子供は無垢であり、忘却である。新しい始まりであり、遊びである。自らまわる車輪であり、自動運動であり、聖なる肯定である。
「ツァラトゥストラはこう語った」より フリードリヒ・ニーチェ 永井均訳


「不死鳥の灰」
♯Special Edietion(♯65~69 and more)
KIMG3221
今回のまとめは、本編にないエピソード
をくわえて再構成しました。

書くこと、賭けること 寿

まえがき 

♯1~♯9まとめ 

♯10~♯14まとめ

♯15~♯19まとめ

♯20~♯24まとめ 

♯25~♯29まとめ
 

♯30~♯41まとめ


♯42~♯46まとめ 

 
♯47~♯51まとめ 

♯52~♯64まとめ 


 これは夢なのだろうか? 夢というにはあまりに生々しかった。現実というにはどこかもの足りなかった。そこは今間だった。懐かしい風景を眺めつつ路地を曲がると、お地蔵さんがあった。お地蔵さんに向かって少年がいた。……そのガキは、お地蔵さんの頭をペタンペタンと叩いているのだった。
「やめろや」おれは言う。
「何で?」どことなく見覚えのある少年が言った。
「お地蔵さんが何か悪いことしたか?」
「した」
「何を?」
「僕は生まれてきたくなんかなかった」
「そんなんみんな一緒だぞ。かーちゃんの子宮の中から外に出せって言ったのは範馬勇次郎だけだぞ」
「親はいない」少年は言う。
「そうか……。じゃあ、家の人に言え」
「家の人?」
「家に誰かいるだろ。おばあちゃんとか、おじいちゃんとか、育ててくれてる人とか」
「今はいない」
「それは困ったな」おれは言う。「けど、お地蔵さんを殴ったところで、困ったことが解決するわけじゃない」
「僕は困ってない。困ってるのはわぬしでしょ」
 その子どもはおれのことをわぬし、と呼んだ。わぬし……。おまえを意味する古い言い方だ。年長者にかける言葉ではない。
「おまえは困ってないの?」
「困ってない」少年は言う。「わぬしは何故、僕がお地蔵さんの頭部を叩くことに怒っているの?」
「何で? 常識、倫理(りんり)、感情、うーん……おまえはそのお地蔵さんを作れない。だろ?」
「作れる作れないの話なの?」
「物理的に作るってだけじゃなくて、そこにお地蔵さんがあって、花をたむける人がいて、手を合わせる人がいて、このあたりに住んでる人の風景の一部になっているものに対して、おまえが侵害する権利はないってこと」
「わかった」少年は言う。「わぬし、ついてきて」

 昭和風の木造モルタル二階建てのアパートの階段を、カンカンカン、という音をたてながら、少年は駆け上がる。
「わぬし、早く」
「待てよ」
 おれが歩くと階段全体がミシミシ揺れた。大丈夫なのかこれ? 訝りながら階段を上がりきると、少年が一室のドアを開け、中から手招きをしている。
「お邪魔します」と言って部屋にあがる。
 ……居間らしき部屋に横たわっていたのは、ミイラ化した死体だった。
「おまえがやったのか?」
 少年は首を横に振った。
「わぬし、僕はどうすればいい?」
 おれは何も言えなかった。とにかく、ここはやばい気がする。以前、こんなような部屋を訪れたことがあるような気がしたが、それがどこか、思い出せなかった。
「ねえ、わぬし、僕はどうすればいいと思う?」
「おまえはどうしたいんだ?」おれは言う。
「わからないんだ。僕には何も」
「困ったな」
「困ってはないけど」少年はあくまで言い張る。
「どうすればいいかわからないんだろ。それ、困ってるって言うんだぞ」
「選択肢がいくつかあって悩むことを困るって言うんじゃないんの?」
「違う。困るってのは、自分ではどうにも解決できない物事に対して持て余す感情のことを言う、と思う」
「自分ではどうにも解決できないことを、困ったりしてもしょうがなくない?」
「それはそうだけど」
「わぬしは今、何に困ってるの?」
「くっくっく」おれは笑う。「この状況に決まってるだろ」

       777

「わぬし、名前は?」
「永里蓮。おまえは?」
「ロキソニン」
「は? この人に何て呼ばれてたんだ?」
「だからロキソニン」
「冗談だろ」
「冗談?」
「頭痛薬だか鎮痛剤の名前だぞ、ロキソニンって」
「名前は名前。そんなことよりわぬし、遊ぼうよ」
「……何をして?」
「家でできること。だって外で遊んでると、怒るでしょ」
「誰が?」
「わぬしが」
「どうして?」
「さっき怒ったじゃない」
「そりゃお地蔵さんの頭を叩いてたら怒るよ」
「じゃあわぬしはどういう遊びが得意なの?」
「スロット」

