難しいことを一生懸命やるよりも、簡単なことを一生懸命やる方が難しい
輪島功一
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「不死鳥の灰」
♯52~64

ぼちぼち、小説に専念するときがやってきたのかもしれない。

書くこと、賭けること 寿

まえがき 

♯1~♯9まとめ 

♯10~♯14まとめ

♯15~♯19まとめ

♯20~♯24まとめ 

♯25~♯29まとめ
 

♯30~♯41まとめ


♯42~♯46まとめ 

 
♯47~♯51まとめ 


「久しぶりにこっちの言葉使ったからゆうて、何言うてもええ思てるやろ、自分」ミキモトは言った。「おれがおまえの問題の核心ついたろか。おまえ、何で、アキのとこいかんかったん?」
「……」
「死んだって聞かされてたからやろ。ほんで、生きとうことを知ったときには昔のツレの嫁になっとった。でもそんなもん知るかボケェ言うたったらよかったやん。旦那? 知らん。息子? 知らん。会いたくてマナーモードみたいになっとるんやったら会いに行ったらええねん。それもできんとウジウジしとる。それはダサいやろ、おまえ。超ダサいで」
「それは否めん」
「認めんの?」
「認める」おれは言う。「けど、おまえを認めることはできない」

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 おれは立ち上がり、エスカレーターに乗り、改札を抜け、電車を乗り換えて、海を目指した。コピー用紙に書かれた物語のはじまりの場所ではあったが、夜の海は黒々として、別世界のようだった。
「……まだおったん?」
「まだっていうか、ずーっとおるよ」
「いつまでおるん?」
「さあ。おれに言われても」
「なあ、ミキモトさん」
「ん?」
「あんた、めっちゃモテとったやん。何が不満やったん?」
「それな、まっとうな質問や思うけどな、その質問に答えられるやつは死んでへんねん。理路が整然としてたら死ねへん。判断能力が十全に機能しとったら死なれへん」
「心神喪失状態につき、無罪」おれは言う。「それは汚いやろ」
 小さな波がやって来る。すーっと引いていく。
「永里蓮、今、おまえ何歳やった?」
「35歳」
「おれは思うけど、人間はただ生きてるだけですごいことや思うで。何を成しても、成さなくても、人間が何十年もそのシステムを維持するだけですごいことやわ」
「……ミキモト、日本人の平均寿命いくつや思う?」
「疑問を持たんで生きとうやつは別やで。疑問を持ちつつそれでも生きるって決めたんやろ。すごいことやん」
「慰めてもらわんでええわ」
「いや。はよ死んだらええのにって思てるよ。くくく。生命体はしぶといわ」

「いたっ」ミキモトはすっとんきょうな声をあげた。「何するん」
「いや、叩けるんかな、と思って」
「おまえ、怨霊引っぱたくってどんな感性しとんねん」
「怨霊なん?」おれは笑う。
「怨霊やろ。どう見ても」
「自分で自分の姿見たことあるん?」
 ミキモトは首を横に振る。「ないよ」
「おまえ、腹の突き出たおっさんやで。昔はスマートやったのになあ」
「そうなんや」と言った後で、ミキモトは笑い出した。「おれずっと貴公子的なふるまいをしてたわ」

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「永里、おまえと話せてよかった。もし、あの頃、おまえとこういう風に率直に話すことができたら、違う過去があったのかもわからん」
 ミキモトはそう言うと立ち上がり、黒々とした海へ向かって歩き出した。
「おい」ミキモトは振り返らなかった。ミキモトの足が海に浸かり、腰が浸かり、背中が浸かり、ついには見えなくなった。その間も波は絶え間なく行き来していた。

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 記憶が波のように、寄せては返す波のように揺れていた。


 ゆるやかな波が行ったり来たり。巨大な橋の向こうには緑色の島が霞んでいる。その緑はほとんど黒に近い。おれは横になり、学ランの胸ポケットからクールマイルドを取り出し火をつけた。煙が灰色の雲を目指してするすると立ち昇り、しかし煙のあまりにも淡いその願望はすぐに風にさらわれ見えなくなる。空気と混じり、消えていく。

「こらあ、未成年。喫煙、及び授業のサボタージュ。そんなんしてると禁固三年に処されんで」

 寝たままの姿勢で仰ぎ見ると、ハルタの茶色のローファーが、ラルフローレンの紺色のハイソックスが、この街の女子にしては短い部類に入る膝丈の黒いスカートが飛び込んできた。

「サボタージュて」体勢を起こしながらおれは言う。「破壊活動って意味やねんで……」

「蓮? 何で泣いてんの?」
「……」どうしてだろう? 涙が溢れてとまらなかった。
「どうしたん?」そう言いながら、氷野はおれの背中をさすっていた。
「おれのすることは、今までも、これからも、何一つ、成功しない」おれは言った。

「……なあ蓮、うちも横、座っていい?」

「パンツ汚れんで」と言おうとしたが、声にならなかった。

「よしよし」赤ちゃんをあやすような口調で言いながら、氷野はおれの頭をなでていた。まるで太古の昔から聞こえてくるようなリズムが聞こえていた。それが氷野の心臓の鼓動ということに気づくまでに、しばらくかかった。

