死ぬとわかっていてなぜ人は生きていけるのか。その根源的な理由を考えるのが、文学部というところです。

大宅映子


8/10
夏休みの宿題2016


病院でもらった胃薬を飲んでいるにもかかわらず、朝の体調に変わりが見られない。朝イチの特典は絶対に許さない。まるで全リセ&特典つぶしをするボッタクリ店のようだ。

病人という言葉には文学者っぽい響きがあり、仄(ほの)かなシンパシーがあったのだけど、具合が悪い状態が続くのは、ただただしんどいだけで、まったく嬉しくない。どうして自分だけがしんどい思いをしてるんだ、みたいな暗い気持ちにもなる。自己嫌悪を感じるくせに他人に優しくなれない。楽しくない。

それでもお酒が飲みたいので、昨日は朝、昼、夜とノンアルコールビールを飲んだ。カロリーゼロ。糖質ゼロ。アルコールもゼロ。テンションが上がる。わけがない。だって清涼飲料水なのだ。ゴクゴク。ゴクゴク。ゴクゴク。終わり。おれは一体いつになったらリアルなビール(エール)を飲めるようになるのだろう? 飲んじまえばいいじゃんか、とも思うけど、それで体調が悪化するのが怖い。

何か知らんがむちゃくちゃ弱気になってる。不思議なもので、弱気になればなるほど、細かいことや、当たり前の事実が気にかかる。というか気にさわる。同業者が自分よりも効率的な立ち回りをしていることとか、パチ屋のクーラーの強さや、夏の暑さにすらも。強者はイライラなんかしない。建設的じゃないし、意味がない。

子どもが泣くのはそれ以外に解決方法を知らないからだ。泣かれると大人は困ってしまうから一般的な昭和の家庭では「泣くな」と育てられる。男は泣いたらいかん、と。

昭和の教育はさておき、素直に泣けるほうが体にはよさそうだ。だからといって、お涙頂戴の物語を見ると吐き気がする。ドラ泣き? ドラえもんを馬鹿にしないで欲しい。それ以前の問題として、おれはまだ大山のぶ代以外のドラえもんを許容できていない。ドラえもんが大山のぶ代以外の声で動いているのが耐えられない。いまだもって。

こういう風に、弱い心は関係ないモノや対象を無理やり結びつけて噛み付こうとする。弱気は飛び火する。数珠繋ぎ的にネガティブな感情に火をつけて回る。だから疲れる。その割にまったく益がない。このマイナスのスパイラルはどこかで断ち切らなければいけない。

逆説的に、不健康だけが健康を知る。だから文学者は「理想」に生きようとする。ありえたかもしれない健康を目指して。弱者のままで。
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