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「……お兄ちゃん、誰その人」居間に入ってきた小さな子が言った。男の子か女の子か判然としなかった。とにかく整った顔立ちをしていた。
「永里蓮、だって」
 訝しい顔をしていると、「こいつはラヴ」とロキソニンが言った。
「ラヴに、ロキソニン?」
 5歳児と7歳児くらいの風貌のふたりはうなずいた。めまいがしてきた。ロキソニンを飲みたいくらいに。
「ここでふたりで住んでるの?」
 おれの問いかけには答えず、ふたりは不思議そうな顔でおれを見つめていた。
「ご飯は?」
「お腹空かない」ラヴはそう言って、兄に同意を求めた。「ね」
「うん」
「お腹が空かないってことないだろ」
「ねえ、お兄ちゃん。この人、永里蓮って名前じゃなくて、レンって名前なんじゃない?」
「え? そうなの? わぬしはレンって名前なの?」
「そうだけど」
「ふうん」納得したように、ロキソニンはうなずいた。「そうなんだ……」
「何だよ?」
「ねえレン」ロキソニンは含みのある言い方で言った。「僕ら3人で冒険に出ない?」
「冒険?」
「うん。悪い魔法使いを倒しにいこうよ」
「は? 誰?」
「魔法使い」
「魔法使いって?」
「悪い魔法使い」ラヴが言う。
「誰?」
「レンは耳が悪いね」ロキソニンは言う。
「レンは耳が悪い」ラヴはうなずきながら、居間に横たわるミイラに向けて両手をかざした。すると、何もない空間に穴が開き、そこから光が漏れ出した。
「行こう」ロキソニンはそう言うと、その光の中に飛び込んだ。ロキソニンの体は光に吸い込まれ、見えなくなってしまった。
「行こう」そう言って、ラヴも続く。
 ……ええいままよ。これまでの人生で一度も使ったことのない言葉を吐いた後、おれは光に向かって体を投げ出した。

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 そこはパチ屋だった。が、その体はおれのものではなかった。
「うるさいね」頭の中で、ロキソニンの声が聞こえた。「わぬし、ここがどこだかわかる?」
「わぬしわかる?」ラヴの声も。
「パチ屋だな」おれは言う。
 おれたちの声を無視して肉体はどんどん進んでいく。彼(男だった)の思考が流れてくる。妬み。嫉み。憎しみ。恨み。負の感情がひとつの方向に向かって収斂していくスロットコーナー。
「やっぱり、違うもんだね」
「違うね」ラヴがロキソニンの言葉に相槌を打つ。「リアルだね」
「リアルだ」
「何が?」おれは聞いた。
「僕らふたりでこのゲームをすると、子どもにしか入れなかったから」
「は?」
「ルール説明。僕らは彼を操って、悪い魔法使いを倒すんだよ」
「どうやって?」
「それは自由」
「何でもあり」
「……」
 我らが主人公は、財布の中に入っている唯一の1万円札を取り出して、コインサンドに入れた。
「なあ、操るっていうけど、これ、こいつが勝手に動いているから、操るなんて無理じゃね?」
「いきなり意識を操ることはできない」ロキソニンは言う。「狙うのは無意識なんだ」
「たとえばこうやって」ラヴがそう言うと、スロットを打つ彼は、左手でピースをした。
「今どうやった?」
「無意識の領域に忍び込むんだよ」ロキソニンは言う。
 ロキソニンの言葉に反応するように、彼は左手の親指を立てた。
「すげえな」おれは感心していた。
 ……だけど、無意識に忍び込むといっても、彼はスロットを遊技中なのだ。
「何かに集中しているとき、感情が一方向に向いているときが狙い目。レン、やってみなよ」
「何をどうやって?」
「入り込むんだよ。こうやって」
 彼は左腕を天井に突き立てる。すげえな。どうやるんだ? どうにか動かないものか、念じてみる。むむむ。
「……無理だわ」
「しょうがない」ロキソニンは言う。「簡単なのは、体全部が無意識の支配下になる睡眠時なんだけど」
「パチ屋でスロットを打ちながら寝るはずないだろ」
「じゃあ、待つしかないね」

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 彼はアイムジャグラーのシマを、1000円打っては移動、1000円打っては移動、という風にカニ歩きしていた。誰かはわからんが、何かの影響を受けているのだろう。そいつが悪の魔法使いだろうか? 彼はレバーをゴンと叩く。ダンダンダンとストップボタンを引っぱたく。合間合間に、ラヴとロキソニンが、ピースしたり、キツネサインをつくったりして遊んでいる。その様は、かなりシュールなものであったが、本人はおろか、回りの大人も、店員も気づかない。最後の1枚が機械に呑み込まれたと同時に男は吼えた。
「おおおおおおおおおおおおおおおお」
 近くにいた遊技者たちがチラと見るものの、すぐに目線を自分の台に戻す。
 彼の心は怒りで染まっていた。彼の財布の中には、諭吉はおろか、樋口も野口もいない。これ以上遊ぶことは叶わない。怒りの後、悲しみがやってきた。ひとしきりうなだれると、立ち上がり、ここに来たときとは正反対の弱弱しい歩きでパチ屋を出た。
 太陽が照っていた。それすらも恨めしかった。自動販売機を見つけて、パンチ。ばいーん。つり銭口をのぞき、舌打ちをする。自動販売機を見つけて、パンチ。バイーン。つり銭口をのぞき、舌打ちをする。
「なあ、こいつ、やばいやつじゃね?」
「そういう人じゃないと、入るスペースがないからね」ラヴが言う。
「入るスペース?」
「自分で自分をコントロールできる人には入れないんだ」ロキソニンが補足する。
「ふうん」……パチ屋はそんなやつだらけだ。
 彼は下だけを見て歩いている。何か落ちているものを探しているのだ。おれの歩き方とは全然違う。酔いそうだった。
「なあ、素朴な疑問」おれは言う。「おれらの本体はどこにあるの?」
「いい質問だね」
「お兄ちゃん、それ、わたしもわからない」
「実は僕もわからない。ゲームに入ったら最後、主人公が発狂するか、クリアするまでは出られない」
「クリアって?」おれは聞く。
「僕らもまだクリアはしたことがないからよくわからないんだけど」
「主人公が発狂するって?」
「たぶん、僕らが入ってきたことで、主人公には強いストレスがかかるんだと思う」
「残酷すぎねえか?」
「ゲームだからね」
「でも、ここ、現実だろ」
「違うよ」ラヴは言う。「もし、仮に現実だとしても、わたしたちはその現実を別の角度から見てる」
「角度が変われば当たらない」ロキソニンは言う。
「……なあ、おれ、帰りたいんだけど」
「今は無理」
「うん。無理」

