あらゆるスキャンダル中のスキャンダルは、スキャンダルの繰り返しのことではないか! ただゴイティソロの冒涜
的な神だけがそのことを知っている。「言ってみろ。伝説によれば、わしが一週間で創ったとされるこの〈地上〉で、いったいなにが変わったのか? こんな笑劇を無益に引きのばしたところで、いったいなんの役に立つのか? なぜ人びとは性懲りもなく、いまだに繁殖しつづけているのかね?」。
 それは、繰り返しというスキャンダルがつねに、忘却というスキャンダルによって情け深くけされてしまうからだ(忘却とは、大小説や大量虐殺の思い出も愛する女の思い出も、ともかくありとあらゆる「思い出が沈みこんでしまう底なしの穴」のことだ)。

ミラン・クンデラ 西永良成訳
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「不死鳥の灰」
♯10~14

同志諸君

一週間お疲れした! 酒を片手に、お茶、珈琲のおともに、あるいはパチ屋の中でハマリの友に

「書くこと、賭けること」寿

まえがき 

♯1~♯9まとめ 


 少し時間をさかのぼる。

 田所類と別れた後、田所当真は山田克己が勤務しているという大学病院に向かおうとした。が、今間駅まで歩いた後、トウマは困ったというように天を仰いだ。ポケットを探ってみるも、お金を持っているはずがなかった。トウマは駅員に、とても悲しそうな顔で、「財布を落としてしまいました。切符代を貸して頂けませんか」と言った。
「身分証は……そうか、落としちゃったんだよね」トウマの物言いが同情を誘ったのか、40代後半から50代前半くらいに見える男性の駅員は優しそうな声で言った。「1000円で足りるかな?」
「助かります」トウマはうなずいた。
「はい」と言って今間の駅員はトウマの手に1000円を渡した。「これは僕のプライベートなお金だから、なるべく早く返しにきてくださいね。帰りに一杯飲めなくなっちゃうから」
「必ず返します」トウマはそう言って頭を下げると、切符を購入し、駅構内に入った。
 電車を乗り継いで、大学病院に向かう。受付で田所類と名乗り、伝えてもらった。受付で30分待つと、慌(あわただ)しい様子で山田克己が現れた。
「田所、すまんが今忙しい。後にしてもらえないか?」
「それは残念。山田くん、悪いけど、ここに来るので電車賃がなくなっちゃったから、お金を貸してくれないかな」
「いくら?」
「1万円」
「すぐ返せよ」と言ってトウマに1万円札を握らすと、踵(きびす)を返し、山田は足早に次の現場に向かった。
 ……山田くん? 10メートルほど歩いて足を止め、後ろを振り返る。が、トウマの姿はすでになかった。つうかさっきのあれ、田所だったか? 親指と人差し指を使ってゴリゴリと左右の眼球をマッサージする。電車賃で1万ってのもおかしな話だ。疲れてるんだな……。山田は思った。

 トウマは今間に引き返し、先ほどの駅員に1000円を返し、「ありがとうございました」と言って頭を下げた。
 こんなに早く返しに来るとは思っていなかったというような表情で、「どういたしまして」と駅員は言った。
 ……さて。トウマは思う。このペースで行くと時間がいくらあっても足りない。しょうがない。田所くんの消耗が激しくなるからできるだけ使いたくなかったんだけど。トウマは駅のトイレの個室に入ると、スパン、スパン、スパン、と手刀で自らの体をまるでケーキのように切ったのだった。5体に分裂した田所当真は、それぞれが2000円ずつを持ち、核となるトウマだけが1000円(と、往復の電車代の残り)を手に、かつての同級生の居場所に向かった。

