ぼくは本当は他の人たちと同じように泳げる。
ただ、他の人たちよりも過去の記憶が鮮明で、
かつて泳げなかったという事実が、どうしても忘れられない。
そのため、
今は泳げるという事実すら、ぼくにとってはなんの足しにもならず、
ぼくはどうしても泳ぐことができないのだ。
フランツ・カフカ
「不死鳥の灰」
♯30~41
この一連の物語の中で、レンくんだけが異性との関係を持ちます。どうしてだろう? と考えているのですが、わかりません。
書くこと、賭けること 寿
まえがき
♯1~♯9まとめ
♯10~♯14まとめ
♯15~♯19まとめ
♯20~♯24まとめ
♯25~♯29まとめ
車が停まったのは懐かしの土地、今間だった。牙は毛布でくるまれたサトウアリさんをワンルームマンションの一室に運んだ。セキュリティの解除方法や、誰かに見られる可能性など、気にしなければいけないポイントがたくさんあったはずだが、このときのおれは何も考えることができず、ただプリウスの車内で呆けていた。
汗だくの牙が戻ってきて、車が発進し、どこかのビルの前で再び停車した。
「リーダーちょっといいですか」そう言って、牙はおれを車の外に連れ出した。
カードキーを使って室内に入り、エレベーターに乗って3階。そのベッドの上にいたのはデビルリバースだった。
「こいつ、まだ生きてるんです」牙は言う。「このスイッチが切れたら、死んでしまう。そんな状態ですが、生きてるんです」
「引っぱたいたら起きそうじゃね」おれは言う。「つうか、こいつに借りあったよな。引っぱたいてやろうかな」
「やめてくださいよ」
牙は静かに、あおむけに眠るデビルを見つめていた。
……何秒経った? とても長い時間に感じた。
「すいませんでした。行きましょう」牙の合図でデビルリバースの眠る部屋を出て、エレベーターを降り、黄泉の待つプリウスに乗った。おれは何も言えなかった。ふざけることも、真面目に受け取ることもできず、ただ、牙の無言の決意みたいなものに圧倒されていた。今こいつとケンカしたら負けそうだな、と思いながら。
777
次にプリウスがついたのは、類の家だった。駐車場というよりも、家の敷地内に無理矢理収めるという感じで車を停める。
「レンくん、こんばんは」類のかーちゃんは言った。
「お久しぶりです」と言って頭を下げた。
「ご飯のしたくはできてるわよ。上がって」
「おじゃまします」
数分後、おれ、類の両親、牙、の四人は食卓を囲んでいた。中央にはぐつぐつと煮える鍋。
「レンくん」類のかーちゃんは言う。「このふたりは水しか飲まないって言うから、ビールつきあってくれない?」
「いや、今日は飲もう」黄泉は言う。「牙にも」
「わかりました」
類のかーちゃんにエビスの瓶ビールを注いでもらって乾杯。エビ、カニ、えのき、しいたけ、鶏肉、にんじん、等を、類のかーちゃん手製のぽん酢で食べる。うまい。禁酒を解いて、ビールを飲む。うまい。それぞれが思い思いに鍋に手を伸ばす。しかし牙も黄泉も喋らない。必然的に類のかーちゃんがひとりで喋ることになる。その感じに耐えかねたおれは、「類がお二人の子どもじゃないってほんとですか」と口走っていた。
「……誰に聞いた?」黄泉がシリアスな顔で言うものだから、おれは思わず笑ってしまった。「いや……」
「……あんた」類のかーちゃんの顔色が変わった。「レンくんに言ったの?」
「……いや」黄泉は首を横に振る。
「言ったのね?」
「……いや」黄泉は首を横に振る。
「ああそう。あなたがいいなら、いいんですけどね……」
「すまん」黄泉は言う。
「そう。類は私たちの子どもじゃないの。この人がこういう人でしょう。子どもがいたら、まず間違いなく、人質にとられるか、殺されると思ったのよ」
「……」
「昔ね、あなたのお母さんに相談に行ったりもしたの」
「おれの母親すか?」
「ほら、うちの家系は、みんな、変わってるというか、頭おかしいでしょう。否応なく、問答無用で。それで、あなたのお母さんに会いに行ったのよ。あなたのお母さんは言った。『蓮に殺される覚悟はできています。私がすべきは、この子が死にたいくらいの窮地(きゅうち)に陥ったときに、そこから這い上がる力を涵養(かんよう)することであって、私の感情の思うままに子どもをあやすことではない。私の使命はあの子の立ちはだかる試練になることです』って。それを聞いて、ああ、それは私にはできない。そう思った。それで、私は自分の子どもを手放して、自分が愛を注げる子どもを引き取ったの。それが類」
「……」
「私は地獄に落ちると思う。でも、類は救われてほしい。私の願いはそれだけなの」
「そういうことだ」黄泉は言う。
「何で、最後、格好つけたの?」類のかーちゃんは口を尖らせた。
「最後だからな」黄泉は笑った。
黄泉が笑うところを、牙は神妙な面持ちで見つめていた。
777
おれが類のベッドで、牙がフローリングの床に布団を敷いて寝ることになった。
「リーダー」牙が言う。
「ん?」
「死ぬってどういう感じですかね」
「死んでみねえとわかんねえよな」
「デビルに刺されたとき、死んだと思いませんでした?」
「やべえな、とは思ったけど、覚えてるのは痛みだけだな」
「死んだらもう痛くないですかね」
「痛いってのは、死んでない証拠だろ。つうか黄泉さんが最後最後言ってたけど、何が最後なんだ?」
「先生は明日で仕事納めなんです」
「……手を洗うってこと?」
「はい。明後日から世界一周、夫婦水入らずの旅に出るそうです」
「おまえは?」
「先生の名前を継ぎます。って言っても、まだ、おれの願望に過ぎないですけど」
「……黄泉の名前を継ぐってどうやって?」
「梅崎さんをご存知ですよね。サシで彼を倒すことができれば」