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 4畳半の部屋に戻って彼がはじめたのは、マスターベーションだった。フィーチャーフォンの画面に浮かんだ静止画を凝視しながらシコシコ。シコシコシコ。
「ああ、倫理の問題は気にしなくていいよ。僕らは子どもじゃないから」ロキソニンは言う。
「子どもじゃないなら、何なんだよ」
「これで成体なの」ラヴが言う。
「そう。これで成体の生き物なんだ。いや、生き物というのは怪しいかもしれないけど」
「名探偵コナンみたいな感じ」
「残酷描写なし。性的描写あり」ロキソニンが笑う。
「……」
 精子を出してしまうと、彼は眠った。そして、おれらの制御下に入った。

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「さあ、これで僕たちは、三位一体になった」彼の口からロキソニンの言葉が出てくる。
「文字通り。三位一体」ラヴの言葉が彼の口から出てくる。
 ためしに彼の体でシャドウボクシングをしてみた。左手の反応がよくない。いや、右手もよくない。全部よくない。腹回りに肉がつきすぎている。肩と腰も悪そうだ。少し体を動かしただけで、息が上がる。年齢は若そうだが、肉体を怠けさせることに夢中だったのだろう。イカ臭い4畳半の部屋。トイレのみ。風呂はない。
「で、悪の魔法使いってどこにいんの?」自分の言葉が彼の口から出てくる違和感が抜けない。「つうか、おれらの声がこいつの口から出てたら怪しまれるから、頭の中で会話できないの?」
「できるよ」ロキソニンの声が頭に響いた。
「できる」ラヴの声も。
「便利だな、おい」おれも倣(なら)って心で言った。「つうか、ここはどこなんだ?」 
「日本という、架空の国だよ」
「うん。いつもそう」
 ふたりは矢継ぎ早にそう言った。架空の日本なのか、日本が架空なのか、判断できなかった。
「悪い魔法使いってのはどこにいるんだ?」おれは心の中で言う。
「それがなかなか見つからないんだよ」ラヴは言う。
「簡単に見つかったらゲームじゃないじゃない」ロキソニンが言う。
「たとえば、どんなとこにいんの?」
「僕らが今まで入ってきた主人公は、子どもだったから、悪い魔法使いはたいてい大人の姿をしてた」
「主人公によって違うってこと?」
「悪い魔法使いは、見たらわかる」
「一目瞭然ってことね」ラヴが補足する。