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「驚いたことに」トウマは言う。
「何?」
「誰一人として、僕のことを覚えてなかったんだよ。野球部の佐伯くん、サッカー部の木島くん、美術部の蓬田くん、吹奏楽部の立花くん、君の憧れの吉見さんまで」
「それ、どういう人選(じんせん)なの?」類は言った。
「田所党と、君のアイドル」
「そんなんあったな」遠い星を見つめるような目で類は言った。それから、バーボンを口に含む。
「だから彼らには、僕のことが君に見えている。山田くんだけは少し違ったけどね。あ、社長。山田くんに1万円を借りたから返しておいてね」
「1万? 何に使ったんだよ」
「交通費。イマ中出身者で、今も今間に住んでいるのは少ないからね」
「ここらは何もねえからな」類はバーボンのお代わりを頼んだ後で言う。「つうか、やっぱ今日俺が異常に疲れてるのはおまえのせいなんじゃねえか」
「それは申し訳ない」
「で、何か収穫はあったの?」
「あった。イマ中1年3組。あのときのクラスメイト31人のほとんど全員が僕のことを覚えていなかったことがわかった」
「悲しい話だな……。まあ、俺は覚えてたけどね」
「ありがとう」
「つうか、何で仲間が必要なんだ? 俺、今けっこういると思うんだけど」
「大不幸においては、それが全部ひっくり返るんだよ。忘れたの?」
「だったら、仲間なんかいないほうがいいじゃん」
「これは僕の保険なんだよ。君というよりむしろ」
「おまえの保険?」
「僕と君を同時に攻撃することは難しい。もちろん、本体である君が消滅したら僕もいなくなるけど、それでも」
「悪しきものとかって言ってたけど、それ何なんなの?」
「君の人生で、君が一番大切なものは何?」
「おまえ、ジョジョ読んでねえの? 質問に質問で返すなよ」
「質問に質問で返せないってどういう状況なの? 裁判か何か? それは質問というよりも詰問だよね。立場が対等ではない」
「たしかに」類は納得してしまった。
「悪しきもの、と僕は言ったけど、君にとって悪しきものと、僕にとって悪しきものは、違う可能性がある」
「まあ、そうか」
「そうだよ」トウマは笑う。「僕のばあちゃんは、君にとっては黒ヤギだったかもしれないけど、僕にとっては偉大な黒魔術師だよ」
「黒魔術って悪いやつじゃねえの?」
「これは失敬。最初に白黒を定義してなかった。黒魔術が他者に危害を与える技法。白魔術は他者に恩恵をもたらす技法。そう仮定しよう。でも、白黒は立場によって変わることもあるよね。君にとって黒魔術かもしれないけど、僕にとっては白魔術なんだよ」
「言いたいことは何となくわかるけど、それでも、真実はひとつって考えかたもあるんじゃね?」
 トウマは首を振った。「ポスト・トゥルースって言葉はご存知?」
「トゥルース(真実)、ポスト(~の後)。『2016年を表す漢字』とか流行語みたいなやつだろ。英語圏の」
「……君の頭に知識が入ったおかげで、会話がスムーズになった。これは単純に良いことだと僕は思うね」
「うるせえ。早く話を進めろ」
「20世紀の真実は、『正しいこと』、『善いこと』だった。世界はひとつになる方向で調整されていった。人種差別は悪いことだ。貧困は悪いことだ。すべての人間は平等な権利がある。グローバリズムは、一つの世界という、ある種、偏向された考えで、価値観を統一していった。その結果、何が生まれたか?」
「さらなる貧困と、格差」
「そう。貧困と、格差。それによって生まれたもの。『怨嗟(えんさ)』の連環」
「怨嗟。恨みと嘆き」類は単語の意味を確認するように言った。
「ポスト・トゥルース。真実の向こう側でうごめくのは個人の感情だ。日本では安部政権が権力構造を強化し、イギリスはEUから離脱、アメリカではトランプ政権が誕生した。ユーロ圏はテロリズムに怯え、中東ではひとつのアラブが国家間を超越し、アフリカでは誘拐ビジネスが流行し、東南アジアでもポピュリズムの風が吹き荒れている。傍観(ぼうかん)するにせよ、加担(かたん)するにせよ、その登場人物のほとんど全員がアイフォンなりスマートフォンを使っている。なるほどザワールド」
「おまえそれ、今日一日で知ったの?」
「うん。今日のほとんどは図書館で過ごしたからね。もし、君が大切にしているものが複数あるなら、ひとつに決めておいたほうがいい。じゃないと、守れない」
「守る?」
「悪しきものの手から」
「おまえにとって守りたいものは?」類は聞いた。
「君の存在だよ。田所くん」

