一跳(ひとは)ね、跳ねれば、昨夜(ゆうべ)見た、
お星のとこへも、行かれるぞ。
  ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。

金子みすゞ「きりぎりすの山登り」より


       φ φ φ


よし、高校は遊ぶために行こう、と決意したのは中三の秋だった。

そのためには、校則は緩くなくてはいけない。しかし校則が緩いといっても、「特攻の拓」に出てくる乱高(私立聖蘭高等学校)や、「クローズ」に出てくるカラスの学校(鈴蘭男子高等学校)みたいなところでは、遊ぶという概念が違ってきてしまう。上等だよ。じゃ、ねえ。ウインドウズ95の登場を間近に控えた時代、調べるといったら書物しかなかった。そこで本屋に向かい、高校受験のためのガイド本(そんなものがあったのだ)みたいのを片っ端から読み、リサーチを重ねた。ぼくの得意科目は数学以外だった。というか、数学だけが苦手だった。3教科で勝負する私立は分が悪い。ということで、ぼくの家から通える範囲で最も校則が自由であろう公立の高校に受験を決めた。当時通っていた塾の先生は、おまえの学力だと厳しいぞ? と言った。ぼくは首を振った。そして自信満々に言った。「大丈夫です」と。その先生の専門は数学だった。彼はぼくの数学以外の実力を知らないのだ。が、一応、滑り止めの高校は受けます、と言った。塾講師の顔を立てるのも大変だ、と思いながら。

そして滑り止めの高校の入試日がやってきた。ぼくはその新品同然の高校の教室で震えていた。(数学の)問題の問うている意味がわからないのだ。無だ。ぼくの頭の中はカラッポだった。それはまるでゼロを発明した国、インドが生んだブッダの教え、空(くう)のように。

空即是色、色即是空

家に帰って答えあわせをする気にもなれなかった。ゼロはゼロ。どう見積もっても0点。国語と英語はそれなりに解けた。が、たとえ両者が90点だったとしても、3教科トータルで180点。平均60点。受かるわけなくね?

……まあいい。私立はただの滑り止め。本命は違う。ぼくは頭を切り替え過去問を解きまくることにした。他の教科はコンスタントに90点を超えることができた。が、数学だけはどうしても50点を超えない。志望校の合格ラインは420~30点と言われていた。ということは、数学が50点だった場合、落とせる点数は30点。他の4教科で92.5点というアベレージを出さなければいけない。超ハードモードである。つうかこういう計算はできるのに、何故数学の問題になるとできないんだ? わからん。ともあれ、どうにか数学を70点レベルまで引き上げなくてはいけない。

ティラミス。そのイタリアのデザートは、「私を引き上げて」という意味がある。勉強には全然関係のないトリビアにへえ、とうなずく。勉強に集中したくない脳みそはあの手この手で誘惑をする。週間少年マガジンのグラビア。部屋の汚れ。ラジオから流れてくるミュージック。数学の点数は上がらなかった。もしかしたら、と思う。ぼくの頭はどこか問題があるのではないか? そういえば小さい頃、頭をぶつけたという。それじゃないか? もしかしたらオラも孫悟空的に能力を封じられたんじゃないか?

……頭を振った。頭をぶつけたせいで数学ができなくなったとしても、ぼくは今、この頭を使って数学の問題を解かなければいけないのだ。

そんなこんなで滑り止めで受けた高校の合格発表の日がやってきた。目を疑った。受かっていた。どういうことだ? これが併願なんちゃらの効果だとしたら(そういう制度があった)、テストやる意味ないじゃん。まあいいや。やることは変わらない。家帰って勉強すんべ。

……と、帰りの電車の中で週間少年ジャンプを読んでいると、同じ高校を受験したであろう中学生がシートに座るぼくに声をかけてきたではないか。
「てめーさっきおれのこと見ただろ?」
 え? 何? 告白ですか? と言いたい気持ちを抑え、息を吐く。またぞろぼくの目の悪さが問題を引き起こしたのだろうか(中学生のぼくは、街を歩くたびに「おめえガン飛ばしただろ、と声をかけられる天賦の才能に恵まれていた)。あるいは彼は、ぼくが合格したあの高校に落ちて誰かを殴りたくてしょうがないのかもしれない。が、こんなところで目立つわけにはいかない。ぼくには数学の勉強が待っているのだ。無。無。無。しょうがないのでぼくは無心で彼の眉間を見つめた。表情を変えず、彼の言葉には一切返答せず、ただ眉間を見つめた。内心、ビビっていた。気まずくなってジャンプに戻った。ジャンプの内容が全然入ってこなかった。いつもより電車がゆっくり進んでいるような気がした。それでも駅がひとつ、ふたつ、みっつ、過ぎていく。そしてぼくは立ち上がり、電車を降りた。彼は追ってこなかった。

       φ φ φ

大人になると苦手なことをしなくなる。だから自分に劣等感があった時代のことがうまく思い出せない。ただ、ぼくは悲観的にはならなかった、と思う。勉強漬け、ということもなかった。適当に息を抜いた。

そして黙々と過去問を解き続けた。やったのはほぼそれだけだった。結果、試験当日の数学では70点を取ることができた。結果、志望校に合格した。そこでぼくは、初期衝動のまま遊び呆けた。有言実行。勉強はまったくしなかった。そして戻れない場所まで来てしまった。あのとき志望校に受からなかったら、あるいは違った未来があったのかもしれない。でもそれは数学ができない理由に頭をぶつけたことを持ち出す中学生のぼくと同じだ。

今できること以外にできることはない。今持っているもの以外を使うこともできない。ぼくは今でもそう思う。そして今も遊んでいる。遊ぶために学んでいる。生産性でアリに負けたとしても、キリギリスにはキリギリスの学びがある。
にほんブログ村 スロットブログへ