どれだけお金を積んでも買えないものはある、と青豆は思った。たとえば月

村上春樹「1Q84」BOOK1
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月と小鳥と


不定期連載
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「繊月(二日月)」

11月17日 土曜日

 待ち合わせ場所に現れた田所げせなは、黒いスーツに白いシャツ、黒いネクタイに黒いウイングチップを履いていた。まるで喪服だ。
「こんばんは」と言った後、「あの、永里蓮は?」と聞いてみた。
「ああ、何か打ってる台が連チャンしてるみたいで、終わり次第来るって言ってたよ。店を予約しておいたから、先に行きましょう」
 その店は、いかにもオーナーがノリで二十代でオープンしました、みたいな軽薄なカフェバーで、とても居心地が悪かった。
「何を飲みますか」と田所げせなが聞いてきたので、ウーロン茶を頂きます、と言った。
「お腹は空いてませんか?」
 わたしは首を横に振った。
 田所げせなは生ビールを大ジョッキで注文し、それを美味そうにゴクゴク飲んだ。その一杯を飲むためなら平気で他人の魂を悪魔に売り飛ばす、嫌な人間の飲み方だった。
「小島りこさんは二十歳になったんですよね。お酒はお嫌いですか?」
「嫌いというよりも、怖いです。違法ドラッグと何が違うのかわからないくらい」
「ははは」と田所げせなは笑った。
「小島りこさん。この前も言いましたけど、彼に対して永里蓮という名で呼ばないでくださいね」
「でも、彼は自分のことを忘れてるんですよね」
「というよりも、彼は今、自己を消失し、不安定な状態なんです。そんなときにいたずらに精神を煽りたくないんです」
「……田所さんは彼の記憶を戻したいんですよね」
「そうです。でも、私の欲しいのは完璧な記憶です。中途半端なものはいらない」そう言って田所げせなは大ジョッキのビールを飲み干して、新しいものをお代わりした。

 有線のJ−POPが流れていた。浜崎あゆみ、矢井田瞳、モーニング娘。わたしはかつて母の店で働いていたとき同様、頭の中をオートモードにし、時間を先送りするように努めた。目の前の人が喋ってるのは意味のある言葉ではない。存在を肯定してもらいたいだけの甘えなのだ。だからわたしはうなずく。あなたがそこで偉そうに座っていてもいいのだとうなずく。

       ◆

 永里蓮が現れたのは午後11時を回ったところだった。
「遅れてすいません」と永里は言った。
 ボロボロのジーンズに、ファーのついたジャケット、クラークスのワラビー。先日と同じ格好の永里は、ご飯を食べているのか心配になるほど痩せていた。
「何飲む?」と田所げせなは言った。
「シャンパーニュ飲みたいっすね」永里は屈託のない顔で言った。
「シャンパンはある?」田所げせなは熱心に日サロに通ってますというような店長風の男に聞いた。
「グラスだったらカフェパリがありますけど」
「シャンパンじゃないじゃん」と言って永里は苦笑した。「ボトルだと何があるの?」
「フレシネとアスティがあります」店長は少しムッとした表情で言った。
「カヴァとスプマンテね。シャンパーニュはないのね。じゃあフレシネでいいや。グラスは三つね」
「おいおい」と言って田所げせなは解せないというような表情を浮かべた。「酒に詳しいからって別におまえが偉いわけじゃないからな」
「別に詳しくないっすよ」と言って永里は口元を歪めた。懐かしかった。誰彼構わず喧嘩をふっかけるときの彼の表情だった。
「ふん」田所は嘆息した。
「じゃ、ま、乾杯しますか」永里は言った。
「この子はお酒飲まないって」田所げせなは言った。
「いや、付き合いなので頂きます」わたしは言った。
 今度は田所げせながムッとした表情を浮かべた。
 なぜかはわからないが、永里の顔を見た瞬間に、決定的な出来事が起こる予感がした。よいことにしろ、悪いことにしろ、わたしの人生が根底から覆されるような何か。わたしはそれを祝福したかった。まだ未成年のはずの永里は、慣れた手つきでスパークリングワインのボトルからコルクをポンと抜き、水あかの跡が少し残る背の高いグラスに発泡性の液体を注いだ。注ぎ終わった後で永里はグラスをわたしと、それから田所げせなの目の前に置いた。
「乾杯」永里がぶっきらぼうに言った。
「乾杯」田所げせなが続く。
「乾杯」
 冷たく硬質な液体がノドを通っていく。美味しいかどうかはわからない。ただ、冷たく、硬く、少し重い感触だった。
 お酒の余韻に浸るように少し下を向き、次に顔を上げると、ボトルの首を持って天井の方に掲げている永里の姿が目に入った。あ、こぼれる、と思う。しかしスパークリングワインがフロアにこぼれる間もなく、彼はそのボトルを力一杯振り下ろしたのだった。ガチンという頭蓋骨とボトルがぶつかる音ととも田所げせなは背の高い椅子から転げ落ちた。
「山崎、行くぞ」と永里は言った。

つづく
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※シャンパンはフランスシャンパーニュ地方のブドウのみを使ってシャンパーニュ製法(瓶内二次発酵、15か月熟成)で作られたスパークリングワインの事。フレシネ・コルドン・ネグロはシャンパンとほぼ同様の製法で作られたスペインのスパークリングワイン。アスティ・スプマンテ(マルティニ、サンテロ、チンザノなど)はイタリアの甘口スパークリングワイン。