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 獣王のリール始動音で目が覚めた。
「今何時?」トウマの方を見ずに類は言った。
「なあ、おまえのその無用心な性格、何とかしたほうがいいぞ」
 そこにいるのは、トウマではなかった。
「おはよう」山田克己は映像作品の中の悪者がするように、口角(こうかく)を片方だけあげて笑った。「夢枕のトウマがうるせえから来てみた」
「つうか、トウマはどこ行った?」
「おまえ、寝ぼけてんのか。死んだ人間が現実世界に出てくるわけねえだろ」
 ……
 状況を整理しよう、類は思う。山田がここにいて、トウマはいない。……まだ俺が知らないトウマの出現条件があるのだろうか。
「つうかさ」類は言う。「山田、おまえ、勝手に人の家あがりこんでくるか?」
「鍵開けて寝るおまえが悪い。それに、おれはおまえに何回か電話した。チャイムを何回も鳴らした。起きないおまえが悪い」
「今何時?」
「8時、AM」
「はええよ」
「早くねえよ。おまえどういう生活してんだよ」
「睡眠だけはきっちり取る」類は高らかに宣言する。「起きてる時間は仕事に捧げる。そのためにはしっかり寝ないと」
「おまえみたいな条件で働けたら、ブラック企業なんて存在しないな」
「なあ、おまえと喋ってると、どうしてこう、言い争いみたいになるんだろうな?」
「おまえの態度が好戦的だからだろ」
「おまえの態度が好戦的なんだろ」類は倍の勢いで言い返した。「つうか、おまえが夢枕とか非科学的なこと言うかね」
「トウマの話が明々白々としてたからな。しっかりした論理があるものは、オバケだろうがオカルトだろうが、聞くべきだろ。それに、脳内の現象だって科学だ。ES細胞を発見した山中教授だって、研究者をやめようとしてたときに、母親の夢に、亡くなったばかりの山中教授の父親が出てきてきて『やめたらあかん』みたいなことを言って、その話で思いとどまったって」
「それは、山中教授がノーベル賞を取るくらいのことをしたから美談になるんであって、同じ話で不幸になる例だってあるだろ。たとえば夢でスロットに勝ったからといってパチンコ屋に行ったら普通は負ける」
「田所、おまえ何か賢くなったな」感心するように山田は言った。
 類は首を横に振った。思考の変化はレンくんの影響に過ぎない。冷静さを失わないために考えの枠組みが変わっただけであって、自分は何もしていない。「てか、夢枕のトウマは何て言ったんだ?」
「おまえが死ぬ可能性があるから助けてやってくれって」
「そのどこに論理性があるんだよ」
「バカすぎるおまえが危機を迎える。極めて妥当な結論だろ」山田は笑った。
「医者ってアホでもなれるんだな……」
「馬鹿も阿呆もアプリオリ、人間の属性であり、むしろ発見の源だ。知識はアポステリオリ、経験的、後天的に獲得するものだ」
「はいはい。てか、腹減ったから飯食いにいこうぜ」
「おまえ、『てか』とか『つうか』多用しすぎじゃね」
「てか、俺は寝起きなんだよ。……ほんとだな」類は笑った。

