みな知ってると思ってた、
だけどもそれはうそでした。

空は青いと知ってます、
雪は白いと知ってます。

みんな見てます、知ってます、
けれどもそれもうそかしら。

金子みすゞ「海とかもめ」より

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slot-story chapter4 1/2 A full moon 

月と小鳥と


不定期連載


「満月」


 永里蓮という人は、通信制の高校に通っていたときのクラスメイトだった。わたしは17歳で、永里は多分16歳だった。
 あの頃、世界はこんな形をしていなかった。わたしはまだ鳥かごの中にいた。山崎りこ。それがわたしの名前だった。母のいた店のカラオケで歌を歌うことが、多分唯一の趣味だった。今となってはどんな歌を歌っていたのかすら思い出せない。時間というものの使い方がわからなかった。ただ流れて、流されて。ストラグルという概念も、そのやりかたもわかりませんでした。

 本当に何もわからなかった。……何の話だったっけ? ああ、狼男さんの話でした。その男は紺色のジャケットにパリッとした白いシャツを着て、黒い細身のパンツを穿いていた。それから光沢のある黒い靴。
「あなたは誰ですか」とわたしは聞いた。
「失礼しました」男は言った。「私は田所げせなと申します。今は永里蓮の保護者のようなことをしています」
「……」
 頭の中がぐるぐるしていた。ぐるぐるはクエスチョンマークのような形をしていた。永里は通信制の高校を途中で辞めてしまった。何の前触れもなく、ぷつっと。あの頃は悲しかったような気もするけれど、そんな気持ちはもうとっくに忘れてしまった。
「あなた、永里蓮という男が憎いでしょう?」田所げせなという人はそう言った。
「人を恨んではいけないと父に言われたので、わたしは人を恨みません」
「うーん、困ったな」男は言った。
「どうしてですか?」とわたしは聞いた。人が困っているとわたしも困ってしまう。
「いや、こちらの話です。すいませんでした」そう言って男は店を出て行った。わたしの心にぐるぐるを残したまま。
 そんな客がいたのだ、という話を(永里の部分は言わずに)小島さんにすると、「今日は13日の金曜日だね」という言葉が返ってきた。「それに、今夜は満月だ。狼男対ジェイソンってどっちが勝つんだろうね」
 小島さんの言ったことについて少し考えたけど、何を言っているのかよくわからなかったので無視をして、自分の部屋に入ることにした。あの頃はまだ20世紀で、わたしは通信制の高校に通う女子高生だったのです。

       ◆

 それ以来、田所げせなという男は、決まって満月の日にパン屋さんにやってきた。そのたびに、「狼男が来たぞ」と小島さんは言った。小島さんはつまらないことを平気で口に出す人であり、だからお母さんは別の人を好きになってしまったのだ。でも、それはルール違反のように思う。一度結婚したのに、そんな理由で出て行くのはダメだと思う。だからわたしはここに残った。どうしてわたしの話はこうやってすぐに脱線してしまうのだろう? すいません。ともかく、狼男さんは他愛のない話を3つ4つ、その後で永里蓮の話をひとつして、バゲット(フランスパン)を1本買って帰っていくのだった。わたしはもう永里がどういう顔をしているか忘れてしまったのに、狼男さんの顔は思い出せる。それって変だな、と思うし、狼男さんが来ることによって永里蓮という人間を思い出してしまうのが嫌だったけど、あんまり難しいことを考えて過呼吸になるのも嫌なので、わたしはパンの香りを深く吸い込んで紛らわすのでした。 


「小島りこさん」狼男さんは言う。わたしのことをフルネームで呼ぶ人は珍しいので、わたしはいつも警戒感で体がこわばってしまう。そしてこわばりながらも、うなずくしかなかった。それは戸籍謄本に載っているわたしの名前だから。
「彼が記憶を失ってしまったという話はしたよね」
「はい」
「誰が彼の記憶を奪ったと思う?」
 わたしは首を振った。
「私だよ」狼男さんは言った。
「……何でそんなことをするんですか?」
「仕事だからね」
「しごと……」
「でも、そんな私でも、罪悪感というものがある」狼男さんは芝居がかった表情で言った。「そこで、どうだろう? 君が一度会って、それで、彼がもし、記憶を取り戻すことができたら、私は罪悪感を感じずにこの仕事から手を引けるんだけど」
「……」
 小島さんが戻ってきて、話は世間話に変わった。いつもそうだった。小島さんがいる前では、狼男さんは狼を前にした子羊のように弱々しくふるまうのだった。だから小島さんは、田所げせなという人のことを下に見て、狼男が来たぞ、と言うのだ。じゃんけんみたいだ。グーはチョキには勝つが、パーに負ける。チョキはパーに勝つが、グーに負ける。パーはグーには勝つが、チョキに負ける。わたしは? できればハサミになりたい。グーに負けない普通じゃないハサミに。
「また来ますね」と言って狼男さんは帰っていった。

 しかし、閉店直後のパン屋さんにやって来たのは狼男さんではなく、ファーのついたジャケットに古びたジーンズを穿いた金髪の男だった。そう、アイツだ。

つづく
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