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幸せな家庭はどこもみな同じようなものだが、不幸せな家庭はそれぞれの方法で不幸せである、というようなことを、レフ・トルストイは小説の中で語っているが、どこもみな同じようなもののために、ブンガクの門を叩く人間はいない。

とりあえず、足場にするのは、自分という存在の希少性、特別性である。たとえそれが「普通」だとしても、私はこんなにも「普通」なんだ、ということを推す。押忍。それが物語というものだ。

ぼくは今、オッサンにとっての希望を探して文章の森に分け入っている。そこは森というよりは、迷宮だ。迷宮の中で、我が主人公は、はたと気づく。「たとえばおれが、30代後半の女性だったらどうなんだろう?」と。家庭はあるだろうか? 子どもはいるだろうか? 手に職は? 金は? そこまで考えて、主人公は首を振る。同じだな、と。「結婚してますか?」「子どもは?」みたいな質問をされたらたまらない。それはさながら、性器の大きさを気にする男性に性器のサイズを訪ねるような、存在の根幹にかかわる致死的な疑問文である。

生物の3大条件

1、細胞を持つ
2、自己複製や遺伝が可能
3、代謝する


人間というのは生物であり、生物の原則としては、自らの子孫をこの世に残すというのが1大トピックである。ここで、小説のテーマに引き戻される。「30代男性の哀しみ」、つまり、適齢期を過ぎた人間は、何を目標に生きればいいのか? ということについて。

目標のない人生は、海のない湘南のようなものだ。とまでは言わない。が、しかし、目標があると、生活に張りが出るのは事実である。そして物語においては、主人公の願望が叶えられるか、叶えられないかが焦点になることが多い。少年マンガにおいては、死線を潜り抜けたうえで、(ほとんど100%)主人公の望みが叶えられる。それはそのマンガが対象としているのが、若き読者であるからだ。

19世紀の小説や戯曲は、主人公が死んでしまうことが多いような気がする。それは時代のせいなのかもしれないし、あるいは当時の読者の潜在的な願望だったのかもしれない。物語は「特別」を足場にするけれど、たどり着きたい場所は、普遍性(ユニバーサル)という平地である。私たちはみな、同じものなのだ。

話をもとに戻そう。
人間の肉体というのはたいてい20代にピークを迎える。だから世間の常識というやつは、20代、少なくとも30代の間に家庭を築き、次代に可能性を残せ、というものである。

それに対する、ぼくの物語的な好みは、否定だ。shut the f××k up! 秩序のある現代にドロップキック。うるせえ、黙れ、子どもを産むために生まれたなんて誰が決めたんだ、と叫ぶ女性がいい。うるせえ、黙れ、幸せな家庭なんて窒息すらあ、という男性がいい。

イエス。そんな人間ばかりになったら人類は滅亡する。現実的な幸せを否定してまで、欲しいもの。したいこと。金、地位、名誉。そのどれをも拒否して、30代男性がたどりつく場所は、死しかないような気もする。さて、どうしたもんか。

つづく

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