みな知ってると思ってた、
だけどもそれはうそでした。

空は青いと知ってます、
雪は白いと知ってます。

みんな見てます、知ってます、
けれどもそれもうそかしら。

金子みすゞ「海とかもめ」より

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slot-story chapter4 1/2 A full moonⅡ 

月と小鳥と


不定期連載


「続(続) 満月」

 しょうがない。閉店作業をストラグルしましょう、と思いながらパン屋さんに戻ると、わたしが出て行ったままの状態なことに驚いた。売れ残りのパンがまだ陳列(ちんれつ)されているし、レジもそのままだった。鍵も開いたままだ。小島さんはどこに行ったんだろう。厨房(ちゅうぼう)に入ると、真っ暗な部屋に酵母の匂いが充満していた。電気をつけると、厨房の中央で、小島さんは呆然とした顔で体育座りをしていた。
「どうしたんですか」と聞いた。
「まりちゃんが」小島さんは言った。「まりちゃんが……」

       ◆

 まりちゃんというのは母のことだ。母は当時の日本人にしては背が高く、破格にスタイルがよく、モデルの事務所にいたこともあるのよ、というようなことを自慢するような人で、長いこと銀座の夜の蝶(これも母の言葉だ)売れっ子ホステスとしてブイブイ(これも)いわしていたという。母がわたしの生活に関与することはほとんどなかった。授業参観も、三者面談も、来てくれるのはお父さんで、お父さんが死んでからはわたしの世界はわたしだけのものになってしまった。

 わたしの世界に再び母が現れたのは通信制の高校に通いはじめたばかりのことで、店を手伝え、という一方的なものだった。そこでわたしが目撃し、体験し、体得したものは、大人への失望と、侮蔑(ぶべつ)、そしてある種の諦念(ていねん)だった。当時はこんな言葉は知らなかった。わたしは英語をストラグルするうちに、日本語を学んだように思う。かつてゲーテという人はこういうことを言ったという。他言語を知らない人間は、自分自身の言語について、何も知らないのだ、と。それでもわたしのこの脱線癖はちっとも直らない。すいません。

 母の店は一言で言うと、中年の男がアルコールを体内に取り入れ何かを発散する場であり、母はそこの雇われ店長、チーママという仕事をしていた。わたしは彼らに水割りをつくり、相槌を打ち、それから乞われて歌を歌った。しかしわたしはお酒を一滴も飲まなかった。何があっても飲まなかった。

 母はこんなことを言った。あんたはどうしてそんなに頭が悪いのだ、と。男性は利用しなければいけない。だから彼らに対しては特別な対応を心がけなければいけない。喋り方を心得なければいけない。so what? そう、母はわたしを利用したのだ。当時は誰もが知っているような企業で働いていた小島さんに近づくために。
 わたしは母が憎くてしょうがなかった。母の血がわたしに流れていることに我慢ができなかった。母はいつもこんなことを言ってわたしを侮辱(ぶじょく)した。あんたは間が抜けている、と。母は店に出るときはマリと名乗った。源氏名としては地味だが、きっと母は子が煩(わずら)わしかったのだ。それからお父さんのことも。母の本名は真理子。りこはお父さんがつけてくれた名前だ。

 (まりちゃんまりちゃんばかりで)二の句を告げない体育座りの小島さんを厨房に残して閉店作業に戻ることにした。レジを閉める。売れ残ったパンを片付ける。掃除する。よし。これで明日を迎えられる。清清しい思いで厨房に入ると小島さんがつぶやくように言った。
「まりちゃんが死んじゃった」

つづく
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