「今のおれが今のおまえとこんなんするのはフェアじゃない気がする」おれは言う。
「何、そのキザな感じ。また変なこと考えてるんちゃうやろな」
「変なこと?」
「あんた、こないだもわけわからん理論で丸め込んでうちの大好きなアイスを半分食べたやろ」
「知らん」
「食い物の恨みは恐ろしいねんで」
「ほな好きなだけ買うたるわ。豚さん」
「何でそんなこと言うん」
「……何でやろ」自分でもわからなかった。

 おれは砂浜に寝転がった。真上に空があった。雲が流れていた。手を伸ばすとそこに氷野のふとももがあった。
「大人と子どもの違いってわかる?」おれは言う。
「年齢」
「違う」
「支払い能力」
「違う」
「責任の有無」
「違う」
「ほな何なん?」氷野は言う。
「ないものねだりをするかどうか」
「何て?」
「ないものねだり」おれは言った。「子どもは足りないものを欲しがる。大人は自分にあるものをベースに思考を組み立てる」
「あんたはどっちなん?」
「大人に決まってるやろ」
「……ほな、何でうちのふともも触ってんの?」
「これは無意識の意識や」
「アホちゃう?」
「アホや」
 背の高い鳥が空を渡っていく。そのはるか上空を飛行機が飛んでいく。
「なあ、蓮、タバコちょうだい」
「はい」と言ってクールマイルドを氷野に渡した。「おれもうやめるから、全部やるわ」
「何があったん?」
「タバコは毒だぜ」
「……何なん自分?」
 氷野は煙を吸い込むと、リンゴを奪われた直後の猿みたいな表情で煙を吐いた。「あんたがそんなん言うからいつもより美味しくないやん」
「吸いたいって言うたのおまえやろ」
「こんなんは一緒に共有するから美味しいんやろ」
「おれは犯罪行為には加担しません」
「何なん……」氷野は口を尖らす。
「1999年の氷野さん。お元気ですか?」
「お元気ですよ」
「1999年のおれは、どんなやつですか?」
「変子ですよ」
「21世紀のおまえは、結婚してるよ」
「は? 相手は?」
「それは言われへん」
「……ホンマにフェアじゃないな」 

「おまえ、数学の単位やばいんちゃうかった?」振り絞るようにしておれは言った。

「は。そやった。蓮は?」
「おれはもう少しここにいるわ」
「大丈夫なん?」
「うん」
「蓮、あんまり風にあたってるとバカなんでー」 

 瀬戸内海。目の前には無限に近い可能性が広がっていた。今からアスリートを目指すのはしんどいかもしれないが、その気になれば、政治家にだってなれるだろうし、会社を設立したり、投資で食っていくことも可能だろう。この世界において、誰も経験していない18年の記憶。それは、圧倒的な優位性だった。
 携帯電話の着信メロディを自作する時代なのだ。今を生きる人間は、わずか十数年後の自分たちが、スマートフォンという通信デバイスを肌身離さず持って生活していることを知らない。だから何だ? ただの事実だ。おれはただ、それを知っているだけのことだ。

 どうしてほとんどすべてのタイムトラベラーは、この優位性を悪用しないのだろう? それはたぶん、タイムトラベラーの条件が、優位性を正しく使える人間に限られるからだ。正しく使わなければどうなるか? おそらく別の、タイムトラベラーが現れ、なかったことにされる。それが時間旅行というもののルールなのだ。おれだけがタイムトラベラーというのは考えにくい。というか、考えられない。ということは? そういうことだ。
 田所りんぼがどのようにして組織をつくったか。そして、コウ先生が言ったことの意味。すべてがつながったような気がした。おれの前にあるのは無限ではなく、たった一本の道なのだった。

 果てしなく面倒だった。どうしておれなんだ? というのは子どもの甘えだ。わかっていても、考えてしまう。何でおれが? ……タバコが吸いたかった。どうして氷野に全部渡してしまったのだろう。
 波が来る、そして、去る。波は自分のことを、かわいそうだとか、しんどいだとか、思わない。それはただのシステムに過ぎない。かわいそうとかしんどいを思うのは、感情だけだ。この波を見てあわれを想う。何て繊細なのだろう。何てばかばかしいのだろう。

 立ち上がれる気がしなかったので目を閉じた。眠ったらまた、別の世界で目が覚めるのを期待して。

 ……眠れなかった。
 立ち上がり、学ランとズボンを叩(はた)き、海を背に歩き出す。左ポケットにはマンションの鍵とリップクリーム、右ポケットにはドコモのムーバ。ケツポケットにはグッチの財布。財布の中にはコンドーム。

 おれの名前は永里蓮。頭は35、体は16、まもなく17。この物語の主人公である。たぶん。

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 1999年、神戸。おれの望むすべてがここにあった。しかし、長い年月の果てに、望みそのものが変質してしまっていることに、おれは気づいてしまったのだった。

