きょう、ママンが死んだ。

アルベール・カミュ「異邦人」の冒頭 窪田啓作訳
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パチスロ廃人シンゲンさんのブログ記事廃人に残されたいばらの道にてリクエストをもらったので、つれづれに綴ろう。


個人とは近代の発明であり、したがって近代小説は個人と近代社会の間に生じた葛藤を相克する形で具現化される。たとえばカミュ「異邦人」は(殺人をおかしてしまったにせよ)母の死を悲しんでいないのはおかしいという理由で死刑を宣告されてしまう男の話であり、たとえばカフカ「変身」は生真面目な男が朝起きると「毒虫」になっていて、毒虫になったにもかかわらず、職場に行かねば、普通の生活を送らなければ、と強迫観念的に日常を過ごそうとする男の話である。寿の「スロ小説」もそのテーマをバトンのように引き継いでいるのだが、これはまあ、コマーシャルw

ぼくの認識では全人類は病気である。その度合いが違うだけで、病的であることは変わらない。そう思っている。

すべての個人が病気なのだから、当然、すべての社会も病を抱えている。けれど社会は特例を嫌う。みんな一緒ならいいのだ。だからみんなにあてはまらないやつを差別するのはOK、気に食わないやつをテレビから追放させるのもOKなのだ。

では、その病の源はどこにあるのか? 快不快原則のボス。「感情」だ。ぼくはそう思う。

ALERT!


ここに問題が発生する。(個人的な)感情とはそもそも反社会的なものであり、社会性に担保された個人というシステムに齟齬、エラーを起こす主要因なのである。自分が感じる自分の感情によって自分に不利益をもたらす。何という自作自演的ペテン。何という自家撞着、圧倒的な矛盾。しかしマグマのように湧き上がる感情こそ、社会と個人を隔てる最大の要因であるとぼくは思う。

女のプニプニしたフクラハギが好きだ。好きでしかたない。それがなければ眠れない。そこに触れていなければ朝を迎えられない。という男がいたとする。が、自分のそれはガチガチである。というか、自分のフクラハギがプニプニだったところでちっとも嬉しくない。でも、フクラハギの感触は欲しい。欲しくてたまらない。

ここに個人の限界がある。
「さあ、どうする?」
とりあえず、その感情を突き放すしかなくね? というのが、ぼくの仮説。それでも燃えたぎる地獄の業火のような感情。よし、わかった。自分の扱える部分だけをカスタマイズしよう。というのがぼくの人生の暫定的な結論である。

感情は必ずしも制御不能のものじゃない。コーヒーであれ、アルコールであれ、向精神薬を服用しただけで変質する不安定なものなのだ。というか、完全に制御不能だったら、それは病院に直行しなければならない類の問題であり、本稿の趣旨とは違う。端的に言おう。絶対に負けるスロットを我慢できるかどうか、という話なのだ。ぼくは自分の感情を信用しないよう努めている。やりたい。やりたい。誉められたい。もっと誉められたい。しかしそれを生活の柱にするわけにはいかないのだ。感情は必ずミスをおかす。必ずテンパる。必ずエラーを起こす。それはもう決まりきっている。できないものはできないのだ。人間である以上病的なのはしょうがないのだ。ぼくたちは生きているのだ。

だからぼくは継続性を一番に考える。文章化できないものからは距離を置く。そのうえで、文章化できるもので生活を再構築する。それがぼくという人間のぼくという病気に対する処方箋であり、パチ屋で見つけた宝物なのである。
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