トラウマは、思い出すことのできない記憶であるが故、それを「告白」することもまた出来ない。

「女が読むとき、女が書くとき」
 ショシャーナ・フェルマン
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「不死鳥の灰」
♯25~29

春一番が吹き荒れております(2/17)。
ベランダに置いてあるゴムの木がバブルヘッドのように揺れているので、部屋の中に入れる。早く春にならないかな。花が咲かないかな。ついそう思ってしまうけれど、それにはもう少し時間がかかる。結論を急がず、その瞬間を待ちたい。

書くこと、賭けること 寿

まえがき 

♯1~♯9一気読み 

♯10~♯14一気読み

♯15~♯19一気読み

♯20~♯24一気読み 

 


 類はバーカウンターにつっぷして、眠っていた。あれ、俺、何してたんだっけ。ええと、トウマと山田と孔明と飲んでたんだった。あいつらは? 横を向きたいが、体が動かない。意識だけが先に起きて、体がまだ眠っている感じだ。動くのは目、それから意識。まぶたを閉じたり開けたりしていくなかで、体の他の部分も動かないものか、試してみる。少しずつ、意識が体になじんでいく。体に意識が浸透していく。指先が動くような気がして、やってみると、実際に指先が動く。そのまま前腕、ひじ、肩、と動かして、顔を横に向けた。孔明と山田の姿が見える。彼らもカウンターにつっぷして眠っている。他の客は、当然というか、いない。右を向くと、トウマが寝ている。トウマが寝ている姿を見るのはこれが初めてだった。類は手を伸ばし、トウマの肩を叩く。
「おい、起きろ」
「……」
「起きろ」
「……おはよう」
「なあトウマ、これ、どういうことだと思う?」
「何が?」
「全員寝るなんて、自然にはありえない、だろ」
「……そうだね」
 類は立ち上がり、「おい、山田」そう言って山田の肩を揺らす。「おい、孔明」そう言って孔明の肩を揺らす。しかしふたりに反応はない。
「閉じ込められた、かな」トウマは言った。
 類は入り口の扉に手をかけた。トウマの言うとおり、それはピクリとも動かなかった。

       777

 そのうちに、山田が起きた。
「おれ、寝てた?」
「つうか全員寝てた」
「……」
 孔明がむくりと起き上がって言った。「ノド乾いた」
「BARだから飲み物くらいあるだろ」類は言う。
 孔明はすたすたとバーカウンターの向こう側に入り、足元にあった冷蔵庫を開け、トニックウォーターとコーラとタンサンの瓶を取って、カウンターの上に置いた。
「みんなもよかったら」孔明はそう言って、コーラの瓶を栓抜きで開け、瓶のままゴクゴクと飲んだ。
「おまえ、無断でよくそういうことできるな」あきれたように類は言った。
「飲みなよ、みたいなこと言ったの党首じゃん」
「俺はBARだから飲み物くらいあるだろって言っただけだ」
「どうでもいいことで喧嘩すんなよ。おれももらうわ」山田はそう言って、タンサンの瓶を手に取って、孔明から受け取った栓抜きで抜栓し、ゴクゴクと飲んだ。「あーうめえ」
「なあ、孔明、ちょっと厨房のぞいて、裏口があるか見てくんねえ」
「わかった」孔明は言い、厨房に入って、戻ってきた。「換気扇しかない」
「トイレはどうだろう」類が言うと、「ああ、おれちょうどションベンしたいから見てくるわ」山田が言って、トイレに入って、あくびをしながら戻ってきた。
「窓はあるんだけど、10センチくらいしか開かない。そんでさ、おれのアイフォン、電波がねえんだけど、おまえらのはどう?」
 類と孔明は同時にポケットに手をつっこんで、スマートフォンを取り出した。同時に首を振る。
「何だろうな、これ」山田が言う。
「きもちわりいな」類は苛立たしそうに言った。「なあ、トウマ。おまえ何か知ってんじゃねえの?」
 トウマは首を横に振る。「何が起きているかはわからない。でも、予想はできる」
「予想?」
「4人が揃ったことで、扉が開く」
「扉?」
「うん。さっきは開かなかった扉」
 類は扉の取っ手に手をかけ、引き寄せた。
「何だこのRPG感」類が苦笑すると、「実際、そういう感じなのかもね」トウマはそう言って、破顔した。