 彼の数少ない持ち物である二つ折りの携帯電話を見ると午後3時。上着が見当たらなかったので、ネズミ色のスエット上下にどこ製のものかわからないスニーカーを履き、頼りなげなドアを開け、ドアを閉める。チラと見えた表札には、田所と書かれていた。鍵はかけずに外に出る。
 前から来る二人組の女子高生がおれたちのことを見てクスクス笑っていた。それを見るや否や、おれたちの体は女子高生のひとりを蹴飛ばした。
「……この子たちが悪い魔法使いなのか?」
「違う」ラヴが答える。
「攻撃されたら攻撃を返さないと」ロキソニンは言う。
「攻撃って笑われただけだろ」
「笑われるってのは、攻撃されるってことだよ」
「笑われたってのは、攻撃されたってことだよ」
 倒れ込んだ女子高生のもとに駆け寄った女子高生を、おれたちの体は足蹴にした。
「頭おかしいのか?」おれは言う。
「体に慣れるには、戦闘を重ねないと」
「また来たよ」ラヴが言う。
 向こうから歩いてくる買い物帰りのおばさんがおれたちを見て笑っていた。おれたちの体はそのおばさんに向かって突進する。おばさんはおれたちの姿を見ると、奇声を発し、買い物袋に手をつっこんで品物を投げてくる。たまねぎ、じゃがいも、にんじん、牛切り落とし肉……食材をものともせずに、ラヴとロキソニンは、おばさんに蹴りをくわえた。
「カレーか肉じゃが」
「シチューかもよ?」
「……何が面白いんだ?」おれは言う。「弱いものイジメしてるだけじゃねえか」
「僕らには悪い魔法使いを倒すという目標があるんだよ」
「目標がある」
「目標のためには何をしてもいいってことか?」
「違うの?」
「……」
 前から歩いてきた10代後半か20代前半の3人組の男のひとりが、おれたちの肩にぶつかって、大げさに倒れた。「いてえな、オイ」
 ニキビの残る男たちは、あからさまに喧嘩をしたい様子だったので、おれはつっかかってきた男のひとりを捕まえて大外刈りをかけようとした。が、うまく体が動かなかった。しかたない。自分の体もろとも倒れ、倒れる寸前に肘を顔面に叩き込んだ。
「ワオ」ラヴはアメリカのホームドラマみたいな叫び声をあげた。
「すごいや」ロキソニンが言った。
 おれたちが立ち上がると、向こうの路地から男たちの仲間がぞろぞろと現れた。逃げようとした途端、体が動かなくなった。
「何が起きた?」
『彼が起きちゃった』
 直立不動のおれたちの主人公は、不思議なものを見たときのような声をあげた。ふあ……
 あっという間に男たちに囲まれ、彼はおずおずと「どうしたんですか?」と言った。
「どうしたもこうしたもねえだろコラ」
「おい、よくもたかしをやってくれたな」
「な、何もしてない。おれは何もしてない」彼はそう言って弁解しようとするが、男たちの神経を逆撫でするだけだった。
「殺すぞ」
 ボン、と腹を殴られた。ぐはっ。彼は体をくの字にして痛がっている。が、おれやラヴやロキソニンが痛いわけではなかった。視覚的には痛いのだが、痛覚の刺激はない。映画の中で主人公が殴られているような感覚だった。
 うずくまった彼を、7人の男たちはよってたかって蹴っている。痛くはなくても、腹が立ってきた。
「永里蓮、どうする?」
「どうする?」
 彼が意識を失った瞬間、おれは意識を掌握し、彼の体を立ち上がらせ、ひとりを捕まえて、首を締め上げた。
「こいつを絞め落とされたくなかったら下がれ」おれは言う。
 男の首を絞めたまま、ひるむ男たちを威嚇しつつ、ジリジリと後退する。ジリジリ、ジリジリ下がり、ある地点で男を離し、きびすを返し、全速力で逃げ出した。

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「……この体、使いにくいわ」心の中で言った。
「でも、大したもんだね」ロキソニンが続く。
「大したもんだ」ラヴがうなずく。
 走ってるうちに、男の体に力が入らないことに気づく。
「どうしたんだろう?」
「お腹空いてるんじゃない」ラヴが言う。
「そうだね。何か栄養を取らないとね」
 ポケットに入っていた二つ折りの財布を覗くと、252円しかなかった。近くのコンビニでウイダーインゼリーを買った。固形物を食べるのは面倒だったからだ。
「つうか、悪い魔法使いってのはどこにいんだよ。早く探さないと、こいつ、もう金ほとんどねえし、体力が持たないぞ。それと、こいつが起きるたびに体の支配権が奪われてたら何もできない」
「盗んだらいいんじゃない」ラヴは言う。
「うん。盗んだらいいよ」
「ダメだろ」
「何で?」ロキソニンは言う。「これはゲームだよ」
「目的を達成するためには、犠牲が必要」ラヴは言った。
「つったって、こいつは生きてるんだぞ」
「みんな生きてるよ。今、彼が飲んだウイダーインゼリーの主成分であるマルトデキストリンは、とうもろこし、あるいは小麦のでんぷんからつくられるんだよ。……あ、また彼が起きちゃうね」
「大変だ」ラヴは感情のこもっていない声で言った。
 意識を取り戻した後、彼は肩を抑え、しばらく天を仰いでいた。その後で足を引きずりながら歩き出す。明らかに肉体のパフォーマンスが落ちていた。
 足を引きずりながら、彼は4畳半のアパートを目指している。途中、立ち止まり、ポケットの中の財布の中身を確認し、肩を落とした。
「終わった」小さな声で彼は言った。
「終わったって何だろう。まだ死んでないのに」ラヴが言った。
「お金が尽きたってことじゃない」まるで他人事のようにロキソニンが言う。
 ゾンビのような足取りで、彼は彼の4畳半のアパートにたどり着き、小さな声で笑った。それから、荒縄のようなものを戸棚から取り出して、中学生が使うフープ式のネクタイのような形に整え、部屋を見渡した後、ドアのノブにくくりつけ、自らの首にまきつけ、体重を落とした。

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「あー、終わっちゃった」ラヴが言った。
「もう1回やろう」ロキソニンが言った。
 おれは首を振り、「帰るわ」と言って立ち上がる。目がチカチカする。吐き気もする。玄関のコンバースを履いて外に出た。燃えるような夕焼けだった。今にも崩れ落ちそうな階段を慎重に下りていくと、後ろのほうで声が聞こえた。
『レン、今度はリョウとルイも連れてきてね』

