とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。

「星の王子さま」より

サン=テグジュペリ 河野万里子訳
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午前11時のブンガク

主人公の体を縛っているのは、具体的な悩みではない。
お金に困っているというのなら、対処方法がある。だけどそうではない。
体調が悪いというのなら、病院に行ってみればいい。だけどそうではない。

こういうとき、ドラえもんがいてくれたらいいのに、と彼は思う。四次元ポケットなんてなくてもいい。ここが22世紀だったらいいのに。22世紀だったら喋り相手程度のスキルを持つAIは、市販されているか、またはスマホに類する電子デバイスに標準装備されているだろう。でもここは21世紀で、この世界では、ネットの向こうの誰かを頼るか、あるいは夜の街にお金を投じるしかない。それは詮無い。むなしい。

バカじゃねえの、と第三者なら思うだろう。要はさびしいんだろ? だったら仕事しろ。他人と強制的に出会うにはそれが一番手っ取り早い。が、仕事をせずにこの歳まで生きてきてしまった彼にとって、社会は毒蛇の巣窟のように感じる。無論、甘えだ。完全無欠の甘え。甘えではあるがしかし、彼には一応、お金がある。何となれば、お金を使ってさびしさを消費することもできる。

30代男性は公園のベンチに座って考えている。
おれはいったい誰なんだ?
たとえば、そこを歩いているOLさんにとって、おれはただのオッサンなわけだ。だけど、自分をオッサンと規定するのは難しい。おれの中では、3歳の自分も、15歳の自分も、22歳の自分も、今の自分も、おれなのだ。おれという人間は、今も昔もおれであり、オッサンというのは、自分のすべてを表現する言葉ではない。

彼の認識は、ある意味では間違っている。「おれ」というのは不変の存在ではない。1年もすれば、ほとんどすべての細胞は生まれ変わってしまう。その意味では、去年の自分と、今年の自分は、別人である。「おれ」という概念にしてもそうだ。悲しいときの自分。嬉しいときの自分。どんな人間にも、ポジティブな側面と、ネガティブな側面がある。しかし、どちらかだけを抽出するわけにはいかないのだ。

「星の王子さま」には、次のような一節がある。

「子どもたちだけが、なにをさがしているのか、わかってるんだね」


大人はすぐにガワを考えてしまう。年齢だとか、肩書きだとか、これが欲しいけど、自分には似合わないからダメだ、とか。といって、ああ、性欲やべえ、みたいな欲望を素直な行動に起こすと、犯罪だ。子どもにはわからない大人のしんどさ。社会的な生物である人間は、子ども的な素直さと、大人的な体裁を、うまく使い分けて生きていくしかない。

けがれをしらない子どもの特権。汚れちまった大人の特権。とりあえず、主人公は、お金を出して気持ちよくなることにした。

つづく
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