 扉がゆっくりと開いていく。


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 まぶたが開いていく。おれはこの扉が開いてほしくはない。閉じたままでいてほしい。できればずっと。だけど、ダメだ。それは開いていく。徐々に、確実に。なぜ? また朝がやってきたのだ。優しい夜はどこかに消えてしまった。
 好きだった女がいた。その女はかつての親友と結婚し、子どもがいる。今でも、たまに夢を見る。朝起きて、自問自答する。これはおれの人生なのだろうか? イエス。これはおれの人生だ。しかし、記憶とは、かつてこの世界にあった事実のことじゃない。それは常に更新され続けている。この瞬間も。
 
 おれの名前。永里蓮。ナガサトレン。ながさとれん。一時は忘れていた名前。氷野。好きだった女の苗字。今は別の苗字になってしまった女。
 扉は開けるものだ。普通はそう思う。だろ? だけど、扉はむしろ、閉じるために存在している。まぶたが目を守るためにあるように。そう、すべての扉は何かを守っている。
 しかしまあ、開いてしまったものはしょうがない。ベッドから起き上がる。水を飲む。トイレに行って、歯を磨く。パチ屋行きの服に着替える。裾の絞れたカーゴパンツ。手洗い可能なニット。ダッフルコートをはおる。コンバースを履く。
 パチ屋に向かって歩き出す。パチ屋の扉? パチ屋の自動ドアは常にウェルカム。ようこそ。大人の遊技場へ。

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 かつては、庶民の娯楽だったのかもしれない。そんな時代は知らないが、そういう時代があったのかもしれない。でも、今は違う。遊技場? ただの死体置き場だ。誰も彼も気づいてる。気づいているのにシカトしてる。
 治る見込みのない患者。店側の人間も、客側の人間も、等しくそうだ。もちろんおれも。おれたちは世間の空気に殺されるのを待っている。法律が息の根を止めにくるのを待っている。
 くわえタバコ男も。台パン男も。残った2枚のクレジットを抜く泥棒も。ただ、マナーが悪いやつはずいぶん減った。ドル箱をおもくそシェイクするやつ、隣で打ってる客の玉を少しずつ盗むやつ、他人のドル箱を勝手に流すやつ(客が流すシステムだった)、くわえタバコの店員、客を恫喝するパンチパーマの店長、今思えば、彼らは絶滅危惧種として、保護しておくべきだった。店員がくわえタバコの店で、他人のくわえタバコに腹は立たない。少しずつ、少しずつ、パチ屋は日の当たる場所になってきたのだろう。そして、完全に日の目を見るとき、命運が尽きるのだ。

 2万5000円使って、天井に到達。この機種の恩恵は、1/2で、平均300枚獲得できるATの80%ループストックが獲得できるというもの。ある程度台数のある現役機種の中では最強の恩恵だ。
 ……198枚で終了。28ゲームまで回してやめ。2万2000円の負け。

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 長い間、パチ屋にいるうちに、感情が表に出てこないようになってしまった。感情を爆発させる遊戯者たちを見ても何も感じなくなっていた。彼らはおれの人生の協力者、提供者なのだ。おれの敵はむしろ静かに行儀よく打つ専業者だった。だけど、そんなことを気にするのはやめようと思う。うるせー。くせー。まったくストレスフルな空間だ。
 そんなことを思いながら、スロットを打つ。楽しい? 楽しいはずがない。自分の首を自分でしめながらオナニーするみたいなもの。腕の数が足りない。