 目が覚めると、目の前に松田がいた。
「おはよう」
「……ここ、どこだ?」
「大丈夫か? おまえ、一日以上寝てたぞ。疲れてたんやな。ほら、水飲め」
 そこは、工事の音が鳴り止まないムンバイの安宿だった。
「なあ、蓮、ロンドンに行かないか?」松田が言った。「安いチケット見つけたんよ」


image (2)


 おれたちは飛行機に乗って、ロンドンに向かっていた。ヒースロー空港に降り立った後で待っていたのは、「何をしに英国に来たのか?」という質問攻めだった。
 最初は、観光(サイトシーイング)という、日本人旅行者にとってのコピペワードを言っていたのだが、泊まる場所、帰る日時、所持金、帰りのチケット、と細かく突っついてくるので、「おれは人生を楽しみたいと願う、ひとりの日本人である。おれは元来、ロンドンジンが好きで、と来れば、ジン&トニックも好きで、と来れば、ロンドンで、本場で、飲むしかないという最終的な結論に至った。ここにしかないものを求め、やってきた」と、相手の目を見ながら語った。
「オーケイ」鼻で笑うように入国審査官は言った。
 何がオーケイやねん、と思いながら、英国に入国。インドを移動したおかげで、英語を喋ることに慣れていた。自分の成分を薄くすることによって、有効範囲を広げる。パチ屋で学んだ処世術は海を越えても有効だった。ここが初めての海外だったなら、おれは挙動不審で、入国拒否のスタンプを押されていたかもしれない。なかなか出てこなかったが、松田もやって来た。
「何をもたついとったん?」
「泊まる場所は決まっていない、帰るチケットもないが、インドの向こうに見えたグレイトブリテンに来たって言ったら、別室に連れて行かれそうになった」と言って松田は笑う。「ラリパッパのヒッピーと思われたのかもしらん。最終的に医大の学生証を出して切り抜けたけど。おまえは大丈夫やった?」
「我こそはジャパンからロンドンに酒を飲みに来た者である。通したまえって言ったら、ははあ、どうぞ、お進みくださいと言われた」おれは少し話を盛った。
「すげえな」松田の感心した表情に、サディズム的な心性がうずいた。「おまえみたいに学業ばっかしてきたやつとは、機転と経験の差が違うのだよ。機転と経験の差が」
「ああそう。まあ何でもいいよ。早くまともなビールを飲みにいこうぜ」
 おれたちはアンダーグラウンドと呼ばれる地下鉄に乗って、ロンドンの中心部を目指した。

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 まずはガソリンということで、パブ(飲み屋)にイン。ロンドンで飲むブラックスタウトは、たまらなく美味かった。インドとの物価の違いに目を白黒させながらパブを出ると、さっきまで晴れていた空は灰色の雲に覆われ、細かな雨が降っていた。ぬめりを帯びた石畳の道を、馬車が駆け抜けていく。
「泊まるとこ探さねえとな」
 ふたりで行動したこともあって、おれが用意していた金は、ずいぶん余っていた。初日だし、ということで、一泊100ポンドくらい(当時のレートで1万8000円くらい)するホテルのシングルルームに別々で泊まることにした。シャワーを浴び、リカーショップで買っておいたスペイン産の赤ワインを飲みながら、久方ぶりのプライベート空間に浸っていると、コンコン、とドアがノックされ、ドレスシャツにジャケットをはおった松田が入ってきた。
「準備オケー。改めまして、ロンドンに繰り出そうぜ」
「OK(それはアゥケイに近い),London(それはランドンに近い)」松田よりも発音のいいところをアッピールした後、グラスに残っていたスペインワインを飲み干した。

