不定期連載残り3回
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slot-story chapter4 1/2 a lonly moon

月と小鳥と


泥のなかから
蓮が咲く。

それをするのは
蓮じゃない。

卵のなかから
鶏が出る。

それをするのは
鶏じゃない。

それに私は
気がついた。

それも私の
せいじゃない。

「蓮と鶏」 金子みすゞ 





物語の始まり「半月」に戻る

「ひとりの月」

 天ぷら屋さんはごま油の香りがした。カウンターの向こうでは三十代くらいの板前さんがキビキビと動いていた。彼は誰にも指図されることなく、刺身をさばき、素材を衣のための液体に浸し、油の中に投入する。何の迷いもない。恥も衒(てら)いもない。うらやましかった。
 ビールを飲んで、季節の野菜の天ぷらを食べて、キスの天ぷらを食べて、ビールを飲んで、穴子の天ぷらを食べて、かき揚げを食べて、エビの天ぷらを食べて、お新香を食べて、ご飯を食べた。お腹がいっぱいになった。お会計は2500円くらいだった。とても美味しかったのだけど、今までのわたしが1回の夕食に使える金額ではない。感覚が麻痺しているのだろうか? この夕食を4回食べたら1万円だ。1万円を何回使ったらお金はなくなるのだろう? 100回使って100万円。1000回で1000万。まぶたの裏側の闇を見つめるときのように果てしがなかった。

       ◆

 今、わたしの前にツカツカ近づいてくる人がいて、このツボを持てばあなたの今後の人生は薔薇色に輝きますよ、というようなことを言われたら買ってしまいそうだった。しかしそんな人はいなかった。わたしは今、ブーツを履いていた。身長は優に180センチを超えていた。気安く声をかけられるサイズではないのだろうと思う。慣れないブーツで歩いたからだろう。靴ずれができていた。あれ、昨日買った絆創膏はどうしたっけ? まあいいや。マツモトキヨシに入って絆創膏を買った。無駄遣い。無駄遣い。無駄遣い。考えてみれば、お金の使い方というのを教えてくれた人はいなかった。自分で学ぶべきことなのだろう。ビールが飲みたくなったので、キリンシティというところに入って、飲んだことがないような色のビールを飲んだ。ほろ苦くて、香ばしくて、美味しかった。

 長い間、携帯電話を開いていないことに気づき、バッグから取り出してみると、充電が切れていた。携帯電話がなければ誰ともつながれないという事実に愕然(がくぜん)とした。急いでビールを飲み干して、キリンシティを出てドンキホーテに向かった。買ったばかりの充電器を、折りたたみ式の携帯電話のお尻に差す。誰からもメールは届いていなかった。留守番電話にも何も入っていなかった。

       ◆

 小島さんに電話してみた。つながらなかった。まだ病院なのだろうか。智美ちゃんに電話してみた。つながらなかった。デイビッドはカナダに帰ってしまった。わたしの電話帳に入っているのはその3人だけだった。携帯を閉じて、電源を落とし、充電器ごと、マルキューで買ったハンドバッグの中に入れた。
 わたしは歩き出した。どこに? 歌舞伎町辺り。ここに来るのは永里と来た以来だった。それまでは夜の歌舞伎町は来たことがなかった。というかこの辺り自体、映画を見に一度しか来たことがなかった。歌舞伎町は怖いところだ、という印象があった。でも、怖くても何でも、寂しさよりはマシだった。何より明るいのだ。歩いていると、「お姉さん、お酒、タダで飲めるところありますけど、行きません?」と声をかけられた。わたしは首を横に振った。別にタダである必要はない。タダより怖いものはないとも言うし。
 