 早めにスロットを切り上げて、ビールを飲みながら、酒を飲んだ。我ながら意味不明である。ビールを飲みながら、日本酒を飲むのだ。その勢いでパンドラというキャバレークラブに向かう。
「みつはです」女は言った。
「どうも。よつはです」おれは言う。
「うっそ。その反応は初めて」驚いたように女は言った。
「そうじゃろそうじゃろ」おれは笑う。おれは酔っている。酔っていることを理解できるくらいに酔っている。一番楽しい時間である。
「何してる人?」みつはと名乗る女は、スロット打ちの苦手な質問を投げてくる。「まだ若いよね」
「若いの基準がわからん」
「二十代でしょ」
「まあね」
 おれ、35歳。が、20代の記憶がほとんどない。だったら20代でいいか、と思う。
「何て呼べばいい?」女は上目遣いで言った。
「永里蓮。よろしく」
「……」
「ん?」
「いや、男の人で名前をフルネームで言う人って珍しくて」
「おれ、自分の名前が好きだから」
「へえ。わたしはあんまり本名好きじゃないなあ」
「何で? っつうか、こういうとこで本名は隠しといたほうがいいんじゃね」
「いや別に全然いいんだけど。困んないし」女は言った。「わたしサトウアリって言うんだけど、何か、砂糖に群がる蟻みたいじゃない?」
「『猫にまたたび』みたいでいいじゃん」おれは言う。
「それ、ことわざ? どういう意味?」
「スイーツ好きにマカロンみたいなこと。もし、砂糖と蟻というコンビネーションが名前の由来だとしたら、佐藤さんの両親は佐藤さんのことが好きだったんだよ。ありなしで言ったらありでしょ」
「フォローしてくれてありがとう」と言って女は笑った。「永里蓮くんは、自分の名前が好きだって言ってたけど、どういう意味があるの?」
「泥の中で蓮は咲く。ドロドロの世界で大きな花を咲かす。そんな感じじゃね」
「花は咲いた?」
 おれは笑顔で首を振る。
「枯れた」

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 パンドラのオーナーに、六本木の芋洗坂にあるバーに連れて行ってもらうことになった。居心地のいいバーカウンターで、店長が直接現地で買い付けてきたというシャンパンを開けてもらう。
「ねえ永里、いつまでこんなこと続けるつもり?」
「こんなこと?」
「非生産的、非活動的、非進歩的、否定的……」
「いつまでも。どこまでも」おれは笑う。
「あのさあ……」
「キャバクラ、おかまバー、スコティッシュパブ、モルトバー、赤坂にも一軒オープンしたんだろ? おめでとう」
「ありがとう……」通信高校時代のひとつ上の同級生は照れくさそうに言った。
「つうかおまえの旦那怒んないの? 毎晩飲み歩いて」
「酒場めぐりは仕事の一環だから。まったく」
「……36歳。5つの店のオーナー。理解ある旦那。完全なる成功者だな」
「だから、何度も言ってるけど、わたしの今があるのは永里のおかげなんだから」
「おれに金渡されて、その金を全部競馬につぎ込んで、勝って大金を得たって話だろ。それ本当におれなのか? つうかそもそも、おれがジャパンカップの結果を知ってたっておかしくね」
「わたしだっておかしいと思ったよ」
「それでも、大金を1点に賭けたんだろ。……頭おかしいだろ」
「永里が賭けろって言ったんだし」
「4倍とかにしかならないんだったら、リスク背負ってまで競馬なんてしないで、その金を持ってどこか逃げればよかったじゃん」
「……そんな考えはなかった」
「その抜けたところが君のいいところよね」
「どこ?」
「ドーナツの穴みたいな」
「それ無だよね。ホールだよね。女性は穴って言いたいの?」
「ちげえよ」おれは苦笑しつつシャンパンのグラスを傾けた。
「ねえ、永里の人生は楽しい?」
「楽しいかどうかはわからんけど、嫌々生きてるわけではない」
「じゃあ、どうしてそんなに荒(すさ)んだ生活してるの?」
「自分の限界に挑戦してる」
「バカじゃないの? 何度も言ってるけど、さっさとお金を受け取るか、仕事のオファーを受けるか、いい加減にしてほしいんだけど」
「くっくっく」おれは笑う。「それ、感謝してる人間の態度じゃなくね」
「そうだけど、……何か、ごめん」
「でもさ、おまえがしてる仕事は、おまえがしたいことだから、頑張れてるわけじゃん。頑張ってるやつは、頑張れることをしてるだけだから、それ実際は、頑張ってないよね」
「……どうして永里はニヒリズムみたいなところに逃げるの?」
「逃げる?」
「外部に対する人間の態度は3種類しかなくて、受け入れるか、拒絶するか、距離をとるか。スコットランドにいる頃によく議論をしたんだけど、神はいるか、いないか、いないのだとしたら何を柱にするか、みたいな。永里は何だろう、ただ拒絶してるだけに見える。どんな思想があってもいいけど、現実生活を肯定できないのは悲しくない?」
「うん。それは間違いない。おれはノーって言いたい。こんな世界はクソだし、人間はクソだし、もちろん自分もクソだし、うん」
「何で、明るい顔でそんなこと言うの」
「悲観的じゃないってこと。おれは悲劇のヒーローじゃないし、ヒステリックなグラマーでもない。ただ、前向きに、肯定的に、この世界を否定してるだけ」
「前向きで肯定的な否定って何?」
「パチ屋の中はみんな苛立ってる。穏やかな顔でパチンコのハンドルを握ってるおばあちゃんも、『プッシュボタンを押せい』的な演出で、おもくそプッシュボタンをぶっ叩いてる。トリクルダウンでしたたり落ちてくる負の感情を吸って生活してきたからね」
「……ゆがんでるね」
「真っ直ぐな価値観だけが正義じゃねえよ? 背骨は曲がってるからこそ、ショックに耐えられる」
「そうやって、ああ言えば、こう言う」山崎こと、小島りこは口を尖らせた。デイビッド・ソーントンというカナダ人と結婚したため、ソーントン・小島りこというのが、彼女の現在の名前だ。長い。
「何か、誰だっけな」彼女は言う。「サラブレッドの話で、ドワンゴの川上会長が言ってたのかな。頭のいい馬は、自分の能力の限界を使うことに抵抗があるから、自分で走るスピードをセーブしちゃうんだって。でも、演算能力に長けた馬は、結局、能力ゆえに、レースでは使い物にならずに馬刺しになっちゃうっていう話を何かで読んで、永里の顔がよぎった」
「おれが刺身になるって?」
「そういうことじゃなくて、何だろう。もったいないというか」
「なあ、山崎」
「いつまで山崎っていうの?」
「おれのことを気にかけてくれて、ありがとう」
「何言ってんの? キモいんですけど」
「……忘れてた」おれはポケットからスマートフォンを出して立ち上がる。「ちょっと電話してくるわ」
「うん」
 わりい。おれは心の中でつぶやいて、そのまま六本木の雑踏に消えた。