 誤って斧を落としてしまったきこりの前に女神が現れて言う。
「あなたの落としたオノはこの金のオノですか?」
 きこりは首を横に振る。
「では、あなたの落としたオノはこの銀のオノですか?」
 きこりは首を横に振る。
「では、あなたの落としたオノはこの鉄のオノですか?」
 きこりはうなずく。
「あなたは正直者ですね。この3本のオノをあなたに差し上げましょう」

 この話から学べるのは、大切な商売道具を落とすようなうかつな人間には、災いが訪れるという教訓だろうと思う。それまでのきこりには、木を切って生活の糧に変えるという自足的なシステムがあった。しかしこれからは違う。金や銀という物質は、ものを切り落とすのに適した素材ではない。きこりのライフスタイルは変化を余儀なくされる。金と銀の斧を守ることが最優先事項になるだろう。何よりも大きな問題は、きこりは今後、水辺を見るたびに、落ち着かない気持ちになる、ということだ。この斧を落とせば……。そんな考えを持て余しながらきこりとして生計を立てるのはほとんど不可能だ。再現不可能な成功体験は、人を堕落させる。初めて入ったパチ屋の大連チャンと同じように。
 氷野を失いたくない。誰にも渡したくない。それだけがおれの望みだった。しかし、自分の力で得ていないものは、どこかの地点で手放すことになる。必ず。

 学ランに着替え、ローファーを履いてドアを開け、ドアを閉め、鍵をかける。エレベーターに乗って1階に降り、エントランスを抜けて外に出る。タスポ認証など存在しない自動販売機に280円を入れ、クールマイルドを購入。タバコをやめて十数年が経ったというのに、16歳の自分がニコチン中毒なんて、こんな理不尽なことはあるだろうか。
 100円ライターで火をつける。煙を吸い込み、吐き出した。認識としては、何でこんなものを吸わなければいけないのだ、という拒絶反応。しかし肉体はウェルカムだった。やれやれ。
 タバコ屋の灰皿に吸殻を捨て、歩き出す。5月の青い空の下、国道2号線を渡り、駅に向かう。幾分混んだ電車に乗って学校に向かう。
 教室に入り、クラスメイトの顔を見渡した。大人になりかけている顔、子どもの世界から抜け出せない顔、アドレセンス真っ只中の連中の中に、ひとりだけ異質な顔つきの男がいる。タケ。彼だけが、おれの悪事【未来からやって来て、過去を改変しようとしていること】を知っている。そんな気がした。
「タケ、おはよう」
「おはよう」タケは無骨な表情で言った。
「蓮、おはよう」笑顔で氷野が言う。
「おはよう」

 おそらくは、守ろうとするから失うのだ。おれはむしろ、手放すべきなのだ。自分の立場も、優位性も。すべてを忘れてイチからやり直す。が、それは無理というものだった。おれの顔を見てほほえむ氷野がいる限り。


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 おれだけが、この世界がどうなっていくかを知っている。神のごとく。そしておれだけが、おれがここにいることの罪を自覚している。悪魔のごとく。
 が、神であり、悪魔であるにもかかわらず、いまいちプランが定まっていなかった。おれは何をすべきなのだろうか? この二度目の世界で。
 席について、授業に備える。チャイムが鳴り、教師が教壇に立つ。ひとつの空間に数十人がいて、同じことをしている。表面上はパチ屋の中と大差ない。知識を得る=期待値を追うという意味では似たりよったりである。何が違うのだろう? たぶん、おれは他人と同じ方向を向くのが苦手なのだった。みんなが前を向いているときは、後ろを向きたいのだ。35年も人生を経験してるはずなのに、集団行動が苦手なのか……? 何が大人だ?
 授業の内容がさっぱり入ってこなかった。というか、まるでついていけなかった。明々白々に学力が低下していた。バジ絆の設定6の弱チェリー確率を諳んじることができても、古文の助動詞は無理だった。ジース、バータ、リクーム、グルド。ギニュー特戦隊は今でも言えるが、英語の仮定法過去完了? 何だそれ? 午前の授業が終わった頃には、頭が割れそうだった。
「学食行こうぜい」氷野がおれの肩を叩く。
 ご飯を食べる気にはなれなかったが、立ち上がる。
「何食べる?」
「ラーメン」
「あんたそればっかやな」
「をかし、をかし、いみじくも」
「頭大丈夫?」
 首を横に振った。「自分がここまで頭悪いなんて知らんかった」
「勉強せえへんからや」
「そういう問題なんかな」
「そういう問題やろ。才能は、才能だけに頼ると栄養がいかんくなって枯れるらしいで」
「枯れたらどうなるん?」
「シワシワのおじいちゃんちゃう」と言って氷野は笑った。

 クソ。過去人の分際で……。うまくもまずくもないラーメンをすすりながら、ベジータばりに上から目線で見てしまう目を必死で抑えた。
 おい、おれ。神だか悪魔やったら、高二の授業くらい軽くこなせよ?
 ……授業がこんなにもヤバイ代物なんて、知らなかった。めんどくさい。めんどくさい。めんどくさいなんてもんじゃない。これはただ事ではない。太刀打ちできるのは現文と体育のみ。学生すげえ。つうか学生が一番しんどいんじゃないか? 大人、というかスロット打ちは自分の好きなことだけをしていればいいが、学生はしたくもない勉強が本分なのだ。
 ガキ、とか言って見下すのはやめよう、と心に誓う。 

