子供は無垢であり、忘却である。新しい始まりであり、遊びである。自らまわる車輪であり、自動運動であり、聖なる肯定である。

 そうなのだ。わが兄弟たちよ、創造の遊びのためには、聖なる肯定が必要なのだ。精神はここで、自分自身の意志を肯定するようになる。世界を喪失していた者が自分の世界を獲得するのだ。


「ツァラトゥストラはこう語った」より フリードリヒ・ニーチェ 永井均訳


「不死鳥の灰」
♯70~77

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今間、在原という街の名前を決めたのは、本当に何となくだった。その街の名が、物語の根幹を支えていたことに、小説を書き終えて気がついた。

書くこと、賭けること 寿

まえがき 

♯1~♯9まとめ 

♯10~♯14まとめ

♯15~♯19まとめ

♯20~♯24まとめ 

♯25~♯29まとめ
 

♯30~♯41まとめ


♯42~♯46まとめ 

 
♯47~♯51まとめ 

♯52~♯64まとめ 

♯65~♯69まとめ 


 そこは倉庫街のような場所だった。石畳の路面はところどころはげ、街灯もまばらで寒々しかった。たしかに、女性ひとりでは歩きにくそうな場所だ。どこかで音楽が鳴っていた。
 音楽は倉庫の中から聞こえてくるようだった。アップテンポの音楽に混じって人々の歓声があがっていた。
「ここ、一度来てみたかったんですよね」山崎は言った。
 そこはクラブだった。入り口で10ポンド(当時のレートで1800円くらい)を支払い、中に入る。
 音がだんだんと近づいてくる。流れているのはテクノだった。考えてみれば、前回の人生、特に20歳から先の人生では、同年代の友だちというのがいなかったから、クラブというところに来たのはこれが初めてだった。
 音が生み出される場所、それがDJブースだった。少し高いところにある二台のターンテーブルと、ミキサー。その装置はどこか、道場の神棚に似ていた。神棚は、空間の拠り所にして、空間の精神を象徴している。ダンスフロアでは人々がすし詰め状態で踊っていた。客層は20代が中心のように思えた。時々、甘い香りのするスモークがたかれ、カクテル光線が、人種を差別することなく、カラフルな光をその場にいる全員に届けていた。
「酒飲みますか」松田は言った。
 山崎はうなずいた。
 おれたちは人波をかきわけ、バーカウンターを目指し、ホセ・クエルボ(テキーラ)で乾杯した。ショットグラスを頭上まで掲げて一息で飲み下す。それから、おれたちはダンスフロアに入った。
 神事をつかさどるDJは短髪の黒人で、周りの熱狂とは無縁のしかめ面で、スイッチをいじりつつ、レコードを選びつつ、片方の耳にヘッドフォンをあてて次に流す曲のあたりをつけつつ、空間の精神性を打ち立てていた。
 四つ打ちのリズムが精神を前に進め、電子のメロディが感情を掴み、ウーファーが心を弾ませる。山崎は体を左右に揺らしていた。松田は頭を振っていた。気づくとおれの体も揺れていた。その状態で自己紹介がはじまった。
「松田遼太郎22歳です。大学を休学して放浪の旅に出ています」
「山崎りこ21歳です。語学学校に通いながらパブで学んでます」
「永里蓮38歳です」
「前世を加算するな」と言って松田は笑った。山崎も笑っていた。
「おれが1980年生まれの申年。リコが酉年。レンが戌年。桃太郎の家来ーズだな」
「きびだんごくらいじゃおれは家来にはならんよ」おれは言った。
「雉(キジ)ってけーんけーんって鳴くって本当ですかね?」山崎が言った。
「おれどこかの動物園で聞いたことあるけど、キエイキエイって感じだったけどね」松田が言った。

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 その前奏のド頭の音で、空間を埋め尽くす人々は歓声をあげた。調子に乗った松田はキエイ、キエイ、とキジなのか、武道家なのか、ようわからん奇声を発した。おれも思わず声をあげた。UnderworldのBorn Slippy(Nuxx)。「トレインスポッティング」の最後に使われていた曲だった。義父のマンションで、氷野とふたりでその映画を見たことを思い出した。暮れなずむ20世紀の神戸の街と、氷野のふともも。過去に戻ってなお、過去に戻りたい自分がいた。心が真っ二つに避け、しかし音はこのうえなく心地よかった。音を楽しむと書いて音楽。単語の成り立ちに気づいてしまった。
 暑くてしょうがないので、上着を脱いで、クロークに預けることにした。ついでに、バーカウンターでテキーラを注入。自分が燃費の悪い車になったような感じがする。英国仕様だからしょうがないか。
 山崎の顔は笑っている。松田の顔も笑っている。おれもたぶん笑っているのだろう。Primal Scream、The Chemical brothers、Fatboy Slim、まったく文化基盤の違う異国の地で、異国人のおれが知っている曲が流れるというのは、ちょっとした奇跡ではないか、と思う。お互いが、お互いに。

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 おれは音に集中していた。音とひとつになる。それは、自分の成分を減らすことによって自分の取り分を増やすという、おれの行動理念と似ていた。というか、同じことだった。見てくれはどうでもいい。格好のいい体の動かし方でなくていい。耳から聞こえてくるものに、身を任すのだ。音楽は時間を前に動かす技法だった。人間にとって時間は、刻一刻と死に向かう悲しみの元凶である。しかし、その時間がなければ、音は鳴らない。聞こえない。その背反性が、ムーサ(英名ミューズ)――ムジカ(英名ミュージック)という芸術の根幹にあった。いや、音楽だけじゃない。人生がそうなのだ。悲しみのない喜びは存在せず、喜びのない悲しみも存在しない。すべての曲はいつか終わる。しかし曲と曲をつなげることによって、DJは物語を紡ぎ続けていた。終わらない性行為のように。
 最高。女同士のセックスはこんな感じかしら。夢見心地だった。疲れてくると、バーカウンターに避難し、何かしらのスピリッツ(蒸溜酒)を注入し、踊るエネルギーに変えた。DJが何人か代わり、曲調がそのつど変わり、しかし全体的な雰囲気は変わらず、時間を前に押し進めていった。
 Pink FloydのMother が流れ出し、照明が明るくなった。打ち止め、エンディングということなのだろう。時計を見ると午前2時だった。おれたちは近くで踊っていた何人かとハイファイブを交わし、倉庫を出て、24時間動いているロンドンバスに乗った。疲労が一気にやってきた。
「降りるところわかりますか?」山崎は言った。
「ばっちり」松田は言った。
「今日は本当にありがとうございました。おやすみなさい」と言って、山崎は降りるべきバス停で降りていった。