 肌面積を増やし、あえてチープな風体を装(よそお)う女性たち。スーツ姿の男性たち。サラリーマンとは風合いの違うスーツ姿のキャッチたち。平日なのに、歌舞伎町は酒と性と金をめぐる大人たちの思惑で充満していた。
 そういえば、さっきのキリンシティは入ったことのない店だった。今まで入ったことのない店に一人で入ったのは生まれて初めてなんじゃないか? そう思うと少し勇気がわいた。
 風俗案内所というところに入って、「女一人ですけど、女の人と飲める店を紹介してくれますか?」と言っていた。
「何、お姉ちゃんレズビアンか何か?」
「いや、違いますけど、男の人が行くようなお店で飲んでみたいと思って」
 レズビアン? その発想はなかった、と思いながら、わたしは言った。
「普通のキャバでええんか?」その男の人はなぜか大阪弁で言った。
「はい」
「ほな、案内したるわ」
 とても足の短い男性だった。並んでみると、わたしの胸部よりも低いところに頭があった。男が連れて行ってくれたのは色とりどりの看板が並んだ雑居ビルだった。
「もしもし、女の子一人でキャバに行ってみたい言う子がおるねんけど、行ける? 5千円な。わかった。ほなそれで」
 スーツ姿の男は携帯電話でそう言うと、「5階のラビリンス言う店な、ほな楽しんで」
「あの」と言った。
「ん?」
「ありがとうございました」
「お姉ちゃん、まあ何でもええけど、酒はほどほどにな」そう言って男性は後ろ手でバイバイと腕を振った。
 エレベーターは、排泄物と安っぽい香水の匂いがした。チーン、という音とともに扉が開いた。
「いらっしゃいませ」という男性の声がした。「女性お一人さまですね」
「はい」
「こちらへどうぞ」
「当店の料金システムを説明しますね。1時間5000円、場内指名は2000円、女の子のドリンクは1杯1500円です。延長料金は1時間1万円、2時間2万円になっております。お声かけはいたしませんのでご了承ください」
 相場がわからないので、はい、とうなずくしかなかった。
「どうも」女性がわたしの目の前に座った。「お仕事のお帰りですか?」
「いや」わたしは首を振った。
「お水系、ではない?」
「違います」
「えーと、じゃあ何してる人か全然わかんないなあ。てかまだ若いでしょ」
「はい」
「いいなあ。若いでしょ。はい。って即答できるって」
「お姉さんはおいくつですか?」
「21」お姉さんは言いたくないことを言うように顔をしかめて言った。
「私は20です。1個違いですね」
「その一個が大きいんだよお。あ、紹介が遅れました。リマと申します」
 反対にしたらマリだな、と思いながら「よろしくお願いします」と言った。
「何か女の子によろしくお願いしますって言われると、ドキッとするね。知らない扉が開きそう」そう言ってリマという人は笑った。「お酒は何飲む?」
「何がありますか?」
「焼酎、ウイスキー、ブランデー」
「どれが軽いですか?」
「焼酎じゃないかな。よくわかんないけど」
「じゃあそれを頂きます」
「頂きます、とか言われると恐縮するね」そう言いながら、リマという人はグラスに氷を入れ、緑色のボトルの焼酎を入れ、水を入れ、黒いマドラーでくるくるとかき回した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「タバコは?」
「吸わないです」
「吸わなそう。スポーツやってた?」
「部活とかはやってませんでした」
「意外。運動神経良さそうなのにね。大きいし」
 会話の隙間を見つけてお酒を飲んでみる。……悲劇的に美味しくありませんでした。そして何だろうか、楽しくもなかった。全然。
「あの」と言った。
「ん?」
「男の人とはどういう会話をするんですか?」
「普通だよ。でも、異性との会話ってのは、恋愛が中心だからね。実際にするにしろ、しないにしろ」
「どういうことですか」
「キャバクラに何を求めに来るかって話なんだけど。ほら、昔ゲームあったじゃん、プレステか何かで。何だっけ、ときめき何とかみたいな名前の」
「わからないです」と言った。
「昔の彼氏の部屋にあってさ、私結構ハマっちゃったんだけど、あんな感じじゃないかな」
 そのゲームがわからないから、あんな感じと言われてもわからなかった。
「実際にお客さんと会ったりすることはあるんですか?」
「あるよー」軽いノリでリマという人は言った。「お金持ってそうな人だけだけどね」
「こういう質問は失礼かもしれないですけど、リマさんはどうしてここで働いているのですか」
「お金じゃない? 居酒屋で働くより何倍かもらえるもんね。あなたは? 何をしてる人?」
「パン屋店員、です……」
「パン屋? パン屋さんの給料でキャバクラに飲みに来れるの?」
「いや、こういうところに来たのは初めてなんです」
「何何? パチンコでも勝った?」
「まあ。そんな感じです」
「いいなあ。私もたまにやるけど、全然勝てないよ」
「へえ。パチンコするんですね」
「たまーにね」
 お酒はまずかった。ただの世間話も楽しいとは言えなかった。それでも寂しくはなかった。そうか、大人の男の人はこうやってお金を使うのだな、と思った。家庭を持っている人が多いはずなのに、どうしてそんな風にお金を使うのだろう? そんなことを考えていると、また少し寂しくなった。
「彼氏はいる?」リマさんは言った。
「いません」と言った。
「いつからいない?」
「半年くらいです」と嘘をついた。本当は1年半だった。
「もったいないじゃん。そんなにスタイルいいのに」
「背が高いだけです」
「飲む街を変えたらどう? 新宿とかじゃなくて、青山とか、六本木とか。あっちの方がモテるような気がするなあ」
 デイビッドに六本木に連れて行ってもらったことを思い出した。確かにあの夜は楽しかった。生まれて初めてお酒を飲んで、踊って、色々な人と語り合って……デイビッドが殴られるまでは。
「おーい。帰っておいでー」リマという人は言った。
「え?」
「今どっか行ってたよ」と言ってリマという人は笑った。