 山崎(小島りこ)は、シロ。

       777

 旧知の人間と酒を酌み交わすのはいいもんだな、としみじみ思う。時間は、人によって感じ方が違う。おれにはおれの時間の流れがあり、山崎には山崎の時間の流れがある。それでも、おれたちは、かつて、同じ時間を共有したのだ。こんな感傷めいたことを思うのは、おれが歳を取ったからかもしれない。あるいは、差し迫っている現実から逃避したい心の動きかもしれない。考えてみれば、つるんでスロットを打ったことがあるのは、ハネくんと、山崎と、類だけなのだ。その類を殺さなければいけない、か。気乗りしねえな。

image (1)


 1k5万のアパートに戻ると、フローリングの床に置かれたノートパソコンからは、無許可でアップされた音源が流れていた。
Lick-G 「We Stay High」
「どうだった?」小さい声でその人は言う。
「山崎はシロでした」
「この世界にシロなんて存在はない」
 以前の彼からは考えられないほど、弱弱しい声で桜井さんは言った。

 桜井さんはマリファナを吸っていた。これがなければ生活がままならないほどに肉体の衰弱が進んでいる。
「嘘つきは、3種類いる」桜井さんは言う。「イチ=自覚のない悪意。ニ=詐欺師。サン=自らを過大評価してる人間。歴史修正主義者。被害者面。自分はヒキが弱いです、とか言うやつら」
「桜井さん。病院、行きませんか?」
 桜井さんは首を振る。
「女が消えた。それが始まりだった。オレは組織に入って出世をした。が、サヨはすでにこの世界にはいなかった……」

       777

 申し訳ないとは思ったが、桜井さんの声が耳に入らなかった。疲れからか、その場に崩れ落ちるように眠ってしまった。起きると桜井時生の姿はなかった。冷蔵庫から水を出して飲む。トイレに入って、シャワーを浴びる。まだ酒が残ってるな、これ……。ユニットバスを出て、髪を乾かしていると、ドアが開き、桜井さんが帰ってきた。
「おはよう」桜井さんは言った。その声には生気があった。「オレ、何日か出かけるからよろしく」
「大丈夫なんすか?」
「うん。これ朝飯」そう言って桜井さんは松屋の袋をくれた。
「あざっす」
「なあ、レン、くれぐれも、普段どおりの生活を送ってくれよ。生活範囲外に出たり、いつもしないような行動は謹んでくれ。頼むわ」
「わかりました」
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 何だかよくわかんねえやり取りだな、と思いながら松屋の袋をのぞくと、ネギたっぷりネギ塩豚カルビ丼が入っていた。お湯を沸かしてインスタントの緑茶をいれて、ネギたっぷりネギ塩豚カルビ丼を平らげた。満腹。

