どれだけお金を積んでも買えないものはある、と青豆は思った。たとえば月

村上春樹「1Q 84」BOOK1
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slot-story chapter4 1/2 day-1

月と小鳥と


不定期連載

物語の始まり「半月」に戻る


「そしてまた新月がやって来た」


 デイビッドが帰国してしまった。最後の授業が終わった後、あの流暢な日本語(口語)とは程遠い下手くそな字で書かれた手紙をもらった。

 小鳥ちゃんへ

 あなたにはどこかしら人と違うものがあるような気がしました。それは日本人とかそういうことではなくて、人間として特別なもののように思います。ぼくはカナダに戻ってもう一度日本文学を学び直そうと思います。また会いましょう。

          でいびっど

 ひらがなで書かれたその文字が異様に間抜けだった。智美ちゃんは意気消沈しているかと思いきや、デイビッドを追ってカナダに行くんだ、となぜか元気いっぱいだった。

 わたしはというと、英語に対する熱が冷めていた。というか、英語だけじゃなくてすべてに対する熱が冷めていた。のみならず、小さなことにイライラする。街を歩いていると流れてくる浜崎あゆみに。冬の装いに。政治家の言動に。911以降変わってしまった世界に。

       ◆

 2001年11月16日 金曜日

 小島さんのパンから潤いがなくなった。ほとんどのお客さんは気づかないかもしれない。でも、わたしにはわかる。
「パンが美味しくなくなった」わたしは言った。
「そう?」怪訝な顔で小島さんは言う。「たまたまじゃない?」
「たまたまじゃない。多分、もう小島さんはもう美味しいパンを焼けない」
「何でそんなこと言うんだよ」
「顔色悪いよ」小島さんの顔色が青白さを通り越してまるでアースカラーだった。「少し休んだら?」
 小島さんは首を振った。それから開店準備をした。小島さんが倒れたのはその日の午後だった。

       ◆

「すまん」小島さんは病院のベッドの上で申し訳なさそうに頭を下げた。それから天井の模様(ドット)を数えるように目線を動かし、腕に伸びる点滴の管をさすった。「店は開けられないけど、当面は保険で何とかなると思う。迷惑をかけてすまない」
「小島さん」わたしは言った。
「ん?」
「ギャンブルをする人のことをどう思いますか?」
「ギャンブルって?」
「パチンコとか、カジノとか、麻雀とか」
「おれは向いてないからな」小島さんは点滴のささっていない右手で頭をかいた。
「向き不向きの問題ですか?」
「ギャンブルってのはゲームだろ? ゲームってのはルールの上で勝敗を決めることだ。おれは争いごとが苦手なんだよ」
「じゃあ何が得意なの?」
「そうだな」と言って小島さんは天井のドットを見つめた。「自分が決めたことを守ることかな」
「自分との勝負はゲームじゃないの?」
 小島さんは首を振った。「勝とうと思ってないから。というか、勝てないよ。勝てないから、決め事を守る。そうやってずっと生きてきた」
「でも、欲しいものができてしまった」
 小島さんは視線を天井から中空に移し、しばらく口を結んで固まっていた。
「そうだね」
「小島さんはあの人とやり直せると思ってたんですね」
「……うん」
 その瞬間、気づいてしまった。自分の中にある小島さんに対する好意に。多分に反面教師的であるにしても、小島さんは初めて言葉じゃなくて態度で人のあるべき姿を示してくれた人だった。
「小島さんはわたしといて楽しい?」わたしは聞いた。
「楽しいよ」
「でも小島さんはわたしがあの人の娘だから一緒に暮らしてるんでしょ?」
「……すまないけど、まりちゃんの話はやめてくれないか」
「わかった。また来ます。お大事に」
 小島さんが何かを言っていたが、わたしは聞かずに病室の外に出た。

       ◆

 病院を出て、一直線にパチンコ屋までの道を歩いた。そこに来れば永里蓮に会えると思った。でも、そんなことはなかった。その後もわたしは探し歩いた。うるさくて臭い空間を。でも、永里蓮には会えなかった。
 わたしは折りたたみ式の携帯電話を取り出して、電話をかけた。
「もしもし」相手は2コール目に出た。
「あの、わたしは、マリーズベーカリーの……」
「小島りこさんですね。電話ありがとう。どうしました?」
「不躾(ぶしつけ)な質問ですが、永里蓮がどこにいるか、教えてもらえませんか?」
「それは、彼の記憶を取り戻してあげよう、という気持ちが固まったということですかね」
「そう受け取ってもらっても構いません」
「いや、そんな曖昧な言葉ではいけません。これは交渉です。交渉において大切なのは、お互いの取り分をしっかり天秤に乗せることです。その天秤が均衡を保つにせよ、どちらかに傾いているにせよ、お互いがその重みに納得しなければ交渉とは言えません。私があなたにお願いしたいのは彼の記憶を取り戻すことです。あなたの願いは何ですか? 小島りこさん」
「彼に聞きたいことがあるんです」
「それはどういう内容ですか?」
「あなたには言えません」
「永里蓮にしかできない質問ということですか?」
「はい」
「小島りこさん、彼は今、ひどく不安定な状況にいます。保護者としてはその不安定さを取り除きたい。そのためには彼に与える情報はできる限り上質なものに限定したい。これが親心です。どういうことを聞きたいのか、きちんと言えないのであれば、許可できません」
「そうですか」と言いながら、考えた。それから言った。「わたしは彼にギャンブルの勝ち方を教えてもらいたいんです」
「ギャンブルの勝ち方?」田所げせなは解せないとでも言いたげな言い方で言った。「お金が必要であれば、あなたがすべきはギャンブルではなく、仕事ではありませんか?」
「お金が欲しいわけではありません。今はどうか知りませんが、かつての彼は勝負事に強い人間でした。わたしも勝ちたいんです」
「勝ちたい? よくわかりませんね。あなたはこの間、永里蓮に会った。そのときあなたが彼に何をしたか、忘れてしまったんですか?」
 わたしは携帯電話の前で首を振った。
「いいでしょう」これ以上の議論は無意味と悟ったのか、田所げせなは声のトーンを重厚なものに変えて言った。「わたしも立ち会いますが、構いませんか?」
「はい」と言った。
「では、明日の午後10時に在原駅の改札に来てください」

つづく
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