ラビたちに言わせると、聖書のなかには一つの矛盾があります。ある聖句は「裁きを下す者は個人の顔を見てはならない」とあります。つまり、裁き人は自分の前にいる者を見てはならず、その者の個別的な事情を斟酌してはならない、というのです。

エマニュエル・レヴィナス 内田樹訳
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「不死鳥の灰」
♯20~24

一週間お疲れさまです。
寒いですね。ここを乗り切ったら春ですね。


書くこと、賭けること 寿

まえがき 

♯1~♯9まとめ 

♯10~♯14まとめ

♯15~♯19まとめ



 いつの間にか、類は長椅子に腰をかけたまま、眠っていた。
「すまんすまん。待たせちゃったな」山田克己は類の肩を叩きながら言った。「で、どうした?」
 受付の窓口の上にある時計を見ると、ここに来てから1時間半が経過していた。
「……あれ、トウマは?」
「トウマ?」
「うん。田所当真」
「いるわけねえだろ。寝ぼけてんのか?」
「何だよ。いるじゃん」類は言う。「おい、トウマ。山田来たぞ」
「……田所。おまえ、大丈夫か?」
「何が?」
「誰がどこにいるって?」
「トウマがそこにいるだろ」
「おまえ、薬か何かやってんのか?」訝(いぶか)しげな表情で山田は言う。
「山田くん」トウマは言った。「久しぶりだね」
「……」山田克己は、田所当真の姿を認めた瞬間、言葉を失った。
「僕だよ。僕」
「……は?」
「くっくっく」類は笑った。
「……何これ、どっきり?」
「ちげーよ」

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 3人は、敷地内にあるカフェに入り、山田はカプチーノと、パストラミがたっぷり詰まったパニーニを、類はバナナケーキとエスプレッソをダブルで、トウマはオレンジジュースを注文した。代金は山田克己が支払った。
「おれらが会話したのって、夢じゃなかったってことか?」
「うん。山田くんの部屋の中だよ」トウマは答える。
「……どうやって入った?」
「鍵開いてた」
「おまえだって無用心じゃねえか」類は笑う。
「ねえ、1年3組で、今も今間に住んでるのって山田くんと田所くんと土田くんだけだって知ってた?」
「へえ」興味なさげに山田は言った。「他のやつがどこに住んでようが、おれはどうでもいい」
「同意見」類はうなずく。
「で、おまえらは昔話をしにきたのか?」
「そうだね。そんな時間はない」トウマは言った。「党首。どうぞ」
「山田。頼みがあるんだが」
「何だよ」
「おまえの人生の一部を俺らに貸してくれないか」
「はあ?」
「俺らの仲間になってほしい」
「意味がわからない」山田は言った。「具体的に言えよ」
「仕事辞めてくれ」
「……何で?」
「何でも」
「仕事を辞めろと言われて、仕事を辞めるやつなんかいるか?」山田克己はパニーニを憎憎しげにかじりながら言った。
「医師免許は取ったんだろ?」
「あのな……。すべての医師は2年間の臨床研修が義務付けられてるんだよ。何科であれ」
「大変だな」
「その大変な時期にやってきて、仕事を辞めろだ?」
「……だよな。いや、わかってんだよ。無理なことを言ってるってのは」言いよどみながら類はそう言うと、ダブルのエスプレッソを飲み干した。「ちょっと俺、トイレ行ってくるわ」
「ああ」
「山田くん」黙ってオレンジジュースをすすっていたトウマが口を開いた。「田所くんのお父さんとお母さんが、殺された」
「……」
「このままだと、田所くんも殺されてしまう可能性が高い」
「何かそんなこと、夢で言ってたよな」
「だから夢じゃないんだってば」トウマはズルズルとオレンジジュースを飲み干した。
「なあ、おれにはさっぱりわからないんだが、誰が、おまえらを、いったい何のために、殺さなきゃいけないんだ?」
「理由があるかもしれない。ないかもしれない。でも、理由なんてどうでもいいんだよ。山田くん。問題は、今ここで、現実に起きていることなんだ」
「今、ここで現実に起きてることって?」
「死んだはずの僕が、今、君と喋っている事実だよ」
「……たしかに、おれの頭がおかしくなったのか、あるいは集団催眠状態に陥ってるのか、夢の中なのか。そんな感じだわ」
「でも、君の理性は働いている。僕がここでこうして喋っていることを、君の脳は知覚してる。だろ?」
「まあな」