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「おまえ、仕事は?」溶いた生卵をぶっかけて、紅しょうがを大量に載せた牛丼(大盛り)を食らいながら類は言う。「死ぬほど忙しいって聞いたけど」
「今日は久々の休み」牛丼(並)をかきこみながら山田克己は言う。
「その貴重な休みをこんな風に使っていいのか?」
「……なあ、俺はけっこうまじめにおまえを心配してるんだが」
「心配? 何で?」
「田所、おまえ、金貸しみたいなことしてるんだろ」
「誤解だ」ワカメと油揚げの入ったみそ汁を飲みながら類は返す。「だいたい資格のない金貸しって闇金じゃねえか。そんなことしねえよ。つうかそれ誰に聞いた?」
「土田孔明」
「あいつ……」
「それから、トウマも言ってたぞ」
「何て?」
「おまえは何かやばいやつに狙われてるって」
「……それ、夢なんだよな?」
「夢にしては、長かったっつうか、一晩中あいつと喋ってたような。どうも普通の夢には思えなくてな……」
 ポケットの中のデバイスが振動をはじめた。
「ちょっとすまん」そう言って類はスマートフォンを耳にあてた。「もしもし」
「おはようございます」クロスは低い声で言った。「班長、今日は何時から出られます?」
「もう行けるけど、何か起きた?」
「……設定イチです」
 最大限の警戒を意味するその符牒(ふちょう)がクロスの口から語られるのはこれが初めてだった。
「マジか」類は苦虫を踏み潰したような顔で言う。「わかった。今から行く」
「仕事か?」
「うん。悪いな」類はすまなそうに言った。「あ、そうだ。おまえに1万借りたって?」
「何だよ、その他人行儀な言い方は」
「あれ、俺じゃなくてトウマだぜ」類はポケットから1万を出して、山田に手渡した。
「どういうこと?」
「今度ゆっくりな」
「……田所、気をつけろよ」
「ああ」そう言うと、類は足早に店を出て、事務所に向けて走り出した。

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 事務所に入ってみると、部屋に台風が入ってきたのではないか、と思うくらいの荒れようだった。
「どうした? 台風でも来た?」
「台風、ですか……」クロスは何と返していいかわからずにぽりぽりと頭をかいた。「それは考えにありませんでした」
「設定イチってこれ?」
「いや。これだけだったら低設定とも言えないんですが」クロスは苦渋の表情で言った。「さきほど、会長が何者かに襲撃されたそうです」
「は?」
「それで、本部は今、蜂の巣をつついたような事態。これは高崎さんの表現ですが、そういう感じらしくて」
「会長の安否は?」
「今、大阪の病院で手術を受けているそうです」
「犯人の目星は?」
「目下、調査中とのこと」
「わかんねえってことか。その事件とここが荒らされたことの関連性は?」
「不明です」
「……とにかく、掃除すっか」
「被害届はどうしますか?」
「盗まれたものなんてないだろ」
「ええと、班長お気に入りの朧フュギュアが叩き壊されてたくらいですかね」
「マジか。俺、誰かに恨まれてるのか?」
 クロスは類の口ぶりに思わず笑ってしまった。「今度新しいの買ってきますよ」
「それは助かる」
「それで、班長、今日予定してた面会希望者の方々には延期してもらいましょうか?」
「いや、いいよ。掃除が終わったら呼ぼう」
「わかりました」

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 組織における「班」は、近代陸軍における「連隊」のようなもので、その長は、「大佐」または「中佐」に相当し、使える人数や仕事内容等、組織の幹部として最大級の権限であったが、田所りんぼから班を引き継いだ類は、田所班を解体し、特例のような形で新たに田所班を立ち上げたばかりだった。班員は、類の他にはクロスのみ。セーフティネット。居場所のない人間の居場所づくりという試みは、人材発掘という側面もあった。新たな時代を切り開く人物は、今現在、虐(しいた)げられているに違いない、というのが類の読みだった。しかし、田所班に引き入れたいと思う人物は一人として現れなかった。そのことが、クロスに対する過剰な信頼と仕事量を押し付けてしまったことは否めない。