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 松田の自信は過信に過ぎず、おれたちは降りるべきバス停で降りそこね、かなりの距離を歩くハメになった。どっぷり疲れてホテルにたどり着き、顔を洗い、歯を磨き、靴を脱いでベッドに横になった。が、疲れすぎていて、なかなか眠れなかった。水を買い忘れていたことに気づき、しかしノドが乾いてしょうがないので、昼のうちに買っていたスペイン産の赤ワインを飲むことにした。歯磨き後の赤ワインは不可解な味がした。罰ゲームのような。それでもぐいぐい飲んだ。
 耳の奥でまだ音楽が鳴っていた。体はまだクラブにいて、音と遊んでいる。意識だけが冷静で、精神は意識と肉体の間で揺れていた。

 松田は、日本に帰ったら何かを一緒にやろう、と言った。が、旅行のテンションと日常のテンションは違うだろう。旅行に必要とされるアビリティと、地に足のついた生活に必要なアビリティが違うように。
 そんなことをうつらうつら考えているうちに、朝になっていた。荷物をまとめてロビーに降りると、松田はすでにソファに座って新聞を読んでいた。
「おはよう。よく眠れたかね」松田はそんなことを言った。
「吐き気と頭痛、これはハングオーバー、二日酔いそのものである」おれは文語調のセリフで対抗した。
 料金を支払って外に出ると、小雨がぱらついていた。灰色の空の下、傘をささずに歩き出す。隣に松田がいることが、不思議でならなかった。インドで出会ってから、まだ2週間程度しか経っていない。それまでは、見ず知らずの人間だったのだ。にもかかわらず、本当に、前世からの知り合いのように感じる。まずいな。近づけば近づくだけ、別れがつらくなる。
 イタリア風のカフェに入ってガス入りのミネラルウォーターと、ダブルのエスプレッソとパニーニを頼んだ。パサパサのパンにパサパサのハムがはさんであった。口に押し込めるようにしてパサパサの塊を食べ、エスプレッソと炭酸水で飲み下した。
「さあ、今日はどうすっかな」
「ゆっくりしようぜ」おれは言った。
「ゆっくりって?」
「早めにホテル入って部屋でダラダラ、みたいな」
「せっかくロンドンにいるのに?」
「ぶっちゃけ、しんどい」おれは素直な気持ちを述べた。
「珍しいな」松田は貴族のような顔でカフェラテを飲んでいた。
「つっても、ホテルに入れる時間までどうすっかな」
「マンガ喫茶があればいいのにな」おれは切実な意見を述べた。
「大英博物館でも行くか」
「……」
「無料っていうし」

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 エジプト文明の遺物。メソポタミア文明の遺物。大英博物館を回っているうちに、体調が戻ってきた。
 その空間は、簒奪者の歴史であり、保護者の歴史だった。広い広い館内のラストを飾る日本コーナーにたどり着く頃には、すっかり復調していた。埴輪(ハニワ)や武者の鎧を見物した後で、わずかばかりの寄付をして、外に出た。キオスクでミネラルウォーターを買い求め、トラファルガー広場の巨大なライオン像を見て、ナショナルギャラリーに向かった。すっかり観光客である。
「たまにはこんなんもええな」松田は言った。
「うん」素直にうなずいた。
 古今東西の名画を眺めているうちに、酒が飲みたいという気持ちが生まれていた。そしておれたちはパブに向かう。
「もはや完全なるアル中だな」おれは言う。
「ええやん、旅行やし」
 エールを2杯飲んでから、観光案内所で値段を聞いて泊まる場所を決めた。昨日の半額程度のB&B(『ベッドと朝飯』という意味の安宿)にチェックイン。ツインの部屋で、交代でシャワーを浴びた後、街に繰り出した。外は暗くなっていた。
「せっかくやし、ロンドン橋、見ていこうや」と松田が言ったので、アンダーグラウンドに乗ってロンドンブリッジ駅で下車。ロンドン橋は謎の色にライトアップされていた。テムズ川沿いを歩いていくと、お台場的な賑わいの向こうにタワーブリッジがあった。倫敦(ロンドン)塔という小説で、「まるで御殿場のウサギが日本橋のど真ん中に放り出された気持ち」というような文章を書いていたが、100年前、夏目漱石はこの壮麗な建築物を見て何を思っただろう?
「すげえな。これがロビンマスクの技かあ」昭和風な感想を松田は述べた。
「ロビンマスク格好よかったもんな」おれは言った。

 山崎に、食事で困ったときはここです、と教えられたインド料理屋でカレーを食べた。美味い、安い、早い。往年の吉野家のキャッチコピーのようなディナーを済ませ、代金を支払う。インド移民らしき店主は、スロッターのおれらよりも暗算が速かった。素晴らしき哉、インド式計算法。
 飲み足りないような気もしたが、今日は控えることにした。といっても、B&Bに戻ってジョニーウォーカーレッドラベルを少しだけ飲んだ。ミネラルウォーターで食道を洗い流し、歯を磨き、ベッドに寝転んだ。今日一日、無理をして本当によかった。これは旅行なのだ。今無理しないで、いつ無理をする? 期待値的には打っても打たなくてもいい台というのはあるが、後悔という観点から見れば、打たない後悔よりも打った後悔の方がマシである。微妙な差ではあるが、精神というやつはそういう風にできている。電気を消し、満ち足りた思いで目を閉じた。

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 B&Bのベッドの上で、夢を見ていた。おれは松田が運転する車の助手席に乗っている。おれはなぜか、窓を開けて叫んでいる。
 後部座席には、二人の女が乗っている。誰かはわからない。松田の運転する車は高速を走っている。おれはやめたはずのタバコを吸っている。
 山があって、海がある。どうやら、温泉地らしい。次の瞬間、おれらは広い部屋で、シャンパンを飲んでいた。女とふたり、広い部屋で上等なシャンパンを飲んでいるにもかかわらず、おれにはおれらが幸せかどうか、判断ができなかった。
 目が覚めると、松田はすでに起きていた。
「おはよう」
「おはよう。はえーな。どうした?」
「今日は、学生の端くれとして、ケンブリッジを見物してこようと思うんだけど、おまえはどうする?」
「昨日全部回れなかったから、ナショナルギャラリーをもう一度回ろうかな」
「わかった。じゃあ、夜にリコの店で待ち合わせしよう」
「了解。つうか、もう出るの?」
「何事も早い方がいいだろ」
「早漏野郎」と言うと、松田は鼻で笑った。「じゃあ後でな」