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「田所当真、おれはおまえに借りがある。田所類は、今となっては地元にいる唯一の友だちだ。おれにできることなら何だって手伝いたい。だけど、どうして仕事を辞めなくちゃいけないんだ?」
「君が仕事を辞めなければいけない理由。それは、僕たちと一緒にいると、君の周りにも不幸なことが訪れるからだよ」トウマは言った。「この病院に来る患者さん、同僚、つきあいのある製薬会社、医療機器メーカー、大学関係者に至るまで」
「脅しか?」
 田所当真は首を横に振る。「違う。客観的事実を提示してるだけだよ」
「類の両親を殺したのはおまえなのか?」
「僕じゃない。でも、そういうことが起きてしまう可能性は高い」
「おまえらと一緒にいたら起きないのか?」
「少なくとも、今のまま生活するよりは」
「まいったな」山田は肩を落とした。「……おれ、すげえ勉強したんだぜ」
「知ってるよ」
「おまえに何がわかるんだ?」
「山田くんが努力家だってことは、よく知ってる」
「……」
「僕と君と、僕の妹の3人で、よく遊んだね。覚えてる?」
「忘れるはずないだろ」
「妹は君のことが大好きだったからね」
「……」
「妹が死んだのは君のせいじゃない。あのとき、君にひどい言葉を浴びせてしまってことを後悔してる」
「……」
「山田くん」穏やかな口調でトウマは言った。「君が罪悪感に苛まれる必要はない。僕の姿を見た人間は、いや違うな。僕の姿が見える人間は、死ぬ運命にある。たぶん、僕は死神みたいなものなんだよ」

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「……もし、おまえが言ってることが事実だとしたら、もうどうにもならなくね? ジタバタしてもしょうがなくね? 死ぬんならさ」山田克己は言う。「死神の目的を言えよ」
「目的なんてない」
「それ、楽しいの?」
「楽しいはずないだろ」トウマは言う。「だいたい死神なんてものがいるかどうか、僕にはわからない。現象から類推(るいすい)してるだけだよ」
「田所は……。ふたりとも田所だとわかりにくいな」山田は笑う。「田所類は、おまえの中でどういう存在なんだ?」
「パンドラの箱、かな」
「災厄の塊か、希望か」
「……僕だって、好きで僕をしてるわけじゃないんだよ。僕は、これ以上人に迷惑をかける前に消え去りたい。今のこの感じが嫌なんだよ。だから、僕は僕を僕たらしめている、本体を消し去りたい。今度は、君たちに笑ってお別れを言いたい」
「……」

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「何かめっちゃ混んでたわ」と言って類が戻ってきた。
「なあ、田所……類」山田は言った。
「ん?」
「田所当真のせいで、ご両親が亡くなったという風には考えないのか?」
「何で?」
「何でって……」
「親父もかーちゃんも、覚悟してた。いつそのときが来てもいいように。覚悟ができてないのは俺だけだった」
「覚悟って死ぬってことだろ? そんな覚悟、おれはとてもできない……」
「なあ、トウマ。ぶっちゃけよくわかんねえんだけど、俺とおまえと山田と孔明が集まったら、何が起きるの? マイナスが4つでプラスになるとか言ってたけど」
「4つのマイナスを足してもマイナスのまんまだろ」山田は当たり前のことを言う。
「だから、掛けないとね」トウマが言った。「党首。山田くんが、パーティに加わってくれるって」
「マジ?」
 山田克己はカプチーノを飲み干すと、深い息を吐き出した。
「もしおれが生活できなくなったら、おまえに依存するから、そのつもりでよろしく。党首」
「……トウマ、おまえ、何で釣った?」
「内緒」と言ってトウマは笑った。
「これからの話をしよう」山田は言う。「おれはこれから身辺整理を済ますから、夜8時くらいから合流するってことでいいか?」
「わかった」類は言った。「じゃあ、20時に在原の駅前にあるタローズってBARで集合で」
「了解」