「……ありゃ無理だ」おれは言った。「手も足も出ないどころの騒ぎじゃない。同じ空気を吸えない」
「それでも、やるしかないんです」
「何で?」
「デビルと、あいつと約束したんで」
「そうか」
「はい。あの……」
「ん?」
「おれも明日の仕事が終わったら梅崎さんに会いにアメリカ向かうんで、最後にお手合わせ願えませんか?」
「はあ?」
「先日、先生の先生に会ったんです。コウ先生は言ってました。素質は蓮さんが一番だったって。だから……」
「やだよめんどくせえ。てかコウ先生ご存命なんだな。よかった」
「お願いします」
「やだよ。つうかおれ、負けるよ」
「最後なんでお願いします」
「うるせえな。わかったよ。表出ろよ」
「ありがとうございます」
「ほんと、最後だからな……」
777
くっくっく。おれは地べたに転がり、牙を見上げていた。やはり、思ったとおり、お話にならなかった。真夜中の冬の公園、イン今間。人通りなんてあるはずがなかった。牙の向こうに星がまたたいている。思いのほか悔しい自分がおかしかった。
「まいった」おれはそう言って手を伸ばす。「まいったから、手貸せ」
「リーダー」牙はおれの手を引き上げながら言った。「ありがとうございます。これで心置きなくアメリカに向かえます」
「よかったな」口の中が鉄の味がする。今はまったく感じないが、明日になると、痛むんだろう。懐かしい感覚だった。むかつくので、憎まれ口を叩く。「おれのパンチは遅れて効くからな。アメリカに行く前に、くたばんなよ」
「たぶん大丈夫です」そう言って牙は笑った。
牙と並んで類の家まで戻った。静かにドアを開けて2階に上がり、ベッドに寝転がる。
「電気消すぞ」
「はい。……あの、リーダー。無理言ってすいませんした」
「いいから寝ようぜ。おやすみ」
「おやすみなさい」
ほどなくして、牙の寝息が聞こえてきた。静かな夜だった。疲れてもいた。が、眠気というものがまるで感じられなかった。
……と、どこからか、コツン。という音が聞こえた。コツン。もう一度。それは何かが窓に当たる音だった。牙の体を避けながら窓際に向かう。
カーテンを開けると、上半身だけの朧フィギュアが浮かんでいた。朧が手招きしてる。クソ。何でもありかよ……心の中で嘆息しつつ、そろそろと階段を下り、外に出た。
牙に殴られた箇所が自己主張をはじめていた。触れてみると、熱を持っている。ちぇ。
「で、何すか?」ぷかぷかと宙を浮く朧フィギュアに向かって言った。
「こんな姿で申し訳ない」朧は言う。
「申し訳ないなら帰ってください」
「まあ、そう言わないで。さっき、見てたけど、君、体の使い方が下手になったんじゃない?」
「そうかもしんないですね」
「君にお願いがある」
「そういうの受け付けてないです」
「類くんを助けてやって欲しい」
「はい?」
「頼むよ」
「あんたさ、どの立場でものを言ってんの? どういう理由でおれが類を殺さなければいけないか、全部、あんたが仕組んだことだろ」
「どの立場? 僕の立場は変わらないよ。今までも、これからも」
おれは空をぷかぷかと浮く朧のフィギュアを捕まえた。
「おれの父親を殺したのは、あんただ」
「で?」
「おれの義父を殺したのは、あんただ」
「で?」
「全部、あんたのせいだ」
「で?」
「類は今、あんたの器なんだろ。おれは類を殺して、終わりにする」
「人を呪わば穴二つ。もし、君が類くんを殺すと言うなら、君も死ぬ覚悟で挑まなければいけない」
「覚悟なんてどうでもいい。おれにはもうそれしかない」
「大好きなパチンコ屋さんに未練はないのかい」
「未練?」
「君は、あの空間からたくさんのものをもらった。この20年近くでいくら稼いできた? 億に届くんじゃないか。君の生活のために何人、何百人、何千人が不幸になったと思う? 何人が自分で死を選んだと思う?」
「その格好で言うことじゃねえだろ」おれは笑った。「そのフィギュアだって、スロットのおかげだったりするだろ。不幸になった人もいれば、幸せになった人もいる。そういうもんだろ」
「僕は何も君を断罪しているわけじゃない。君に後ろめたい気持ちがあるにしてもね」
「もういい。うるせえから黙ってろ」おれは朧フィギュアを月まで届ける勢いで放り投げた。実際、それはどこまでも、どこまでも、飛んでいった。
類の部屋に戻ったが、なかなか寝付けなかった。というか、寝るのが怖かった。知らない場所で目を覚ます経験はもうたくさんだった。しかし、まぶたは不可避的な権力、あるいは天災にも似た強さで閉じていった。クソ……
777
「なあ、トウマ」田所類は言った。「ここ、どこだ?」
「ヘブンでしょ。たぶん」
「くだらねえこと言ってねえで、教えろよ」
「僕にだってわからないことはあるよ」
「やっぱ電波ねえな」山田克己はシリアスな表情で言う。
「どう見ても、僕らがいた世界じゃないね」あたりを見回しながらトウマは言った。
空はどこまでも青かった。しかし街はくたびれていた。というよりも、朽ちかけていた。どこかで見たことがある、と思い、ああ、北斗のジャギステージに似ているんだ、と気づく。
「ジャギステージに似てるな」類が言うと、土田孔明だけが笑った。
777
「おれら死んじゃったのかな」孔明が言う。
「……じゃあ息止めてみろよ」類が言った。「苦しくなかったら死んでるだろ」
「……」
数十秒が経過し、孔明は笑い出した。「ダメだ。苦しいわ」
「……」
トウマは考え込んだような顔で沈黙している。
「どうした?」類が声をかけた。
「この場所はよくないかもしれない……」
「は?」
「つったって、どこに行けばいいんだ?」山田は呆然とあたりを見渡しながら言った。
