♯5「そのゲームに参加する人間の幸福が不幸に変わる」
AM 9:50 1年3組 教室
時間を見計らって教室に戻り、類は次の授業に備えた。
数学の授業だった。食わず嫌いの多い子どものように、類の授業に対する認識は、少数の好きと大多数の嫌いに分かれおり、数学はその数少ない好物だった。それは類にとって、ゲーム感覚だった。公式を使い、問題を解く。国語や美術、技術・家庭科のような科目と違い、問題には必ず答えがある。生物、科学、地理や歴史のように、暗記力を試されることもなく、ルールさえ把握してしまえば、あれこれ迷うこともない。問題から答えまでは一直線。気をつけるのはケアレスミスくらい。現実にありがちな理不尽が問題を歪めることもない。
が、類は、目の前の好物に、ちっとも集中できなかった。数学教師の書く関数の公式、つまりゲームのルールが頭にこれっぽっちも入ってこない。
苛立っていた。自分に、そして、目の前の世界に。やけに進みの遅い時間に対しても。
AM 10:40 同 教室
拷問かと思うような長い授業が終わり、類は一息ついた。それから立ち上がり、ひとりの生徒に声をかけた。「なあ、孔明」
土田孔明はひどくそっけない態度で、「何?」と言った。
その態度が気に障ったが、類は「あいつ、何で死んだんだろうな?」と言った。
「……」
「孔明、どうした?」
「……何が?」
「……いや、何でもない」
類は席に戻り、自分が何かに怯えていることに気づいた。何なんだよ。クソ。
PM 1:20 校庭
給食を食べた後、学年主任と担任による聞き取りが開始された。昼休みを返上することに、ぶうぶう言う生徒が何人かいた。
憤るクラスメイトを尻目に類は沈んでいた。
今日が始まってから、誰も俺に話しかけてこない。明らかに避けられている。類から話しかけると、返事は返ってくるのだが、えらくそっけない。
いたたまれなくなって外に出た。校庭をいっぱいに使い、三年生の男子たちがサッカーをしていた。それがやけにキラキラと輝いたものに見えた。
これあれか。イジメってやつか?
つうか、イジメって何だ?
誰かが誰かを疎外すること、されること。れる、られる? いったい何のために?
当真の言葉がよみがえる。
『他人の不幸は密の味って言うだろ? 必要、不必要じゃないんだよ。娯楽ってそういうものなんだよ。田所くん』
だから、おまえが田所って言うんじゃねえよ。何なんだよ。死んだって何だよ?
派手なジャージを着た男にボールが渡り、そいつが左足を振りぬくと、ゴールネットがふぁさっと揺れた。男は大げさに右手を振り回し、喜びを表現している。
クソ。
どうして腹が立っているのか、自分でもわからなかった。
PM 2:40 1年3組 教室
腹が立つ。
何で誰も俺に話しかけてこない?
何で?
腹が立つ。
でも、少し、心細い……少し?
PM 4:10 帰り道
わかった、わかった。よくわかった。おまえらは俺を疎外したいんだな。でも、ユーティリティ、おまえだけは違うよな。類は思う。強く思う。強く思うがゆえに、ユーティリティには声をかけられなかった。
頭部のないお地蔵さんの前を通り過ぎた。吐き気がした。それに耐えながら類は歩いた。
類の前に分かれ道が迫ってきた。右に行っても左に行っても家に着く時間はさほど変わらないが、類は小学校入学以来、ここを右折して帰宅した。それは選ぶというよりは惰性だった。
今日、類の足は左に進んだ。何かを変えなければいけない。その一歩のつもりだった。
風景がいつもと違う。そりゃそうだ。いつもとは違う道なのだから。でも、それだけでもなさそうだった。類は今、風景を構成しているパーツのひとつひとつを仔細に眺めていた。というより、それらが目に飛び込んでくるのだった。屋根の色。青。赤。オレンジ。こんなにカラフルだったのか。この地域に十三年住んでいて、初めて気づいたことだった。赤い屋根の家の犬が吠えた。犬は柴犬か、あるいはそれに近い雑種で、首の角度をほとんど180度まで上げてキャンキャン吠えている。彼か彼女かはわからないが、犬は小さな寝床につながれて、それでも自国の領土を殊更主張する政治家のように口角泡(こうかくあわ)を飛ばし、何かを訴えている。
類は犬のそばを通り過ぎ、オレンジ色の屋根の家を通り過ぎ、そこで立ち止まった。
思い当たったのは、当真の言葉だった。
『そのゲームに参加する人間の幸福が不幸に変わる』
つづく
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