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イケダハヤトという人が、こんなことを言っている。

サラリーマンブロガーの記事が超つまらない理由


くわしくはリンクを読んでいただくとして、大見出しを列挙。

サラリーマンやってる人のブログはつまらない

1.守りに入っている

2.変化が遅すぎる

3.みんなと同じようなことしか書けない

4.応援したくならない

ブログはアートなんですよ


だそう。

この人の文章のすごさは、すべての主義主張がツッコミ待ちなこと。……はあはあ。ノドからからやわ。

以下、文中で極まってる箇所を抜粋。

→はじまり

ぼくら本気のブロガーは、一日中ブログのことを考えています。データを見て、PDCAを回しています。毎日のように書いているので、ブログを書くスピードも上がります。

ぼくは今や、1日15本の記事を生産できます。毎日10本更新を365日続けて、3,650本。サラリーマンブロガーはせいぜい1日に1本でしょうから、365本。そりゃ、上達のペースは違
いますよね。はい論破。

←おわり


論破ねえ。誰と戦ってるのでしょうか。たぶんこの人の文章がスカスカなのは【ツッコミを待つ間】という解釈でいいと思われる。それはそうと、この仕事量を誇る感じ、実に社畜的。サラリーマンが非アートで、ニートがアート? この理論、ファシズムを通り越してジャイアニズム。

フランツ・カフカが保険局に勤めていなかったなら、彼の作品世界はあれほど奥行きを持ったものになっただろうか? 夏目漱石が朝日新聞社に入っていなかったら、今日(こんにち)の日本の小説は存在しなかった。これは間違いなく。制約と誓約。表現の歴史を紐解いてみると、むしろ制約が自由な表現方法の母胎になることのほうが多い。自分の職をアートに転換した人間は、古今東西いくらでもいる。何も考えずに仕事を辞めるのはただの蛮行であり、その行為が作品の質を担保することはない。ありえない。

そもそも仕事をしている=守るものがある。仕事をしていない=守るものがない。という単純な構図でものごとを捉えようとすること自体が、縦割り的な、ある種のサラリーマン的発想に思えてならない。

表現(ART)の泉は誰にでも開かれている。その泉の水を飲みたければ、いつでも誰でも好きなときに汲めばいい。しかしその代償は生命だ。命をベットすることに仕事をしている/していないは関係ない。ただし、プロブロガーの言葉を真に受けて仕事をやめてしまう人間が、その覚悟を持っているかどうかは甚だ怪しい。

ぼくの考えるアートの泉の前に立たざるを得ない呪われた人間の条件はただひとつ。すでにしている、ということである。

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