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商業マンガの闇は、作家の意向よりビジネスが優先されるとこ。何でもかんでも長期連載しすぎ。これはバクマン(from少年ジャンプ)のひとつの主題でもあったね。ネット世界になったのだから、もっと自由になってもいい気がするけれど、現実はそう簡単には変わらない。その物語にふさわしい分量が必ずあるはずなのに。一ファンとしては、富樫義博が村上春樹みたいに書き下ろしスタイルで仕事してくれればいいのになあ、と思ったり。

ところで「ジョジョリオン」は読んでますか? さすがは石仮面を被ったアーティスト荒木飛呂彦。何だかんだで面白い。そのジョジョリオンの最新刊で驚きの描写があった。何か。杜王町のパチ屋にあるパチンコはいまだに全台現金機だということ。まあパラレルワールドだからね……いやいやいや、スマホのある世界で現金機をチンタラ打つもんかね。ただまあ、あのカットを見たら日本人なら100人が100人、ああパチンコ屋や、とわかるからいいのか。

村上春樹の「海辺のカフカ」の中で、主要登場人物のひとり星野くんがパチンコ屋に入って2000円(だっけな)で遊んだみたいな描写があって、ある読者が、「そんなわけない。今のパチンコは2000円じゃ遊べない!」みたいな意見を村上春樹本人にぶつけていたのだけど、2000円で遊べることだってあるのだから、頭ごなしにキレたってしょうがないのになあ、と思いますよね(気持ちは重々わかるけど)。彼に対する返信の中にあった「僕だってパチンコ屋くらいいきますよ」的な村上春樹の言葉にぼくは座っていた椅子からケツが浮いたから、ファンとしてはその質問グッジョブ! なんだけど。



それでは本題に移ろう。
先日、「プロ野球界、パチンコも禁止か?」みたいなスレが2chにあがってたけど、畠山さんとか角中さんという終身名誉パチンカーはどうすんだろう、みたいな心配の前に、法律的にはパチンコはギャンブルじゃないからな、という詭弁の前に、パチンコ、パチスロ、というのは「ゲーム」なんだよね。そうじゃない?
で、「ゲーム」とは何か? 遊び、であーる。広義のね。ヨハン・ホイジンガによれば、遊びは文化より古い。まさに平安時代のポップソング、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん」なのよさ。

ゲーム=遊びで避けて通れないのはソフトとハードの問題。
たとえば江戸時代、賭け事は禁止された(八代将軍吉宗の「享保の改革」等)。でも、禁止をされて本当にゲームが廃れた時代はない。じゃあどうしたかというと、政府の目が届きにくい宗教の世界にもぐった。ショバ代のことを「テラ銭」というのは、そのときの名残。

ゲームをしたいという「思い」があっても「場」がなければどうしようもない。ファミコンのソフトはPCエンジンじゃ遊べない。プレステ4のソフトはドリームキャストじゃ遊べない。それはもうどうしようもない。世界一の資質を持ったアスリートがいても、政府がボイコットするという決定をくだした場合、国籍を変えない限りオリンピックには出られない。パチ屋がなければ(ギャンブルとしての)パチンコやスロットはできない。そうなると、パチンコやパチスロは地下にもぐる他ないだろう。

東京オリンピックに向けて、この業界へのバッシングは過熱の一途を辿る。これはもう間違いない。風俗産業もそう。宿泊施設、wi-fi設備、ゴミ箱の増設等、インフラの問題もそう。消えるもの。現れるもの。灰色の領域は黒く塗りつぶされる。あるいはなかったことにされる。歴史である。テレビのCMにあるような「クリエイト」とか、「アミューズメント」とか、「未来をつくる」だとか、そんなインスタントな言葉でごまかしてきたツケと言えばそうだけど、ぼくらからすれば哀しい話だあね。

たださ、もし仮にパチ屋がなくなってしまっても、パチ屋で学んだフィロソフィーは消えない。
「期待値とは何か」
「優位性の有無」

「優先順位の決定」
「感情<実状」

人生がゲームでぼくらがソフトなら、ハード(舞台)に合わせて変わっていこう。というか、変わっていくしかないのだ。ひとつの舞台が幕を閉じても人生は続いていくのだから。
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