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「超意外なんですけど」類は言う。
「ねえ党首。君はずいぶん悠長に構えてるけど、事態は差し迫ってるんだよ」
 大学病院の敷地内を出ながら、トウマは言う。「土田孔明。僕の予想だと、山田くんよりもむしろ、彼のほうが手強いよ」

 ポケットの中のスマートフォンが振動していた。クロスだった。
「もしもし」類は言う。
「班長。今どこですか?」
「おまえは?」
「事務所です」
「大丈夫なの?」
「はい」
「わかった。今から行くわ」
「面会希望者はどうしますか?」
「今日はやめとこう」

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「党首」トウマは言った。「彼はもう、向こう側についたと見るべきだね」
 類は首を横に振る。「クロスに限ってそんなはずない」
「どうして断言できるの?」
「俺とあいつの絆だから」
「絆って?」
「目に見えないつながり」
「ふうん」否定表現としての相槌(あいづち)をトウマは打った。
「何か文句あんのか?」
「そうやって、信じたいものにすがることで、君と僕、それから山田くんの身に危険が及ぶ可能性については、考慮しないの?」
「……」
「立っているものは親でも使え。動くものは蟻でも疑え」
「何それ?」
「僕が今考えたリーダーの心得」
「おまえとか山田も信用しちゃダメってこと?」
「もちろん。目的のために、僕とか山田くんが障壁(しょうへき)になったら、すぐに切り捨てないと」
「なあ、俺は切り捨てられた人間、切り捨てられようとしている人間のために事務所を構えたんだよ」
「党首。人を切り捨てられない甘さが、人をスポイルするってこともあるんだよ」
「スポイル。ダメにする。……難しいもんだな」
「人間の心には果てがない。あれもほしい。これもほしい。もっともっともっともっと……キリがない。それでも、君は選ばなければいけない」
「何を?」
「燃え尽きて灰になるか。泡と消えるか。どちらかを」
「泡は消え、灰は再生するってか?」類はため息交じりに言った。
「その通り」トウマは笑う。

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 事務所の受付代わりのデスクの前に座るクロスは、憔悴(しょうすい)した顔をしていた。
「どうした?」類は言う。「顔色わりいぞ」
「いえ、大丈夫です」クロスは答える。「そちらの方(かた)は?」
「どうも。田所当真と言います。はじめまして」
「はじめまして。……班長、兄弟がいたんですね」
「うん」類はあいまいにうなずいた。「なあ、クロス。おまえ、疲れてるだろ。ここんとこゴタゴタしてたから」
「大丈夫ですよ」
「業務はしばらく休むことにしたから、おまえも休め」
「でも、電話がひっきりなしにかかってきますよ」
「申し訳ないけど、断ってくれ」
「……わかりました」
「あ、そうだ。土田孔明ってやついただろ?」
「はい。班長の同級生の」
「あいつって普段どこで何してるって言ってた?」
「たいていは駅前のパチンコ屋にいるっておっしゃってました」
「そうか。ありがとう」
「……班長。おれ、休むって、何すればいいですか?」
「体と心を休めてくれ。またおまえが必要なときは呼ぶから。あ、これ」そう言って類は、銀行でおろしてきたお金をクロスに手渡した。
「こんなにもらえないですよ」クロスは恐縮して言った。
「いや、今までおまえには負担ばかりかけてきた。ボーナスってことで取っておいてくれ。いらなきゃどこかに寄付してくれ」
「……班長。田所班を解体するとか、ないですよね」
「どうだろうな」
「やめてください。おれの生きがいなんです」
「クロス。会長が殺された。俺の両親も殺された。おまえもそうなるかもしれない。今ならまだ間に合う。俺のわがままに付き合ってくれてありがとう」
「そんな……」クロスは泣き出しそうな顔で言った。