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「おまえの人生を狂わした張本人は誰だと思う?」
 何日か前に現れた桜井さんは唐突にそう言った。ちぇ。心の中で舌打ちをした。また始まったのか……。死んだ、と聞かされていた桜井さんが現れるということは、つまり、そういうことだった。
 おれは正直、うんざりしていた。内省的な日々も、暴力も。何も考えず、ただ静かに暮らしたかった。
 十代のおれは意味もなく街に出た。誰かが見つけてくれるんじゃないか? そう願った。でも、そんな神様みたいな人間はどこにもいなかった。今はもう、誰にも見つかりたくない。ただ静かに暮らしたい。
「嘘つき」
 嘘じゃない。おれは自分をある程度評価してる。ヒキが強いとは思わないし、弱いとも思わない。親父は死んだ。義父も死んだ。母親は生きてるんだか死んでるんだかわからない。こんなことを言ったら不謹慎だろうけど、大人のそばにいなかったおかげで、誰にも命令されることなく、この年齢まで生きて来られた。
 誰かに命令されたり、空気を読んだり、読ませられたり、ご機嫌をうかがったり、うかがわれたり、公共交通機関に寿司詰めになったり、パチ屋以外のイベントに参加しなければいけなかったり、をしないで生きて来られた。人を傷つけてしまったこともあるけれど、反省はしていない。できることはした。義務、責任を放棄している、と言われるかもしれない。でも、嫌なものは嫌だ。ごめんな。おれは誰かに向かってそう言った後、外に出た。

 どこへ? パチ屋へ。

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 何日か、平穏な時間が流れた。パチ屋に行き、スロットのレバーを叩き、ストップボタンを押し、貯メダルという成果を手にパチ屋を後にする。ご飯はなるべく体によさそうなものを食べる。酒は飲まなかった。代わりに長い散歩をした。それから、器具を使わずにできる筋トレとストレッチ。自分の体の硬さ、パフォーマンスの低さにうんざりしたが、これが現実なのだ。認める以外にない。酒浸りだった脳は、酒をくれという声をあげていたが、肉体の疲れが、眠気を連れてきてくれた。
 禁酒をはじめて4日目の夜だった。家に帰ると、女が倒れていた。誰だ? と思う前に、自分の部屋かどうかを訝った。が、どう見てもおれの部屋だった。近寄ってみると、見覚えがある。誰だ?
 ……山崎のキャバクラにいた子じゃねえ?

「サトウアリさん?」
 肩を叩いてみる。起きない。というか、呼吸をしていない。人工呼吸と心臓マッサージを試みたが、時、すでに遅しだった。……警察に電話しようとスマートフォンを取り出したところで、玄関のドアが開いた。

 ……は?

 そこに立っていたのは、人形だった。バジリスクの朧の人形だった。
「今から、牙大王がここにやってくる。その前に、この人形を君のポケットに入れてくれないか」
「……誰?」
「力がうまく制御できない。申し訳ないが、人間の外観を保てない。だから、この人形を依り代にするしかなかった」
「ふざけてんの?」
「ふざけてるかどうか、声でわからないか?」
「いや、ビジュアルイメージがすごすぎて、声が頭に入ってこないっつうか。つうか、りんぼさん?」
「……とにかく、君のポケットに入れてくれ。その後、君らは彼女の遺体を運ばなければいけない」
「どこに?」
「それがあっても、不自然じゃない場所に」
「後でちゃんと説明してくださいよ」と言いながら、おれはその朧フィギュアをポケットに入れた。
 その直後、玄関のドアが開いて、牙大王が入ってきた。
「お久しぶりです。申し訳ありませんが、状況を説明してる時間はありません」
「……」
「靴のまま失礼します」牙は部屋に靴のまま部屋に入ると、女の子を肩に担いで言った。「リーダー。ついてきてください」