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 一人目の面会希望者は、東京郊外にあるパチンコ店の店長だった。
「これまでは、スロがダメならパチ、パチがダメならスロ。そうやって何とか切り抜けてきましたが、パチンコ(マックスタイプ)の規制。スロット(高純増AT機)の規制。両者同時にメスが入るのは、私がこの業界に入って以来初めてのことで、先行きを考えると、暗澹(あんたん)たる思いです」
「うーん」類は天井を仰いで言った。「カジノ法案も成立しそうですし、たしかに、明るいニュースはなさそうですよね」
「ホールの独自色を出そうとすると警察に睨(にら)まれる。集客効果のほとんどない新台を買わなければメーカーに疎(うと)まれる。ライターを頼るとユーザーが離れる。ほんと、どうしたらいいんでしょうね。最悪、メーカーは他業種に乗り換えればいいんでしょうけど……」
「コアコンピタンスって考え方がありますよね」類はコア(核)・コンピタンス(能力)という経済用語を口にした。
「他に真似できない企業の強みってことですよね」勉強熱心な店長は即答した。「パチ屋の強み。それはやはり、世界で最も気軽に入れるギャンブルスポットということだと思うんです。行き過ぎは困りますが、ギャンブル性のない娯楽に人はハマりませんから。結局、パチンコパチスロのメイン客はおじさんおばさんなんですよ。ぶっちゃけた話、海やジャグがメイン機種として存在していれば、事足りるっちゃ足りるんです。でも、『情報』というものに対する世代間の分断があるじゃないですか。今の20代から下の世代は、我々の知るおじさんおばさんにはなりえない」
「インターネット」類は言う。
「はい。天井のある/なし。機種の性能。止め打ちの方法。そういうものを知らずにお金を使うということをしてくれない」
「情報について断絶があるのであれば、むしろ情報の開示っていうか、公平性を打ち出すしかないんじゃないですかね」類は言った。「自撮りオッケー。つぶやき、撮影大歓迎。SNSでじゃんじゃん拡散してもらう」
「やっぱり、そっちの方向ですかね」
「設定発表みたいのは客にしてもらう。そこから一歩進んで、設定配分を公表できればいいんでしょうけど」
「ただ、あんまり自由にしちゃうと、情報をコントロールできないというか……」
「そもそもコントロールはできませんよ」類は苦笑する。「21世紀の民主主義国家ですよ。できるとすれば、店長がブログなりツイッターアカウントなりを持って、店に不利益をもたらすような情報を流すやつ、嘘をつくようなやつを、淡々とあげていくとか。どんな商売であれ、ボランティアではないのだから、儲けるのは当然。というか、使命ですよね。ただ、無条件でボッタくってるわけじゃなくて、しっかり設定なり釘で還元してますよ、という事実があれば違うと思うんですよ。たとえばカジノは、還元率を定期的に公表しなければいけない。パチンコ業界と同じく、不幸を生み出す装置であることは変わりませんが、少なくとも透明性を担保する仕組みがある。パチンコ屋といっても、透明性をアピールするのはマイナスではない気がしますけどね。法律が変わらない限りは、グレーゾーンから抜け出すことはできないでしょうけど」
「……透明性。そうですね。オーナーに相談してみます」
「ぜひ」
「そういえば、田所さんは以前、スロットで食ってたみたいな話をされてましたよね」
「ちょろっとですけど」
「最近は打ってますか?」
「バジ3は1回打ったんですけど、ARTを引いて30枚。ここ半年だとそれくらいですかね」類は苦笑した。
「あの機種はスルメ台だと思うんですけど、それまでのバジリスクシリーズにあった安定したデダマ感がないですからね」
 出口のない会話を二つ三つした後、店長は席を立ち、クロスは見送りがてら、昼食を買うと言って外に出ていった。時刻は12時を回っていた。類が面会者のための珈琲をいれていると、黒いスーツを着た男がぞろぞろと入ってきた。
 男たちは類に一礼した。と、同時に、類の体を拘束した。
「会長を襲った犯人が判明しました」一人の男が抑揚(よくよう)のない声で言った。「黄泉こと田所寛治、あなたの父親でした。申し訳ありませんが、班長の身柄を拘束させてもらいます」
「おいおい」類はあきれたように言った。「完全に事後承諾じゃねえか」

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 類は暗闇の中にいた。目隠しをされ、手かせ、足かせで縛られ、ヘッドフォンから大音量で流れるベートーヴェンを聴かされていた。視覚、聴覚、味覚、触覚、五感のもうひとつって何だっけ? 類は思う。ああ、嗅覚か。五感はそれぞれ補完関係にあり、ひとつが足りなくなったら別の器官が代替する、みたいなことを聞いたことがあるが、鼻は危険を嗅ぎ分けるための器官だから、すでに危険なところにいたら、麻痺するのかね?