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「何だか見ててかわいそうになっちゃったよ」事務所を出たところでトウマは言った。
「おまえが言ったんだろ」
「人のせいにしない。リーダーは、誰にも頼ることができない。だからリーダーなんだ。リーダーの役割は、責任を取ること。何が起きても、たとえばプロジェクトの最中に隕石が落ちてきたとしても、それはリーダーの責任なんだよ」
「まあ、そうか」類は言う。「てか、腹減って死にそうだから、ちょっと飯食ってくるわ。そこの本屋で立ち読みでもしといて」
「わかった」
 立ち食いそば屋に入って電光石火でコロッケそばとかつ丼のセットをたいらげると、類はつまようじをくわえたままで、本屋に向かった。
「早いね。お腹壊すよ」トウマは『どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法』という本から目を離して言った。
「自己責任だろ」類は笑う。

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 類はつまようじをくわえたままで、トウマは伸びをしながら、サンライズというパチ屋(名前がコロコロ変わる)に入っていく。
「うるさいなんてものじゃないね」驚いたようにトウマは言った。
「まあな。そのうち慣れる」
「慣れたくないよ」
「お、いたいた」類は言う。「はは。アステカなんか打ってるし。てかさ、いきなりおまえの姿見たら腰抜かすだろうから、おまえは後ろから様子見て、適当なところで入ってきて」
「わかった」

「よ」田所類は笑顔で言った。「おまえに話があるんだわ」
「ビジネスの話はしたくないんじゃなかった?」そっけない態度で孔明は言った。
 類はポケットから千円札を出すと、コインサンドに投入し、孔明の隣でアステカ(太陽の紋章)を打ち始めた。
 レバーをオン。トン、トン、トン。懐かしい感触だった。
「……この機種は何が楽しいの?」
「楽しくて打ってるわけじゃない」孔明は答えた。「天井ってのがついてて、そこだけ打てば勝てるから打ってるだけ」
「ふうん」
「ちなみに、田所くんの打ってるその台は期待値マイナスだから」
「そうなんだ。じゃあさ、その台の期待値を俺が出すから、ここでやめて店出ようぜ。そのゲーム数だったら5000円くらいだろ」
「嫌だよ」孔明は首を横に振った。「投資分もあるし」
「じゃあ、終わるの待ってるよ」そう言って、類は残っていたコインを全部孔明の打つ台の下皿に入れて立ち上がる。
「……」
 カウンターまで歩いて時が止まった。
「……ユキちゃん?」

 懐かしい女性を前にして、類は動揺を隠せなかった。
「……戻ってたんだ」
「ここで働いてれば、類さんに会えるかな、って思って」
「はい?」
「冗談ですよ」と言って白取ユキは人懐っこい笑顔を見せた。「人が足りないらしくて、ヘルプです」
「そうなんだ」
「類さん、元気そうですね」
「まあ。ユキちゃんは?」
「ぼちぼちです」
「そっか。……あ、俺、行かないといけないから、また」
 類は孔明の後ろ姿を追った。
「どうだった?」息を切らして類は言う。
「天井前にビッグ引いて終了。貯メダルして終わり」
「ほら。5000円もらっておけばよかったじゃん」
「結果論だろ」孔明は言う。「で、話って何だよ?」
 孔明は、店の外にいた男の顔を見て固まった。
「……」
「久しぶりだね。土田孔明くん」
「誰?」孔明は言った。
「僕だよ。田所当真」
 孔明は首を振った。「あいつは死んだ」
「うん」トウマはうなずいた。「じゃあ僕はいったい誰だと思う?」
「知らねえよ」孔明はそう言うと、走り出した。土田孔明の姿はあっという間に見えなくなった。
「ね」トウマは言った。「彼はああ見えて頑固なんだよね」
「めんどくせえやつだな」つぶやくように類は言った。