 昨日とは違い、二日酔いはまったくなかった。おれはシャワーを浴びて、恐ろしい音のするドライヤーで髪を乾かした後、食堂に下りた。ビュッフェ形式の朝食(世界基準)。オレンジジュースを飲み、ブラックコーヒーを飲み、ベーコンと、スクランブルエッグ、オートミールを食べた。
 部屋に戻って、ベッドの上で、日本から持参した文庫本を読んだ。やはり、本は一人の空間で読むに限る。
 10時まで集中して小説を読んで、チェックアウトしてトラファルガー広場に向かった。フランス・スペイン連合艦隊を破ったイングランドの英雄、ネルソン提督の柱がそびえ、銀座三越のライオンが赤子に見えるくらい巨大な4頭のライオンが鎮座している。今日も観光客たちがライオンの台座によじのぼって写真を撮っている。噴水の前を通ってナショナルギャラリーに向かう。入場料はないが、寄付金を募る箱が設置されている。
 昨日とは、絵の見え方がまったく違う。1枚の絵画は角度によって、距離によって、また、心持によって、見え方が変わる。教科書に載っている名画は、正面からの写真に過ぎないのだ。絵は静止しているように見せかけて、まったく静止していない。確定演出のような喜びの予兆や、高継続率ループ単発のような悲しみ、そこには物語があった。
 おれは1枚の絵の前で固まっていた。それはゴッホの描いた蟹の絵だった。狂気を塗り重ねたような緑色の背景と、2匹の蟹。1匹はひっくり返って、1匹は前を向いている。
 なぜ、1匹の蟹はひっくり返っているのだろう? ひっくり返った蟹の前方にいる蟹は、そこから離れようとしているようにも、そこで生命活動を停止させようとしているようにも見える。ひっくり返った蟹がダダをこねているようにも、争いに敗れた結果、死が訪れたようにも見える。あるいは、前を向いている蟹こそがひっくり返っていて、ひっくり返っている蟹こそが前を向いているという逆説かもしれない。関係がこじれたゴーギャンとの関係に当てはめることも可能だろうか。あるいは、おれと松田の未来を示唆しているのかもしれない。

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 ナショナルギャラリーを出て、中華料理屋に入った。炒飯を注文。それほど美味しいものではなかったが、妙に落ち着く味だった。中華料理屋を出て、歩く。ロンドンに来て以来、初めてといっていいくらいの快晴だった。ビッグベンが見えてくる。ギザギザしたネオゴシック建築の国会議事堂と時計台。そのままテムズ川沿いを歩く。歩くのに疲れ、パブに入ってエールを飲んだ。エールを飲みつつ、小説をめくる。何をしてもいい。何もしなくてもいい。何という自由だろう。この自由を支えているのは、パチ屋で得た金と、無理のきく年齢、何よりも、地球で生まれ育ったということだった。
 少し早いが、地下鉄に乗って山崎の店に向かう。初めて来た都市の交通機関を普通に使っている自分が誇らしい。が、冷静に考えてみると、おれの実年齢は四十前なわけだし、世界一入り組んだ東京の地下鉄を知っている身からすれば、当たり前の話だった。
 山崎はおれの顔を見て、いらっしゃいませ、と言った。ゆっくりとブラックスタウトを飲みつつ、小説を繰りつつ、松田を待った。
 松田が店に入ってきたのは21時を過ぎた頃だった。おかげで、小説を1冊読み終えることができた。読み終えた小説は、山崎に進呈することにした。
「ワタクシは本日、多大なる感銘を受けマシタ」妙なテンションで松田は言った。
「そりゃよかった」
「ところで、おふたりは明日明後日と、何をしてますか?」仕事中の山崎が言った。
「予定はないけど」おれは言った。
「向こう一生」松田は笑う。
「もしよろしければ、スコットランドに一緒に行きませんか?」
「行く」と即答した。大好きなスコッチウイスキーの故郷を見てみたかった。
「おれも構わないよ」なぜかスカした態度で松田は言った。
 ケンブリッジで何があった? ともあれ、おれたちは3人で乾杯した。
「桃太郎に」と松田が言った。おれと山崎は乗らなかった。

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 翌日、キングズクロスという、おそらく世界中で最も幼心をくすぐる名前の駅から、アンダーグラウンドではない電車に乗った。気分はまるでハリーポッター。ワクワクした。
「これ、プレゼントです」と言って山崎はおれたちにスキットルをくれた。西洋の酔っ払いが懐にしのばせる銀色の四角い水筒である。感謝の気持ちを述べ、バックパックに入っていたジョニーウォーカーレッドラベルをスキットルに注いだ。
 朝が早かったからか、電車に乗るや否や、ロン、間違えた、松田は寝始めた。山崎は窓の外の景色を熱心に眺めていた。おれは、昨日とは別の小説を読み始めた。時折、スキットルからウイスキーを飲んだ。イングランドからスコットランドへ。それはとても美しい時間のように思えた。

 首都エジンバラについたのは、昼過ぎだった。よく晴れていた。ロンドンに比べると、空気がしまっているように思えた。
「おはようございます。張り切っていきましょう」山崎が言った。
「あー眠」と松田が言った。
「おまえずっと寝てたよな……」
 街角に、スコッチキルト(スカート)を穿いて、背筋を伸ばしてバグパイプを演奏するおじさんの姿があった。バグパイプの音はなぜか郷愁感をそそった。旧市街にあるスコッチウイスキー博物館を見物した後、隣接したレストランで昼食を取ることにした。グレンフィディックを飲みながら、オレンジソースのかかった鶏肉のソテーを食す。幸福なコンビネーションだった。
「ウイスキーの味が、ちょっと普通じゃなく美味しく感じませんか?」先ほどから、妙に鼻息の荒い山崎が言った。ロンドンにいるときよりも、生き生きとしているように見える。
「美味しいね」
「たぶんですけど、気候が味に寄与してるように思うんです。日本みたいな高温湿潤な気候だと、同じウイスキーをストレートで飲んでもこんな味にはならない」
「日本だと、何でもかんでも水割りとかオンザロックにしちゃうもんね」
「繊細なウイスキーに氷を入れてしまうのは、ビールに氷を入れるようなものだとわたしは思います」しかめ面で山崎は言う。「だからこそ、それを出す店は、店内の湿度まで管理しないといけないのかな、と」
「リコは将来、東京に飲み屋をつくりたいんやろ?」
「はい」山崎はうなずいた。
「でも、その若さで何でそんな目標を持てるの?」
「うちは、母が水商売をしていて、バカにされることもあったんですよね。こっちのパブは庶民の憩いの場。だから、目標というよりは、復讐心というか、武士のような気持ちです」そう言って山崎は笑った。
「おれ、常連になるわ」
 松田と山崎の会話を、食後のウイスキーを飲みながら聞いていた。山崎はこうやって努力して、店を幾つも構えるようになったのだな、ということがよくわかった。
「おれも大学戻るかな」店を出る前に、松田はボソッとそう言った。
 明らかに、松田は山崎に感化されていた。単純な男なのだ。目的があるやつも、戻る場所があるやつも、どちらも少しうらやましかった。