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 しかしまあ何だね。高校生活というのは、ぜんぜん面白くないものだあね。何となく、楽しかったという感覚があったが、ただのないものねだりだったんだね。何ができる? やろうと思えば何でもできるが、それでもやはり、制限があった。大手を振って自分の金で酒を飲むことすらできない年齢なのだ。
 その代わり、少年法で守られているとも言えるが、法に反してまでしたいことなんて、タバコと酒とギャンブルくらいしか見当たらず、それらは大人になれば自動的に解禁されるものに過ぎなかった。尾崎豊が窓ガラスを割りたくなった理由がわかった気がした。少年は抑圧されている。しかし、当事のおれはその抑圧を感じていなかったように思う。どうしてだろう?

「なあ、蓮、聞いてる?」
「聞いてへんかった。何?」
「蓮も今度一緒にディズニー行こうや」
「ええわ」
「何でー」
「苦手やねん」
「ぶーぶー」
「豚さんは今日も元気やな」
「もう知らん」と言って氷野はどこかへ行ってしまった。

 ……何でこんなにイライラしているのだろう? たぶん、おれが抱えている問題を、誰も理解できないだろう、という悲観。言うなれば最新型鬱、おれ専用鬱のような心の状態である。ILL。タイムトラベルディプレッション(鬱)。タイムトリップシンドローム(症候群)。後者の方が格好いいね。苦笑。というわけである。
 意識してしまって、かつての親友、タケとうまく喋れない。それもまた、心を重くする要因のひとつだった。同級生が熱中している事柄にことごとく興味を持てないというのもある。こちとら、松本人志が酷評される時代からやってきたのだ。もう、そんなところにはいないぜ、という感じなのだ。そのことがなおさら孤独を深めていた。孤独は特に苦手ではなかったのに、これだけ大勢の同級生がいると、胸が苦しいのだった。
 あ、ミキモトは何してるやろ、と思って、放課後の体育館をのぞきにいったが、ミキモトの姿は見当たらなかった。意を決し、バスケ部マネージャーである氷野に聞いてみると、「ミキモトさん? って誰?」と言われた。
 ミキモトがいない? 何で? ……考えてわかる問題ではなさそうだった。

 学校から帰ると、リビングのソファに義父が座っていた。しまった。そんな日だったか。

「おかえり」義父は言った。

「ただいま」おれは言った。「……どないしはったんすか?」

「いや、たまにはおまえの顔見とこ思ってな」

「はあ」

「なあ、腹減ってるやろ?」

「まあ」

「着替えたら飯食い行こうや」
「はい」

 タクシーを呼んで三宮まで出る。

「神戸ゆうたら牛やろ」義父はそう言って、料亭の暖簾をくぐった。和服を着た女性に案内されて、個室に通される。

「おまえ酒飲めるやろ?」

 おれはうなずいた。

「生でええか?」

「はい」

 ほどなくして、エビスのドラフトビールがやってきた。

「乾杯」義父が言い、おれは頭を下げ、両手でグラスを持って義父のグラスに重ねた。

「まず、用件を先言うわ。おまえも気になっとるやろうし」

「はい」

 義父はぐびぐびとビールを飲み干した後でこう言った。「なあ蓮、ぼちぼち、一緒に生活せえへんか?」
「……はい?」

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 おれたちは夜の三宮を北野坂方面に歩いていた。神戸牛を食べ過ぎてお腹が重い。とはいえ、そこは高校生のボディ。少し歩くと楽になった。

「もう一軒付き合ってくれや」義父は言い、うなずいた。

「ここや、ここ」義父は重そうなドアを開けた。

 die verwandlung

 ドアには薄れた文字でそう刻まれていた。ディーフェアヴァントルング。フランツ・カフカの「変身」が由来らしい。

「いらっしゃいませ」白い上着を着た男が言った。「お久しぶりです」

「お、マスター、元気そうやな。景気どないだ?」

「景気に左右されるような店ではございません。細々とやっとります」

「さよか。そらええわ」

 重厚なカウンターだった。タンノイのスピーカーからは創成期のジャズがかすれた音質で流れていた。肉厚のソファに腰を下ろすと、柔らかなおしぼりがスッと出てくる。

 義父の前にそっと灰皿を置いた後で、「本日はいかが致しましょう」とマスターは言った。
「XYZを2杯」義父は言った。

「かしこまりました」

 義父はパーラメントを手に取ると、デュポンのライターで火をつけ、ふう、と煙を吐き出した。

「おまえにカクテルの味教えたろ思ってな。昔の武士はおまえの歳には元服を終えとったんやから、ええやろ」
「あざっす」

 氷と氷が銀色の筒の中でぶつかる小気味良い音が店内に響き、足の長い、円錐形を逆さにしたような格好のグラスに白っぽい液体が注がれた。「お待たせしました。XYZです」父がマスターと呼ぶ男は、手元を照らすスポットライトの下にカクテルを置いた。

