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xyz♯96
第三章「永里蓮、絶望の淵で」 

 

 die verwandlung

 ドアには薄れた文字でそう刻まれていた。読めなかったし、外観から何の店かを推し量ることは難しかった。店の中は洞窟のように暗かった。

「いらっしゃいませ」女性の声がした。「こちらへどうぞ」
 ふかふかのローソファに座り、良い香りのするおしぼりを受け取った。
「どうしましょう」バーテンダーは言う。
「XYZをください」
「かしこまりました」
 抱きしめたくなるような分厚い木のカウンターだった。大きなスピーカーからは古い英語の曲が古い音質で流れていた。
 氷と氷が銀色の筒の中でぶつかる小気味良い音が店内に響き、足の長い、円錐形を逆さにしたような格好のグラスに白っぽい液体が注がれた。「お待たせしました。XYZです」バーテンダーはそう言って手元を照らすスポットライトの下にカクテルを置いた。
 おれはその女性の脚線美みたいなグラスを持って口をつけた。氷片と一緒に液体が食道を滑っていく。鼻に残る柑橘類の香り。口に残る甘みと酸味。食道に残る冷い感触と、胃に残った温かみ。
「美味しいです」と言った。 
 ありがとうございます。土橋鞠というネームプレートをつけた女性バーテンダーは言った。
「昔ね」おれは言う。「ここでこのカクテルを飲んだんです」
「私、いました?」
「いえ。1999年の5月やったかな」
「けっこう経ちますねえ。まだ若そうに見えるのに」
「義父(ちち)に連れてきてもらったんです」
「ちょっと待ってくださいね」そう言って、バーテンダーは年季の入った分厚い手帳を持ってきた。「これかな。お父さんと来た高校生。ビンゴ?」
「すいません。それです」苦笑した後で聞く。「そのときにいたバーテンダーの方は今どこに?」
「引退しました」女性バーテンダーは言った。
「そうですか……」

 飲み終わるのがもったいない気もしたが、数口でXYZを飲み切った。
「もう一杯どうですか?」バーテンダーは言う。
「はい。おまかせします」
 バーテンダーの所作を眺めながらカクテルを待つ時間。失われた夢を見ているみたいだった。
「お待たせしました」
 おれは華奢なグラスを手に持って、その仄かに茶色いカクテルを飲み込んだ。小さな森の精が口の中で魔法をかけたような感覚があった。
「ありがとうございます」バーテンダーは深々と頭を下げる。
「何がですか?」
「先代との約束を守ってくれて」
「約束?」
「そのカクテルはお客様が最後にご来店された際、先代がつくったものです。ベースのラムを2種類使ったXYZ。荒々しいホワイトラムと、熟成されたダークラムと」
 そうか……『大人になったらまた来てください』そんなことを言われたっけ。
 あれから何年が経ったのだろう? 古い音楽が空気のように場を満たしていた。タバコを吸いたいなんて思うのは久しぶりな気がした。
「お名前をお聞きしてもいいですか?」バーテンダーは言った。「実は先代は父でして。父に伝えます」
「永里蓮と言います」
「ナガサトレンさんですね。私は土橋鞠(ドバシマリ)と申します」
 カラン、という音とともに古めかしいドアが開いた。
「いらっしゃいませ」バーテンダーは言った。
 その客は、今にも泣き出しそうな阿呆面で立ち尽くしていた。
「こっちこっち」おれは言う。
「レンくん」涙を流しながら、そいつは近づいてくる。
「くっくっく」と笑う。「挨拶は抜きにして、おまえも飲めよ」
 バーテンダーがシェイカーを振り、そいつの手元にカクテルグラスを差し出した。
「XYZです」
「いただきます」そいつは涙をぬぐい、カクテルグラスを持ち、おそるおそる口に近づけ、そして素っ頓狂な声をあげた。「うまい!」
「おまえほんとに味わかって言ってる?」
「うん」そいつは笑顔で言った。「何か、爽やかな感じ?」
「爽やか、ね」
「レンくん、何で笑うんだよ?」
「それ、究極って意味のカクテルなんだぜ」





おしまい
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あとがき