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 少し歩き、新市街と旧市街の中間あたりにある公園の芝生の上でスキットルの中身を飲んだ。
「おまえはどこでも飲むな」松田があきれたように言った。
「おれはおまえらみたいに若くないからな」おれは笑った。「目標もない。帰るところもない。酒くらいしか友だちがいない」
「何か、そういうのを明るい顔で言えちゃうのは、ずるいですよね」
「そうだぞ。自慢はよくない」
「自慢?」
「おまえくらい自由な20歳は早々いないってこと」
「ロバート・バーンズという、スコットランドの国民詩人はこんな言葉を残しています」山崎は言った。「『Freedom and whisky gang thegither(自由とウイスキーは共に進む)』と」
「ロバートバーンズさんナイス」松田はそう言うと、おれからスキットルを取り上げて、ぐいと飲んだ。
「自分のあるだろ」
「自由とウイスキーは共に進む、だぞ」
 おれは芝生の上に大の字に寝転がった。青い空を雲が泳いでいた。おれはそのまま少し寝てしまったようだった。目が覚めると、ふたりがいなくなっているような気がしたが、ふたりはそこにいた。

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「今日はどこに泊まる?」おれは言った。
「オーナーのサマーハウスの鍵を借りてきたので、もしよかったら」山崎が言った。
「働き始めて間もない状態でそこまで信頼されてるってすごくね」
「そうですかね。オーナーが、友だち連れて行ってくれば? って言ってくれたので」
「スコットランドって北海道と同じくらいの大きさって言ってたっけ。東京に住んでて北海道に別荘があるっていうイメージなんかな」松田が言う。
「面積と人口はほとんど同じですけど、正直、別の国っていう感じがしますね」
「てかさ、リコはいつまで敬語なん?」
「敬語を使っていれば日本語ってあんまり失礼なことを言わなくて済むので」
「頑なやねえ」
 そんなことを喋りながら、山崎の先導でバス停を目指し、やってきたバスに20分ほど揺られると、海沿いの道に出た。
「この海は何海?」松田は言った。
「北海です」
「やっぱ北海道やん」
「本当ですね」山崎は笑う。
 以前の山崎は、あまり友だちをつくるのがうまくない感じだったから、ふたりが仲良くなっていることが微笑ましかった。それとも、この山崎と、あの山崎は、別人なのだろうか? 考えても出るはずのない問題なので、意識を外の景色に切り替えることにした。海外とはいえ、左側通行というのは、親近感があった(インドもそうだったが、インドはカオスだった)。しかし、日本と比べると、信号がほとんど見当たらない。しばらく海沿いの道を走った後、バスを下車。テクテク歩くと、海に向かっていかにも別荘という建物が林立していた。その中のひとつが、山崎の働くパブのオーナーのサマーハウスだった。
 山崎の持っている鍵は、魚をモチーフにしたかわいらしいつくりだった。ガチャリという重厚感のある音を立てて、ドアが開く。
「靴のままどうぞ」と山崎が言った。
「お邪魔します」と言って、おれたちは部屋に入った。
 高い天井、木のぬくもりのする広いリビング。奥に暖炉が見えた。暖炉がある家に入ったのは初めてかもしれない。暖炉の上には火かき棒。おれはバックパックからスキットルを取り出して、ぐびと飲んだ。



 外観もさることながら、素晴らしい内装の家だった。ミラーボールをつければダンスフロアになりそうなリビング、使いやすそうなシステムキッチン、バスタブこそないが、上に横にゆとりのあるシャワールーム、読書が捗りそうなトイレ、二つのベッドルーム。このままここで酒を飲みたいような気もしたが、山崎の薦めで、夕食は歩いていけるところにあるレストランで取ることにした。
 ロンドンで会って以来、山崎がリコメンドするものが全部美味いので、すべてを山崎に一任することに。
 小ぶりの生カキのアイラモルトがけ。白身魚のスープ。サーモンのタルタル。ムール貝のオーブン焼き。アンガス牛のステーキ。山崎の注文する料理は、どれもこれも素晴らしかった。シングルモルトウイスキーをストレートで飲みつつ、チェイサーとして、スコットランド産のブラウンエールを飲んだ。自分が酒豪にでもなった気分だった。
「めっちゃ楽しいな」松田が言った。「同年代と、こんな晩餐会ができるとは思ってなかった」
「いや、おまえが一番年長者だからな」
「おまえ38歳なんだろ? 一回り以上、年上じゃねえか。戌年のおっさん」
「犬猿の仲ですね。うらやましい」山崎りこが言う。
「どっちかっつうと、レンの方が猿顔じゃねえ?」
「いや、レンさんは犬顔な気がします。リョウさんは、うーん、猿というか、ゴリラですね」
「ウホ」
「……」
「どうした?」
「おれらの旅はいつ終わるんだろうな」おれは言った。
「どうした急に」
「いや、距離が近づくって、しんどいことでもあるよな」
「ん?」
「長い小説を読み始めて、好きになって、続きが読みたくてしょうがないんだけど、終わっちゃうのが寂しい。だからペースを遅くしよう。みたいな」
「レン、おまえがパチ屋にい過ぎたせいか知らんけど、人間関係すらも、期待値に関連付けて捉えてねえ? 与えられるものではなく、人間関係は、自分が差し出すのが初手よ」
「自分が差し出すのが初手?」
「おれはずっと、父親を避けて生きてきた。だけど、こうやって異国の地で、おまえらと出会って思うのは、何つうか、先人への感謝っつうか。感情はさておき、両親がいなければ、自分はここにいない。すべての人間は、してもらうことから始まる。その贈り物は、どこかに返さないと、天秤がつりあわない」
「……」
「親からもらったものを他人に期待するのは甘えだ。小説を読み終えるのが寂しいなら、自分で書けばいい。終わりは始まり。それだけの話だろ」
「ねえ、ゴリ田さん」山崎が言った。「めっちゃいいこと言うね」
「ゴリ田さん?」松田は苦笑した。

 松田が言った言葉が重たくて、たぶんゴリ田さんと言った山崎にも重たくて、ゴリ田さん本人にも重たくて、おれと松田が割り勘で支払いを済ませた後、おれらは無言で帰途についた。
 サマーハウスには、ベッドルームが2つあった。ジャンケンをして、おれが勝ち、松田はソファで寝ることになった。
「ゴリ田さん、犬里くん、おやすみなさい」山崎はそう言って、寝室に入っていった。
「グンナイ」おれはそう言って、寝室に入った。
「よい夢を」松田遼太郎は言った。
 その部屋には、クイーンズサイズのベッドがどーんとあった。電気を消し、服を脱ぎ、ふとんにもぐり込み、目を閉じたが、どうにも眠れなかった。
 おれの人生は、母の胎内から出てきたところから始まった。が、おれの母親は、おれに安らぎを与えてはくれなかった。おれは母から遠ざかった。自分の家にいるよりも、外にいるほうが落ち着いた。母との関係がそんなだったから、人間関係がうまくいかないのだろうか。あるいは、おれは一人という状況に甘えていたのか?
 人間関係は、自分が差し出すのが初手。いい言葉だ。書家に頼んで、床の間に飾りたいくらい。家はないので、心の床の間に飾っておくか。