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 ピカデリーサーカスにほど近い場所にある飲み屋(PUB)に入って、ジン&トニックで乾杯。特に美味しくもなかったのですぐに飲み干して、ロンドンプライドというエールを注文した。
 店の端に設置されたブラウン管のテレビでは、ラグビーのイングランド代表戦が行われており、ガタイのいい男たちが気炎をあげている。おれたちはテレビから離れた樽をベースに作られたテーブルにパイントグラスを置いて、座り心地はともあれ、とにかく頑丈そうな木製の椅子に腰を下ろした。
「インドではクリケットに熱狂してたな」松田が言った。「日本にワールドカップが決まったってときもそうだったけど、おれはどうも、自分以外の人間が頑張っていることに熱狂できないんよなあ」
「ミィニーザー」おれはうなずく。それから、ロンドンプライドの入ったパイントグラスを持ち上げて、口に運ぶ。
「これっておれらの人間的な欠落なんかな?」
 松田遼太郎という男は、酒が入るとマジメな話を始め、かつ、酔えば酔うほど自分を卑下するという、摩訶不思議な傾向があった。
「おれらが人生2回目だからだろ」おれは笑う。
「どゆこと?」
「人生は、まず、自分のことを好きになるところから始めないといけない。自分を嫌って生きるのはしんどいからな。どうやって好きになるか? 手っ取り早いのは、自分の定義を拡張することだ。レペゼン世田谷、レペゼン東京、レペゼンジャパン、アジア、地球、太陽系、銀河系……広げようと思えば、いくらでも広げられる。だけど、ほとんどは、地元か、国、民族、そのあたりで固定される。そこらへんに人間の限界がありそうよな」
「自分を好きになるために、カテゴリーをつくり、自分を好きになるために、そこからこぼれ落ちる人間を嫌悪する」松田はうんざりした顔で言った。
「そう。放っておくと、人間は必ず戦争を始める。イジメの問題も一緒。たぶん根底にあるのは自己愛なんだよ。愛の反対は無関心っていうけど、無関心、めんどくせえってのも、自己愛の一形態だと思うよ。人間は、自己愛から逃れられない」
「人生1回目のやつはかわいそうだな」松田は真剣な表情で言った。
「いや、自覚症状があるかないかの違いだけじゃねえの? こうやって、人生1回目、2回目とか区別して、片方を貶してる。それを肴に酒を飲んでる。やってることは、おれらも変わらん」
「根が深いな」
「でも、人生3回目とかになると、一周回って、自分とは無関係な人間の動きを自分のものとして、あるいは動きそのものを楽しめるようになるのかもな」
「そうだといいな」そう言って、松田は立ち上がった。「ションベンしてくる」
 おれたちは、日々、酒を飲みながら、様々な話をした。生い立ちから、考え方、趣味、宗教、政治、性、話が尽きることはなかった。そしてお互いが、お互いに、秘密を抱えていた。しかしその秘密を口に出すことはなかった。語られることではなく、語られないこと。それが、お互いの守っているものだった。

       777

 松田は両手にヒューガルデンホワイトの特徴的なグラスを持って席に戻ってきた。
「口直し」
「いいやん」おれは言う。
 テレビの前から歓声があがった。イングランドの選手がトライを決めたのだろう。
「これ飲んだら次行こうか」松田が言った。
「そうな」
 ベルジアンビアーを飲み干して、店を出た。パブのシステムは前清算。挨拶(ハーイ)はあっても、イラッシャイマセ、アリガトウゴザイマスはない。ひとつの社会に階級があり、複数の民族が入り乱れて生活しているのだから、当然かもしれない。日本の飲み屋は、酔いや悪人を勘定に入れても、信用を重視したいのだ。背中で歓声があがる。おれの考察にあがった歓声としておこう。

 柔らかな街灯。そそり立つようなネオゴシック建築。足の裏を刺激する石畳。夜のロンドンを散策し、やけに明るい一軒のパブに入った。おれはサイダー(リンゴの発泡酒)を、松田はギネスを、小腹がすいていたので、グレイビーソースのかかったマッシュポテトを注文した。スコットランドの国旗が壁を飾り、バグパイプの音楽が流れていた。円形のテーブルに、背もたれのない円形の椅子。
『乾杯』
 赤を基調としたタータンチェックのベストを着た30代の男性店員が、にこやかな笑顔でマッシュボテトを運んできた。それはホクホクとした本物の馬鈴薯であり、たっぷりかかっているグレイビーには旨みがあった。
「なあ蓮、いきなり回想モードに入っていい?」
 熱アクッ……。おれは口の中を火傷させつつ、うなずいた。
「スロッター人口ってどれくらいかはわからんけど、まさか、海外でスロッターに出会うとは思わんかったわ」
「まあな」サイダーを飲んで口内を冷ます。
「リール一周のスピードってさ、日本中のスロッターが体得してるよな。これって何かに応用できそうじゃない?」
「どうやって?」
「目隠しをさせられてる状況で、タイミングを合わせろ、みたいな」
 おれは笑う。「どんな状況やねん」
 マッシュポテトが美味しかったのと、テーブルでオーダーできそうな雰囲気だったので、店員を呼び、ローストビーフと、ハギス、ベンリアックをストレートで注文してお金を払った。

       777

「なあ、蓮、おまえ帰ったら何するん?」
「うーん」
「住所ないんやろ、どこ住むん?」
「今間にでも住もうかな」おれは答えた。
「今間? それどこ?」
「東京都」
「知らん」
「……は? 今間、在原を知らんってことないやろ」
「それ何区? 市?」松田は真剣な顔で言った。
「マジで言ってる?」
「うん」
「……じゃあ、船橋は?」
「千葉県船橋市? あるよ」
「神戸は?」
「兵庫県神戸市だろ」
「今間、在原は?」
 松田は首を横に振った。
「なあ、蓮」
 松田が何かを言っていたが、まったく頭に入ってこなかった。混乱した頭で考えた。おれが来た世界と、この世界は違うということか? どうしてそのことに思い当たらなかったのだろう。以前と比べると、心の動揺が大きくなったような気もする。何故だろう?
「なあ、蓮?」
「……悪い」
「何で謝るんや?」
「いや、おれの問題だから」
「問題?」
「おまえには関係ないってこと」
「関係ないことないやろ。この時間、この場所は、おれとおまえ、ふたりの共有物やねんから」松田は言った。
 たしかに、その通りだった。
「すまん。おれは余裕がなくなると、自分のことしか考えられなくなる」
「何で急に余裕がなくなったん?」
 溜まっていた息を吐き出した。不都合を認めずして、前に進むことはできない。
「在原は、江戸城から見て丑寅の方角、つまり東北にあった死刑場が地名の由来になっている、という話を聞いたことがある。今間には、死刑を待つ罪人が入れられる牢屋があったそうだ。今間、在原は、今でいられるうち、というスラングみたいな地名なんだと。真偽のほどはわからんけど、今間、在原のある地区は、23区内にありながら23区には加わらず、ただ今間と在原と呼ばれ、辺境と呼ばれている。不名誉な地名を改名して、近隣の区に編入するべきだ、という議論は何十年も続いているが、変わらない。たぶん、便利なんだと思う。都市機構の中のゴミ捨て場というか、異空間。賭博禁止の国のパチ屋に似てるかな。住みたくない街アンケートのトップ常連だけど、住んでみるとそれなりに快適なんよ。今間も、在原も」
「へえ」松田は真剣な表情でうなずいた。
 アーガイル柄のベストを着た東洋人女性が、料理を運んできた。身長は170センチ強、切れ長の瞳に、笑うとできる片エクボ……それはどう見ても、山崎だった。