「いただこうや」義父は言う。

 なつかしい……。思わずそう言ってしまった。

「究極って意味やねんど、そのカクテル」義父が言った。

「おとうさん。おれにもタバコください」

「お母ちゃんには内緒やぞ。ほれ」

 長く硬いフィルターをかじるようにくわえると、懐かしいデュポンのライターで、義父が火をつけてくれた。マスターがおれの手元に灰皿を置く。
「……今、おとうさん言わんかった?」義父が驚いたような顔で言った。
 煙を吸い込んで、煙を吐いた。「おとんはあかん?」
「おとん。ええよ。ぜんぜんええよ」
 義父は照れくさそうに二口でカクテルを飲み干すと、カルバドスという琥珀色の液体を注文した。飲み終わるのがもったいない気もしたが、おれも二口でXYZを飲み切った。
 義父は照れくさそうな顔を浮かべたまま、リンゴのブランデーの香りをかいでいる。「何かお代わり、いるか?」

「おれもそのカルバドスを飲んでみたいです」
 リンゴを醗酵させて、蒸溜し、樽に詰め、40年だか50年寝かす。その間、かつてリンゴだったものは、少しずつ、少しずつ、味を変えていく。そうしてできた液体は、熟成という魔法によって、リンゴそのものを超える。この感動を、できるだけ子どもっぽい言葉で表現しようとした。
「……やばいっすね、これ」
「蓮、おまえ、酒、強いんやな……」


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「ぶっちゃけた話、おれは母親が苦手なんすよ」
「……おれの存在が嫌で一緒に暮らさへんかったんちゃうんか?」
「いや、全然。おとんは嫌いじゃない」
 おれは生まれて初めてというくらい、自分と関わりのある大人に向かって率直に話をしていた。
「おれの親父、自殺したんすよ。それ、ずっと母親のせいやと思ってました。いや、実際、そうやと思うんです。おれの母親は弱い人間を許容しない。こんなこと、母親と一緒に暮らしてる人に言うていいかわからないすけど、しんどいんです。それがおれのためであったとしても」

「よう言うな、自分の親を」義父は豪快に笑う。「しんどいんやったら、距離を置いたらええんちゃう。無理して暮らしてもしゃあない」
「すんません」
「でも、それがおまえの本心なんやろ」
「はい」
「ほなしゃあない。が、こういう対応は普通ちゃうねんぞ。それだけは覚えとき」
「はい。本当に感謝してます」
「いや、そないしゃっちょこばらんでも」
「おとんとはずっと話したかったんです。ずっと……」
「言うてくれたらよかったのに」
「いや、おれシャイやし」
「そんなんは自分で言うたらあかん」義父は楽しそうに笑う。「もう一杯飲むか?」
「イエス」
「おれはこう見えて、人の話をしっかり聞くことで、ここまで生きてきた。話したいことがあるんやったらナンボでも聞くで」 

 その夜、おれと義父は長いこと、酒を酌み交わしつつ語り合った。古い音楽とお酒とバーテンダーが、常にそばにいてくれた。空と大地と空気のように。


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 少しずつではあったが、ハードな勉強となあなあの人間関係に慣れていった。これはこれで、自分を作り変える作業だった。自分の存在を希釈していくことで、自分の領分を広げていく。おれはその作業が嫌いではなかった。というか、このろくでもない人生で、唯一身につけた技術だった。

 すべては自分の一番嫌なことで決まる。自分の絶対に嫌なこと。それをする(される)くらいなら死を選ぶ。そこが聖地である。その空間には何人たりとも入れない。おれですら入れない領域をつくることによって、それ以外のことを受け入れる覚悟に変える。
 おれにとって侵されざる聖域。それは【自由】だった。自分の人生の手綱は、自分が握る。それさえ確保できていれば、何だってできる。便所を舐めることだって、自分の意志でするならば、大したことじゃない。後でうがいをすればいい。その先は、ナチュラルキラー細胞。おれの体の細菌、抗体たちにまかせよう。
 「変身」というBARで飲んで以来、義父とは2週間に1度、ご飯を食べるようになった。義父が神戸に来たり、おれが大阪に行ったり。おとんとおれの関係は、義父が亡くなるまで続いた。 

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 人間関係は、部屋の汚れに似ている。放っておけば、ぐちゃぐちゃになる。恋愛関係も例外ではない。磨耗を続けた歯車は、どこかで時計の針を止める。関係を持続させたければ、掃除やメンテナンスがどうしても必要なのだ。お互いが、お互いに。

