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第三章「永里蓮、絶望の淵で」

 
 それが、レンくんの記憶だった。

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 記憶は波のように、寄せては返す波のように揺れていた。

 結局、レンくんは東京湾では死ねなかった。その場に駆けつけた俺のオヤジ、黄泉に助けられてしまったのだった。目覚めた後で、氷野さんは死んだと聞かされた。絶望したレンくんは自殺未遂をくりかえす。しかしそのたびにレンくんは助かってしまう。誰かの手によって。レンくんのお母さんはレンくんの記憶の一部を消去するために、脳研究を専門とするベンチャー企業の中枢にいた研究者と再婚した。記憶を塗りつぶすには果てしない反復が必要だった。人間関係が希薄であり、かつ単純な反復動作をくりかえすには、パチ屋はうってつけの場所だった。最初の2年は在原の祖母の家で暮らし、今間、在原のパチ屋に通った。その後でレンくんは一人暮らしをはじめた。研究者は田所を名乗り、レンくんの保護者として、また、監督者としてふるまった。レンくんは来る日も来る日もスロットを打った(またはパチンコを打った)。ただひたすらにスロットを打った(またはパチンコを打った)。レンくんに許されるのはパチ屋の中でスロットを(またはパチンコを)打つことだけだった。スロットを打つ(パチンコを打つ)。食事を取る。眠る。それだけの日々が10年以上続いた。

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 羽生亘宏という人は、イマ中の伝説の人物だった。今間、在原を巻き込んだ天下一武闘会の提唱者、主催者であり、初代覇者。羽生さんがつくったAI連合は、今でも悪ガキたちの語り草となっている。レンくんが越してきた頃と違い、今間と在原の関係もずいぶん改善した(紫櫻会の解散。組織の介入という要因もあるにせよ)。

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 ハネレンの面々は喜び勇んで組織入りしたものの、ゴリさんは過酷さに耐えかねて早々に脱退。タカタケンジさんはある任務の最中に死亡(警察は失踪人として処理)。倉石透だけが、組織の接着剤として、班長に昇格した高崎さんの下(もと)で日々をつないでいる。

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 水沼綾香こと白取亜美さんは、希望通り大学に入学し、在学中に国家資格を取得。大学卒業後は組織の関連会社の顧問弁護士として辣腕(らつわん)を振るってくれている。

 ユキちゃんは綾香さんのことをママと呼ぶ。二人の関係性はよくわからない。女の人は組織の実態よりも秘密だらけだ。まったく。ユキちゃんはドリーム(パチンコ店)を辞めてしまった。そして俺はもちろん彼女のことを引きずっている。

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 目の前の波は、あやふやな記憶のように揺れていた。

 俺はその波の前で少し泣いた。それから落ちていた石を拾って海に投げた。ぽしゃん、という音がした。振り返ると、一組のカップルが立っていた。神戸に支店のある銀行に勤める銀行員、レンくんのかつての親友であり、組織の現会長の息子。男の名を竹田正文という。
 レンくんは保険をかけていた。自分が死んでも氷野さんが救われない可能性を恐れ、親友、竹田正文のお父さんの力を頼ったのだった。それは一種の賭けだった。非合法的な仕事をしているのなら、組織と敵対してるだろうという希望的観測だったのかもしれない。しかしタケさんのお父さん、竹田四郎もまた、組織の一員だった。久しく会話のなかった竹田正文の嘆願に、竹田四郎は氷野さんを守ることに決めた。そのことで田所りんぼと反目する羽目になったが、皮肉なことに、りんぼさんと対立することによって、竹田四郎は組織内の存在感を高め、会長に上り詰める足がかりを掴んだのだった。綾香さんも氷野さんも助かった。レンくんの試みは成功した。同時に、すべてを失った。
「どうしました?」女は言った。
「すいません」涙をぬぐって俺は言う。「竹田アキさんですよね。はじめまして。俺、田所類と言います」
「蓮に似とうな」と言ったのはタケさんだった。「何か雰囲気ちゅうか……ああ、マツゲなんかな」
「いや、蓮はもっと底意地悪い顔しとうで」女は言った。「てか、正文。やっぱ蓮生きとったんやん。うち言うたやん」
「いまさらやろ」
「蓮が死ぬわけないってうち言うたやん」
「だからいまさらやろ。何年経った思てるねん」
「昔、蓮が言うとってん。勉強する意味がわからんって。テストには絶対に答えがあるやろ。ってことは、その問題は誰かに聞けば答えがわかるやん? でも、人生に答えなんてないやん。だから勉強する意味ないやん、って」
「超理論やな」タケさんは笑った。
 タケさんと氷野さんは9年前に結婚し、小学生の子どもがいる。その男の子の名前が伝。それが氷野さんの結婚の条件だったそうだ。
「なあ田所くん、蓮、今どこおるん?」竹田アキさんは言った。
 俺は首を振る。どうして生き残ったものはこんなにも惨めなのだろう? 俺も。彼らも。誰も彼も。死んだ人間には届かない。永遠に追いつけない。ずりーよ。クソ。

 波が揺れていた。

自分を否定することを否定してみねえ? 

パチ屋に行くやつはクズ? だから何?

期待値を追っても幸せにはなれない

祈ってもいいのは自分のやれることを全部やったやつだけ。

スロットで食ってもいい理由? あるわけねえだろそんなもん。生きていいですかって誰かに聞くか?

おまえはプレイヤー? それとも見物人? どっち?

自分の頭で理解できることだけが正しいと思う。おまえは神なのか?

答えがどこかにあると思うから見つからない。それは自分が出すしかない。

モテ期? ヒキ強? だからおまえはダメなんだよ。

おれは絶対に被害者にはならない

楽しい道は、危険に満ちている

おまえにしかできないことだけをすればいい


 はじめに言葉があった。波は止まらない。言葉の波は涙で濡れた。