「わたしは不幸だ」という言葉は理解できない、なぜなら本当に不幸な人間には「わたしは不幸だ」とは書けないからだ。フランツ・カフカ

1ベーコン_走る犬のための習作 - コピー
「不死鳥の灰」
♯69 The blue hearts

まえがき
 
    

スロ小説とは何か? 

スロ小説の年表            


 午後10時を回った頃、私服に着替えた山崎がやって来た。
「こんばんは」と山崎は言った。
「こんばんは」
「どこで飲もうか」松田は馴れ馴れしい口調で言った。
「わたしは元来、喋ることが苦手で、それにくわえて日本語を使うのが久しぶりなので、失礼なことを言ってしまうかもしれません」
「全然いいよ」笑顔で松田は言う。
「一杯だけここで飲んでもいいですか?」
 おれと松田がうなずくと、山崎はきびすを返し、カウンターに進んでパイントグラスを手に戻ってきた。
 松田の隣、おれのはす向かいの席に座った山崎は、いかにも美味そうにその上面発酵のビールを飲んだ。
「おふたりは、ご旅行ですか?」
「はい」とおれは言った。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「永里蓮です」
「松田遼太郎」
「永里さんに、松田さんですね。山崎りこです」
「何か、カタくない?」松田が言う。「レン、リョウ、リコ、でよくない?」
「構いませんが、ちょっと慣れるまでに時間がかかりそうです」そう言って、山崎は照れ笑いを浮かべた。
「ちょっとおれ、ビール買ってくるわ」松田はそう言って立ち上がる。
 松田が気をきかせたのだろうが、いざふたりになってみると、話すことが見当たらなかった。おれは黙って座っていた。
 山崎はブラウンエールを両手で持って口に運んだ。「先ほど、リョウ、さんがおっしゃってましたけど、レン、さんは、わたしのことをご存知なのですか?」
 ……何と説明すればいいものか。
 人間、起こったことは記憶する。しかし、起こらなかったことは、記憶できない。だから出会っていない人間が、記憶に残るはずがない。
「頭おかしいやつだと思われるかもしれないけど、聞いてくれますか」と言った。
 山崎はコクリと首を振った。

       777

 山崎りこは1981年、八重山諸島の小さな島で生まれ、東京で育った。たしか田園都市線の沿線に住んでいた。母親が経営していた夜のお店で年齢を詐称して働いていた。そこで山崎は歌った。特技は、父に教わった空手。
 山崎はパイントグラスを両手で持ったまま、固まっていた。
「通信制の高校を卒業した山崎は、パン屋で働きはじめた。2001年11月25日、山崎はジャパンカップというレースで大金を賭け、その勝負に勝って得たお金をもとに、ワーキングホリデーでロンドンに滞在する」
 山崎は放心したような顔でパイントグラスに入っていたエールを飲み干した。
「レン、さんは占い師さんですか?」
 おれは首を横に振った。
「おれは昔、通信制の高校に通っていた。といっても、ここではなく、かつてあったはずの1999年。学校は文京区にあって、関東一円から週に3度、生徒が通っていた。おれと山崎はそこで、同じクラスだった」
「……」
 松田がトレイにグラスを3つ載せて戻ってくる。
「ヴァイツェン、IPA(インディアンペールエール)、ブラックスタウト、お好きなものをどうぞ」
 すまなそうな顔で「いただきます」と言いながら、山崎はブラックスタウトを取った。おれはIPAを取った。ヴァイツェン(ホワイトビール)専用のラッパのようなグラスを手に松田は言った。「乾杯」
 おれたちはほぼ無言でそのビールを飲んだ。ビールを飲んでしまうと、山崎は言った。
「わたし、ちょっと行ってみたいところがあるんですけど、お二人は騒々しいところは大丈夫ですか?」
 おれと松田は顔を見合わせた後、うなずいた。
「ごちそうさまでした。行きましょう」
 おれたちは店を出て、アンダーグラウンドと呼ばれる地下鉄に乗った。山崎はほとんど喋らなかった。代わりに松田が喋っていた。おれと山崎は時折相槌を打ち、電車に揺られた。
「どこに向かってるの?」松田は聞いた。
「何か、倉庫みたいなところです」山崎は返す。
「倉庫?」
 山崎の先導で、別路線に乗り換えるために電車を降りた。電車を待っていると、路線を走る小さな生き物の姿が目に入った。ネズミだった。その生き物はミッキーマウスのように人々から愛されるような姿形をしてはいなかった。薄汚く、はしっこく、嫌われものそのものだった。ペストの媒介者。穢れの象徴。不思議な感覚が、胸に宿っていた。これは何だ、と考えているうちに、思い当たる。ブルーハーツの歌だ。ドブネズミは、忌み嫌われている。だから美しい。
 電車がやってきて、おれたちは乗った。電車の中からはネズミの姿は見えなかった。


つづく
にほんブログ村 スロットブログへ     
 

タイトルバック

"Study for a Running Dog"


「走る犬のための習作」
フランシス・ベーコン1954年



♯70へGO!