神を見たものは死ぬ。言葉の中で言葉に生命を与えたものは死ぬ。言葉とはこの死の生命なのだ。それは「死がもたらし、死のうちで保たれる生命」なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そしていまはもうない。何かが消え去った。

モーリス・ブランショ 「La part du feu」

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「不死鳥の灰」
♯29 the body

まえがき 
    

スロ小説とは何か? 

スロ小説の年表 


「サトウアリさん?」
 肩を叩いてみる。起きない。というか、呼吸をしていない。人工呼吸と心臓マッサージを試みたが、時、すでに遅しだった。……警察に電話しようとスマートフォンを取り出したところで、玄関のドアが開いた。

 ……は?

 そこに立っていたのは、人形だった。バジリスクの朧の人形だった。
「今から、牙大王がここにやってくる。その前に、この人形を君のポケットに入れてくれないか」
「……誰?」
「力がうまく制御できない。申し訳ないが、人間の外観を保てない。だから、この人形を依り代にするしかなかった」
「ふざけてんの?」
「ふざけてるかどうか、声でわからないか?」
「いや、ビジュアルイメージがすごすぎて、声が頭に入ってこないっつうか。つうか、りんぼさん?」
「……とにかく、君のポケットに入れてくれ。その後、君らは彼女の遺体を運ばなければいけない」
「どこに?」
「それがあっても、不自然じゃない場所に」
「後でちゃんと説明してくださいよ」と言いながら、おれはその朧フィギュアをポケットに入れた。
 その直後、玄関のドアが開いて、牙大王が入ってきた。
「お久しぶりです。申し訳ありませんが、状況を説明してる時間はありません」
「……」
「靴のまま失礼します」牙は部屋に靴のまま部屋に入ると、女の子を肩に担いで言った。「リーダー。ついてきてください」

       777

 白いプリウスの後部座席にいたのは、類の父ちゃんだった。
「部屋をきれいにしてくるんで、鍵を貸してもらえますか」牙はバックドアを開けて車の中に女の子を収め、柔らかそうな毛布でくるんだ後、おれから鍵を受け取り、小走りでおれの部屋に戻った。
「久しぶりだね」黄泉は言う。
「あの、何がどうなってるんですか」
「話をする前に、君のポケットに入ってるものを出しなさい」
「……」
 渋々、ポケットの中の朧フィギュアを手渡すと、黄泉はそれを真っ二つに折って、窓から放り投げた。程なくして牙が戻ってきて、車が動き出す。
「あの子は何をしたんですか?」おれは聞いた。
「何もしていない」それ以上は何も答えないぞ、という顔で黄泉は言う。
 車は静かに環状線を進んでいる。……質問したいことは山ほどあるが、質問は許されないこの感じ。おれの人生はこんなんばっかだな。
「黄泉さん」おれは言った。「おれは類を殺さなければいけない」
「君にはいつも迷惑をかける」
「迷惑をかける」おれは黄泉の言葉をくりかえす。「それは、同意ということでいいですか?」
「類はおれの本当の子じゃない」
「……はい?」
「だが、みすみす殺させるわけにはいかない」
「そうなったら、敵同士ってことですかね」
「敵ではない」
「そうか、敵ではないんですね。って、これ何の話してんすかね」
「すまんが、言葉は苦手だ」黄泉は言う。
「田所類は、あなたの息子ではない」
 黄泉はうなずく。
「おれには迷惑がかかる。だけど、類を殺させるわけにはいかない」
 黄泉はうなずく。
「しかし、おれの敵ではない」
 黄泉はうなずく。
「いや、やっぱ意味わかんねえ」おれは苦笑する。「まあいいや。未来の話は置いといて、イマの話をしましょう」
 黄泉はうなずく。
「この車はどこに向かってるんですか?」
「あの子の住んでいたアパートだ」
「あの子は誰なんですか?」
「誰でもない」
「誰でもない?」
「誰でもない。つまり、誰であってもいい。そういう意味だ」
「そういう意味? いや、意味がわかりません。あの子には父親がいて、母親がいて、それで、サトウアリという名前がある」
 黄泉は首を横に振った。
「それはただ、表層でしかない。さっき捨てた人形のようなものだ」
「……意味がわかんないです」
「牙、今の話は聞いていたか?」黄泉は言う。
「はい」
「おまえの口から伝えてやってくれ」
「はい」牙大王は言った。「今、リーダーが抱えているのは、桜井時生さんのオファーですよね」
 牙はおれのことを、いまだにリーダーと呼ぶ。律儀な犬みたいなやつだ。
「オファーっつうか……まあ、そうか」
「彼が組織に入った理由は、失踪した女性を探すためでした」
「うん」
「しかし実際は、そんな女性は存在しなかった」
「は?」
「トラウマという言葉はご存知ですか」
「牙、おまえ、そんな丁寧な喋り方だっけ」
「すいません」恥ずかしそうに牙は笑う。坊主頭、首のタトゥ。見た目とは裏腹に、好感度の高い男である。「トラウマについて、少し喋ってもいいですか?」
「どうぞ」
「開業医だったジークムント・フロイトは、ヒステリー患者と面談を重ね、抑圧された記憶こそが、病因であることに気づきました。抑圧された記憶、それは彼女たちが幼児期に受けた性的な虐待でした。その記憶を回想させ、言語化し、つまり、表に出すことによって、彼女たちの症状が改善の方向に進むことがわかっていったんです。フロイトは、『幼児期の性的攻撃がヒステリーの原因である』という学説を発表しました。しかし、一方でフロイトは、彼女たちの告白が事実でないことに気づいてしまった」
「嘘の記憶を悪者にすることで、楽になろうとする心理作用?」おれは言った。
「そんな単純な話じゃありません」申し訳なさそうな声で牙は言う。「なぜ、彼女たちは嘘をついていたのか? なぜ、嘘を思い出すことが可能だったのか? なぜ、その偽りの記憶の言語化が、彼女たちの症状に改善をもたらしたのか? このときフロイトは、彼女たちの中にあった、思い出すことも触れることもできない、偽りの記憶を通じて語る以外に外に出すことのできない傷があることを知りました。そして、『外傷(Trauma)』と名づけました」
「……」
「その傷を持つ人間は逃れられない。時空移転装置みたいなものです。何をしていても、過去のある地点に戻ってしまう仕掛けなんです」
「……」
「リーダーは身に覚え、ありませんか?」
「……」

つづく
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参考文献 ためらいの倫理学 内田樹


タイトルバック
「ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作」
フランシス・ベーコン 1953年