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夏休みの宿題2016



ちょっと前に金曜ロードショーで放送された「バケモノの子」をようやく見た。

孤児というか浮浪者に近いような状態に自ら陥った人間の男の子が、迷い込んだバケモノの世界でなぜか人間的な価値観を得ていく(成長していく)。というような、ステレオタイプ(類型的)なお話だった。

ステレオタイプ、と書いたが、そもそも異世界ものの結末というのは限られている。

1、元の世界に戻る。

これが最もポピュラーな結末だ。というか、ほとんどの異世界ものはこのパターンを踏襲する。なぜなら、それを見ている我々がそうだから。その物語の中に入って、感動し、そして現実世界に戻る。つかの間の非現実世界に酔いしれ、映画館から出て、ああ楽しかったね、と安心してお家に帰る。

2、 異世界にとどまる。

その世界から出れなくなるパターンは、ホラーの常套手段である。「口避け女」「メリーさん」
その手法はより強い非現実感を醸し出す。あるいは方向性を逆に向けるとギャグやコメディになる(始球式に出張ってくる山村貞子)。しかし自らこの選択を下す主人公もいる。たとえば漫画版の「風の谷のナウシカ」、「もののけ姫」、宮崎作品に強い影響を受けたであろう「アバター」

3、世界を壊す。

なかなかこの結末にチャレンジできる作り手はいない。それは大量虐殺であり、たいていは、ポカン、となってしまうからだ。漫画の「デビルマン」、旧劇の「エヴァ」、物語は途半ばではあるが、 「ベルセルク」の蝕もそうかもしれない。
17歳、新宿の映画館で旧劇「Air/まごころを、君に」を見たぼくの魂はその後、帰ってこなかった。トラウマ必至。極めてリスキーな幕の引き方である。

さて、バケモノの子はどうだっただろう?

ここからは細田作品におけるネタバレ的な言及があるので、見る予定のある人は後で会いましょう。




細田守という監督は、紛うことなき繁盛店のコックだ。しかし材料はいいものを使うくせに(というか、いい材料を使えば使うほど)、出てくる料理には違和感を覚えてしまう。少なくともぼくの貧乏舌にとっては。

前作「おおかみこどもの雨と雪」は、家族にとって絶対に死んではいけない(狼男の)父親がいきなり死んでしまうという、物語の都合を物語の核にしてる時点で苦いし、 その前の「サマーウォーズ」は、花札という運要素の強いゲーム(ギャンブル)をご都合主義で持ち出すところがギャンブラー目線で見てしょっぱいし、丁度よい塩梅なのが「時をかける少女」で、しかしこれは原作ありきである。

で、今回は、というと、甘過ぎる。もちろん味覚なんてものは人それぞれであり、主観的な好みの問題に過ぎない。先ほど貧乏舌と書いたが、この文章はぼくという人間の構造的な欠陥を顕にしているような気もしなくはないが、まあいい。進めよう。

とにかくこの異世界、バケモノの世界が異様に甘いのだ。バケモノの中でも荒くれ者と名高い「熊徹」というバケモノが甘い。一昔前のアメリカのキャンディくらいに。

その荒くれ者が人間界にやってきて、浮浪者に成り果てたガキンチョを捕まえて、「弟子になるか」と言う。その時点で師の資格はない。対して弟子、本作の主人公である蓮(九太)も、同じく人から人外に転職する物語である「千と千尋の神隠し」の千パイセンと比べると、甲子園常連校と県大会万年1回戦負け校の練習内容ほど切実さが違う。が、いくらぬるいとはいえ、主人公は人間であり、何より九歳の子どもである。大人目線で語ってはいけない。やはり指摘されるべきはバケモノの方だ。だってさ、弟子になった人間のガキ相手に、依存をはじめるんだよ。それどうなの? 9歳だった弟子が17歳になり、人間の世界に戻る、と言ったとき、バケモノは「行くなー」と言う。ぼくのように甘甘な人間は、そのシーンでウルっときてしまった。あかん。

とりあえず、双方の世界の行き来の容易さがいかん、と思う。(描写を見る限りでは)割と簡単に行けるくせに、実際に行き来するバケモノがほとんどいない。なぜ? その理由は明かされない。少なくとも、バケモノは人間を認知しているが、人間は認知していない。それでいて、バケモノたちは人間を触らぬ神に祟りなし的に遠ざける。人間の心には闇があるから、と言って。それもそのはず、バケモノの世界(渋天街)には悪いやつが全然いない。せいぜいが町のヤンキーレベル。町内会の意地悪オバさんレベル。根は優しい。対して人間界(渋谷区)は陰湿なイジメてんこもりの人外魔境。

見ているうちに、人間界をメチャクチャにするための設定なのかな、と思っていると、そんな破壊は訪れない。けっこうなクライシスがあるのだけど、建造物が壊れたり、怪我人が少し出る程度。

で、結末も、なあなあで終わる。いや、けっこうすごいことが起きるんよ。バケモノ界は取り返しのつかない犠牲を払わされる。でも、何かふんわりしてる。人間界とバケモノの世界を隔てる穴がふさがったわけじゃないし、物語世界における根本的欠陥である人間の精神の闇という問題が解決したわけじゃないし(あの剣はその闇を切り裂くためのものなんだろうけど)、何だよ、主人公の心の穴だけがシレっとふさがれていて、ずるくね、と思ってしまうのだ。

そしてラストシーン。バケモノに育てられた子どもが、大学受験のための勉強をしている。あんなにすごい経歴の持ち主が普通の人間になる? それって人類の損失やんか。あの女のせいか? 青山の超高層マンションに住むお嬢さまのせいか? あの子、ヒロインというよりも魔女よね。バケモノ界で一番強い男を弱体化させようとたくらむ人間界の魔女。伸縮自在の赤い糸を操るし……

そう考えると、そうか。この物語では、バケモノ/人間の表裏一体の世界の悪を司ってるのは人間で、ある意味罪深き大人の象徴で、バケモノは純粋無垢な赤子のような存在なのかもしれない。人間を食うみたいなやついないし(言葉も食べ物も人間と一緒)、バケモノからは神に転生できるけど、人間からはなれないし。うーん。このねじれ構造は面白い。

よかったといえば、バケモノ界(渋天街)の豚のお坊さんがよかった。仕事しないし、お茶飲んでるだけだし、渾身の説教も主人公に響かないし、あの人ただのニートだよねwリリーフランキーの声もいい。

何だかんだでクマテツとキュウタの関係はもっと見たかった。現代の親子関係の縮図。縦ではなく、横の関係。スラムダンクの流川と桜木的というか。

流川といえば、楓。やっぱりあの女の子、楓ちゃんは何か思惑があって、蓮を誘惑したよね。たぶん彼女はバケモノ界を弱体化させたい第三勢力の尖兵(せんぺい)もしくは工作員だと思うのだけど(白鯨は復讐の物語)、その勢力が神界なのか、悪魔界なのか、または楓ちゃんのたったひとりの戦いか、あの続きがドロドロしてゆく模様は見てみたいと思う。

うん。あれこれ言えるのは映画の包容力。この文章書きも含めて楽しい映画だった。後でもう一回見てみよう。
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