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新聞の投書欄にこういう文章があった。以下、記憶を頼りに書いてみる。

私は携帯電話のカメラはほとんど使いません。使うのは使い捨てカメラです。しかし使い捨てカメラの需要が減ったのか、以前よりも値段が1.5倍程します。家にデジタルカメラもあるのですが、もっぱら妻が使っております。時代というやつでしょうか・・・

送り主は60代男性。断っておくが、ぼくは時代に取り残された人間を切り捨てろ、という優生思想の持ち主ではない。問題は文中、投稿者が自らの態度を悔いている節があるということ。その証拠に、この文章には自らの正当性(使い捨てカメラの良さ)の言及がない。「使い捨てカメラ」が自らにとって必要不可欠な製品ならば、そのことを第一に書くべきだ。彼は携帯電話を持っている。そしてデジタルカメラも持っている(少なくとも家にある)。にもかかわらず、 使い捨てカメラをわざわざ購入している。つまり、この文章は論理的整合性に欠けている。自己の正当性を叫ぶのも文学。ということで、この文章から「カッコツケ」部を剥ぎ取って、論理を整えてみよう。

恥を忍んで告白します。携帯電話を持っているのですが、カメラの使い方がわかりません。家にあるデジタルカメラの使い方もわかりません。唯一使えるのは使い捨てカメラですが、需要の問題でしょうか、以前と比べて1.5倍ほど値が張るのです。悲しい・・・


これで主張は明快になった。というところで、この方の奥さんになったつもりで投書してみよう。

家人の機械オンチについて思うところあり、筆をとった次第です。少々年式は古いですが、家にはデジカメがあり(これは彼が買ってくれたものです)、携帯電話にもカメラがついているにも関わらず、彼は使い捨てカメラにこだわります。どうしてでしょうか・・・

今日はもう、勝手にカバー(記憶を転載)した新聞の投書にインスパイアされて勝手につくった質問(奥さんの投書)に勝手に寿が答えちゃうQ&A

機械オンチ、または機械嫌い、というのはいつの時代も存在します。人間の歴史がはじまったと同時に生まれたと言ってもいい。人間は生き延びるために、道具の手を借りた。その道具で我々の祖先は社会を、そして文化をつくったのです。機械とは道具であり、道具にならない機械は原則的に存在しない。デウスエクスマキナ(機械仕掛けの神)というのはそのアンチテーゼとして文学化されたものですが、その話は長くなってしまうのでまたの機会を待ちましょう(機械だけに)。

本音を言えば、「甘えるな」と言いたい。機械によって生じた自由と安全を享受しておきながら、何を言う、と。しかしそれは無理な注文というものですよね。人間と人間の関係において「真実」は傷を増やしこそすれ、癒してはくれないのだから。

人間はすべてを道具に変えてしまう。その意味では道具の使い方こそが人間の個性である。ジェネレーションギャップにしても、都会と田舎の対立にしても、結局は「道具(機械)」が元凶なのだ。人間は「現実」すら道具に変える。「都市」とは拡張された(そして現在進行形で拡張され続ける)道具であり、「田舎」とは拡張のとまった(あるいは拡張されにくい)道具。それだけである。都会人や田舎人という区分があるわけではない。人間じたいはまったく変わらない。道具との関わり方が違うだけである。

人間は道具の使い方を覚える形で大人になっていく。言語、数字、記号、計算、歴史、箸づかい、作法、すべては生きていくために必要な道具である。大人はかつての子どもであり、子どもはまだ道具を扱えない大人である。違うのは道具の種類。そのことを時代性という。使い捨てカメラが普及する前の老人の多くは、もったいないことしやがってこのたわけが、と言ったはずなのだ。

投稿者と同じく60代の筆者の父は、スマホの普及前はPCやインターネット、またはそれらが産んだカルチュアについてボロクソ言っていたにもかかわらず、スマホを持った途端、肌身離さず四六時中いじっている。信仰。信仰の変化。これもまた、生きるための道具なのかもしれない。


とはいえ、何かをはじめるのは強いモチベーションが必要ですよね。ということで、まずはデジタル機器を持てば(使い捨てカメラでは現像できないような)エロ画像、エロ動画を見れるよ、というところからはじめてみるというのはいかがでしょうか。

寿拝

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