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 心の床の間ってどこや? 苦笑しつつ、部屋着を着て、ベッドルームを出た。松田は革張りのソファの上にあぐらをかいて、置いてあったゴシップ誌をぺらぺらめくっていた。
「どうしたん?」
「おれ、日本に帰るわ」おれは言った。
「いつ?」
「明日」
「急だな」松田は苦笑いを浮かべた。
「おまえはどうすんの?」
「おかげさまで、大学に戻って勉強を続ける決心がついた。ただその前に、せっかくヨーロッパにいるんだから、ローマは見ておきたいかな」
「そうか」
 ベッドルームの扉が開いて、山崎が出てきた。
「何か楽しそうな声が聞こえたので、出てきてしまいました」

 おれたちは改めて、グラスにウイスキーを入れて、乾杯した。
『スランジバー(乾杯)』
「お二人はこの国を去るんですか?」
「うん。さっきゴリ田さんに言われたことで目が覚めた」
「おれも、二人に会ったことで、目が覚めた。大学に戻るよ」
「何か、うらやましい。わたしも目を覚ましたい」
「リコは最初から覚めてるよね」松田が言った。
「うん」おれはうなずく。「というか、山崎が覚めてたから、おれらも覚めたんだよ」
 松田がうなずいた。
「また、会えますか?」
「前世の山崎は、東京に幾つも店を持つオーナーだった。どの店もいい店だった。東京の夜を照らす灯台みたいな。だから、きっと会える」
「おれは?」
「……おまえは2014年だっけな、撃ち殺される」
「マジで?」
「おれはおまえに会ったことはなかった。だけど、噂は聞いていた。おまえは非合法組織に属す、出世欲むき出しのトラブルメイカーだった。思い切りがよく、面倒見がよくて、上からの受けもよかった。だけど、虎の尾を踏んでしまった。なあ、松田、今のおまえなら大丈夫だと思うけど、おまえは自分の庭を耕すことに専心したほうがいい。人間関係は、自分が差し出すのが初手。だろ?」
「……なあ、おまえの話聞く限りでは、おれにしても、リコにしても、人間として成長してね?」
 おれはうなずいた。「明らかに」
「それはいい話を聞いた。少なくとも、前世より前に進んでるんだな」
「でも、おれがいた世界には、今間と在原があった。この世界にはない。それがどういうことなのか、おれにはわからない。おれの頭が変なだけかもしれないし」
「おまえの頭が変なのは、初期設定やろ」松田は笑った。
「ゴリ田さんがゴリ田さんなのも、初期設定ですか」山崎は言った。
「くっくっく」と松田は笑った。「ゴリ田さんは、リコの創作物だろ」
「でもそもそも、桃太郎の家来とか言い出したのはゴリ田さんですよね」
「ウホ」
 ウイスキーと自由は共に進む。おれたちは名残を惜しみ、ウイスキーを手に朝方まで語った。

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 仮眠を取って掃除を済ませた後、サマーハウスを出て、エジンバラの駅でふたりと別れた。満面の笑みで。胸が痛かった。終わりは始まり。この痛みからおれは始めなくてはいけない。

 雨が降りそうで降らない空の下、新市街のマクドナルドでブランチを取った後、旅行代理店を探した。急な予約だったが、コペンハーゲン経由、成田行きのチケットが取れた。
 エジンバラ空港までバスに乗り、チェックインカウンターで手続きを済ませ、長いすに座ってぼーっとした。パタパタパタという飛行機の行き先案内が変化する音に耳をすませていると、むしょうにビールが飲みたくなった。立ち上がり、バーカウンターでギネスを飲んだ。自分が一人でいることが、不思議だった。松田が横でわあわあ言わないことが。楽しい旅行だったな。……うん。

 コペンハーゲンも曇っていた。寒そうな空模様だった。トランジットで少し時間があったが、特にすることもなく、カールスバーグ(デンマーク産のラガー)を飲みながら、小説を読んだ。成田までの空路はほとんど寝ていた。結局、日本から持っていった3冊の小説は、1冊半しか読み終えることができなかった。成田も曇っていた。

おかえりなさい

 同胞の帰還を祝す文字。日本の匂いがする。そういえば、おみやげらしきものは何も買わなかったな、と思いつつ、京成のホームに降りて、特急電車に乗った。瓦屋根。田んぼ。パチ屋。コンビニ。軽自動車。同じ曇り空でも、電車から見る日本の風景は、どこか異国のように感じた。
 上野について、階段を上っていく。西郷さん。ここで泣いたのはいつだった? もうあの過去は、存在しない。おれの記憶以外にはどこにも。いや、おれの記憶といっても定かじゃないか。確かなことなど何もないのだ。移動続きと時差ボケで、それ以上は何も考えられず、カプセルホテルに入って、早々に寝てしまった。目が覚めて、ゆっくりと風呂に浸かった。伸びたい放題だった髭を剃った。
 そういやおれ、携帯持ってたな。浴場からあがって髪を乾かして、インドで買った服に着替え、二つ折りの携帯電話の電源を入れてみると、電源はまだ生きていて、留守電が入っていた。
「もしもし。わたくしは税理士の白取海と申します。お母様のことでお話がありますので、折り返し、こちらの携帯電話にご連絡いただけますでしょうか」
 おれはその留守電を2回くりかえし、番号を覚えた後、電話をかけた。
「もしもし。永里蓮です」おれは言った。「母のことで何かお話があると伺ったのですが」
「……大変、申し上げにくいのですが、お母様は亡くなりました」
「はい?」
「お電話を差し上げた時点では、ご存命だったのですが。残念です。田所様のご意志で、葬儀はありませんでした。戒名、墓石も不要とのことでした。それで、相続の話をしたいのですが、永里様は大阪に来られますでしょうか」
 時計を見ると、午前9時30分だった。
「今、東京にいるので、新幹線に乗れば昼過ぎには着くと思います」
「かしこまりました。それでは、その頃、新大阪にお迎えにあがります」
「あの……」
「はい」
「母が亡くなったというのは、本当ですか?」
「……」少し間があった後、電話の向こうの女性は答えた。「はい。お悔やみ申し上げます」
「そうですか」
 母が、死んだ? 2017年まで生きていた母が、2002年に死ぬ? おれが何かをしてしまったのだろうか? おれが前回とは違う行動を取ったからか?
 深く息を吐いた。答えが出るはずのないことを考えてもしょうがない。ショーウィンドウに映る自分の格好を見て、これじゃまずいだろう、と、アメ横の服屋を回って比較的見栄えのする服を購入し、着替えた。御徒町から山手線に乗り、東京駅から東海道新幹線に乗った。味の薄い日本の缶ビールを飲んでいるうちに、母の記憶がよみがえってきた。