どこまでも青い空。何の目的で立てられたのかさっぱりわからない建物、建物、建物、建物、建物、建物、建物、建物、建物……幾千もの建物が整然と並んでいるだけなのだった。商業的な施設はひとつもない。車通りもない。もちろん、人の姿も。
「なあ」類はトウマに詰め寄った。「おまえ、何か隠してることあるだろ」
トウマは首を振る。「ないよ。けど……」
「けど?」
「僕が正しいと思ってしたことが、正反対の結果を招いてしまった可能性はある」
「正反対?」
「僕は君たちを不幸から救いたかった。そして、ここにたどり着いたことで、それは達成した」
「達成?」
「そう。ここでは不幸なことは何も起きない。僕らのせいで、誰かに不幸が起きることもない。けど、この世界では幸せなことも何も起きない」
777
「……さっき出てきたところから戻れねえの」類は言う。
「後ろを振り返ってみなよ」
トウマに言われて振り返ってみると、すべての建物は、同じ形をしていた。商業用でもなく、住居でもない、それはしいて言えば、監獄に似ていた。さっき出てきた場所? わかるはずがない。そもそも扉が存在しないのだ。
「俺らはどこから出てきた?」
「わからん」山田が答え、孔明もうなずいた。
「そうだ」何かを思い出したかのように、トウマは言った。「田所くん、お母さんから渡されたあの箱、持ってるよね」
「ん? これか?」類はそう言って、桐の箱を取り出した。
「それちょっと貸してくれる?」
「何で?」
「それが鍵かもしれない」
渋々、類が箱を手渡すと、トウマは「ありがとう」と言って、大きく口を開けて、桐の箱の中に入っていたへその緒を丸呑みした。
「おまえ今、何した?」
「ありがとう」トウマはそう言って、笑った。
777
「ありがとう」トウマは三度、感謝の気持ちを述べた。「ねえ、こういう話があるんだ。君らもたぶん、経験があると思うんだけど、共感してもらえるかな」
「は?」
「部屋で寝転んでいるときに、どうしてもフィレオフィッシュが食べたくなる。そんなときって、あるだろ? 別に、何でもいいよ。てりやきバーガーでも、月見バーガーでも、チキンタツタでも、何でも。日本に育って普通に生活してたら、ふと、食べたくなる規格品は何かしら存在する。ともかく、フィレオフィッシュが食べたい。そう仮定しよう。僕は、たまらなく、フィレオフィッシュが食べたい。外に出る。テクテク歩いてマクドナルドを目指す。到着。『ご注文はいかがしますか?』まだ十代だろう女性の、キラキラ光る0円のスマイルを浴びながらメニューを見上げる。あれ? 僕はフィレオフィッシュを食べに来たはずだ。だから、フィレオフィッシュって言うだけでいい。けど、僕は、どうしてもその言葉が言えない。なぜか? フィレオフィッシュよりも、食べたいものを見つけてしまったからだ。……どうしても、ビッグマックが食べたい。どうしてだろう? どの地点で論理が切り替わってしまったのだろう? 僕はフィレオフィッシュ行きの電車に乗っていたはずだった。でもダメだ。フィレオフィッシュは今、そんなに食べたくない。『お客様?』笑顔をキープし続ける女性店員に向けて僕は言う。ビッグマックセットをください。僕はお金を支払い、ビッグマックを食べ、満腹になって帰宅する。めでたしめでたし」
「……何の話だ?」憤る心を抑えて類は言った。
「僕は君たちを守りたかったんだよ。心から。僕はすべてが丸く収まるように行動した。この平穏な世界で仲良く4人で暮らそうと思っていた。でもダメだ。今、僕は、すべてを理解してしまったんだ。類、くん」
背筋が凍るような笑顔でトウマはたたずんでいた。山田も、孔明も、そのトウマのたたずまいに圧倒されてしまって、身動きできないでいた。
777
何か、ただならぬことが起きている。俺は致命的なミスをしてしまったのだ。それはわかる。だけど、なぜそういうことが起きてしまったのか、わからない。
「類、くん」トウマは言った。「君はこの事実を理解できるかな」
「もったいぶってねえで話せ」
「でも、今から言うことを聞いて、君は正気でいられるか。僕はそれが心配だよ」
「早く話せ」
「君のプライバシーもある。山田くんと土田くんに聞かれてもいいのかい」
「いいから話せ」
「本当にいいんだね?」
「いいって言ってんだろ」
「僕の両親を殺したのは、君のお父さんなんだ」
「……」
「どうして殺したか、わかるかな」
「わかんねえよ」言い捨てるように類は言った。
「昔々、あるところに、人を殺して生計を立てている二人がありました」トウマは朗々と、教育チャンネルのお兄さんのような語り口でしゃべり始めた。
777
「まだ若く、道徳、倫理的な縛りの存在しないお父さんとお母さんは、自由奔放な性生活を送りました。その結果、お母さんは子宝に恵まれます。お母さんがそのことをお父さんに告げると、お父さんは静かに首を横に振りました。本当の父親は自分かもしれない。違う男かもしれない。しかしお父さんの意見は、そういうことではありませんでした。自分たちの弱点になる以上、許容するわけにはいかない。そのような言葉遣いではありませんでしたが、お父さんは拒絶の意思を語りました。しかし、お母さんも引き下がりませんでした。絶対に産む。お母さんは言い張ります。産んだところで殺すけどな。お父さんはそのような意味のことを言いました。困り果てたお母さんは、信頼のおける何人かに相談したのでした。そのうちのひとりは、こんなアドバイスをくれました。自分の子どもが大切ならば、手放しなさい。どうしても子どもを育てたいというなら、別の子を育てなさい。こうして、世にもまれな理由で、二人の子どもは、取り違えられたのでした。彼の両親は、お父さんが殺してしまいました。両親を殺した後で、お父さんはかわいそうな2人の息子を連れ帰り、お母さんは泣く泣く自分の子どもを手放したのでした」