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「なあ」おれは松田遼太郎に向かって言った。「自分が信じていたものが存在しないと気づいたとき、人間はどうすればいいと思う?」
 松田は二度三度まばたきをした後で、2杯目のギネスを飲み干した。「酔いのメカニズムってのは、完全には解明されてないらしい」
「それでも、アルコールを摂取すると、人間の感覚は酩酊する」
「うん。医者ってのは、科学の申し子みたいなイメージがあるけど、医学部の教授は不思議な話をよくしてくれた。いかに人間が精神に左右されるかということについて。プラセボ効果や宗教、伝統、愛情、優しさ、それらがどれだけ人間の肉体に働きかけているか。科学的な裏づけがなくても、効果を優先させることは間々ある。医者の存在の第一義は、患者の苦しみを取り除くことだからな。原因を究明するのはまた別の仕事なんだよ。たとえばこんな話がある。1970年代初頭に、第二次世界大戦が終わったことを認めることができないという日本人がいた。その患者は頑なで、テレビを見せても効果はなく、識者、政治家の声も届かず、1945年から1952年に亘(わた)るアメリカの日本統治の間も、そしてそれが終わってからも、戦時中の暮らしを続けていたそうだ。新しい道路をつくりたい行政が、区画整理でその人の家をどかしたいとかで、病院に連れてこられたんだな。担当したのは、精神科の医師だった。その医師が何をしたかというと、当時1号店ができたばかりのマクドナルドのハンバーガーを食べさせることからはじめたそうだ。科学的根拠からの決断ではたぶんない。それでも、その患者の認識は、少しずつ、だが劇的に変わっていった。その人は晩年にはアメリカに旅行している」
「何だかいいんだか悪いんだかわからん話だな」
「そうだな。敗戦したのはその人じゃなくて、国だ。道路計画、区画整理ってのは聞こえはいいが国の都合だ。その人はただ、信じるものがあっただけなのにな」
 ハギスを食べながら、シングルモルトを飲んだ。うん。
「つうか、蓮、これ、何?」
「羊の内臓のプティングのウイスキーソースがけって感じ」
 顔をしかめながら松田はフォークを使った。「……クセ強くない?」
「これ飲んでみ」と言って、ウイスキー専用グラスに入ったウイスキーを松田に手渡した。
「うお。……うまい」
「やっぱいい話かも」おれは言った。
「ん?」
「人間は、見知らぬものに出会ったとき、体がこわばる。保守性を打破するのは、常に欲望だ」
「ああ」松田はうなずいた。「ビデオの普及はAVのおかげだって聞くな」
「インターネットもな」
 ちょっとトイレ行ってくるわ、と言って席を立った。

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 トイレにはウイスキー蒸溜所の位置が書かれたスコットランドの地図が貼ってあった。そういえば、山崎はワーキングホリデーでイギリスに2年くらい行っていたと言っていた。最初はロンドンにいて、スコットランドに移った、と。
 手を洗って席に戻る。「さっきこれ運んできた子、いただろ。背の高い」
「うん」
「あの子は知り合いだった」
「何で過去形?」
「今のあの子はおれのことを知らない」
「は?」
「おれは、おまえの言う前世の記憶がほとんど完璧にある」
「……」
「おまえは前世とか、永劫回帰って言葉を使ってたけど、おれとしては、タイムトラベルなんだわ」
「タイムトラベル?」
「もちろん、タイムトラベルなんて、物語でしか通用しない概念だ。おれらで言う、目押しとかフラグとか機械割みたいに。ほとんどの場合、彼らは過去に叶えたい未練があってやってくる。そして、その過去で未練を解消して、めでたしめでたし。だけど、おれは失敗した。過去の改ざんに失敗したタイムトラベラー。こんなおれに、どんな存在価値があると思う?」
「……あの子の名前は?」
「おれが出会った頃は山崎という苗字だった。その後で母親が再婚して、小島りこになった」
「あの子、酒は?」
「飲める、と思う」
 松田は立ち上がり、キャッシャーの前にいる山崎に声をかけ、話し始めた。アーガイル柄のベストを着た山崎は、おれの方をチラッと見て、首を横に振った。その後で松田が何かを言い、笑った。
 松田が戻ってきた。
「仕事終わり次第、飲もうってことになった」
「は?」
「おまえの言う通り、彼女の名前は山崎りこだった。再婚はしなかったみたいだな」
「……」