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 小学生の頃、ドラゴンボールのスペシャル版が放映されたことがあった。主人公孫悟空の父が主人公のスピンオフアニメだった。おれはその日、コウ先生のところで稽古があった。ものすごく楽しみにしていた番組だったから、母に録画を頼んでいた。しかし稽古を終えて帰ってみると、録画はされていなかった。狂ったように母に当たった。
「そんなに見たかったのなら、どうして、自分で録画をしなかったの?」母は毅然とした態度で言った。
「いや、だから、稽古があったから、頼んだんじゃないか」
「録画予約をすればよかったじゃない。自分で」
「だってわかったって言ったじゃないか」
 母はあくまで毅然としていた。「絶対にしなければいけないことは、絶対に他人の手にゆだねてはいけません」
「でも、お母さんがわかったって言ったんだろ」
「私がその行動を取ろうが、取るまいが、あなたが何かをゆだねた事実は変わらない。あなたがあなた以外の誰かの手にゆだねた以上、その結果がどちらに転ぼうとも、あなたの責任です」母は毅然とした態度を崩さずに言った。「他人の手にゆだねた以上、どんな結果が出たとしても文句を言ってはいけない。あなたは、これから一人で生きていかなければいけないのだから」
 ……何だこの記憶は。おれはこの出来事を、ただの不快な出来事と記憶していた。しかしこれではまるで……。 
 記憶の蓋が開いてしまったのか、次々と母の思い出が出てきた。どれもこれも、嫌な思い出だった。しかし、記憶の中の母が発しているメッセージはひとつだった。
 ……愛してる。

 おれは缶ビールを握り締めたまま、泣いていた。こんなのはおかしい。だって嫌な思い出なんだ。どうして嫌な思い出しかない人間のメッセージが愛してるなんだ? 自分を誘拐した犯人を好きになる、あの症候群のように不健全だ。
「I don't care.」
 おれは帰国子女的なイキり方でそう呟いた。
 新幹線は熱海を過ぎたところだった。外は雨が降っているようだった。窓にはりついた雨粒が、精子のようにニョロニョロと、進行方向と反対に動いていた。この分だと、富士山は見えないだろう。
 頭から追い出そうとしても、母の記憶はしつこかった。それすらも、母の陰謀のように思えた。母は今日、この場所で、この記憶が発動することをプログラムした。
 そんな遠大な計画をして、母にどんなメリットがある? メリットなんてあるはずがなかった。メリットがあるとすれば、おれに、だった。この残酷な世界で生きていくにあたって、母が差し出してくれたもの。
 ……どうしてこの缶ビールはしょっぱいんだろう?

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 新大阪も曇っていた。トイレに入って顔を洗った。目が真っ赤だった。まるでラリッている人のようだ。ハハ。
 改めて自分の顔を眺めてみると、母にそっくりだった。目。まつげ。鼻筋。唇。再び涙があふれてきた。トイレに入ってくる人たちが、奇妙な顔をして、おれのほうをチラ見した。それでもおれは、鏡の中の自分から目をそらすことができなかった。この顔は母から受け継いだものだった。山崎の言う犬要素は、たぶん、父のものだ。いや、父と母だけじゃない。おれと始祖の生命を連綿とつないでくれたすべての生命から。あるいは宇宙から。
 おれはひとりだった。が、おれはひとりではなかった。



1ベーコン_走る犬のための習作 - コピー
"Study for a Running Dog"
Francis Bacon 1954


「不死鳥の灰 最終話」





 人間は、感情の生き物である。泣き、笑い、怒り、喜ぶ。スロッターはその感情に抗う生き物である。たとえばフリーズを引いた瞬間に、その特別な時間が最短で終わる未来を予測し、それに備えておくというような。
 有り難い。この極めて日本的な心のありようと、パチ屋流のドライな感覚は、共存可能だろうか? 何度かまばたきをした。もう涙は出なかった。顔を洗ってトイレから出た。
 新幹線の改札を出たところで電話をすると、スーツ姿の女性がヒールを控えめに鳴らしながら近づいてきた。
「永里蓮さんですね」
「はい」おれはうなずいた。
「白取海です。改めて、お悔やみ申し上げます」
「どうも」
 年齢は20代後半くらいに見えたが、もう少し上かもしれない。立ち振舞いに無駄がなかった。あるいは人生経験が3回目以降なのかも。
「立ち話も何ですから、これからの流れを、車の中で説明したいと思います。よろしいですか?」
「はい」
 何。誰かは知らんが生命体は皆カルマの子ども。会っていても会っていなくても、キョウダイのようなもの。妙なテンションでうなずいた。
 新大阪の駅を出て、コインパーキングに向かう。税理士の車はポルシェ・カイエンだった。たしか先月発売されたばかり新車だ。どうしてこんな車を仕事に使うのだろう。感じ悪い。
 カイエンの助手席に座り、シートベルトをしめたところで、税理士は言った。「こちらが、遺言状です」