「……」
「類、くん」トウマは悲しそうな顔で言った。「最初から答えは出てたんだ。田所当真。田所家の真の当主は僕で、君はただの類似品なんだよ」
777
類はへたりと座り込んでしまった。
「僕は行くけど、山田くんと土田くんはどうする?」
「どうするって……」山田は絶句した。
「おれは戻りたい」孔明は一も二もなくそう言った。
「彼を見捨てるんだね?」
孔明はうなずいた。
「わかった。山田くんはどうする?」
「おれは……」山田はあたりを見渡して、ここに取り残されることを想像し、身震いした。山田は類の顔を見ようとした。しかし、どうしても見ることができなかった。「田所すまん」山田は消え入るような声で言った。「おれにはやらなければいけないことがある。連れて行ってくれ」
「わかった。類、くん。最後に何か言いたいことはあるかい」
「……」類は何かを言おうとした。言いたいことがたくさんあったが、何ひとつとして言葉にならなかった。
「自殺がどうしていけないのか、今、わかったよ」トウマは言った。「誰かが自殺をして、ダメージを受けるのは、その誰かを愛してる人なんだ。自殺をした人間は、自分が誰から愛されているか、知らずに死んでしまう。そして、愛だけが傷つく。そんなひどい話ってないだろ」
トウマは下を向く類の頬に唇を寄せた。
「さようなら。僕の愛しい類似品」
次の瞬間、3人は消えた。跡形もなく。
777
空はジャギステージのように青かった。腹は減らない。ノドも渇かない。排泄も必要ない。雨は降らない。風も吹かない。時間がない。何より、死なない。
俺は自由だ、と類は思う。人生で初めて、何者にも縛られず、自由になった。類は本心からそう思う。類は着ていた服をすべて脱いだ。寒くはなかった。寒いはずがなかった。
……
性器をいじってみた。いじっても、どれだけいじっても、それは起き上がることがなかった。
……
空を飛べるかもしれない。ふと、そんな考えが類の心を占有した。類は体の力を脱力させ、そのうえで、飛び上がるイメージを具体的に思い浮かべた。すると、体はするすると浮き上がり、画一的な建物を超えてなお上昇した。
違うな。これは飛ぶってよりも、浮かぶって感じだな。イメージを作り直す。類は流線型のような形になって空を進んだ。建物、建物、同じ形の建物。どこまで飛んでも見える景色は変わらなかった。
風がないため、爽快感はない。移り変わる景色がないため、開放感もない。ただ、類は飛んでいた。
田所りんぼが、諸悪の根源が怨望にある、と言っていたが、そういうものはどこにも見当たらなかった。
不思議な感覚だった。悲しくもなければ、嬉しくもない。楽しくもなければ、怒りもない。悪意も善意もない。何もない。りんぼさんはここから生まれたのかもしれない。ふと、類はそんなことを思った。
777
電話が鳴っていた。電話の向こうの機械的な口調の誰かは、桜井さんが亡くなったことを告げていた。
「それと、黄泉も死にました。彼の奥さんと、彼の弟子もともに」
「……それを聞いて、おれは何を言えばいいんですか?」
「今からあなたにお伝えするのは、桜井時生の遺言です。いいですか?」
「……」
「『組織はもうない。おまえは自由だ』以上です」
「すいませんあの」おれは言った。「田所類はどうしてますか?」
「誰ですか? それは」
「……そうですか」
パチ屋までの道すがら、桜の木のつぼみが膨らみつつあるのを発見した。まだまだ寒いが、季節は着実に進んでいる。その事実がどこか物悲しかった。
パチ屋に到着すると、いつもの店員がいつもと寸分たがわぬ角度で頭を下げた。「いらっしゃいませ」
軽く会釈をして、店内を散策し、宵越しの打てそうな台に座って、打ち始める。
コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。
コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。
コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。
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コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。
777
誰がどういう手段を使ったかはわからないが、黄泉が死んだ。おばさんが死んだ。牙も死んだ。桜井さんも。そして、おそらくは、類も。何かがはじまり、何かが終わったのだ。おれの知らないところで。
777
自由というのは、監視がつかないということだろう。パチ屋に通う生活をやめてもいいということだ。たぶん。
777
コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。コインを入れる。レバーを叩く。ストップボタンをとめる。
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もう、いいや。5台打ったところでやめて、貯メダルを全部引き出して換金した。もう、いいよな。その足で、会員になっていたすべてのパチ屋を回り、貯メダルを引き出した。手持ちの金を入れると、300万くらいになった。ポケットがパンパン。スマートフォンを手に考える。
「これからどうする?」
まるで思いつかなかった。アイワナビーフリー。みたいなことを思ったこともあった。しかし実際にフリーになってみると、何をしてもいいという不自由が襲い掛かってくるのでした。
