肉体を殺すことが出来ても、魂を殺すことが出来ない者を恐れるな
イエス・キリスト
ついにその順番がやってきた。今まで何人も、その状態に陥った人間を目撃してきた。登校拒否をするやつもいたし、別の世界に居場所を移したやつもいた。無視するほうは、理由が重要なわけではないのだ。太平洋戦争と同じだ。戦争した事実はあっても、首謀者の存在は明るみに出ない。ともあれ、次はおれがハブられる番だった。理由はわからない。今でもよくわかってない。しかしジャングルジムの主の座は誰かの手に渡ってしまった。このときばかりはなかったことにはできなかった。生来の運動神経も、ためこんだ知識も、おれの苗字も何の役にも立たなかった。
カブ、というタバコの遊び(というかオマジナイ)があった。当時の日本のタバコには、律儀に1本1本4ケタの数字が記してあって、その4ケタの数字を足して9か19になればカブ(オイチョカブのカブ)といって、よいこととされた。四葉のクローバーみたいなものだ。取り出したタバコの数字が9か19だった場合、その1本(最初に触った1本)は向きを逆さにしてタバコケースの中に戻す。そして裏返したタバコを最後に吸うと願い事が叶う、という、乙女の花占いのような願掛けが流行っていた。イキッていたとはいえ、そこは中学生。どうか前の空気が戻ってきますように、と願いながら、ひとりこっそりタバコを吸った。もちろん願いは叶わなかった。
次に考えたのは、世界の更新だった。学校を休むことは1日もなかった。世界がよきものになりますように。この世界がよりよきものになりますように。そんな文言を唱えながら登下校をくりかえした。おれの祈りの原型は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくるバルドラ野原のサソリの話だった。
「お父さん
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに
ああ、おれは悪いことをしてしまったのだ。だからこんなに寂しいのだ。おれはひとりのサソリなのだ。今度こそ、おれはみんなのマコトのサイワイのために生きたい。おれは一心不乱に祈りながら中学校に通った。
マコトのサイワイは得られなかった。もしかしたら、おれ以外のクラスメイトは得られたのかもしれない。だとしても、おれはそれをよかったとは思えなかった。父親がおれを地元の小学校に通わせたかった理由。それは地元に友だちができるように、という配慮だった。ずっと私立の学校に通っていた父親は、地元に友人がいないことを寂しく思っていたらしい。今のおれは割と日本の広範囲に連絡を取り合う知人がいる。が、地元にだけはいない。
つづく
8/29
夏休みの宿題2016
引用は宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より
青空文庫