 遺言状

遺言者田所ハツは、この遺言状によって、長男永里蓮に対し、次の通り遺言をする。

遺言者田所ハツは、長男永里蓮にすべての遺産を相続させる。


 文末に、税理士の名前と、母の名前。そして日付が書いてあった。それはおれがインドに向かった日だった。
「母はどういう理由で死んだのですか?」おれは聞いた。
「それは、私の口からは申し上げられません」
「どうして?」
「それがお母様の望みだったからです。もちろん、病院に請求すれば、診療経過や死亡原因などの診療情報はもらえるでしょう。ですが、それがすべてではありません。これ以上は私の口からは申し上げられません」
「では、おれは今から何をすればいいんですか」
「田所様は、極めて所持品の少ない方でした。相続税で永里様が労苦を負わぬよう、永里様の精神をいたずらに傷つけぬよう、ほとんどの財産は処分されるか寄付されました。不動産はひとつだけ、梅田にマンションを持っていらして、今、そちらへ向かっております」
 カイエンのオーディオからは、オーケストラが演奏するアメイジンググレイスが流れていた。GODシリーズだと嬉しいんだけど。
「どうしてこういう車に乗ってるんですか?」素朴な疑問、という言い方で聞いてみる。
「この車のオーナーは、田所様でした。現在は私の名義になっておりますが、マンションの駐車場に停めておきますので、永里様が免許を取り次第、ご自由にお使いください。運転手が誰であれ、適応される保険に入っております」
「……」
「着きました」
 大阪駅(または梅田駅、西梅田駅)に程近いタワーマンションだった。入居者専用の駐車場が地下にあり、税理士はそこにポルシェのSUVを停めた。エントランスを経由せずにそのままエレベーターで部屋にあがる。そのマンションの37階が、母がおれに残した部屋だった。税理士が鍵を開け、その鍵とスペアキーを、それから、カイエンのキーとスペアキーを渡された。受け取ったはいいが、そのマンションの一室には、ほとんど何もなかった。家具も、ベッドも、カーテンすらなかった。ただひとつ、リビングの床に、おそらくは母のものだろう骨壷が置かれていた。
「厳密に言うと、この部屋は遺産ではありません。名義は永里様のものになっています。遺産はこちらです」税理士は封筒をおれに手渡しながら言った。「現金300万。相続税はかかりません。このマンションの管理費と駐車場費は、前もって、向こう10年分払っています。ご心配なく。ただし、こちらはマンションの権利そのものに含まれているので、途中で売却したとしても、その金額は戻ってきません。あしからずご了承ください。何かご質問はございますでしょうか」
「この骨壷は母のものですか?」
「申し訳ありません。田所様は、田所家の墓には入りたくない、遺体を燃やした後は無縁仏にでも、とおっしゃったのですが、私の独断でここに運ばせていただきました。どうするかは永里様がお決めになってください。その際、お金がご入用でしたら、ご連絡ください」
 そう言って、税理士は名刺をくれた。
「……」
「他には何かありますか」
 名刺に書かれていた苗字を見ながら、おれは言った。「あの、白取亜美さんという方はご存知ですか?」
「いえ」税理士は首を横に振った。
「白取絵美さんという方は?」
「いえ。存じ上げておりません」
「白取さんは、母とはどういった関係だったんでしょう?」
「税制について、アドバイスのようなことをさせていただいてました」
「それにしては、距離が近いような気がするのですが」
「はい。そうですね。公私にわたって親しくさせていただきました。何と言ったらいいのか……胸にぽっかりと穴が開いたような気分です」そう言って、税理士は窓の外に目をやった。それから、自分のすべきことを思い出したかのように、重そうな本革のかばんから箱のようなものを取り出して、おれに手渡した。「引き継ぎはこれが最後になります」
 それは、桐でできた箱だった。「これは何ですか?」
「中身は確認しておりません。ことづてもありません。ですが、形ある唯一のものです。何か大切なものではないでしょうか」
「……」
「私の事務所もまた、梅田にあります。何かありましたら、いつでもご連絡ください」
 税理士がいなくなった後の部屋は、映画のセットのように現実感がなかった。窓からは、淀川が見え、その向こうに六甲山が見えた。
 母の遺骨の入った骨壷を見ても、もう涙は出なかった。傍らに桐の箱を置いて、おれはフローリングの床に横になった。そのまま眠ってしまった。
 目が覚めると、キラキラ光る夜景が目の前にあった。自分がどこにいるのか、まったくわからなかった。一瞬、死後の世界かと思ったくらいだ。

 電気をつけて、改めて部屋を見渡してみたが、何もない。食器もない。冷蔵庫もない。掃除機もない。それらを買い揃えるだけで結構な出費だ。とはいえ、もちろん贅沢は言えない。
 インドに向かうことを決めたとき、それまで使っていた持ち物はほとんど処分した。もしかしたら、おれは日本に戻ってこないつもりで旅に出たのかもしれなかった。あれから3週間も経っていない。
 テレビもない。PCもない。スマホはそもそも存在しない。桐の小箱と骨壷が、インド、ロンドンから持ち帰ったバックパックが、葬式と結婚式を間違えた人のように立ち尽くしていた。体が冷えていたので、風呂に湯をためることにした。待っている間に、室内をうろつく。8畳ほどの部屋が3つ。リビングにダイニング。1人で暮らすには広すぎる。とはいえ、もちろん文句は言えない。風呂にお湯がたまった音がした。上野で購入した服を脱ぎ、ゆったりとしたバスタブに浸かりながら、これからのことを考える。
 この部屋を誰かに貸して、その収入で、慎ましく暮らす。うーん、ピンと来ない。むしろ売ってしまって豪遊する。どちらにしても、手続きが面倒そうだ。ああ、運転免許を取らないといけないのか。一度取ったものを、もう一度取らなければいけないとは……。おれ、ゴールドだったのに。意味のないことを考えている。考えなければいけないことは考えられない。うまく思考がまとまらない。ばしゃばしゃと顔にお湯をかける。洗濯をしなければいけない。タワーマンションだから、乾燥機も必要だ。買い物リストを作らねば。やることけっこうあるな。熱くなってきたので、湯船の栓を抜き、風呂場を出た。ビールが飲みたかった。それに、腹も減った。ああ、バスタオルがない。ドライヤーもない。
 インドで買った服で体を拭いて、上野で買った服に着替えた。何枚かの紙幣、鍵と小銭入れを持って外に出る。そこはただの都心だった。人だらけの都心部だった。店に入る気がしなかったので、コンビニで、メモ用紙とボールペン、缶ビールを何本か、モルトウイスキー、ミネラルウォーター、何個かのおにぎりと揚げ物を買ってそそくさと帰った。
 部屋に戻って、揚げ物をつまみつつ、缶ビールを飲んだ。うん、缶くさい。しょうがない。グラスはない。ヤカンもない。備え付けの家具以外、何もないのだ。
 メモ帳とボールペンの封を開け、思いつくままに、部屋に足りないものと、おおよその値段を書いていく。うーん、少なく見積もっても、数十万単位の出費が必要になる。寒くなってきたので、暖房をつけた。エアコンがあってよかった。
 ……眠くなってきた。あ。歯磨きしねえと……って、歯ブラシねえじゃん。それと、トイレットペーパーはあったっけ? ……ちぇ。歯ブラシ、歯磨き粉、トイレットペーパーを買いに外に出る。プラッチックのコップも追加した。新品の歯ブラシで歯を磨き、プラッチックのコップで口をゆすぎ、8畳の洋間のドアを閉め、暖房をつけ、今日のところは手持ちの服を体にかけ、バックパックを枕に横になった。マイルームでホームレス。くだらないことを考えているうちに、眠っていた。

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 まぶしさで目が覚めた。目を開けると、部屋全体が燃えていた。は? 火事か? でも、火なんて使ってないぞ? もらい火か? というか、これだけ燃え盛っているのに、熱くない。夢?
 起き上がり、おそるおそる洋間のドアノブに手をかけた、やはり熱くない。寝室以上に廊下も燃えていた。火の勢いが一番強いのはリビングだった。怒りを体現しているのか、あるいは喜びを体現しているのか、炎は踊り、うねり、逆巻いていた。そのような地獄絵図の向こうに都市の夜景があった。シュルレアリスムの一枚の絵のよう。そんなリビングにあって、母の白い骨壷だけが、砂漠に咲く一輪の花のように凛とたたずんでいた。
 唾を飲み込み、近づいていく。炎の中を歩いている自分が、どこか滑稽だった。どこが滑稽なんだろう? 今ここで何が起きているか、おれにはわからない。正直ビビッてる。それでも進むしかない。なぜ、ビビるか。生命の危険を感じているからだ。人間は、切羽詰ると自分のことしか考えられなくなる。少なくともおれはそうだ。自分こそが世界なのだ。人間が生きるとは、かくも滑稽だった。ドン・キホーテが風車に立ち向かったのは、本物の巨人だと思ったからだ。巨人を人類の敵と信じたのだ。それを読む者は、嘲笑するかもしれない。おれは笑わない。というか、笑えない。来いよ。来いよ。ゾンビでもアンデッドでもホラーでも妖怪でも出てこい。半ギレ状態でおれは骨壷に近づいていった。すぐそこに骨壷はあるはずなのに、近づけなかった。いつしか、燃え盛っていた部屋は、白いもやに包まれていた。