777
気づくと総武線に乗っていた。しばらく電車に揺られ、乗り換え、自衛隊の駐屯地に程近い私鉄の駅で下車。
駅を離れ、住宅街に入ると、懐かしい香りに胸が締めつけられた。体の内部に刻まれていた記憶。が、匂いの発生源は不明。
コウ先生は、昔ながらの日本家屋に住んでいた。門構えがあって、瓦屋根の立派な平屋。離れに道場があり、そこで個人的なレッスンを受けていたのだった。
チャイムを鳴らすと、コウ先生の奥さんらしき人が出た。
「あの、蓮です」
「蓮くんってあの蓮くん?」
「はい。永里蓮です」
「久しぶりね。ちょっと待ってて」
コウ先生の奥さんは、髪が真っ白になっていた。
「彼は今、寝たきりなのよ」コウ先生の奥さんはそう言って、寝室に案内してくれた。
「寛治か?」先生はおれではなく、類の父ちゃんの名前を言った。
「先生」おれは言う。「おれです。蓮です」
「寛治。強くなったな」
「……弱くなりましたよ」
「欠けることによって完成する。そんな武器がある」先生は言った。「マタイによる福音書の10章にはこういう記述がある。『身を殺して
意味がさっぱりわからなかったが、先生はそう言ったきり、眠ってしまった。コウ先生の奥さんに挨拶をして帰ろうとすると、コウ先生の奥さんは言った。
「彼の言った福音書の前段にはこういう文言があるのよ。『わたしが暗がりで話すことを、明るい場所で言え』と」
職歴なし、アルバイト経験なしの35歳を雇ってくれるところなんてあるのだろうか、というのは杞憂に過ぎなかった。求人アプリを使ってみると、驚くほど多くの職場が、人手を欲していた。
前職を偽り、週6で働けます、と言うと、あっさり採用された。もともと、休みなんてない生活をしていたのだ。時給は850円。1日に9時間(うち休憩1時間)。即金ではない生活。現金をさほど必要としない生活。別の生き物になったような気分だった。8時間働く。それを週に6日繰り返す。1ヶ月が経過する。銀行の口座に16万ほどが振り込まれる。それは、性善説と信用をベースにした取引なのだった。1k5万のアパート。食事は自炊。スマートフォン、インターネット。麦焼酎かブレンデッドウイスキー。給料だけで成立する生活。
人に命令されることを恐れていたが、そんなことは問題ですらなかった。給金の発生する仕事を突き詰めると単純作業であり、単純作業という意味ではパチ/スロと変わらない。職種によって単純さの度合いは異なるが、単純には違いない。単純でないことは、仕事にならない。仕事をもらっている時点で嫌もクソもない。業務内容があって、上役がいて、その役割に即して自分をつくりかえる。クリエイティブであろうとなかろうと、それはクリエイティブな作業なのだった。朝8時に起きる。9時に店に入る。1時間の休憩をはさんで18時まで働く。パチ屋暮らしでは気が引けていた公共の図書館で本を借りて帰宅する。youtubeの音楽を流しながら、米を炊き、料理をつくる。食事を済まし、お茶を飲む。風呂に入って、ストレッチをする。酒を飲みながら、借りた本を読む。0時から1時にはベッドに入る。8時に起きる。くりかえすこと6回。休日は9時に起きて掃除と洗濯をする。長い間耳栓の中で沈黙を強いられていた聴覚の要請にこたえ、ブルートゥースのヘッドフォンでJinmenusagiのsoundcloudなどをかけながら。掃除が終わったら、借りた本を返しがてら、散歩に出かける。
777
体から過剰を抜くような日々だった。簡単なことだ。タバコを吸う人がいなければ、服も部屋も臭いがつかない。が、イライラしている人がいないからイライラすることはない、というほど単純な話でもなかった。年下の同僚は、貴重品をあたり構わず平気で置くし、職場や上役の愚痴を屈託なくこぼす。そんなあれこれにフラストレーションを覚える。つまり、おれはどこでもイライラするのだった。それも新しい発見のひとつだった。もちろん顔には出さないが。
「お疲れーす」と言って、店を出る。
初夏の街は何かが始まる気配で満ちていた。梅雨なしで夏本番がはじまりそうな。飲みたい気分だったので、ビアパブに入って、ブルームーンの生をパイントでもらう。プレミアリーグの放送を眺めながら、フィッシュ&チップスを食らう。モルトビネガーをたっぷりかけて、食らう。生ビールを流し込む。
パイント(568ml)を3杯飲んだらお腹がいっぱいになった。一週間の自炊費を上回る額を支払い、外に出る。頭上には楕円形の月が浮かんでいる。着ていたシャツを脱ぎ、腰にかけて歩き出す。大変気分がよい。本心を言えば、20代の頃にこういう生活をしたかった。が、失われた10年を悔いても意味がない。思い出せないものは思い出せない。おれは1k5万のアパートに住み、時給850円のパートタイムジョブを持つ35歳。それ以上でもそれ以下でもない。ありのままの自分にようやく会えた気分だった。
もう1杯飲みたいという誘惑に負けて、おれはBARの扉を開けた。外装に比べてがちゃがちゃした内装の店だった。
「XYZをください」と言った。
その思い出のカクテルはそれほどおいしくはなかった。というか全然美味しくなかった。ただ、これで帰るふんぎりがついた。図書館で借りた文庫本をめくりつつ、カクテルをゆっくりと口に運ぶ。
定型的なジャズが流れていた。
「暗いですよね。ライトをお貸ししましょうか」バーテンダーが言った。
「いや、大丈夫です」
カラン、という鐘が鳴って客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」バーテンダーはおれのふたつ隣に女性客を通した。