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「お。類じゃん」軽薄な声に振り返ると、マスこと、増田敦(ますだあつし)が立っていた。
「マスか。久々」
「友だち?」マスは言う。「つうか、そっくりだな。でも類、兄弟なんていなかったくね?」
「親戚」怒ったような声で類は言った。
「そうなんだ」対照的に、マスは誰であっても不快感を感じないだろう自然な笑顔で返す。「こんにちは」
「こんにちは」トウマは返す。
「なあ、マス。土田孔明っていただろ?」
「うん」
「あいつ、どこに住んでるか知ってる?」
「土田孔明はまだ実家住みじゃねえかな」
「そうか」
「たぶん。結婚失敗して戻ってきたとか言ってたような」
「さすがだな」
「院生は時間あるからね。うろうろしてるだけで情報が入ってくる」
「サンキュウ。助かった。マス、今度おごるわ」
「期待しないで待ってるわ」
「じゃあな」
 彼は僕が生きてた頃にいた? トウマは言った。
「いや、中二で引っ越してきたんじゃなかったかな」
「彼、僕に似てるね」
「どこが?」
「何となくだけど」
「あいつはおまえと違っていいやつだぞ」類は顔をくしゃっとさせて笑った。
「性格の良し悪しは、先天的なものと、後天的なものがある」トウマは言う。「性格の悪い大人は、むしろ希少価値が高い」
「何で?」
「性格が悪いまま大人になるためには、性格の悪さを承認する人間がいないと不可能だ。王様と同じだよ」
「うーん、わからん」
「集団生活の中で、悪い性格を前面に出せば、僕みたいに脱落するからね、普通」
「……その話とマスはどうつながるんだ?」
「彼は装ってる。功名に」
「本当のあいつは悪いやつってこと?」
「悪いか悪くないかってのは、他人からの視点だろ」
「まあな」
「自分にとっていいことが、他人の不利益になる際に、躊躇(ちゅうちょ)なく選べるかどうか。空気を読むか読まないか。性格の良し悪しなんてのはしょせんそんな程度のものだよ。彼は本当の自分を隠して、自己存在を押し殺して、他人から見た自分を自分と定義してる。そんな気がする」
「それって普通のことじゃねえの?」
「まあね」
「それがどうしたんだよ」
「僕の言いたいこと、まだわからない?」
「全然わからん」
「君の話だよ」
「俺が恵まれてるみたいな話なら、聞き飽きてる」
「……恵まれてるどころの話じゃない。君の存在はほとんど奇跡だ」
「褒めてる?」
「もちろん、褒めてる」
 そうこうしているうちに、土田孔明の家に到着した。
「あいつん家ってけっこうデカいのな」類は言う。
 トウマは類の問いかけを無視し、家の呼び鈴を鳴らす。しかし、応答がない。
「ちょっと裏技使っていい?」トウマは言う。
「何で俺に了承を求めるんだよ」
「リーダーだし」
「どうぞ」
 トウマは自らを二つに分割した。
「……すげえな」
「5人までいけるよ」トウマは笑う。「君の消耗が激しくなるけど」
「……」
「ちょっと行ってくるね」ひとりのトウマが言い、もうひとりのトウマはうなずいた。
「何、その一人芝居みたいなやつ」冷めた目で類は言った。
「いいだろ」
「……」
 数分待つと、もうひとりのトウマが土田家の玄関を開け、トコトコと歩いてきた。
「すげえな」類は素直に言った。
「何なんだよおまえら」扉の向こうから土田孔明が顔を出す。
「入っていい?」
「入っていいっつうか、もう入ってきてんじゃねえか」
「お邪魔します」類は言った。「お邪魔します」ふたりのトウマも党首に続く。

