先人から継承した思想が、どこに、どれほど隠されているか、判らぬほどに、自分の中に取り入れ育み、実り豊かに発展させること、これこそ独創性の妙味

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 

長谷川つとむ訳 

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XYZ the afterword Ⅱ


読者様へ

センスの塊 中臣鎌足ばりのパイオニア 言葉の武器携え寿参上

「おまえ、文章書くセンスねえよ」

ぼくにそう言った人がいた。うん。否定できない事実である。悪口、誹謗中傷の恐ろしいところは、「ある種の真実」が含まれているところにある。

良かった、悪くなかった、という誉め言葉は、ぶっちゃけそう思ってなくても言えてしまう。どんな作品であれ、制作者に「どうだった?」と問われ、「クソつまらなかったよ(にっこり)」と答えられるのは、人生で一度も挫折を味わったことのない貴族かサイコさんくらいのもの。それとは逆に、「真実」が1%も入っていない悪口というのは人間はなかなか口に出せない。というかフリーザに向かって投石するくらいムイーミ。

たとえばものすごい数の人に支持されている女性芸能人に向かってブサイクー。と言ったところで、その言葉は空虚である。真実含有度がゼロに近いからだ。しかしながら、「デブー」と言った場合、「真実含有度」はぐっと上がる。なぜなら女性の場合、男性に比べ、体脂肪がある確率が相対的に高い。それはデフォルトなのだ。にもかかわらず、その「デブ」という放言が悪口として機能してしまうのだ。

ともあれ、「センスがない」と言われた後、ぼくはハタと考えた。

センス……

センスって何だ?

そしてぼくの「センス探し」の旅がはじまるのだった。

考えに考えた。センスの語義、自分の人生との照らし合わせ、解釈の試み、etc.

しかし蓮くんが陥った「自分探し」同様、その旅は早々に頓挫する。ひとつ言えるのは、褒(ほ)めるにしろ、貶(けな)すにしろ、センスという言葉を使って他人を定義しようとする人は、上から目線である、ということ。

表現者が偉いだなんてことは思わない。言えるはずがない。表現の本質は体液の露出であり、偉人というよりは変態である。しかし、G行為にしろ、排泄行為にしろ、自傷行為にしろ、少なくとも表現者は自分の体液を流す。が、センスという言葉で他者を測ろうとする人は、絶対に自分は傷つかない場所から言葉を飛ばす。

マジセンスある。→こいつのすごさをわかるオレワタシスゲー。

マジセンスない。→こいつのダサさをわかるオレワタシスゲー。

いや、知らんよ。君のスゴさなんてどうでもいい。悔しかったら血を流せ。そんな卑怯な言葉を使って神の視線でものごとを判ずる人間は恥を知るべきだと思う。

が、センスという言葉は卑怯な言葉である、という結論では、「寿の書く文章センスない問題」はちっとも解消されない。これまでセンスなる言葉は臭いものだと思っていた。自分の中の使ってはいけない言葉フォルダ=ゴミ箱に放置されまま、カビがはえてしまった。が、それはセンスの中にある可能性をも犠牲にしていたのだ。それってもったいなくね?

うん。こうなったらセンスを再定義というか脱構築というか再創造してみようじゃないか。そしてぼくは今一度、問いに向かうのである。

センスとは何か?

       Φ Φ Φ

しろにしろ、色そのものはセンスじゃない。その人が選ぶからセンスなのだ。

形もセンスじゃない。その人が選ぶからセンスなのだ。

場所もセンスじゃない。その人が選ぶからセンスなのだ。

すべてあるがごときにあり、輝くごときに輝くもの(宮沢賢治)。


改行もそうだ。

言葉の選び方もそうだ。

そうだ。人間の行動はすべて模倣からはじまり、最適化される。そう、センスの違いとは、カスタマイズのしかたの違いなのだ。ぼくは定義する。カスタマイズとは初期設定の変更。つまり応用力のことである。センスに立脚した表現とは、応用力の勝負なのだ。それまでの人生でどれだけのものを取り込んできたか、どれだけのものを搾り出してきたか。

そして、ぼくは、it's new→新たな武器「センス=応用力」を軸に、XYZを書き進めることにしたのでした。

       Φ Φ Φ

とはいえ、その力は誤解を受けやすい力でもある。パクリエイター問題として。

「パクリ」と「オマージュ」の線引きはどこにあるのだろう?

まずもって、猿真似は人の心をうたないという現実がある。説得力に欠ける。表現者として考えるならば、倫理観はさておき、そこに一番の問題がある。

猿真似は借りパクに過ぎない。少なくとも自らの体液ではない。パクリエイター問題は、表現が身体化できていないがゆえの問題である、と言うことができるように思う。

小説「XYZ」はカクテルを模した。

カクテルXYZのレシピは、ラム、レモン、ホワイトキュラソーの2:1:1であり、小説XYZの章ごとの最小単位は24話。その24話を1章にして1:1:2、3章立てで全96話。24というのはアニメバジリスクの話数である。

この小説を読んでパクリやんけ、という人はいるだろうか。いたとしたら、ごめんなさい。ぼくのセンスが悪いせいです。

センスについて考えはじめたのは冬のはじまりだった。いつしか冬は終わってしまった。時間はかかったが、「これがおまえセンスねー」に対するアンサーである。先人に感謝を。グラス一杯の愛を。ありがとう。ぼくは次のステージに進みます。
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