逃げろ。自分から。さっさとそいつを遠ざけろ。そいつは自分のことしか考えてない

永里蓮
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第三章「永里蓮、絶望の淵で」


 居酒屋を出た後、桜井さんの住むタワーマンションに泊めてもらうことになった。使っていないという和室に布団を敷いた。綾香が隣で寝ていることが、思いのほか普通だった。幼馴染とばったり会ってそのままコトに、みたいな話があるが、あんなのは幼馴染のいない人間の夢物語に過ぎない。あの頃、おれと綾香は不可分だった。そんな相手とコトに及ぶなんて、ほとんど近親相姦なのだった。
 夢を見た。おれはハネくんと喧嘩をしていた。しかしおれのパンチは当たらない。どうしてもハネくんに当たらないのだ。
「何で攻撃してこないんだよ?」おれは言う。
 ハネくんは何も言わない。おれはハネくんの体にタックルをしかける。ハネくんはそれをスルリとかわす。人間の動きとはとても思えないほど滑らかに。焦燥感がおれの体を突き動かす。攻撃する。攻撃する。攻撃する。ハネくんはそのすべてを巧みにかわす。叫びたい。でも、声が出ない。焦燥感が増していく。おれの体はドンドン重くなる。腕を上にあげるだけでしんどい。立っていることが精一杯だった。ハネくんはおれに背を向け去っていく。ハネくん、と言おうとする。でも声が出ない。苦しい。息ができない。水の中にいるみたいに。それでもおれは深く息を吸い込んだ。豆電球の明かりが見えた。それが夢であることにようやく気づく。

「蓮くん、起きてる?」綾香は言った。
「……うん」
「蓮くん。ありがとう」
「うん」
「後、色々ひどいことを言ってしまってごめんなさい」
「別にいいよ」
「本当に大学に行けたら、と思うと嬉しくて眠れないの」
「大学行ってどうすんの?」
「だって最高学府だよ?」
「大学よりも学べる場所はある」おれは言った。
「私は整備された環境で学びたいの」
「なら行けばいい」
「蓮くんは? 蓮くんは何がしたいの?」
「おれは……」
 何がしたいんだろう? 氷野の「夢はお婿さん」という言葉が蘇る。心の中で苦笑し、「彼女と結婚する」おれは言った。
「他人を入れたらダメとか言ってなかった?」
「言ってた。矛盾してるよな。正直自分でもよくわからない」
「何だ。蓮くんにも悩みあるんだね」
「ある」
「ねえ、私の手の届く先に大人の世界があるんだけど、私の足はまだ子どもの領分にいるの。私の言ってることわかる?」
 その気持ちはとてもよくわかった。でも、「わからん」と言って笑った。
「ここから先、ここから向こうは完全に別の世界なの。ねえ、蓮くん、怖いよ」
「人間はどんなところにも定住してしまう。たとえそれが自分にとって都合の悪い場所でも。あきらめは逃げだ。ダライラマさんも言ってたんだろ? 停滞は死だ」
「逆は? 停滞は死の反対は?」
「生きること、変わることを恐れないこと」
「またかっこつけたでしょ?」と言って綾香は笑った。「どうして蓮くんはかっこつけちゃうの?」
「おれ、小さい頃からそうだった?」
「そうだった」
「そうなんだ」
「蓮くんのお父さんもそういう感じだった」
「マジ?」
「私がおぼえてるのは、『空を飛ぶという言葉は人間の機能としては不可能だけど、ある装置を使えば可能だ。可能なことはつまらない。おれは空を食べたい』」
「何だそれ」と言って苦笑した。「空を食べる?」
「蓮くんはおぼえてないの?」
「おぼえてないなあ」
「じゃああれは?」
「これは?」
「あれは?」
 本当におれの現実と綾香の現実は同じなのだろうか? と思うくらい、覚えのないことばかりだった。どんどん思考力が低下していった。綾香の質問攻撃に耐えているうちに、おれは眠ってしまった。

       Φ Φ Φ

 朝勃ち。友達。酒を飲んだ後のむちゃくちゃな夢。起きると綾香はいなかった。敷いてあった布団はきれいにたたまれていた。急いでリビングに向かうと桜井さんは新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
「桜井さん。綾香はどうしました?」
「蓮くんの隣だとドキドキして眠れないから帰るって」
「そう、ですか」
「荷物まとめてまた来ますってさ。蓮くんによろしくお伝えください、と託(ことづか)ったよ」
「そう、ですか」
「女に苦労するってのは男子の宿命だ」桜井さんは笑う。
 胸の中にわだかまりがあった。
「人間の心って面白いよな。くっつかれるとうざいけど、いなくなると欲しくなる。来るもの拒まず去るもの追わずってあれ、人間の究極の態度なんだろうな」
「でも、おれ、彼女がいます」おれは言った。
「女々しいって男の一番の特性であり、弱点だよな。そう思わない?」
「……」
「しょうがない。男って女々しいよ。オレもそうだし。で、どうして男は女々しいんだろう? ってずっと考えてたんだけど、最近わかった」
「どうしてですか?」
「母親って何でもしてくれるだろ?」
「おれの母親はそういう感じじゃなかったです」
「じゃあ裏返しだな。これはもうどうしようもない。男は女親の、女は男親の幻影に縛られる。いなければいないで不在の幻影に縛られる。肉親、育ての親とにかかわらず。育ててもらうことは明らかに祝福なんだけど、同時に呪いなんだよな」
「桜井さんってどうして人を年齢で見ないんですか? おれ、そういう大人に出会ったことなかったんですけど」
「何の話?」
「桜井さんはおれのことを見下してない。持ち上げもしない。普通にタメ年に話すような感じで喋ってくれますよね。それがすげえ不思議っていうか」
「それは君が特別だからじゃないかな」
「どういうことですか?」
「昔の坊さんがさ、魚を見て、偉い、こいつらは寝ないんだ。よし、おれらも魚を見習おうぜってことで、木魚をつくって叩き始めた」
「どういうことですか?」
「人が何かに出会うこと。それを取り入れて表現すること。センスオブワンダー」
「はい?」
「感受性。ある特別な、ね」
「ちょっとよくわかんないです」
「そのうちわかるよ」と桜井さんは言った。
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