 氷野と別れたのは、高校3年生の秋だった。
 心にポカンと穴が開いた、という表現があるが、ほとんどの人間は、もともと開いているように思う。気分のいいときは、その穴が見えず、気分が悪いときにだけ、その穴が気になる。こうして、人間はないものをねだる。その穴から、未練や嫉妬やルサンチマンが出てくる。その穴のことを欠点と言うのではないか。少なくともおれはそうだった。
 別れる前、別れた後の世界を思い浮かべた。絶対に後悔する自信があった。にもかかわらず、別れずにはいられなかった。そして想像通りの未来がやってきた。で、後悔。悲嘆。バカじゃないか?
 バカなのだ。二度目の高校生活で、自らの決定的な欠点を思い知った。いや、ずっと知っていたことだった。明確な事実として突きつけられただけだ。
 それが失われたとき、傷つくようなものがそばにあるとき、おれは安心できないのだった。あるいはこれは、スロット生活の弊害なのかもしれない。100%の信頼を、何かに、または、誰かに(自分にすら)ベットすることができない。そのくせ、肉体の欲求には抗えない。氷野のことを大切に思えば思うほど、戻れない場所に進んでいくようで、怖かった。そのくせ、気づくと彼女のふとももに触れている。ひとりよがりのセックスは、自慰行為と変わらない。心の乖離は、少しずつ、少しずつ、おれの精神を蝕んでいった。それにくわえて、性格や考え方の違いによる、ささいな喧嘩。それらが積もり積もって、これ以上一緒にはいられない、という結論に達した。お互いが、お互いに。

 別れた次の月に、タケに呼ばれた。
「なあ、蓮、おれ、アキと付き合うわ。おまえには伝えておこう思て」
 口から出たのは、自分でも驚くくらいダサい言葉だった。「うん」完全なる負け惜しみ。未来人の越権行為。が、言わずにはいられなかった。「わかっとった」
 タケは言う。「なあ、蓮。高1の5月くらいやったかな。何でおれは避けられなあかんかったん?」
「わからん」わからんこともないが、おれは言った。「うまく喋れんくなった」
「おれはおまえのこと、親友や思てるで。いまでも」
「親友の好きやった女とつきあうって、親友のすることか?」
「ほな何で別れたん?」
「……」
「おまえは、いっつもそうやん。何か問題があっても、ひとりで抱え込んで、言わへん」
「言わへんわけちゃう。言われへんねん」
「それはおまえがカッコつけてるからやろ?」
「……」
「カッコ悪いで、それ」
「喧嘩売ってんの?」おれは言った。
「ああ」タケはうなずいた。
 おれはかつての親友をぶん殴っていた。
「もっと来いや」タケは殴られた箇所を左手でさすりながら言った。
 おれは首を振り、タケに背を向けて歩き出した。殴った手がじんじんと痛んだ。それ以上に胸が痛かった。自分がダサすぎて、吐きそうだった。

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 母親がやって来て、義父のマンションを売るから荷物をまとめてほしい、と言った。あなたはもっと、学校に近いところで生活しなさい。
「わかった」
 おれはJR三宮駅から歩いて10分くらいのところにある、マンスリー契約のワンルームマンションに転居することになった。
 大学で学びたいことはなかった。といって、就職する気にもなれない。屍のような態度で授業を受けた後、ジャージかウインドブレイカーに着替え、どこかのパチ屋でレバーを叩いた。幸い、体力はあったし、知識と目押しさえできれば勝てる機種が数多く生息していた。来店ポイントで設定6を打たせてくれる店もあった。
 スロット打ちというのは一種の病気なのかもしれない。それとも、バカは時を逆さに進んでも変わらないということか。
 2度目の21世紀がやってきて、高校を卒業してしまうと、いよいよスロットしかすることがなくなった。しかし、金はなかなかたまらなかった。かつての自分に比べて、精神が安定しなかった。タバコをやめることは成功したが、飲酒量が増していた。どうしようもなくなると、かんなみを目指した。年齢のうえでは二十歳になり、ようやく目標としていた300万が貯まった。

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 インドに向かったのは、特別な理由があったわけじゃない。バックパックを担いでドミトリー(相部屋の安宿)に泊まるという経験がしてみたかったのだ。
 人、人、牛、香辛料の匂い、牛、人、人、デリーの街で、医大を休学して旅行しているというひとりの日本人に出会った。東京都世田谷区出身。180センチ超の身長にロン毛。年齢は2つ上だったが、おれたちは、数分で意気投合した。何よりも、この松田遼太郎という男との共通点は、旅費をスロットで捻出したということだった。

「変なこと言うで」関西弁に憧れがあるか、あるいはおれの喋り方が移ってしまったが、うまく表現できないのだろう、妙なイントネーションで松田は言った。「おれがインドに来たのは、カルマについて考えたかったからや」
「業(ごう)。輪廻転生。リーインカーネーション」カルマから連想する言葉を並べた。
「そう。釈尊はこの地で悟りを開いた。その教えが日本に渡ってきて、受け継いだひとり、親鸞がおもろいことを言っとる」
「おまえの喋り方のほうがおもろいけどな」おれは言った。
 おれのチャチャを無視して松田は言う。「『歎異抄(たんにしょう)』いう、親鸞の言葉を弟子が記した新約聖書のような書物にこんな記述がある。『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』」
 その言葉はどこかで目にしたことがあった。「善をつんだ善人でも極楽に行けるのだから、善をつんでいない悪人が極楽に行けないはずがない、いや、もっと行ける」というような意味の言葉だった。
「他力本願やったっけ?」おれは言う。
「うん。善行は自力ということだから、悪行しかしかない悪人のほうが、他力という、極楽に行くための方法論には親和性があるみたいなことやろうけど、イマイチおれにはわからんかった。ただ、期待値論とかけ離れた考え方には惹かれた」
「ほんで?」
「インドに来てみた」
「医大を休学してまで?」
「うん」
「ほーん」とおれは言った。「で、何を悟った?」
 松田は首を横に振った。「さっぱり」
「くっくっく。ただのないものねだりやったんやろ? 医大って授業料エグいって言うやん。戻って勉強せな」
「国公立や慶応はそれほどでもないんやけどな、おれんとこは、卒業するまでに4000万近くかかる」
「それやったらなおさら、6年間で国家資格取らなあかんのちゃう」
「わかってるよ。でも、破滅がわかっていても、しなければいけないことってあるやろ。わからん?」

