゴリ田さんなのも、初期設定ですか」山崎は言った。
「くっくっく」と松田は笑った。「ゴリ田さんは、リコの創作物だろ」
「でもそもそも、桃太郎の家来とか言い出したのはゴリ田さんですよね」
「ウホ」
 ウイスキーと自由は共に進む。おれたちは名残を惜しみ、ウイスキーを手に朝方まで語った。

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 仮眠を取って掃除を済ませた後、サマーハウスを出て、エジンバラの駅でふたりと別れた。満面の笑みで。胸が痛かった。終わりは始まり。この痛みからおれは始めなくてはいけない。

つづく
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"Study for a Running Dog"


「走る犬のための習作」
フランシス・ベーコン1954年


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