「XYZをください」その女性は言った。
左を向いて、時が止まった。その横顔が、あまりに氷野にそっくりだったからだ。
バーテンダーが何かの拍子で裏に引っ込んだとき、氷野に似た女性は言った。
「あの、どこかでお会いしたことありませんか?」
「いや、ないと思います」おれは首を横に振った。
777
……ダメだ。帰ろう。お会計を済まし、外に出た。さっき浮かんでいた月は見えなくなっていた。シャツをはおり、歩き出す。
後ろから声が聞こえ、振り返ると、氷野に似た女性が立っていた。
「あの、もし、よかったら、一緒に飲みませんか?」
「はい?」
「自分でもおかしいことを言ってるのはわかってます。1軒だけつきあってくれませんか?」
「……いいけど、おれ、絵とか買わないし、宗教とかも入らないですよ」
女は日本猿の子どものような顔で笑った。その笑い方も氷野そのものだった。「さっきのお店に入ったときに、後ろ姿を見た瞬間、あ、たけしだって思ったんです」
「たけし?」
「すいません。元カレの名前です」
「……」
今、思えば、このときのおれは、油断していた。身構えていたにもかかわらず、それでも。
777
「XYZというカクテルも、たけしが教えてくれたんですよね」
「女の人って引きずらないとか言わない?」おれは言う。
「人によると思いますよ」
おれたちは和民に入ってチューハイで乾杯した。
「永里連、35歳です」
「白取絵美、27歳です。たけしは31歳でした」
「ああそう」
「たけしはSEでした」
「うん」
たけし? 誰だそれは。段々腹が立ってきた。
「おれ、明日も仕事だから、これ飲んだら帰ります」
「……」
「いや、そんな顔されても知らんし」
「そうですよね。うざいですよね」
「うん」
「たけしは死んじゃったんです」
「……」
「わかってます。あなたはたけしじゃない。でも、後姿が本当に似てて」
「レストインピース」おれは言った。「たけしよ、安らかなれ」
「……何ですか、それ」
「ご愁傷様でした」おれは頭を下げた。
「何で人は死んでしまうのでしょうか」
「じゃあ何で人は生きてるのでしょうか?」
女は首を横に振った。「わかりません」
「生きる道理がわからないのだから、死ぬ道理だってわからないよね」
うんうん、と女は二回うなずいた。「そうですね」
おれたちはその夜、お互いの連絡先を教えあって、別れた。
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次に彼女に会ったのは、翌週の土曜のことだった。
「永里さんのお仕事は何ですか?」
「フルタイムのアルバイター、フルーターです」
「そうなんですか」
「新人だけどね」
自分の中に喜怒哀楽が保存されていたことに驚いた。白取絵美は元カレの幻影をおれに求めていた。そんなものをおれに求められても困る、と言いながら、まんざらでもなかった。口には出さないが、おれも彼女の向こうに氷野を見ていたからだ。都合のいい共犯者。そういう感じだった。
「おれ、時給850円ですよ」
「わたしはもう少しいいですね」
「そりゃそうでしょうね」
「たけしの時給はもっと低かったですよ。ほとんど休みなしで15~16時間働いてましたから」
「それはブラック企業というやつですね」
「でも、たけしは社長みたいなものだったので、しょうがなかったんだと思います」
「でも、それで死んじゃったら意味ないよね」
「……」
「ごめん」
「いえ」
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おれと白取絵美は、週末になると、どこかに飲みにいった。そこでおれたちは、お互い、過去と過ごすのだった。おれはたけしくんになり、彼女は氷野さんになった。が、そのうちに小さな相違点が目に付くようになった。その穴こそが、相手の個性であり、現在の自分の立つ地点だった。おれは時給850円で働くフリーターで、彼女は国家資格を持った看護師だった。
「将来性が必要とかみんな言うけど、どうしてそんなこと気にするのかな」白取絵美は言った。「今より大切なものなんてあるのかな」
「それはある程度、キミが裕福だからじゃないっすか」おれは言う。
「裕福っていうのは年収が数千万の人を言うんじゃない?」
「だからある程度」
「違うよ」白取絵美はムキになって言い返す。「経済規模が下がり続けてるんだから、将来性なんて言葉には意味がない。と思わない?」
「その意味がないって言葉、おれのやつだよね。返してくれる」おれは笑う。
「しまった。また移ってた?」
「うん」
永里さんという呼び名が蓮くんになった頃、家賃8万、風呂トイレ別、1DKの彼女のアパートの、ピンク色のベッドの上でセックスをした。そこでおれたちは、再び過去と対面するのだった。おれはたけしくんで、彼女は氷野さんだった。吹き飛んでしまった20代が帰ってきたような気がした。
そしてまた、相違点がおれたちを現実に連れ戻す。
喜怒哀楽と性欲の復権に、戸惑いを隠せなかった。とたんに自分の身分が恥ずかしいもののように思えてきた。将来性というのは、拡大解釈されたID(アイデンティティ)なのだった。おれの(わたしの)ノビシロはスゴいで。おれは(わたしは)こんなにイケてるんやで、という自慢なのだった。
その自慢の意味がわからない、という理由もわかるが、その自慢を(つい)してしまう理由も理解できる。風の前の紙切れのように揺れている。こんな感覚は本当に久しぶりだった。
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「永里さんって普段何してんすか?」