「……わかる」と言った。
 お互い、明確な目的地があるわけではなかったし、帰国日時が決まっているわけでもなかった。何となく、おれたちは行動をともにするようになった。日本の満員電車がファーストクラスに思えるような超満員の電車に押し込められたり、酒を飲んだり、ラリッたり、同じタイミングで腹を立たり、腹を下たり、伸び放題のヒゲ面と現地で購入したラフな格好で、自由奔放にインドをめぐったのだった。

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 おれの言葉に松田が引っ張られ、松田の言葉におれが引っ張られ、旅を続けるうちに、おれたちは同じような言葉をしゃべるようになった。
 そこは、ヤシのしげる静かな村だった。村人は昔ながらの暮らしを営んでいた。漁をする。炊事。洗濯。食う。眠る。美しい半円形の湾があるが、都市部から離れているうえに、交通が不便なため、観光客はほとんどいなかった。おれたちは、一泊数百円という、トイレのない簡素なつくりの小屋に泊まることにした。
 おれたちはそこで、ハシシを喰らいながら、ハシシでサシシというワードで1時間笑い合った。1時間。現役のスロット打ちならば、リールを878回転させている時間だ。その間、おれたちはただ笑っていたのだった。ハハ。

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 ミネラルウォーターが甘い蜜のように感じた。世界が輝いているような気がして、おれたちは小屋の外に出た。空がそのまま落ちてくるんじゃないか、というような星空が広がっていた。

「すげえな」砂浜に腰をおろしながらつぶやいた。
「おれは、定期的に同じ夢を見る」松田は砂浜に腰をおろしつつ、冷えていない缶ビールを開け、そんなことを言った。「そこでおれは、医者とは正反対の、人を傷つける、というか、不幸にさせるような仕事をしている。だからこそ、おれは医者になろうと思った。だけど、このまま行ったら、おれは、国家資格を持った悪人になってしまう。旅に出たのはそれが怖かったという理由もある」
「何だその非科学的な動機は」おれは笑う。笑いながらも、笑えない話だ、と思う。松田のその動機は、言葉は違えど、おれとほとんど同じものだったからだ。
「おれはたぶん、前世でもスロットを打ってた」
「永劫回帰」松田は言った。「寸分たがわずに同じ生を無限に繰り返す。そういうカルマもあるんだろうな」
「でも、寸分たがわずに同じ生を無限に繰り返すのは、偉大すぎる神がいないと、というか、よっぽど巧妙なシステムじゃないと、難しいよな。どこかでエラーが起きる。ひとつのエラーは無限に膨らみ、違う生になってしまう」
「カルマというシステムは、この地球上で起きていることを注意深く観察すれば、たどりつく。四則演算みたいなものだ」松田は立ち上がり、海を指した。星明りに照らされた松田の顔が輝いて見えた。「太古から、この星の水分量はほとんど変化がない。ということは、どこかで洪水があれば、どこかで旱魃が起きる。どこかに豊富な水源があれば、どこかの土地は慢性的に水が足りない。草木は酸素を放出し、動物は酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出す。動物は死ねば、土に還る。そこから草木が生えてくる。すべてはめぐる。移り変わっていく過程である。だけど、カルマというシステムの査定者がどこかにいる、と仮定した瞬間、宗教と既得権益が、そして戦争が生まれてしまう」
 手が届きそうな星空を眺めながら、昔の人が星空に物語を描いた意味がわかるような気がした。自分たちの見上げる世界なのだ。そこにはきっと、意味があり、崇高な営みがあるはずだ、そう信じたいのだ。
「カルマにしたがって、輪廻転生、生まれ変わりが起こる。非の打ち所がない論理だよな」おれは言った。「明快で、道徳的で、統治にも役立った。ただ、どんな宗教もそうだけど、人間だけ特別扱いしすぎじゃね? 太陽や宇宙は偶然誕生した。地球も人間も。だけど、神は人間の都合で生まれた。それだけのことじゃねえの?」
 おれは手に持ったペットボトルの水を口に含んだ。
「水ちょうだい」と松田が言った。おれはペットボトルを松田に渡した。代わりに、松田の手にあった缶ビールを受け取った。ぬるいビールは、甘く、苦く、喉を通った後も、甘く、苦かった。