 この穴に嵌(はま)ったのはいつだろう? たぶんあれだ。スロットで負け続けた日々だ。出来心で100万を借りた。100万はすぐになくなった。それで、永里蓮というパチンコ・パチスロ生活者を紹介された。俺の妄想に過ぎなかったスロット生活が現実のものとなった。その行為はギャンブルではなかった。俺は決まりを守っただけだった。期待値があるときに打つ。期待値を見出せないならやめる。それだけで、借金は見る見るうちに減っていった。それまでの俺は自分の力で勝とうとしていた。自分のヒキで勝とうとしていた。違う。スロットで暮らすとは、スロットで負けた人間のお金の一部を掠(かす)め取るということだった。
 そのことに気づいた途端(とたん)、自分がいけないことをしているような気分になった。パチンコ屋に供物(お金)を捧げる(落とす)人間。それはかつての自分なのだ。スロットで負けていた時代の俺は、自分の手には神が宿っているのだから、負けない、負けっこない、負けるはずがない。そんな気分でいた。甘えていた。完全に甘えていた。そんな人間の落とした金がポケットに入ってくるのだ。
 が、この罪悪感すらも、甘えじゃないか? 俺はそう思い直した。借金が減っていくことに不安を覚えて、それでどうする? 「カイジ」のように、「嘘喰い」のように、うまい話には裏がある。そう信じたいだけじゃないのか? だとしたら、それはただの甘えだ。擬似的な自殺だ。そんな感情に付き合っている余裕は俺にはない。
 そもそも、スロットはただの趣味で、別に負けてもいい。心の底からそう思える人間なんているか? ギャンブルは必ず負ける。それが事実だとしても、必ず負けるものに金を投じる人間なんていない。いるはずがない。負ける人間は、負けていく自分が好きなのだ。プロセスに金を払っているのだ。それはただの負けじゃない。金持ちが一見、散財にしか見えないものに金を使うのは、価値が上がる可能性があるからだ。少なくとも、価値が暴落しない確率が高いものであり、あるいは、称賛や評判を気にしてのことだ。勝算があるのだ。投機ではなく、投資。できれば、人間はみんな勝ちたい。しかし、みんなの分の椅子は用意されていない。それだけのことだ。
 耳の奥でベートーヴェンの「月光」が鳴っている。なぜ無知無学の俺がそんなことを知っているかというと、一般教養をインストールされたからだ。勉学によってではなく、機械的に。ドーピングみたいなものだ。詐欺(さぎ)、剽窃(ひょうせつ)、モンキービジネス。ズルだ。ペテンだ。俺の意思はそこにはない。我、思うゆえにワレがあるわけではない。俺は器に過ぎない。コンテンツ(中身)は俺でなくてもいい。大事なのは苗字。日本におけるファーストネームは苗字なのだ。田所さえ残ればそれでいい。

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 田所寛治。俺は父親のことをうだつのあがらないサラリーマンだと思っていた。かーちゃんが存在感のあるかーちゃんだっただけに、なおさら。俺はとーちゃんに怒られたことがない。遊んでもらった記憶もない。
 小さい頃、どうしてうちは旅行に行かないの? と聞くと、お父さんが乗り物に弱いから、とかーちゃんは答えた。じゃあどうして車は運転できるの? という質問には、自分の運転なら大丈夫なのよ、と答えた。じゃあ、車で出かけようよ、と言うと、うちの車はボロボロだから都内から出られないの、と言った。じゃあ歩いていこうよ。そんなに行きたいなら一人で行きなさい。母はそう言った。意を決し、俺は一人で家を出た。しかし東京はおろか、今間を出ることすらできなかった。それでも見たことのない風景に興奮した。同時に寂しい気持ちも感じた。お寺があった。俺はそこで保護された。

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 家に帰ると、かーちゃんにおもくそぶん殴られた。かーちゃんは言った。「ごめんなさい」と。
 俺はどうして自分が殴られるのか、また、どうして謝られているのかがわからずに、泣いてしまった。
「月光」が終わり、モーツァルトの「レクイエム」が流れ始めた。
 次の瞬間、ヘッドフォンが外された。静寂がうるさいくらいに感じた。俺はどうして怯(おび)えてるんだろう?
 目隠しが外された。明かりが目に刺さる。それは比喩ではなく、本当にグサグサと類の目に刺さるのだった。痛くてたまらなかった。目の前には武器を持った男たちの姿があった。
 父親が黄泉と呼ばれていることを知り、そして、レンくんがデビルリバースに刺されてしまった後、かつて家出したときに見つけたお寺に赴いて、祈念した。どうか、レンくんが生きていますように、と。願わくば、世界が平和でありますように、と。そのためなら俺の命なんていりません。そう願った。俺が今、ここで殺されるのだとしても、俺はそう願うだろうか?