       ◆

「いらっしゃいませ」という男性店員の声が聞こえ、急にガヤガヤと賑やかになったな、と思うと、団体客がわたしとリマさんの座っているテーブルの隣の席に座った。
「あらあ、あなた、女の子一人で来てるの?」男性なのか女性なのかわからない人がわたしに向かって言った。
「はい」
「どうして?」
「ええと……」
「長い話?」
「長いです」
「じゃあ、ちょっと後で聞きに来るから待っててね」
「あの」と言った。「もう1時間が過ぎてしまうので」
「そんないけず言わないの。ちょっと待ってね」と言って、その人は一緒に来た初老の男性に声をかけた。「ねえ、ねえ、社長、この子、一緒に飲みたいんだけど、いい? さすが社長」その人はわたしに向かってウインクをすると、「一緒に飲みましょう。ご馳走するわよ」と言った。
「いや、帰らないと」とわたしは言った。
「どうして? 予定でもあるの?」
「いや、見ず知らずの人にご馳走になるわけにはいかないので」
「さっき長い話があるって言ってたでしょ。そのお話を聞きたいの。その代金ということじゃ、ダメかしら」
 その人は明らかに男性だった。でも、その話し方は、わたしの好きな文語のようだった。その喋り方に興味が出て、「少しでしたら」と言った。
「ちょっとーボーイさーん」その人は大きな声で言った。「この子、こっちのテーブルに移るわよ」
「よかったねえ」リマさんという人が耳打ちするように言った。「あのおかまバーのママの隣にいるおじさん、超金持ちだよ」

       ◆

「お金を貯めると寂しさは消えますか?」不躾とは思ったが、思い切って聞いてみることにした。
「お金と寂しさをどうして繋げるのかな」お金持ちさんは不思議そうに首をひねって言った。「お金はただの数字に過ぎず、寂しいというのは感情に過ぎない。それは違う分野の問題だ。数学と国語くらいに」
「……」
「不躾ねえ、もう」と言ったのはおかまバーのママという人だった。

つづく
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