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 玄関で靴を脱ぎ、右手にあるリビングに入ると、二匹の猫が類の足元にすり寄ってくる。
「この猫は?」
「アメショー」孔明はなぜか照れながら言った。「かわいいだろ」
「よしよし」と言って類は屈(かが)み、右手で一匹の猫のアゴを、左手でもう一匹の猫の鼻の上をなでた。上品な顔立ちの二匹のアメリカンショートヘアーは、ゴロゴロとノドを鳴らしている。
 その光景をほほえましく見守りながら、二人に分裂していたトウマが、一人に戻る。
「土田くん、久しぶり」
「……」孔明はあきらめたように息を吐いた。「おまえ、死んでなかったんだな」
「孔明」二匹の猫と遊びながら、類は言う。「田所党を再結成するから、おまえも入れ」
「……何言ってんだ?」
「俺、おまえ、トウマ、山田克己。なかなかイカレた面子だろ」類は笑う。
「田所党ってのは、山田克己から身を守るためにつくったんじゃねえか」あきれたように孔明は言う。
「土田孔明くん、君は僕らの中で一番頭の出来が悪い。君にわかるように言うのは少し骨が折れるけど、やってみよう」
「喧嘩売ってんの?」
「うん」トウマはうなずいた。「そうやって、君は相対(あいたい)する人間を値踏みして態度を変える。けどその戦略は、君の想定を上回る相手に対しては、あまりにも無力だ」
 トウマは右手を開き、土田孔明の顔を覆い隠すように掲げた。次の瞬間、トウマは左手の掌で孔明のアゴを打ちすえた。孔明はその場に崩れ落ちた。類の前にいた二匹の猫は、たちまちダイニングテーブルの下に退避した。
「あの頃、僕が1年3組にいた頃、僕は山田克己よりも強かったんだよ。君は知らなかっただろうけど」
「トウマ。仲間うちで喧嘩してどうすんだよ」類は言う。「大丈夫か孔明」
「カマドウマ。おまえ、そう呼ばれてたよな」孔明はフローリングの床に横たわったままで言った。「どういう気分だった?」
「僕は君たちには興味がなかった。僕が何と呼ばれようが、どうでもよかった」
「それで、唯一興味のある、田所類に罪をかぶせて死んだ……。そういうことか?」
「まあね」
「そう言ってくれれば、協力したのに」孔明は魂を吐き出すような声で言う。
「協力なんかできるはずないだろ。僕をツマハジキにしたのは土田くん、君みたいなクラスの中間層だよ。だけど、あのクラスは田所類を中心に回ってた。誰も彼を無視できなかった。彼が僕を無視しない以上、僕は便所コオロギのような存在として、ひっそりと生活をする他なかった」
「今なら」孔明はかすれた声で言った。「今なら、おまえの気持ちがわかる。でも、あの頃のおれは自分を守ることに必死だった。そんなおれの前に既得権益が転がり込んできた。たぶん、おれはおまえが死んだことで、田所類がハブられたことで、一番の利益を得た」
 土田孔明は訥々(とつとつ)と語り始めた。
「おれの人生は、あの時期を機に堕落していった。クラスのリーダーの座。その他大勢に過ぎなかったおれには分不相応な夢物語だった。だけど、おれには何かがあるんじゃないかって思ってしまった。おれのグループは孔明党なんてふざけた名前で呼ばれた。だけど」孔明は首を振る。「所詮、烏合(うごう)の衆だった。イマ中の狂ったボウズの前には無力だった。あんたはひとりでも強かった。なあ党首。あんたが停学になったのは、おれがチクったからだ。他校の生徒と喧嘩してるとか言って。証拠の写真を添えて。おれは必死に抵抗しようとした。でも、あんたはおれのどんな妨害にもめげなかった。屁でもない感じだった。おれはとっくに気づいていた。でも、その事実から目を背けようとした。高校に入って吉見と付き合いはじめたのも、あんたへの当て付けだった。田所類。あんたには敵わない。そんなあたりまえのことを口に出せるまで、何年経った?」
 土田孔明は泣いていた。
「……おまえが何を言ってるか、俺にはさっぱりわからない」類は言った。
「田所当真が命を賭けて、田所類の存在を無にしようとした。おれがあんな目にあったら、気が狂うか、自殺してる。あの地獄から生還したあんたに、おれなんかが勝てるはずなかった。おれには命を賭けるだけの覚悟も、あんたと対立する勇気もなかった。そのくせ、無視もできなかった。本当は、この言葉をずっと言いたかった。この前会いに行ったときも本当は言いたかった。でも、言えなかった。なあ、おれを仲間にしてくれ。あんたのそばにおいてくれ。頼む……」