 村人たちは、すでに眠りについている。空は輝き、瞬き、時折流れ星が流れていく。横には2つ年上の松田。初めて来た場所なのに、つい先日初めて会った相手なのに、既視感があった。心地よい酩酊状態が持続していた。頭は明晰でありながら、限りない未来が手の中にあるような。それは明晰とは言わないか。おれは笑う。
「何がおもろいん?」
「いや、ずいぶん遠くまで来たんやな、と」
「もっと遠くまで行こうぜ」
 そう言いながら、松田はハシシを混ぜたメンソールのタバコに火をつけた。松田の顔が一瞬赤くなった。
「ちょうだい」と言って不恰好なタバコを受け取る。
 知らなかった。腰をおろしているこの砂浜が、おれが奈落の底に落ちていくのを守ってくれていたのだった。そして星々は、こんなちっぽけなおれをも照らしてくれていた。海が祝福をささやいていた。大地、空、海。それは一個の芸術だった。そこに自分が属していることが、たまらなく嬉しかった。

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 そんなおれの完結した世界に侵入してきたのは次の一言だった。
「なあ蓮、おれ、前世でおまえと会ってへんか?」
「この世界を構成しているすべてはつながってる」おれは言う。「そのシステムがカルマだとしたら、もちろん会ってる」
「いや、それだけじゃなくて。何て言うんかな、うーん、うまく言えん」
 立ち上がった松田の顔が、誰かの顔に似ていることに気づく。
 ……ハネくんだった。ハネくんはたしか、おれの二個上だった。ということは、生きていれば松田と同い年だ。
 ……いや、そんなはずがない。ハネくんは、1999年に死んだのだ。
 ……いや、違う。あれは、ひとつ前の人生の出来事だ。義父さんの会社が潰れなかったように、もしかしたら、ハネくんも生きているのではないか? いや、ミキモトがいなかったように、あるいはハネくんも、存在しないのか?
「どうした?」
「やばいな」おれは言った。「バッドに振れてる」
「水でも飲んで、落ち着けや」
 ミネラルウォーターを飲んで、寝転んだ。星々が目に痛かった。誰かがあそこから、おれの動揺を見てほくそ笑んでいるような気がした。やめてくれ。……やめてくれ。

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 ハネくんは、おれにスロットを教えてくれた人だった。生まれて初めて喧嘩に負けた相手でもあった。友情・努力・勝利。少年ジャンプみたいな友だちだった。そして最後には、ビルから突き落とされて死んだ。どうしておれの人間関係は、いつも不幸な結末を迎えるのだろう?
 氷野に会いたかった。氷野と一緒にこの星空を見上げられたらどんなに幸せだろう? 誰が別れようと言った? おれだった。

「なあ、蓮、男同士で結婚ってできないんかな」
「は?」
「おれは死ぬほど考えたんだが、浮気をせずに異性と継続的な関係を結ぶことは不可能だ、という結論に達した。おれの下腹部にこの伸縮自在の秘密兵器がついている限り」
「くっくっく」おれは笑う。「何だその信仰告白は?」
 そういえば、ハネくんも、そんなようなことを言っていたような気がする。
「悲しいかな、おれは生物としての要請の声から耳をふさぐことができない」松田は言った。
「それはただの男の本音だろ。おまえだけの問題じゃない。やりたいという気持ちと、実際に浮気することは違う。おれらの国には倫理があって、浮気しまくる男が正当化されることはほとんどない」
「そうかもしれないけど、自分を欺くことはできない」
「結婚しなけりゃいいだけの話じゃね?」
「だけどな、これも死ぬほど考えたんだが、やっぱり、結婚という制度は人間的な生活において、有利なんだよ」
「で?」
「その優位性を突き詰めていくと、形式であり、形式の意味するところの信頼だ。信頼という絆で人と人が結ばれることは、蓋然性(がいぜんせい)がある」
「スロッター的確率論か?」おれはちゃかすように言った。
「イエス」
「形式に蓋然性があるように、本音と建前にも蓋然性がある。一種の礼儀みたいなもんだ。全員が本音を叫び出したら、社会は立ち行かない」
「それもそうだな」松田はうなずいた。「なあ、蓮、人生に敵がいるとしたら、何だと思う?」
「時間。身体。既得権益。育った場所、自分が育った場所の言語。欲望。感情。風習。法律。いっぱいあるだろ」
「敵はいっぱいいる。つまり、おれたちには、共通の敵がいる。ということは、仲間になれる。じゃね?」
「おまえがおれの敵になる可能性もあるけどな」
 松田も横に寝転んだ。それから煙を吸い、煙を吐いた。
「たしかに。だけど、人間が自分の体から出られない以上、自分自身よりも強い敵はいない」
「そうだな」残り少なくなった不恰好なタバコを受け取り、煙を吸った。
 たしかハネくんは、こんなような会話をした後で、いい会話ができてるな、と言った。
 松田は言う。「何か、いい会話だな」
「いい会話?」
「うまく言えないけど、いい時間だよな」
「いい時間」
 いい時間もあれば、悪い時間もある。すぐに思いつくのは、スロットのハマリだ。ただ、確率でいえば、ハマリと連チャンは同じようなものだ。それは、嬉しいか、嬉しくないかの違いに過ぎない。店の利益になるか、打ち手の懐を潤わすかの違いに過ぎない。総和は変わらない。これもカルマだろうか?
 
つづく
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