 午後10時を回った頃、私服に着替えた山崎がやって来た。
「こんばんは」と山崎は言った。
「こんばんは」
「どこで飲もうか」松田は馴れ馴れしい口調で言った。
「わたしは元来、喋ることが苦手で、それにくわえて日本語を使うのが久しぶりなので、失礼なことを言ってしまうかもしれません」
「全然いいよ」笑顔で松田は言う。
「一杯だけここで飲んでもいいですか?」
 おれと松田がうなずくと、山崎はきびすを返し、カウンターに進んでパイントグラスを手に戻ってきた。
 松田の隣、おれのはす向かいの席に座った山崎は、いかにも美味そうにその上面発酵のビールを飲んだ。
「おふたりは、ご旅行ですか?」
「はい」とおれは言った。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「永里蓮です」
「松田遼太郎」
「永里さんに、松田さんですね。山崎りこです」
「何か、カタくない?」松田が言う。「レン、リョウ、リコ、でよくない?」
「構いませんが、ちょっと慣れるまでに時間がかかりそうです」そう言って、山崎は照れ笑いを浮かべた。
「ちょっとおれ、ビール買ってくるわ」松田はそう言って立ち上がる。
 松田が気をきかせたのだろうが、いざふたりになってみると、話すことが見当たらなかった。おれは黙って座っていた。
 山崎はブラウンエールを両手で持って口に運んだ。「先ほど、リョウ、さんがおっしゃってましたけど、レン、さんは、わたしのことをご存知なのですか?」
 ……何と説明すればいいものか。
 人間、起こったことは記憶する。しかし、起こらなかったことは、記憶できない。だから出会っていない人間が、記憶に残るはずがない。
「頭おかしいやつだと思われるかもしれないけど、聞いてくれますか」と言った。
 山崎はコクリと首を振った。

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 山崎りこは1981年、八重山諸島の小さな島で生まれ、東京で育った。たしか田園都市線の沿線に住んでいた。母親が経営していた夜のお店で年齢を詐称して働いていた。そこで山崎は歌った。特技は、父に教わった空手。
 山崎はパイントグラスを両手で持ったまま、固まっていた。
「通信制の高校を卒業した山崎は、パン屋で働きはじめた。2001年11月25日、山崎はジャパンカップというレースで大金を賭け、その勝負に勝って得たお金をもとに、ワーキングホリデーでロンドンに滞在する」
 山崎は放心したような顔でパイントグラスに入っていたエールを飲み干した。
「レン、さんは占い師さんですか?」
 おれは首を横に振った。
「おれは昔、通信制の高校に通っていた。といっても、ここではなく、かつてあったはずの1999年。学校は文京区にあって、関東一円から週に3度、生徒が通っていた。おれと山崎はそこで、同じクラスだった」
「……」
 松田がトレイにグラスを3つ載せて戻ってくる。
「ヴァイツェン、IPA(インディアンペールエール)、ブラックスタウト、お好きなものをどうぞ」
 すまなそうな顔で「いただきます」と言いながら、山崎はブラックスタウトを取った。おれはIPAを取った。ヴァイツェン(ホワイトビール)専用のラッパのようなグラスを手に松田は言った。「乾杯」
 おれたちはほぼ無言でそのビールを飲んだ。ビールを飲んでしまうと、山崎は言った。
「わたし、ちょっと行ってみたいところがあるんですけど、お二人は騒々しいところは大丈夫ですか?」
 おれと松田は顔を見合わせた後、うなずいた。
「ごちそうさまでした。行きましょう」
 おれたちは店を出て、アンダーグラウンドと呼ばれる地下鉄に乗った。山崎はほとんど喋らなかった。代わりに松田が喋っていた。おれと山崎は時折相槌を打ち、電車に揺られた。
「どこに向かってるの?」松田は聞いた。
「何か、倉庫みたいなところです」山崎は返す。
「倉庫?」
 山崎の先導で、別路線に乗り換えるために電車を降りた。電車を待っていると、路線を走る小さな生き物の姿が目に入った。ネズミだった。その生き物はミッキーマウスのように人々から愛されるような姿形をしてはいなかった。薄汚く、はしっこく、嫌われものそのものだった。ペストの媒介者。穢れの象徴。不思議な感覚が、胸に宿っていた。これは何だ、と考えているうちに、思い当たる。ブルーハーツの歌だ。ドブネズミは、忌み嫌われている。だから美しい。
 電車がやってきて、おれたちは乗った。電車の中からはネズミの姿は見えなかった。

つづく
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文中画
Francis Bacon"Three Studies for Figures at the Bace of a Crucifixion"

「磔刑の基部にいる人物のための3つの習作」
フランシス・ベーコン 1944年



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