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 白いプリウスの後部座席にいたのは、類の父ちゃんだった。
「部屋をきれいにしてくるんで、鍵を貸してもらえますか」牙はバックドアを開けて車の中に女の子を収め、柔らかそうな毛布でくるんだ後、おれから鍵を受け取り、小走りでおれの部屋に戻った。
「久しぶりだね」黄泉は言う。
「あの、何がどうなってるんですか」
「話をする前に、君のポケットに入ってるものを出しなさい」
「……」
 渋々、ポケットの中の朧フィギュアを手渡すと、黄泉はそれを真っ二つに折って、窓から放り投げた。程なくして牙が戻ってきて、車が動き出す。
「あの子は何をしたんですか?」おれは聞いた。
「何もしていない」それ以上は何も答えないぞ、という顔で黄泉は言う。
 車は静かに環状線を進んでいる。……質問したいことは山ほどあるが、質問は許されないこの感じ。おれの人生はこんなんばっかだな。
「黄泉さん」おれは言った。「おれは類を殺さなければいけない」
「君にはいつも迷惑をかける」
「迷惑をかける」おれは黄泉の言葉をくりかえす。「それは、同意ということでいいですか?」
「類はおれの本当の子じゃない」
「……はい?」
「だが、みすみす殺させるわけにはいかない」
「そうなったら、敵同士ってことですかね」
「敵ではない」
「そうか、敵ではないんですね。って、これ何の話してんすかね」
「すまんが、言葉は苦手だ」黄泉は言う。
「田所類は、あなたの息子ではない」
 黄泉はうなずく。
「おれには迷惑がかかる。だけど、類を殺させるわけにはいかない」
 黄泉はうなずく。
「しかし、おれの敵ではない」
 黄泉はうなずく。
「いや、やっぱ意味わかんねえ」おれは苦笑する。「まあいいや。未来の話は置いといて、イマの話をしましょう」
 黄泉はうなずく。
「この車はどこに向かってるんですか?」
「あの子の住んでいたアパートだ」
「あの子は誰なんですか?」
「誰でもない」
「誰でもない?」
「誰でもない。つまり、誰であってもいい。そういう意味だ」
「そういう意味? いや、意味がわかりません。あの子には父親がいて、母親がいて、それで、サトウアリという名前がある」
 黄泉は首を横に振った。
「それはただ、表層でしかない。さっき捨てた人形のようなものだ」
「……意味がわかんないです」
「牙、今の話は聞いていたか?」黄泉は言う。
「はい」
「おまえの口から伝えてやってくれ」
「はい」牙大王は言った。「今、リーダーが抱えているのは、桜井時生さんのオファーですよね」
 牙はおれのことを、いまだにリーダーと呼ぶ。律儀な犬みたいなやつだ。
「オファーっつうか……まあ、そうか」
「彼が組織に入った理由は、失踪した女性を探すためでした」
「うん」
「しかし実際は、そんな女性は存在しなかった」
「は?」
「トラウマという言葉はご存知ですか」
「牙、おまえ、そんな丁寧な喋り方だっけ」
「すいません」恥ずかしそうに牙は笑う。坊主頭、首のタトゥ。見た目とは裏腹に、好感度の高い男である。「トラウマについて、少し喋ってもいいですか?」
「どうぞ」
「開業医だったジークムント・フロイトは、ヒステリー患者と面談を重ね、抑圧された記憶こそが、病因であることに気づきました。抑圧された記憶、それは彼女たちが幼児期に受けた性的な虐待でした。その記憶を回想させ、言語化し、つまり、表に出すことによって、彼女たちの症状が改善の方向に進むことがわかっていったんです。フロイトは、『幼児期の性的攻撃がヒステリーの原因である』という学説を発表しました。しかし、一方でフロイトは、彼女たちの告白が事実でないことに気づいてしまった」
「嘘の記憶を悪者にすることで、楽になろうとする心理作用?」おれは言った。
「そんな単純な話じゃありません」申し訳なさそうな声で牙は言う。「なぜ、彼女たちは嘘をついていたのか? なぜ、嘘を思い出すことが可能だったのか? なぜ、その偽りの記憶の言語化が、彼女たちの症状に改善をもたらしたのか? このときフロイトは、彼女たちの中にあった、思い出すことも触れることもできない、偽りの記憶を通じて語る以外に外に出すことのできない傷があることを知りました。そして、『外傷(Trauma)』と名づけました」
「……」
「その傷を持つ人間は逃れられない。時空移転装置みたいなものです。何をしていても、過去のある地点に戻ってしまう仕掛けなんです」
「……」
「リーダーは身に覚え、ありませんか?」
「……」

つづく
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文中画

「ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作」
フランシス・ベーコン 1953年

  
 
原稿用紙換算枚数33枚