「普段って、仕事してるじゃん」おれは言った。
「じゃなくて、バイト以外の時間です」
「本読んでるかなあ」
「やっぱそうすよね」
「やっぱ?」
「何か、永里さんって本読んでる感じがしたんすよねえ」
「本読んでる感じって何だよ……」
「何か、武道の達人が一目見て相手の力量がわかるみたいな感じですよね。ああ、この人、文語の中にいる、みたいな。当てていいですか?」
「……」
「当てますよ。村上春樹好きですよね?」
「うーん」
「少なくとも、読んでますよね?」
「まあ」
「ほら」
「いや、それさあ……」おれは笑ってしまった。「プロ野球ファンですって言ってるのに、巨人の話をはじめるやつと一緒じゃん」
「そうですよね。わかりますわかります。じゃあ太宰はどうですか?」
「読んでるよ」
「ほら」
何だ、こいつ、と思う。でも、少し興味がわいた。「……おまえ、名前なんだっけ?」
「マジすか? おれの名前知らないんすか? ここに名札あるじゃないですか」
「山下なに?」
「えええ」まだ男子といった風貌の男は体をのけぞらして言った。「モブキャラすか、おれ、モブキャラすか? ここ入ってもう3ヶ月っすよ。きっつー」
「じゃあ自己紹介しろよ」
「どんだけ上から目線なんすか……わかりました。山下宍道、F大学3年、好きな作家は西尾維新です。よろしくお願いします」
「……何その胡散臭いプロフィール。ヤマシタシンジ? F大学?」
「本名ですし。マザファッキンFランなんで大学名は勘弁してください」
「自分で選んで入ってFランクとか侮蔑する意味がわかんねえんだけど」
「てかあれっすね。永里さん全然喋らない人かと思ったんですけど、けっこうガツガツ来る人なんすね」
「読書人のオーラじゃなかった?」
「いや、おれの目に狂いはないはずです」
「てか、3年だったらバイトなんてしてないで、就職活動しなきゃいけないんじゃねえの?」
「ああ、おれ、就職しないんで大丈夫です」
「何で?」
「親が自営業なんで」
「へえ」
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「いらっしゃいませ」おれたちは言う。
「来ちゃった」と言ったのは、山崎だった。
「はじめまして」男は山崎の後ろから顔を出して言った。それは白人男性には珍しい態度のように思えた。
「デイビッドさん?」
「はい。デイビッドです。はじめまして」
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」そう言って、二人を案内する。
「35歳の新人ウェイターさん、おすすめは何ですか?」
「お客様はファミリーレストランにご来店された経験がないのですか?」おれは言う。「ファミリーレストランは、すべてのメニューにおいて値段もそこそこ、味もそこそこ、という顕著な特徴があります。ご注文がお決まりになりましたら、お手元のボタンを押して、お呼びください」
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仕事終わりで山崎に食事に誘われる。夜勤中の白取絵美にラインを送ると、浮気ですか? という返信があったので、高校の同級生(既婚女性)とご飯を食べるのは浮気ですか? と返したところ、返信がない。
まあいい。おごられる気まんまんで山崎の待つ銀座に向かう。山崎が指定したのは、並木通りに面したリストランテだった。
デザイナーの手が入ったであろう瀟洒な店内に入ると、見渡しのよさそうな席で手を振る山崎の姿があった。
「お待たせしました」おれは言った。
「お疲れ~」
「旦那さんは?」
「仕事残ってるからって帰った」
「仕事って?」
「日本文学の研究、および翻訳。完全にワーカホリックなのよねえ」
「……ワーカホリックっておまえもだろ。毎日毎日飲み歩いて。いい加減にしないと、肝臓壊すぞ」
「ご忠告痛み入ります。で、どうしてアルバイトをはじめる気になったの?」
「長くなるけど」おれは言う。「その前に飲み物頼んでもいい?」
「どうぞ」
「何飲んでんの?」
「ハウスのスプマンテ」
「じゃあ同じものを」
山崎が目線で店員を呼び、注文した。ほどなくして、スプマンテが届く。
『乾杯』
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「で、何でバイトしてるの? 飲食で働きたいなら、もう少し条件のいいところを紹介できるのに」
「けっこうです」
「でも、永里が飲食とかイメージないけど」
「パチ屋でしか過ごしてない人間が何ができるかって考えたときに、まったく知らない世界に行くのは難しいと思った」
「ふむふむ」と山崎はうなずいた。「聞かせて」
「正直、自分でもうまく言えないんだけど、スロッターと親和性が高いのは接客業だと思ったんよ。パチ屋の店員もコーヒーの売り子も、接客業だろ。客は客でも、スロット生活者は接客をする方とされる方、どちらでもない位置で見つめてきたわけだから」
「でも、接客って色々あるでしょ。何でファミレス?」
「スロット終わりで開いてるとこって限られるじゃん。今のところが一番接客よかったんだよね」
「それだけの理由?」
「だから、うまく言えないんだけど、何だろ。たぶん、おれは優位性のあるなしでしか物事を判断できないしょぼい人間なんだよ」
「珍しい」山崎は笑う。「自分を卑下する永里蓮」
「自分の能力の限界を広げようとする、または限界を競うってのが夢を追うって感じじゃない?」
「だけど、それはギャンブルだよね」
「うん」
「スロットはやめちゃうの?」
「やめる」
「どうして?」
「どうして……どうしてだろな」
