「わたしは不幸だ」という言葉は理解できない、なぜなら本当に不幸な人間には「わたしは不幸だ」とは書けないからだ。フランツ・カフカ

1ベーコン_走る犬のための習作 - コピー
「不死鳥の灰」
♯70 what's up London?

まえがき
 
    

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 そこは倉庫街のような場所だった。石畳の路面はところどころはげ、街灯もまばらで寒々しかった。たしかに、女性ひとりでは歩きにくそうな場所だ。どこかで音楽が鳴っていた。
 音楽は倉庫の中から聞こえてくるようだった。アップテンポの音楽に混じって人々の歓声があがっていた。
「ここ、一度来てみたかったんですよね」山崎は言った。
 そこはクラブだった。入り口で10ポンド(当時のレートで1800円くらい)を支払い、中に入る。
 音がだんだんと近づいてくる。流れているのはテクノだった。考えてみれば、前回の人生、特に20歳から先の人生では、同年代の友だちというのがいなかったから、クラブというところに来たのはこれが初めてだった。
 音が生み出される場所、それがDJブースだった。少し高いところにある二台のターンテーブルと、ミキサー。その装置はどこか、道場の神棚に似ていた。神棚は、空間の拠り所にして、空間の精神を象徴している。ダンスフロアでは人々がすし詰め状態で踊っていた。客層は20代が中心のように思えた。時々、甘い香りのするスモークがたかれ、カクテル光線が、人種を差別することなく、カラフルな光をその場にいる全員に届けていた。
「酒飲みますか」松田は言った。
 山崎はうなずいた。
 おれたちは人波をかきわけ、バーカウンターを目指し、ホセ・クエルボ(テキーラ)で乾杯した。ショットグラスを頭上まで掲げて一息で飲み下す。それから、おれたちはダンスフロアに入った。
 神事をつかさどるDJは短髪の黒人で、周りの熱狂とは無縁のしかめ面で、スイッチをいじりつつ、レコードを選びつつ、片方の耳にヘッドフォンをあてて次に流す曲のあたりをつけつつ、空間の精神性を打ち立てていた。
 四つ打ちのリズムが精神を前に進め、電子のメロディが感情を掴み、ウーファーが心を弾ませる。山崎は体を左右に揺らしていた。松田は頭を振っていた。気づくとおれの体も揺れていた。その状態で自己紹介がはじまった。
「松田遼太郎22歳です。大学を休学して放浪の旅に出ています」
「山崎りこ21歳です。語学学校に通いながらパブで学んでます」
「永里蓮38歳です」
「前世を加算するな」と言って松田は笑った。山崎も笑っていた。
「おれが1980年生まれの申年。リコが酉年。レンが戌年。桃太郎の家来ーズだな」
「きびだんごくらいじゃおれは家来にはならんよ」おれは言った。
「雉(キジ)ってけーんけーんって鳴くって本当ですかね?」山崎が言った。
「おれどこかの動物園で聞いたことあるけど、キエイキエイって感じだったけどね」松田が言った。

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 その前奏のド頭の音で、空間を埋め尽くす人々は歓声をあげた。調子に乗った松田はキエイ、キエイ、とキジなのか、武道家なのか、ようわからん奇声を発した。おれも思わず声をあげた。UnderworldのBorn Slippy(Nuxx)。「トレインスポッティング」の最後に使われていた曲だった。義父のマンションで、氷野とふたりでその映画を見たことを思い出した。暮れなずむ20世紀の神戸の街と、氷野のふともも。過去に戻ってなお、過去に戻りたい自分がいた。心が真っ二つに避け、しかし音はこのうえなく心地よかった。音を楽しむと書いて音楽。単語の成り立ちに気づいてしまった。
 暑くてしょうがないので、上着を脱いで、クロークに預けることにした。ついでに、バーカウンターでテキーラを注入。自分が燃費の悪い車になったような感じがする。英国仕様だからしょうがないか。
 山崎の顔は笑っている。松田の顔も笑っている。おれもたぶん笑っているのだろう。Primal Scream、The Chemical brothers、Fatboy Slim、まったく文化基盤の違う異国の地で、異国人のおれが知っている曲が流れるというのは、ちょっとした奇跡ではないか、と思う。お互いが、お互いに。

つづく
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"Study for a Running Dog"


「走る犬のための習作」
フランシス・ベーコン1954年


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