「わたしは不幸だ」という言葉は理解できない、なぜなら本当に不幸な人間には「わたしは不幸だ」とは書けないからだ。フランツ・カフカ
「不死鳥の灰」
♯68 I'm lovin' it
まえがき
スロ小説とは何か?
「なあ」おれは松田遼太郎に向かって言った。「自分が信じていたものが存在しないと気づいたとき、人間はどうすればいいと思う?」
松田は二度三度まばたきをした後で、2杯目のギネスを飲み干した。「酔いのメカニズムってのは、完全には解明されてないらしい」
「それでも、アルコールを摂取すると、人間の感覚は酩酊する」
「うん。医者ってのは、科学の申し子みたいなイメージがあるけど、医学部の教授は不思議な話をよくしてくれた。いかに人間が精神に左右されるかということについて。プラセボ効果や宗教、伝統、愛情、優しさ、それらがどれだけ人間の肉体に働きかけているか。科学的な裏づけがなくても、効果を優先させることは間々ある。医者の存在の第一義は、患者の苦しみを取り除くことだからな。原因を究明するのはまた別の仕事なんだよ。たとえばこんな話がある。1970年代初頭に、第二次世界大戦が終わったことを認めることができないという日本人がいた。その患者は頑なで、テレビを見せても効果はなく、識者、政治家の声も届かず、1945年から1952年に亘(わた)るアメリカの日本統治の間も、そしてそれが終わってからも、戦時中の暮らしを続けていたそうだ。新しい道路をつくりたい行政が、区画整理でその人の家をどかしたいとかで、病院に連れてこられたんだな。担当したのは、精神科の医師だった。その医師が何をしたかというと、当時1号店ができたばかりのマクドナルドのハンバーガーを食べさせることからはじめたそうだ。科学的根拠からの決断ではたぶんない。それでも、その患者の認識は、少しずつ、だが劇的に変わっていった。その人は晩年にはアメリカに旅行している」
「何だかいいんだか悪いんだかわからん話だな」
「そうだな。敗戦したのはその人じゃなくて、国だ。道路計画、区画整理ってのは聞こえはいいが国の都合だ。その人はただ、信じるものがあっただけなのにな」
ハギスを食べながら、シングルモルトを飲んだ。うん。
「つうか、蓮、これ、何?」
「羊の内臓のプティングのウイスキーソースがけって感じ」
顔をしかめながら松田はフォークを使った。「……クセ強くない?」
「これ飲んでみ」と言って、ウイスキー専用グラスに入ったウイスキーを松田に手渡した。
「うお。……うまい」
「やっぱいい話かも」おれは言った。
「ん?」
「人間は、見知らぬものに出会ったとき、体がこわばる。保守性を打破するのは、常に欲望だ」
「ああ」松田はうなずいた。「ビデオの普及はAVのおかげだって聞くな」
「インターネットもな」
ちょっとトイレ行ってくるわ、と言って席を立った。
777
トイレにはウイスキー蒸溜所の位置が書かれたスコットランドの地図が貼ってあった。そういえば、山崎はワーキングホリデーでイギリスに2年くらい行っていたと言っていた。最初はロンドンにいて、スコットランドに移った、と。
手を洗って席に戻る。「さっきこれ運んできた子、いただろ。背の高い」
「うん」
「あの子は知り合いだった」
「何で過去形?」
「今のあの子はおれのことを知らない」
「は?」
「おれは、おまえの言う前世の記憶がほとんど完璧にある」
「……」
「おまえは前世とか、永劫回帰って言葉を使ってたけど、おれとしては、タイムトラベルなんだわ」
「タイムトラベル?」
「もちろん、タイムトラベルなんて、物語でしか通用しない概念だ。おれらで言う、目押しとかフラグとか機械割みたいに。ほとんどの場合、彼らは過去に叶えたい未練があってやってくる。そして、その過去で未練を解消して、めでたしめでたし。だけど、おれは失敗した。過去の改ざんに失敗したタイムトラベラー。こんなおれに、どんな存在価値があると思う?」
「……あの子の名前は?」
「おれが出会った頃は山崎という苗字だった。その後で母親が再婚して、小島りこになった」
「あの子、酒は?」
「飲める、と思う」
松田は立ち上がり、キャッシャーの前にいる山崎に声をかけ、話し始めた。アーガイル柄のベストを着た山崎は、おれの方をチラッと見て、首を横に振った。その後で松田が何かを言い、笑った。
松田が戻ってきた。
「仕事終わり次第、飲もうってことになった」
「は?」
「おまえの言う通り、彼女の名前は山崎りこだった。再婚はしなかったみたいだな」
「……」