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 いつの間にかそばにやってきた二匹の猫が、土田孔明のほほをペロペロとなめていた。
「田所党再結成、でいいよね」トウマが言った。
「……ちょっと待ってくれ」と言ったのは類だった。「マジで意味がわからないんだけど、俺だけ?」
「何がわからないの?」
「何でこいつは泣いてるの?」
「彼は今、罪を告白したんだよ。そして赦(ゆる)しを願った。その気持ちを受け止められるのは君だけだ」
「てか、俺、別に怒ってないし、……え?」
「12年? 13年? 長い時間だよ。その長い時間、彼はずっと心に蓋をしてたんだ。それが開いてしまった。そりゃ涙くらい出るよ」
「孔明。おまえ、俺に謝ってるの?」
「……」
「……俺、別に気にしてないから、泣くなよ」
「田所くん、デリカシーがないよね。君は。それと、イマ中の狂ったボウズって何? どういう神経でそんな名前をつけたの?」
「そうか? みんなだせーって言うけど、俺、割と気に入ってるんだけど」
「ダサいと言えば、死ぬほどダサい」孔明は手の甲で涙をぬぐいつつ言った。
「つうか、こんなデカい家に住んでるやつが、自己破産とか。……おまえ、悪いやつだな」
「だからマイナスが4つって言ってるだろ」トウマは笑った。

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 午後8時、タローズのカウンターには、4人の男が並んで座っていた。田所類、田所当真、山田克己、土田孔明。
「全員苗字に田んぼが入ってるな」と言って山田克己は笑った。
「どうでもいいわ。そんなこと」類は言う。
「生まれて初めてのお酒を飲んでみようと思うのだけど、いいかな」トウマは言った。
 3人の無言の肯定をもらい、トウマは「何か上等なシャンパンを1本ください」と注文した。
「かしこまりました」マスターは厨房の中に引っ込んで、1本の瓶を手に戻ってきた。「この1本が、ここにある一番上等なシャンパーニュになります。サロンと言います」
「上等っていう形容詞いいな」山田は言う。「ちなみに、おいくらですか?」
「15万です」
「……ひとり4万弱か」
「いいんじゃね」類は言う。
「いや、おれ、そんな高い酒いらないんだけど」孔明は言う。
「じゃあこういうのはどうですか」マスターは言った。「このシャンパーニュはぼくも飲んでみたかったんですよ。ぼくも乗るんで、5人で割って3万ずつというのは。この1本は今、相場でも15万以上するんで悪い話じゃないと思います」
「土田くん、いいよね」トウマが言った。
「3万なら、まあいいかあ。何か感覚がおかしくなってる感じはするけど」孔明は渋々うなずいた。
「開けさせていただきます」マスターが慣れた手つきで、しかし慎重に、抜栓する。コルクによって封印されていたシャルドネの香りが店内に放たれる。クリスタルグラスに注がれていく黄金色の液体を見ていると、類は近頃感じていなかったワクワク感を覚えていた。
「正直言っていい?」正直に自分の胸をうちを晒すことを覚えた孔明は言う。「あの山田克己とこうして並んで酒を飲むとか、おれけっこうビビッてんだけど」
「あの山田克己って何だよ」山田は苦笑する。
「同窓会って出たことないけど、こんな感じなのかね」類はそう言いつつ、あたりを見渡した。午後8時だというのに、店内には4人しか客がいなかった。
 マスターがひとりひとりの前にクリスタルのグラスを置いていく。
「さあ、乾杯しましょう」

つづく
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また月曜お会いしましょう。