 ……わからなかった。

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 そこは倉庫か工場のような場所だった。広く、そして、寒かった。どういうわけか、目の前の武器を持った男たちは、何もしてこない。
「……」
 誰かが何かを言っているようだったが、類の脳には知覚されなかった。どこか外国の言葉を聴いているようだった。
 類は一種の酩酊(めいてい)状態に陥っていた。五感を遮断(しゃだん)することによるストレスと、ドラッグによる感覚の増幅。組織の人間の常套(じょうとう)手段である。前後左右。天地がどちらかすらわからなかった。そして、時間感覚が飛んだ。一瞬から一瞬へ、数分が一瞬へ、一瞬が数分へ。それはさながら、瞬間移動のような体験だった。しかしそこに自分の意思はない。網膜に結ぶ像が揺れている。声を絞り出そうとしても出てこない。おそろしくノドが渇いていた。どんなに汚染された液体でもいい。飲みたかった。
 覚悟はあったはずだった。しかし、類の中で暴れているのは幼子(おさなご)のような感情だった。恐怖。甘え。不安。それらが交じり合って類の体を内側からつついていた。
「やれやれ」という声がどこからか聞こえた。ような気がした。
 ふいに、類の感覚が正常に戻った。網膜の向こうにいたのは、血まみれの母親だった。

「……」息も絶え絶えに母は言った。「類……」
「かーちゃん」
「……」その問いかけに母は答えなかった。答えられなった。
 たった今、母は死んだ。冷静な感覚がそう告げていた。けれど、類の感情は悲鳴をあげていた。一秒前は生きていた。でも、今は死んでいる。
 パニックのさなかで類の脳裏によぎったのは、過去の映像だった。大不幸を経て、中学二年生になって、喧嘩に明け暮れるようになって、類の喋り方は変化していた。そんな折、何かの拍子に、母親に向かってこんなことを言ってしまった。
「おいババア、てめえ、殺すぞ」
 影のような存在感で母の隣にいた父が立ち上がった。
「これからもここで生活したいのであれば、お母さんに謝りなさい」
 記憶にある限り、初めて父に命令された瞬間だった。黙っている類に向けて、父は続けた。「おまえとお母さん、どちらか一人を選ぶなら、おれはお母さんを選ぶ」
 なぜか背筋に冷たいものを感じ、類は「ごめん……」と言ってその場から逃れた。そうだ。俺はかーちゃんに甘えていた。家出をほのめかしたり、ババアと言ったり、殺すぞと言ったり、それはただ、甘えていたのだ。返事を返してもらうだけでよかった。できれば認めてほしかった。それだけだった。その母が、死んだ。
 つうか、親父、どこにいんだよ。どうして俺が生きててかーちゃんが……。なあ、かーちゃんを選ぶんじゃなかったのか?

