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午前11時のブンガク 

なぜゆえ、我が30代後半の男の主人公は、戦おうとしないのだろう?

進まない、進まない、と弱音を吐き続けてきたが、物語は、完全に行き詰ってしまった。というか、このままいくと、主人公は死ぬしかない(人間はみな死ぬということではなく)。

いよいよ進退窮まって(と言いつつ、前にも後ろにも進む気がないのだが)、主人公は死を意識する。ぼくは必死にそれを食い止めようとする。そんな安易な解決方法を選んではいけない。じゃあ、どうすればいいんだ? 主人公は思う。おれはどうしたら幸せになれるんだ?

小説家、西加奈子は言う。「何かを書くこととは?」ということを忘れることが出来るのは、何かを書いている間だけである、と。

同じように、自分のことを考えているうちは、自分には出会えない。自分とは何か? 自分という存在を担保してくれるのは誰か? そう。主人公よ、キミは他者に出会うしかないのだ。といって、主人公はいまさら誰かと仲良くしようとは思えない。彼はプライドが高い。本来、プライドを守るには勝つしかない。しかし主人公は勝負を避ける。本末転倒。まさに堂々巡り。そうこうしているうちに、持ち金が尽きかけていた。

もういいや。めんどくせ。いっそのこと、あり金を何かに賭けちまおうか。あるあるー。ぼくにも身に覚えがある。電車賃すらもコインサンドにつっこんだ記憶。パチ屋閉店5分前に現金投資をしていた記憶。12レースにメインレース以上の金額をぶっこんだ記憶。ギャンブラーズホール。彼は追い込まれたギャンブラー特有の、自殺志願者的思考状態に陥っていた。

村上龍が「賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。」というエッセイでこんなことを言っている。

「思考放棄」に陥った人や共同体には特徴的な傾向があるように思う。「幸福」を至上の価値として追い求め、憧れ、生きる上での基準とするということだ。わたしたちの社会では、よく「幸福であるかどうか」が問われる。テレビドラマのモチーフも、バラエティでお笑い芸人が過去のエピソードを披露するときも、男性誌や女性誌の特集ページでも「幸福」がテーマとなることが多い気がする。幸福な結婚、幸福な家庭、幸福な毎日、幸福になるための家や家具や家電や本、時計、ファッション、健康食品やサプリメント、そんな感じだ。だが、幸福という概念は主観的であり、かつ曖昧でもある。

ぼくはこの小説を書く中で、30代男性の哀しみをすくいあげたかった。その対比として、10代の生活を持ち出した。が、結局は同じことだった。人種や性別や年齢は関係ないのだ。幸せなんてどうだっていい。年齢なんてどうだっていい。みじめでもかまわない。この世界を生きるに足るものに変えるもの。それは、自我やプライドや家庭環境ではない。追いかける対象である。

主人公は結局、破産してしまう。そして、思う。……働くか、と。

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