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 それでも歩いていくと、もやの向こうに見覚えのある建物が見えてきた。その建物は、類が「かたつむり」と呼んだ図書館だった。つまり、今間だった。図書館の前は桜並木になっていて、ソメイヨシノが咲き乱れていた。
 おれは上半身に何も着ていなかった。インドで買ったサイケデリックな柄のショートパンツを穿いて、裸足で歩いていた。警察官が来たら、きっと注意される。しかし人の姿はない。空は奇妙なまでに青白い。上空では、ヒュン、ヒュン、と何かが飛んでいた。しかし、姿は見えない。スカイフィッシュ?
 うむ。これは夢だ。そう認定しよう。燃え盛る部屋から、今間にワープ。夢なら何でもありだ。上半身裸で路上をうろつくことも。今は存在しない街にいることも。
 夢なら誰か出てこないかな。せっかく上半身裸なのだし、エロい夢がいいな。しかし人は現れない。上空ではヒュン、ヒュン、と何かが飛んでいる。
 ヒュン、ヒュン、ヒュン……何かを思い出しそうになった。思い出せなかった。思い出したい。思い出せない。何を思い出せばいい? おれはかつて、今間に近い在原で暮らしていた。父方の祖母の家だ。暮らし始めたのは、1999年の初夏だったか、梅雨時期だったか、ともかく、夏が来る前、義父からもらった300万をショルダーバッグに入れて上京したのだった。
 祖母の趣味のパチンコを付き合いで打っているうちに、それが金になることに気づいた。そんな折、ハネくんという、通信制の高校の2個上の同級生に教えられて、スロットを覚えた。それから18年。パチ屋からもたらされるものだけで生きてきた。18年経って、人生初のアルバイトをはじめた。ファミリーレストランのウェイター。マニュアルに書かれた仕事をすべて覚えた後、バイトをやめた。より本格的に、より実践的に、飲食業を学ぼうと思っていた。そんな矢先、おれは18年前に戻ってしまったのだった。失ったものを取り戻せるかもしれない。そう思った。だけど、そんなことはなかった。何かを得たら、何かを失う。それだけのことだった。

 ……何かがポケットに入っていた。取り出してみると、桐の箱だった。その間も、ヒュン、ヒュン、ヒュン、何かが上空を飛んでいた。うーん。ややこしい夢だ。ヒュン、ヒュン、ヒュン、その音には明らかな規則性があった。しかし、上空には何も見えない。おれは意識を上空から逸らし、桐の箱を開けた。
 中から出てきたのは、へその緒だった。
 ……何故?
 そのとき、唐突に、上空を飛ぶヒュン、ヒュン、の正体がわかった。それは或る時間を表しているのだった。ヒュン、からヒュン、の間の時間、およそ0.75秒(0.75~0.8秒)。それはすべてのスロッターの体内に刻み込まれた時間だった。
 そういえば、松田遼太郎がこんなことを言っていた。
「リール一周のスピードってさ、日本中のスロッターが体得してるよな。これって何かに応用できそうじゃない?」
 おれは言った。「どうやって?」
「目隠しをさせられてる状況で、タイミングを合わせろ、みたいな」
 おれは笑う。「どんな状況やねん」

 こんな状況だった。

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 上空の何かは、明らかにおれに何かを訴えていた。そんなことをするのはスロッター以外に考えられない。試しにおれは、ヒュン、ヒュン、に合わせ、ストップボタンを押すように、トン、トン、と呟いてみた。トン、トン、トン、トン、一糸乱れず、おれたちはスロットのリールを回した。
 トン、トン、トン、トン、トン、トン、そのうちに、音が遅れる瞬間があった。チェリーか? チェリーなのか? おれは上半身裸でそう叫ぶ。まるで変態である。構わない。ボーナス。ボーナスが確定したんだろ?
「4コマ滑り」
「ズレた。2カク。2カクのズレ目」
「右リールビタどまりでREG否定」
 スロッターなら反応するであろうワードを言うも、反応が薄い。5号機育ちなのか? それならば、と南国育ちのBIG中の音楽を口ずさんでみる。これもピンと来ないようだった。あれ、初代は4号機だったか。どうする? エウレカの歌でも歌うか。何がいいかな。


 ふふふふふーん(振り返り)♪
 ふふふふふーん(繰り返し)♪


 振り返り、きみを思い出す
 意味もなく 繰り返す
 氷の誓い、覚めない 思い違い 届かない
 アル中の蛇が宙を舞う 七色夢を見て 


「何だよそれ?」どこかから声が聞こえた。
「虹」おれは言う。「虹の語源って、空にかかるでっかい蛇なんだと」
「そうじゃなくて、何の歌?」
「だから『虹』。エウレカのART中のエピソードボーナスで流れる曲。歌詞は適当。エウレカ2だともっとイカツい恩恵というか確定演出だったと思うけど、詳細は忘れた」

 いつの間にか、ヒュンヒュンは消え、トントンも消え、誰かがおれの前に立っていた。そいつはおれがインドで買った上着を着ていた。下半身はボクサーブリーフのみ。……ヤバいやつか?
 人間関係は、自分が差し出すのが初手。
 おれは片手を差し出した。その人物は態度を決めかねているようだった。おれは差し出した手に力をこめた。そいつが誰でもよかった。ここがどこでもよかった。むしろ、おれが誰であってもよかった。優位性があればいい。期待値があればありがたい。なければないでしょうがない。生まれた場所は選べないし、親を選ぶこともできない。たとえ過去に戻ったとしても、そこだって今。どうあっても過去は変えられないのだ。それでもレバーを叩けばリールは回る。地球も回る。地球が回ればカルマも回る。
 ここが世界の終わりでも構わない。終わりは終わり、そして始まり。何かが変わるとすれば、これからではなく、これまででもなく、今だ。
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あとがき

Inspired by"Phoenix(火の鳥)"
Osamu Tezuka 1967~1988 


and also inspired by "Niji(虹)"
Denki Groove 1995 

a slot-story of "ashes of phoenix"
Kakukoto Kakerukoto寿 
(C)2014

「不死鳥の灰」♯1~♯77
原稿用紙換算枚数485枚  完