 と、倉庫か工場を照らしていた明かりが消え、誰かが入ってきた。そんな気配があった。武器を持った男たちの悲鳴のようなものが次々に聞こえた。が、類はただ座っていることしかできなかった。
 これは夢の中なのだろうか? 本当と本当でないことの区別がつかなかった。
 わからないときは動いてはいけない。これはたしかレンくんの言葉だ。わからないときの行動はすべて間違えるのだから。いや、親父か? それともマンガだろうか。わからなかった。
 誰かが類の体を担ぎ上げた。
「すまなかった」類を持ち上げた男はそう言った。
「何が起きてるの?」
「あいつが戻ってきた」
「あいつって誰?」
「……」
「なあ親父」類は言う。「かーちゃんは本当に死んじゃったの?」
「……」
「何で?」
「おれたちは覚悟ができていた。話は後だ。建物の向こうに牙がいる。そこまで急ごう」
 牙。牙大王。非現実的な名前が懐かしかった。父親に担がれながら、類は泣いていた。しかし類の感傷は長くは続かなかった。ふいに、父親が倒れたのだった。何が起きたのかわからないまま、類はフロアを転がった。真っ暗だった空間に明かりがついた。いつの間にか、類の手かせと足かせは外れていた。父がしてくれたのだろう。類は父親のもとにかけよった。しかし父は、母同様、絶命していた。地球の重力下において、成人男性を担ぎながら俊敏に動ける人間はいない。おそらくは誰かに狙撃されたのだった。類の父親だけじゃない。倉庫か工場のような空間には何人もの人が折り重なるように倒れていた。スーツを着た男たち。父親、母親。類の心を占めるのは、悲しみというよりも、あの親父を殺す集団がいるという事実であり、俺は生かされているだけだ、という無力感だった。
 旧弊(きゅうへい)な扉がガラガラと開き、誰かが入ってきた。先頭に立つ人間には見覚えがあった。その男の後ろには、ずらずらと100人以上の人間が控えていた。

       777

「久しぶりだね」男は言った。
「やっぱり死んでなかったのか」類は言う。
 ふふん、男は笑う。「その口ぶりは、君はこの状況を想定していたということなのかな。それにしては、ずいぶん慌てていたようだけど」
「父親と母親が死んで慌てない人間がどこにいます?」
「じゃあ、どうして今は冷静なんだろう」
「あんたがここにいるからだよ。田所りんぼさん」
「彼のことはおぼえているかな?」
 スーツ姿の男が二人、何かを担いで類の足元にやってきて、その何かをどさっと投げた。牙大王だった。
「悪しきもの……おまえがそうだったのか」
「悪しきもの?」
「俺の大切なものを奪ったやつが悪じゃなかったら誰が悪なんだ? 俺か?」
「それはいい視点だね」田所りんぼは言った。「君自身が世界の敵かもしれないという視点」
「……」
「君が優しいことを、僕は知っている。君が努力していることを、僕は知っている。君は、親がいない子どもを支援する団体に多大な寄付をしている。居場所のない人間を支援しているのも、口では人材発掘と言っているが、その一環であることも知っている。それでも、君が善で僕が悪であることの証明であるとは言えない」

       777

 田所りんぼは、配下に控える100人超の男たちを下がらせた後、スライド式の旧弊(きゅうへい)な扉を閉めた。倉庫か工場のようなだだっ広い空間は、田所りんぼと類だけになった。……生きている人間は。
「こう見えて、僕は戦中に生まれたんだよ」田所りんぼは言った。
「どの戦争だよ?」
「ふふん」田所りんぼは笑った。「組織は僕がつくったんだ。会長が死のうが、どうなろうが、誰が頭だろうが、正直、どうでもいい。たしかに、現会長はビジネスサイドから組織を大きくしてくれた。でも、それは僕の目的ではない。僕の仕事について、話したことはあったかな?」
「物語を集めてる」類は言った。「あんたの口から聞いたわけじゃないけど」
「そう。すべては物語を集めるためにある」
「だから、不幸をまきちらす」類は言う。
「なぜ、物語の登場人物が不幸な境遇にあるのか? それは、不幸こそが、幸に向かうための、最も純度の高いエネルギー源だからだ」
「不幸の産みの親。サンシャイン池崎かよ。くだらねえ」
「そう。君もそう。永里蓮もそう。小島りこもそう。師匠もそう。小僧くんもそう。松田遼太郎もそう。梅崎樹もそう。デビル、牙もそう。桜井時生もそう。黄兄弟もそう。今間と在原という街自体、僕の創造物みたいなものだ。何か質問はあるかい?」
「ありすぎて言葉にならない」
「じゃあ、今の君の希望は?」
「てめえを殺す」
「僕は歴史の流れの中で、何度も殺された。でも、僕は死ねない。というか、復活してしまうんだ。僕はこの現象をこう名づけた。『不死鳥の灰』と」

つづく
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「不死鳥の灰」♯10~14 原稿用紙換算枚数40枚
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また月曜日にお会いできますように。