「バイトをしばらく続けるの?」
「しばらく続けるっていうか、この道で生きていこうとしてる」
「本気?」
「うん」
「どこに優位性があったの?」
「同業者には教えられないな」
「同業者?」びっくりした顔で山崎は言った。
「おまえはどうして店をつくろうと思ったの?」
「目印が欲しかった。この世界に、ひとつでも、明かりになるような場所が」
「おれとは全然違うな」おれはそう言って、スプマンテを飲み干した。
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お代わりをもらう。香りのいいオイルがたっぷりかかったモッツァレラチーズを食み、食道を洗うようにスプマンテを飲んだ。
「どこかにとっかりはあったんでしょ? あんたの言葉で言う期待値とか優位性ってのが」
「スロッターのサガっつうか、おれは自分が生き残ることしか考えられない。人を雇うとか興味ないし。接客つっても、クソな客はいらないし。正直、売りもんも何でもいい」
「逆だと思うよ」山崎は強い口調で言った。「何を売るか、何を売りたいかがあって、初めてコンセプトが決まる」
「違うんだって」おれは首を振る。「おれは集団じゃなくて個人だから、状況に先んじてスキルが必要なんだ。ガワさえあれば、中身なんて何でもいいんだよ」
「そういうことね」山崎はスプマンテを飲んで、一息ついた。「永里がしたいのは、商品だったり、空間だったり、いわゆるお店をつくりたいんじゃなくて、永里蓮を商売道具にしたいんでしょ? スロットと同じで」
「そう。『エターナル・ヴィレッジ計画』まずは、接客に慣れるところからはじめて、外堀を埋めていく。で、10年後くらいに店を持てればいいかな」
「The lotus blooms in eternal village」あきれたように山崎は言った。「蓮、永里。あんたどれだけ自分の名前好きなの?」
一晩経ったが、白取絵美からの連絡がない。ラインの既読マークもつかない。怒ってるのだろうか。どこに怒る理由があったのだろうか。が、連絡が取れない以上、おれが何を考えてもどうにもならない。シャワーを浴びて、歯を磨き、髭を剃って仕事に出かける。
ロッカーでほどほどにダサい制服に着替え、拳銃のホルスターのような黒いハンディカバーを腰に装着し、ハンディの充電を確かめて、ハンディカバーに収める。タイムカードを押して店に出る。
人間がテレパシーを使えない以上、問いかけに対して返信をしない、というのはある種のテロだ。こんなことくらいで仕事が手につかない自分が情けないが、だんだん腹が立ってきた。
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ランチタイムが終わり、休憩に入ってスマートフォンを見るも、連絡はない。食欲はないが、何かを食わねば仕事に支障をきたすので、店のメニューの中からタラコスパゲティを選んでハンディを打つ。店のメニューを安価で食べられる「通称まかない」である。タラコスパゲティを腹の中に収めてしまうと、眠くなった。
休憩所の椅子でうつらうつらとしていると、スマートフォンが震えていた。やっと来たか、と思うと、
「昨日飲みすぎた~」という山崎からのラインだった。
「今起きたの?」
「うん笑」
「いい仕事ですね……」
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午後は、ひたすら装飾の真鍮を磨く、という仕事をした。客がぜんぜん入ってこない。入り口に鬼みたいなやつがいて、この店に入ったら殺すぞ? みたいなキャンペーンをしているのだろうか。少しでも心に隙間ができると、白取絵美から連絡が来ないことを考えてしまうので、ひたすら真鍮にだけ集中した。磨く。磨く。磨く。おれは寺の坊主のように、精神を磨く。
18時になると、山下がやってきた。
「お疲れーす」
「お疲れ」
「何か声暗いっすね」
「……そう?」
「今日はヒマでした?」
「ヒマだった」
「おれ、ヒマなの好きなんすよねえ」
「ずっとヒマだったら店がつぶれるからな。お疲れ」
「お疲れーす」
タイムカードを押し、一縷の望みをかけてスマートフォンを手に取った。……連絡なし。何だ、一縷の望みって? 頼む。ペカッてくれ、と望むジャグラー打ちみたいだな、と思いつつ、嘆息。
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ほどほどにダサい制服を脱ぎ、私服に着替え、外に出る。白取絵美に電話をする。8コール鳴らして切る。
「おーい」ラインを送る。既読マークはつかない。万策尽きた。
そのまま帰る気になれなかったから、図書館に寄って、20時まで読書。お気に入りのラーメンを食し、帰り道にまた電話。4コールで切った。これはまずいぞ、と思う。自分のことならどんな不運が起きても自己責任で済むが、他者がかかわってくると別だ。おれは彼女の行動がわからない。行動理念もわからない。生きているか死んでるかすらわからない。わからないだらけで安定するわけがない。スペックのわからない機種にゼンツッパしてる気分だった。
ふと、死んだはずのたけしが、よみがえって一緒にいるのでは? みたいな疑念が浮かぶ。あるいは、別の男の中にたけしを見て、その男と一緒にいるのでは? みたいな疑念。疑念が平穏をつれてくるはずがない。疑念は疑念しか呼ばない。……さて、困った。
つづく
文中画
Francis Bacon"Figure Study 2"
「人物像習作2」
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